終奏 罪と罰
タナトスとアイビーの距離が着実に縮まる中、学園ではリゼットがアイビーを追い落とすための策略を巡らしていた。
干ばつ被害や人の流出の助言をしても期待外れと言わんばかりの目で見られることに嫌気がさし、今では王宮への出仕を拒んでいるため時間はある。
そもそも雨が降らないのでは、どうしようもないし、地盤改良や天候予想などを求められても、そんな知識は持っていない。
文化や芸術を発展させ神童と言われたリゼットを、今までは称賛していた貴族たちが、畑違いな相談をしてきて落胆されるのが腹立たしい。
相次ぐ失策に学園でもコソコソ囁かれることが多くなり、とにかく面白くなかった。
そんな中、転生者であれば大国の王妃になれるというタナトスの言葉が、リゼットの心を浮上させた。
リゼットだって国力の無さが浮き彫りになったこの国で王妃となるより、どうせなら顔もよくて大国の王子であるタナトスと結婚したい。
だが、そのためにはタナトスが気にかけているアイビーが邪魔だった。
彼女に瑕疵を付けて完膚なきまでに落としこむ。ついでに本当に傷物にでもなってくれれば王族の伴侶として相応しくなくなる。
アイビーを蹴落としてから、じっくりとタナトスを篭絡していけばいいと考え、翡翠色の瞳を細く弧を描かせた。
◇◇◇
「アイビー様のことなのですが、あの方は私のことが嫌いなのかもしれませんわ」
女生徒達との交流を兼ねたお茶会で、リゼットは不安気に呟いてみた。
「身に覚えはありませんけれど、きっと私が何か気に障るようなことをしてしまったのでしょう。悲しいですわ」
視線を落として力なく微笑んでみれば、取り巻き達は義憤に駆られ、リゼットを庇いアイビーを悪く言う噂を勝手に広めてくれる。
十分噂が広がったところで、今度はアイビーがこの国の王太子に懸想し、一方的にリゼットを目の敵にしているという懸念を、わざと口さがない生徒の前で呟く。
あまり学園に来ないくせに麗しいタナトスに気遣われているアイビーを、他の女生徒達もやっかんでいたので、あんな素敵な王子様に侍る権利を与えられているのに、婚約者がいる王太子を篭絡しようとするなど不埒な不届き者だと、アイビーを貶める噂はあっと言う間に学園に広がっていった。
王太子が昔、悪女アイビーの噂を広めたよりも早く学園に喧伝された風評によって、アイビーは益々寮から出られなくなった。
悪意ある囁きや嫌悪の視線が、生前の学園での生活を呼びおこし、過呼吸となってしまうのだ。
苦しそうに呼吸をしながら落涙し悔しいと訴えるアイビーの背中を、タナトスは擦ってやることしかできない。
カロンも心配そうに寄り添っているが、その目は怒りに満ちていた。
リゼットを篭絡し王太子を疑心暗鬼にさせるところまではうまくいっていた。
後は勘違いしたリゼットがタナトスへ言い寄ったところを王太子に目撃させ、全生徒の前で醜い言い争いをしてもらう予定であった。
二人の威厳は失墜し、ついでにタナトスがリゼットを袖にして王太子を憐れむことで矜持もへし折って、学園中を混乱させて退散する。
その際にアイビーが首の傷を曝して、生徒全員にちょっとだけ恐怖と後ろ暗さを抱いてもらえれば十分。
アイビーが望んだ復讐はそんな細やかなことだった。
タナトスとカロンはあからさまに不服そうな顔をしたが、それだけでいいのだと笑ったアイビーはやはり聖女なのだろう。
それなのにリゼットに先手を打たれた形になりタナトスは臍をかむ。
復讐にきたはずなのに、アイビーの傷を蒸し返し苦しませてしまっている結果に、タナトスはガシガシと頭を掻くと天を仰いだ。
