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7月25日 午後3時28分

パソコンで小一時間程ネットサーフィンを続けていたが、さすがに飽きてしまった。どうでも良い情報を目にすればする程、反して頭の中は澄んでくる気がしていたのだが、気持ちとは裏腹に慣れない姿勢を続けたことで肩と首に限界がきたようだった。

パソコン台の右端に置いた紙コップを掴み上げたところ、思っていたよりずっと軽い。結菜の目がパソコンの画面に釘付けになっている間、知らず知らずのうちに手を伸ばしていた証拠だ。


 中学に上がると母親は更なる進化を遂げた。母親が自身の理想を私に重ねるようになったのだ。母親に見えている私は「結菜」ではなく、彼女が私に幼い頃の自分自身を重ねているのは自明のことだった。母は5歳で両親を事故で亡くしており、母方の伯父と伯母の家で暮らしてきたとよく話してくれた。そしていつしか養父母というよりも3歳上の姉が私の母代わりであったのだ、と話す母は、喜々とした感情をその頬に宿し、聞いているこちらもまるで幸せのおすそ分けをもらっている気分にさせた。伯母は当時小学生でありながらよく妹の面倒をみた。だから、だろうか。私には母と伯母が姉妹というより母娘のように感ぜられる時があった。いや、それよりも母は伯母の敬虔なる信者だったとでも表した方がそれに近いかもしれない。そして母は今度は私に対してその関係性を求めてきているのだった。

眼前に広がる未来のレールは分岐しているように見えるが、その実、走れるよう整備されたものは一本しかない。母は私が生まれた時から毎日レールを伸長し点検を怠らない。

今回私が母から離れようと決意したきっかけは本当に些細な口論だった。どの家庭でも起き得る子どもの進路に対する親のエゴだ。

「B大学の人文学部を受験しようと思う」

あの日、私は帰宅してすぐに制服を脱ぐことなくそう告げた。帰りの電車に揺られながら、今日こそは言おう、決意が揺るがないように家に着いたらすぐ告げよう、と決めていた。直前で決意が揺らぎ、数日間これを言えぬまま夜を越えてしまったのは、母が私に反発することがわかっていたからだった。この話をするためには、如何に反論に対して負けずに収拾させるかということまで考えておかなければならない。私は最後は泣くことに決めていた。

「え、だって5月にA女子大学のオープンキャンパスに行ってそこに決めたじゃない。あなただって、それで良いって言ってたわよ」

リビングのソファに座ってテレビを眺めていた母に私の決意は寝耳に水だったらしく、勢いよく顔をこちらに向けると焦りの表情を浮かべた。彼女のレールから脱線しようとしているのだ、無理もない。

「あの時も本当はちょっと思ってたんだけどね……………………B大学も見てみたいって」

急な翻意ではないことを伝えてみる。リビングの扉の前に立ち続けているのもおかしい気がしたので、三人掛けのソファの端に母とは一人分空けて座る。

「………………………………………。」

母は私からゆっくり目を離すと再びテレビに向き直る。

(何も言ってくれないの?)

「……………………………………………。」

私も息を殺して次にくるだろう微細な空気の振動を待つ。

(一つでいいから何か攻撃的な言葉を吐いてほしい)

いつだって大事な場面で黙って相手にボールを投げる母が嫌いだ。

(今はただ、この眼を潤ませる言い訳がほしいだけなのに)

もうこの列車の乗客は私だけじゃないのだから、今はただ緊急停止ボタンを押させてほしい。それなのにこの人は“止まる”ことさえ赦してくれない。私にはあと少しの歩みで息も絶え絶えになってしまうことが分かっているのに。この沈黙に満たされた18年物のシェルターが、いつだって私を窒息させる。


半分だけ注いだ炭酸ジュースを左手に、右手にはミネラルウォーターを持ちブースに戻る。二つの紙コップをパソコンの脇に置くと、リュックのポケットに手を差し込みスマホを探した。

機種変更したばがりの最新型はまだ手になじまないのだが、それがまた心地良かった。2日ぶりにSNSをパトロールする。恐らく母が方方に声を掛けているだろう、2日もSNSを絶っていたのは通知が煩かったからだ。

この2日間の友人の動向をただただ興味もなく右の親指でスクロールしながら残りのジュースを飲み干す。どうやら私が家を出たという話題にはもう飽きがきたらしい、時々、自分が話題に上ってくるが、本気で気に掛ける人などおらず、それも結菜をいい気分にさせた。これで良い。

気になっていた親友のアカウントを探る。それは今日もブロックされたままだった。

結菜はスマホの画面を額に押し当てて、小さく笑った。パソコンの黒い画面の中の影は小刻みに揺れていた。


「ほんとは私、英文科じゃくて社会学とか心理学とかやってみたいって思ってたんだよ」

あの時の私は、こんな簡単な自分の思いを伝えるだけなのに酷く緊張していた。

いつしかテレビは消されているが、母はこちらをちらりとも見ない。私は目の端でその姿を捉えながら、

(こんなに小柄で柔和に見える人を何故怖れてしまうんだろう。何故この人の心にある芯はいつだってぶれたりしないんだろう)

と、笑ってしまうぐらい冷静に観察していた。

少し間を置いて、高くも落ち着いた声で返ってきた言葉はどうしようもなく絶望的で、いつものように厭世的な気分にさせる。

母が私を支配しようと努める姿はいつかの姉妹の力関係のコピーなのだろうか。母も私のように伯母に抑圧されて縮まり圧迫されてきたのだろうか。


「お母さんはね、ちゃんとあなたを選んだのよ」

恩着せがましい言葉に気を失いそうになる。

折につけ浴びせられるこの言葉は呪いでしかない。きっと母の心の裡ではこう続いているのだ。

「だから、あなたも私を選んでね」

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