7月28日 午前7時2分
人を急かすように電話が鳴る。なかなか鳴ることがない固定電話はリビングの扉の横にあったが、一瞬どこから、そして何からこの奇妙な音が発せられているのかわからずリビングの真ん中で足を留めて身体を強張らせた。体感では3秒程固まっていた気がするが実際には1秒にも満たないだろう。やっとベルの音に追いついて受話器をとる。
「………はい、伊藤でございます。」
少しの緊張感を伴って声を発する。起きてから間もなくの今日一番の発声だからか名乗るだけなのに上擦ってしまった。
「ああ、早い時間にごめんなさい。山之内です。」
耳に届くその明瞭な声で、その名を聞く前に胸の強張りが弛んだ。山之内と名乗った女性は娘の友人の母親である。私も学校行事の際に何度か挨拶をしたことがあるばかりか、いつかの懇談会の後には一度ランチにも出掛けたことのある仲だ。
「昨日の夜なんですが、やっと、娘が戻ってきました。本当に…、あぁ、もう本当に伊藤さんにはご迷惑をおかけしたというか…。」
「えぇっ、結菜ちゃん帰ってきたんですかっ。それは……あぁ良かったですねぇ。うちでも毎日心配していたんですよ。美羽も部活の先輩にも連絡していたみたいで。あぁ、本当に良かったです。」
実際には娘の美羽が誰に連絡をとっていたのかは知らないのだが、ここはこのように返しておく方が正解だろう。本当のことを言えば、友人の結菜ちゃんが帰ってこないと話した時の美羽は呆れる程素っ気ない態度で、親友なのにそんなものか、と心配にさえなった。
「ありがとうございます。私達もただの家出かもしれないと思いながら、どこかで事故や事件に巻き込まれたんじゃないかとも思っていたので、帰ってきた本人から“家から離れたかっただけ”と聞いた時は少し安心したんですよ。」
山之内さんは饒舌に言葉を繋ぐ。いつもの彼女には大人しく思慮深い印象を抱いていたので、今朝の、この娘が帰ってきた喜びを抑えられない様子に少し驚く。
「そうだったんですね。じゃあ、怪我とかもしていなくて元気な感じで戻られたんですか。」
「ええ、見る限り元気そうです。ただもう、こちらは皆様にご迷惑をおかけした訳で…本当に恥ずかしい限りです。」
「いいえ、いいえ。でも無事で何よりでしたよ。」
一通りの説明と感謝を述べられた電話を切ると、私の胸にも例え難い安堵感が奥底から喉元へと広がってくるのを感じた。
(ああ良かった、これで何もかも元通りね。)
同じ18歳の高校生をもつ母親として、決して他人事とは思えない出来事だ。
その時扉の向こう側から階段を駆け降りる音が聞こえた。美羽が起きてきたのだ。昨日は一日中吹奏楽部の練習があったため帰宅が21時を過ぎていた。間もなく高校生活最後のコンクールがあるから3年生は特別に力が入るのだ。美羽はいくつものタスクを同時にこなせるような器用さを持ち合わせていない性質だから、恐らく今は部活動のことだけで精一杯な筈だ。他のことに対してもう少し気を配ってほしいと思うこともあるが、生まれながらの気質だから仕方ない。よって、私に対してはここ一ヶ月不機嫌極まりない。
悪いこととは知りつつ、結菜ちゃんのように素直で快活な子だったら、とつい思ってしまうのは美羽には内緒のいつもの癖だ。