「くそ! こんな細やかな復讐さえも叶えてやれないなんて俺はなんて無力なんだ……。王妃様、やっぱりあいつらに慈悲はいらなかったみたいです」
タナトスの叫びに呼応するかのように、頬に一滴の雨が落ちた。
◇◇◇
その日、王国に漸く雨が降った。
霧雨ではあるが、これで干ばつ被害の方は落ち着くだろう。
リゼットは憂いが一つ晴れたことで、自分の未来を輝かしいものとするため、珍しく学園に登園していたアイビーの席へ向かう。
事前にタナトスのことは別室に誘導し、二人を引き離しておいた。
「あの……申し訳ありませんでした」
「え? どうして謝罪をなさるのですか?」
突然謝罪したリゼットに、アイビーはキョトンとした顔になる。
まだ本調子ではないのか青褪めてはいるが、ヒロインと似ているだけあって、かなり可愛い。
けれどその可愛い顔が悲嘆に暮れるのはもう間もなくだと思うと、リゼットの演技にも力が入った。
瞳に涙を溜めて深々と頭を下げるリゼットに、何が起こったのかと教室中が注目する。
そこへ様子を見ていた王太子が慌てて席を立ち、リゼット達の元へ向かった。
「リゼット? アイビー嬢に何かしたのか?」
「私が悪いのです! 申し訳ありません!」
堪えきれなかったのかハラハラと泣き出してしまったリゼットに、王太子は狼狽えアイビーは困惑顔だ。
「あの……何故、謝罪なさるのかわからないのですが……」
「お許しくださらないのですね……ですが私は謝罪するしか、もう……」
アイビーの言葉を遮り、尚も涙を零すリゼットに周囲は同情するような眼差しを向け、王太子がアイビーに詰問する。
「アイビー嬢、これはどういうことです?」
「私は何も……」
「だが現にリゼットは泣いて謝罪している。理由はともかく許してやってもいいのではないか?」
「ですが私は謝罪をされる謂れは……」
次第にきつい口調になってゆく王太子に、躊躇いながらもアイビーが反論する。その肩は小さく震えているが、それに気が付く者は誰もいない。
「いいのです。すべては私が悪いのですから、許してくださらなくても私はアイビー様に謝罪をするだけですわ」
さめざめと泣きながら、いじらしいことを言うリゼットに、周囲の生徒達が囁き合うと、やがて一様にアイビーに向かって責めるような眼差しを向けてきた。
周囲の気配を察した王太子は、雰囲気に押され先程よりも強くアイビーを問い質す。
「何故私の婚約者であるリゼットが他国の令嬢へ、頭を下げねばならないのか!」
王太子の剣幕に息を呑んだアイビーは黙り込む。
代わって答えたのはリゼットだった。
「殿下、いいのです。私はもう殿下の婚約者には相応しくないのです」
「何?」
眉を寄せた王太子にリゼットは力なく項垂れる。
「アイビー様、殿下に相応しくない私は婚約者を下りますわ。それで許してくださいませんか?」
「え?」
驚いて目を見開いた王太子だったが、最近まことしやかに騒がれていたアイビーが自分に懸想しているという噂を思い出し顔色を変えた。
「まさかアイビー嬢は他国の婚約に異議を唱えたというのか? 優秀で美しいリゼットが王太子である私に相応しくないと本気で思っているのか? 私に懸想してそんな世迷言でリゼットを苦しめる令嬢など誰が相手にするものか!」
心底迷惑そうに言いつつ、王太子は鼻の下を伸ばしている。
女生徒に騒がれるほど顔が良く、しかも大国の王子であるタナトスが気遣う令嬢が、その王子よりも自分を選んだことが王太子に優越感を持たせていた。
「自分の醜い嫉妬心から他人を貶める発言をするなんてアイビー嬢は最低だ。タナトス殿も何故こんな令嬢を側に置いているのか……」
「タナトス様はお優しいので切り捨てられないのでしょう」
