7月23日 午後7時25分
優月は自室で荷物の最終確認を始めていた。キャリーケースとは別に用意した貴重品バッグは身体にぴたっと沿うように斜めに掛けられるところが気に入っている。絶対に必要なものはパスポートだろうが、ここは学生証も入れておきたい。そしてもう一つ欠かすことのできないものがある。
「結構貯まったなぁ…………」
ダークブラウンのベッドに背をもたれさせて通帳を開くと思わず声が洩れた。静かな住宅街の中の一角に建つこの家で発した一言が、もしかしたら外まで聞こえてしまっているかもしれない。いや、この部屋を誰かがどこからか覗いているかもしれない。2階だから大丈夫だと思いながらも、優月はベッド横の網戸にしていた窓を身体を横に横に猫のように伸ばして静かに閉める。
外からの雑音が遮断されて何となく安心感が募ると、再び通帳に向き合う。高校に入ってからアルバイト漬けの毎日だったが、その成果は数字となって刻まれているのが一目で分かった。先月末に振り込まれた給与までの4ページがさながら自分史のように思えた。
(うっすい人生だな。感慨も何もあったもんじゃない)
毎日悩んで過ごしてきた濃密な高校の3年間がたった4ページだとは、シンプルに残酷だ。頭を緩く振りながら、ぱたり、と閉じて、スーツケースとは別に用意した小さめの黒いリュックの背当ての裏のポケットに封印する。
「自分で決めなさい」
そう言われた時、この広い世間という海原に何の装備どころか命綱さえなく放り出されたのだと気が付いた。
母は“私”を欲した。だから私はここにいる。ここに存在している理由はそれしかないのだ。だが、産まれ落ちた私を胸に抱いてすぐに彼女も気付いたのだ。本当に欲しかったのは、“あの子”だったということを。
そうと自覚した時、彼女は絶望した。そしてその姿は、今度は私を絶望させるに充分すぎるものだった。このやり取りを、私はこの18年間で何度も見てきた。折に触れ、母は私を見る眼に冷たい金属然の光を宿してくる。その両目は私を見ているようで見ていないことが多い。たとえしっかりと見据えられていても、“あなたではないのに、何故”と鋭利なナイフを喉元に突き付けられている気分だ。
物心をついてからの私が知っている母はいつも不機嫌だった。気付いた時には自然と母親の顔色を窺う子どもになっていた。それがいつからだったのか全く覚えていないが、その母の機嫌の下降直線が角度を変えて更に下向きに落ちてしまったのは、そう、あの日だ。
夏の始まりの陽射し強い幼稚園の園庭で、帰りの会を終えた私は担任のエミ先生と母親の迎えを待っていた。保護者のお迎えが早い子どもから引き渡しが行われるのだが、私の母はいつも遅い部類だった。その日は私を幼稚園に送り出した後に美容室に行ったようで、ようやく迎えに来た母は、別れた今朝の姿と少し異なっていたばかりか、いつもと違う香りもした。
母親とエミ先生が言葉を交わしている。母がどうやら夏休み中の預かり保育について尋ねているようだ。もちろん預かり保育などの話が幼稚園児の私に理解できる筈もないのだが、いつもの気配はしっかりと感じとっていた。
(ママは、やっぱり私といたくないんだ)
長い話になりそうで、私は園庭の端に造られた花壇を覗き込んで土いじりをする。人差し指でヒマワリを植えた近くの土に穴を空けて遊ぶ。その時、花はまだ咲いていなかったのだが、とりわけ高く育っていた左側のヒマワリの根元に小さなピンクのリボンのついたヘアゴムが落ちていた。それは先日デパートへ出掛けた時に雑貨屋さんで見たものによく似ていて、私は胸が高鳴った。あの時は欲しいなどとは母には言えずに、手ぶらで家路についたのだ。こんな花壇でまた出会うとは、と私は左の手の平へ乗せた。
「ねぇ、ママの好きなピンクだよ」
思わず振り向きざまに右の手で母の左手を引く。午後の陽射しは本当に強くて顔を上げれば視界が白い光で覆われてしまい、しっかりと眼を開くことができない。
「え、優月ちゃん、私、先生だよー」
引いた手を伝って笑いを含んだ声が響いてくる。私は母と間違えてエミ先生の手を引いてしまったらしい。彼女からしたら生徒のよくある行動のようで、慣れた手つきで私の手を解くとそのまま母の手へと誘導する。母も先生の手前、一度は私の手に触れるが、数秒で離されてしまった。
「ママ、ピンクが好きだなんて言ったことないでしょ。誰と間違えてるの」
先生には聞こえないように、それでいて吐き捨てるように呟いた言葉は、今の季節を忘れてしまうぐらい冷たかった。
そして、その夜、初めて頬を強く叩かれた。
理由は分からない。