7月24日 午前10時32分
「………優月ちゃん?」
「おばさん、突然ごめんなさい。実は結菜か連絡があって。やっぱり知らせておいた方がいいなと思って………」
「あぁ…………結菜、優月ちゃんには連絡していたのね。私には全然何も言ってこないから。それで結菜は何て?」
「今はネットカフェでいろいろ考えているみたい。とりあえず無事だから大袈裟に騒いだりしないでって、私からおばさんに言って欲しいって話だった」
「もう、本当に、まったく…………優月ちゃんまで巻き込んで…………優月ちゃん、今日が出発の日でしょう?」
「うん、今、空港に向かっている途中。もうすぐ電車が来ちゃうからもう切らないと」
「そうだったの。出発前の慌ただしい時に結菜が迷惑かけてごめんね。優月ちゃん、元気でね。留学先でも頑張るのよ」
「はい、ありがとうございます」
そんな定型文の薄いエールを鼓膜にやんわりと吸収させて優月は電話を切った。
今、目の前に広がるのは、駅のコインロッカーの森だ。最寄りは住宅街が広がる地域の駅だからか朝のラッシュを過ぎれば静かだが、そこから電車で7駅進んできたこの駅は目眩を覚えるほど巨大で、乗り入れる在来線も多く日中でも多勢が行き交っている。そうだ、そう言えばここは時に、観光客の終着地点でもあった。
右も左もコインロッカーの壁に挟まれた道を奥へと進み入る。駅の改札に近い森の入口には最新型のキーレスとキャッシュレスタイプが並んでいる。ロッカー自体も綺麗でツヤもあり、どこかの誰かの重いスーツケースでぶつけたであろう凹みなどは一切見当たらない。大事な荷物を預けるならば間違いなくこちらだろう。しかし目線を上下左右と動かしても“使用中”の赤いライトが連綿と続く。両脇の崖を撫でるように進めば、結局突き当りまで来てしまった。
昼間でも少し暗い場所だからか、ロッカーの上の低い天井にはライトが二箇所点いている。青白い光に照らされたこのロッカーはどつやら少し古いタイプのようだ。その証拠に、使用する為には100円玉が必要とのステッカーが扉に貼ってあるし、硬貨の投入口の下に刺さっているのは赤いプラスチックカバーのついた小さな鍵だ。
キャッシュレスよりずっといい、と優月は荷物の預け先として右端の大きな部屋を選ぶ。扉は少し重かったが傷も凹みもなく開閉もスムーズだ。大きなワインレッドのスーツケースを腰を屈めて大事に収めると100円玉を投入した。ガチャロン、ガチャロン、ガチャロンとリズムを刻みながらコインを丁寧押し込んで、今生の別れの餌をやる。
全ての儀式を終えて改札まで戻り振り返れば、つい先程まで閉じ籠もっていたあのロッカーの谷は今までの人生を引き摺った異世界にも思えた。それは、奥の奥まで深い灰色で塗り潰された、全てを呑み込んでくれる静かなシェルターだった。
今の私はようやく長い眠りから醒めたお伽噺の主人公だ。こんな馬鹿なことを考えているのに、生まれて初めて背中いっぱいに火傷しそうな程の熱が広がってゆくのを感じる。もしかしたら黒いTシャツ越しでも判る肩甲骨のあたりに、小さな翼が生え始めているのかもしれなかった。
優月は赤い鍵をインディゴブルーのジーンズの右ポケットに収める。ざらりとしたデニム地の上からそっと握ると優しい硬さに姿を変えてそれは存在を主張してきた。何故か消えて欲しくなくて何度も何度も確かめた。