自分の前で他の男を褒めるリゼットに心がモヤッとしたが、今はアイビーのおかげでタナトスよりも優位に立っていると確信した王太子は、傲慢な気持ちのまま大仰に頷いた。
「私が主導で断罪を進めてさしあげよう。我が国へ留学した誼だ」
「まぁ、さすが王太子殿下。頼りになりますわ」
王太子の提案を、すかさずリゼットが持ち上げる。
それに益々気を良くして王太子はアイビーに言い放った。
「この国で身勝手な行動をした者は、たとえ他国の令嬢といえども私が許さない。悪女アイビー、わが国の、この学園の制裁を受けるがいい」
王太子の言葉に生徒達が反応する。
一人の生徒を自殺に追い込んだことなど忘れたかのように。いや、同じ状況になったからこそ、まるであの時の苛めを再現するかのように。
逃げる獲物を追い詰め、嬲り、甚振る。苛めは狩りのように気分を高揚させた。
悪女が死んでしまった時は誰もが驚き焦ったが、結局苛めをしていた者の誰一人として罪に問われなかったことも、彼らの罪悪感を薄れさせ、捻じ曲がった仁義を翻させた。
自分達は悪女を倒した正義だったのだ、と。
そして今、あの悪女と同じ髪色と瞳をした美しい獲物が極上の餌として再び目の前に現れた。
王太子が、その婚約者のリゼットが、悪女と容認した獲物。
普通に考えれば他国の者を断罪するなど、いかに王太子といえ出来るわけがない。ましてや相手が大国の王子の付き人であれば尚更だ。
けれど王太子から免罪符を手に入れた生徒達は、正義の名の下にアイビーへ詰めよる。
一度誰かを自殺に追い込むほど苛烈な苛めを経験した生徒達は、二度目になると遠慮というものがない。
アクアマリンの瞳を見開いて怯えるアイビーの姿が、より一層加虐心を擽る。
その陰で、うまくいったとほくそ笑むリゼットの歪んだ顔には、誰も気が付かなかった。
◇◇◇
偽りの正義を掲げた苛めの開始に、アイビーの震えは最早誰の目にも明らかだった。
浅い呼吸を繰り返す彼女のピンクブロンドの髪を生徒の一人が掴もうとした時、俄かに空が光り輝き、あの声が轟いた。
『悔い改めよ』
細雨の中、学園の真上にだけ浮かんだ光の文字はこれまでと同じであったが、消え去る時が今までとは違った。
文字が真っ黒な炎に包まれ消え去ったのだ。
光の文字の神々しさと黒炎の禍々しさの、あまりの対比に王都の者達は震撼する。
悔い改めるべき者は学園におり、断罪されるべき時がきたのだと、恐れおののいた。
しかし当の学園では、生徒達は一瞬だけ声と文字に気はとられたが、それよりも新しい獲物を追うことに躍起になっていた。
光の文字が現れた一瞬の隙をついて逃げ出したアイビーを、教室での出来事を他の生徒にも拡散し追手の数を増やした者達が探し回る。
「いたか?」
「いや、見失った」
「そっちを探せ」
「手間かけさせやがって」
「その分可愛がってやらないとな」
「ああ、ぞんぶんに甚振ってやる」
ニタニタと気色悪い笑みを浮かべた生徒達だったが、その背後で巨大な魔物の気配が蠢いたことなど、知る由もない。
そう、魔物は神出鬼没でいつどこに現れるのか解らないから怖ろしいのだ。
捕食者だったはずが被食者となったことも知らずに、唸りをあげて振り下ろされた巨大な腕によって走っていた生徒数名が絶命する。
そこからは悲鳴と怒号の嵐であった。
突如現れた数体の魔物は絶命させた生徒の亡骸を踏みつけると、人が多そうな場所へ向かって進撃を開始する。
恐怖で逃げ惑う生徒達で学園中が混乱する中、外へ逃げようとした者達は愕然として足を止めた。
いつの間にか門も塀もびっしりとツタで覆われていて、生徒が登ろうとすればするほどツタは伸びて絡まり、外への脱出を拒んでいたのだ。
脱出を諦め仕方なく身を隠せそうな場所を探して校舎へ散ってゆく生徒達。
その中には、王太子とリゼットの姿もあった。
髪を振り乱して逃げ道を探す王太子は、最早リゼットをかまっている余裕はなかった。
足の遅い自分を置いて逃げてゆく王太子に、悪態を吐くリゼットも冷静さを欠いている。最早猫を被っている場合ではないのだろう。
他の生徒達も同じように、各々自分だけが助かるために必死であった。
他者を押しのけ、突き飛ばし、はては魔物の囮として、逃げ回っている。
それはまさに阿鼻叫喚の地獄絵図だった。
リゼットを置き去りにした王太子は半分崩れた校舎内に戻ると、中庭へ向かいひた走る。
学園には有事の際に逃げ込だせる脱出口が中庭にあったのを思い出したのだ。
学園長と王族のみが知る脱出口は中庭の井戸の中にあるため、あの怪しいツタに阻まれることはないはず。
自分が助かることだけを一心不乱に考えた王太子が、中庭を目指して勢いよく廊下の角を曲がったところで、誰かと盛大にぶつかった。
「「無礼者! 私にぶつかるとは不敬罪で処罰だ!」」
声が重なり王太子は目を丸くする。
ぶつかった相手は父親である国王であった。
「ち、父上? どうしてここに?」
「わからん! 王宮にいたはずなのに気づいたらここにいたのだ!」
怒鳴り散らすように返事をした国王の傍らには数名の文官も侍っており、その中には昨年まで王太子のクラスを受け持っていた教師だった男の姿もある。
彼らもまたいきなり学園に転移されてきたらしく一様に戸惑っていた。
「なぜ魔物が……なぜ私がこんな目に……」
皆の気持ちを代弁するように国王が爪を噛む。
するとその呟きに応えるように、廊下の端で猫が鳴いた。
学園内にいた王太子達は知らなかったが、動物達が他国へ逃げ去ってしまった国内で、猫の姿は珍しい。
驚いた文官達が猫の方へ寄って行くと、まるでついてこいとでも言いたげに中庭の方へ走ってゆく姿は、神がかり的な何かを感じる。
元々、王太子も国王も中庭にある脱出口を目指していたので、二人は顔を見合わせるとすぐさま猫と文官達の後を追った。
そこへ追いついてきたリゼットも王太子達の様子から逃げ道があることを察知し、必死についてゆく。
そんな彼らを見て、振り返った猫が笑った気がした。
◇◇◇
追いかけてくる生徒を何とか振り切って、からくも逃げおおせたアイビーは肩で息をしていた。
事前に説明してタナトスとカロンにはわざと外してもらっていたとはいえ、一人で王太子やリゼットと対峙するのはかなりの恐怖であった。
けれど女神の断罪の時が近いとタナトスから聞かされたアイビーは、トラウマを克服するためにも、再度彼らと向き合うことが必要だと思ったのだ。
本当は彼らが改心してくれていることを望んでいた。
温い復讐だと言われても、自分の手で彼らが少しでも苦しみ、他の生徒が自らの行いに疑問を持って生涯考えてくれれば、アイビーの死は無駄ではなく、黒く染まった心も晴れたはずだ。
けれど王太子もリゼットも相変わらず身勝手な思惑で自分を貶め、この学園の生徒も正義という名の苛めに酔いしれるクズであった。
実はリゼットがアイビーの悪い噂を広めた時に学園長へ相談に行ったが、結局今回もまた彼は行動にでることはなかった。
「何も変わらなかった……私の死は誰の心にも響かなかった……」
泣きながら笑って呟いたアイビーが顔をあげる。
まだ体は震えており、気を抜くと過呼吸になりそうになる。
「トラウマも消せない……私はなんて弱いの……」
嘆息しながら眺めた窓の外の上空には、光の文字を消した黒炎の煤のような残滓だけが浮かんでおり、やがて数か所に別れて学園内に飛び散った。
その落ちてきた残滓の影からむくりと魔物が這い出す。
魔物はアイビーを追いかけてきていた一人の生徒を屠ろうとして、巨大な腕を振り上げた。
「だめ!」
なぜ、そうしたのかわからない。
自分を傷つけるために追ってきていた生徒を助けようなど、寸前まで人に絶望したアイビーは微塵も思っていなかったはずだ。
だが隠れていた物陰から飛び出したアイビーは、咄嗟に魔物に向かって光魔法を放っていた。
学園に入学してから弱まってしまった光の糸では、とても魔物の硬い皮膚など断ち切ることなどできない。
そう解っていたはずなのに体が勝手に動いてしまっていて、気づいた時には魔物と襲われた生徒の間に飛び込んでいた。
きっと自分の光魔法は弾き返され無残な返り討ちに遭うだろう。
既に死んでいるが、魔物に引き裂かれる痛みを想像すると恐怖で体が竦む。
けれどアイビーに不思議と後悔はなかった。
復讐も果たせず、トラウマも克服できなかったのに、これで良かったのだと納得してしまったのだ。
しかしアイビーの思惑は外れる。
アイビーの放った光魔法は、幾重にも強固された光の刃となって魔物の硬い皮膚を断ち切り絶命させていた。
「え? うそ?」
どさりと倒れた魔物に、目の前の光景が信じられず唖然としたアイビーだったが、助けられた生徒はまだガクガクと震え、魔物とアイビーを怯えた瞳で見上げている。
確かこの生徒は生前アイビーを噴水に落とした令息だったはずだ。
あの時、彼は傲慢さを隠しもせずにアイビーを冷たい噴水に突き落とし詰った。
しかし今、魔物の脅威から逃れたにも関わらず彼はすっかり怯えきっている。
「こんなにも弱かったんだ。私が怖れていた相手は、こんなにも弱い人だった……」
ポツリと零したアイビーの先程まで震えていた体は、まだ歯の根が合わない令息とは対照的に落ち着きを取り戻し、学園にいる間ずっと不安定だった心は不思議と凪いでいた。
自分を苛んでいた人間の一人が太刀打ちできなかった魔物を呆気なく倒せてしまったことも、そんな自分を見て怯えたままの令息も、ただただ滑稽だと思った。
アイビーは震えたままの令息をその場に残して、他の光の残滓が落ちて行った場所へ向かい、魔物を屠り自分を追い詰めようとしていた生徒達を救出する。
復讐をするためにやってきたのに何をやっているのだと我ながら思うが、魔物から逃げることしかできず、それを難なく屠る自分に怯える彼らを弱者だと認識するたびに、可笑しくて堪らなくなった。
そうして霧雨が小雨に変わる頃、中庭で最後の魔物を屠ったアイビーの背後には、王太子や国王、それにリゼットがいた。
「助かった……のか……?」
中庭まで辿り着いたものの魔物に襲われ、絶体絶命の窮地から救われたことに、王太子が茫然と呟く。
学園に響いていた悲鳴や怒声はいつの間にか止んでおり、魔物の気配も消えていた。
それがアイビーのお陰であることは、今まさに自分達に襲い掛かろうとしていた魔物を光魔法で倒してくれたことからも疑いようがない。
肩で息をするアイビーの様子から、彼女が魔物をせん滅するために学園中を走り回ってくれていたことも想像に難くない。
礼を言うべきなのは解っている。
けれど目の前にいるアイビーは光魔法を使用したことといい、タナトスが連れてきたアイビーではなく、悪女と罵られ死んだあのアイビーだとしか思えなかった。
だが、それなら猶更どうして自分たちを助けてくれたのかがわからない。
悪女アイビーなら自分達を恨んでいるはずだ。
それに彼女は死んだ。
ではやはり別人なのか。
しかし光魔法を使えるのは何故なのか?
王太子が逡巡している中、雨に打たれたアイビーが空を仰ぐ。
その顔が苦し気に笑ったような気がして王太子が目を留めた時、アイビーの頭が殴り倒されたのだった。
「え?」
突然の出来事に王太子が止める間もなく、アイビーを殴った生徒が勝ち誇った顔をして宣う。
「殿下、悪女を捕まえました!」
「今度はこの女を苛めぬけばいいんですよね!」
「リゼット様に仇なすクソ女ですからね!」
「正義の鉄槌を下さねば!」
魔物の脅威を去らせた功労者を知らないのか、それとも知らないふりをして加虐心を満たしたいのか、誇らしげに言い募る生徒達に王太子は面食らった。
「い、いや、待て……その人は……」
何とか止めようとするが、興奮した様子の生徒達は嬉々としてアイビーを取り囲む。
生徒の一人がアイビーの髪を鷲掴みにし、もう一人が彼女の顔を上げさせるためハイネックの襟を乱暴に締め上げたため、首元を留めていたボタンが弾け飛んだ。
白い首筋が露わになり、王太子が目を瞠る。
まるで切り落された首を縫い付けたかのような金色のバツ印が並ぶ縫合痕に、王太子は動揺した。
「やはり……やはり、君は……」
目の前のアイビーと悪女アイビーが重なって、言いようのない恐怖を覚える。
そっくりな顔。
光魔法。
そして、首の縫合痕。
どうやって生き返ったのかは知らないが、彼女はあの悪女アイビーで間違いないと言える。
人が生き返るなど到底信じられないが、ならば余計に何か途方もない力が働いているような気がして王太子は息を呑んだ。
だがそんな王太子の様子などお構いなしに、アイビーを囲んだ生徒達が彼女を責め立てる。
このままでは取り返しのつかないことが起きそうな気がする。
どうにか彼らを宥める手段はないかとリゼットの方を見れば、彼女は止めるどころか口元に笑みさえ浮かべていて、初めて見る婚約者の歪んだ笑顔に王太子の背筋が冷えた。
王太子はここにきて漸くリゼットの裏の顔を確信したのだ。
「……リゼット、アイビーが悪女だというのは嘘だったのか?」
険しい表情で詰問しだした王太子にリゼットが浮かべていた笑みを慌てて消して、眉尻を下げる。
「な、何のことです? それよりも殿下がご無事でなによりでしたわ」
微笑んだリゼットに以前の王太子ならば笑みを返したはずだったが、今は彼女の何もかもが虚構に思えた。
「君は、アイビーは国を亡ぼす悪女だと言った! だが魔物を屠ることが出来る聖女が悪女のはずがない! 冷静に考えればわかるはずだったのに、私はリゼットの嘘に踊らされ国に恩恵を授けてくれる聖女が貶められるのを、みすみす見過ごしてしまった!」
そう叫んで嘆く王太子に、アイビーを取り囲んでいた生徒達も困惑気味に顔を見合わせる。
「う……そ? アイビーは悪女ではない?」
「そんな、まさか……」
「リゼット様が嘘を?」
「では、この女を苛めていいというのも……!」
アイビーを殴った手でピンクブロンドの髪を掴んでいた生徒が、焦ったように彼女の様子を確認する。
次第に強くなっていた雨脚に制服も髪もずぶ濡れのアイビーは、頭を殴られたためか下を向いていて表情は見えない。
だが苦しそうに呻き声をあげた彼女に、慌てて髪から手を放そうとした瞬間、ズルリッとアイビーの髪が抜け落ちた。
「は?」
髪を掴んでいた生徒が信じられないように、己の手にごっそり残ったピンクブロンドを見て、ついでアイビーの顔を見て、悲鳴をあげる。
「ぎゃあああっ!」
アイビーの可愛らしかった顔は土気色に染まって、骨と皮だけのまるで骸骨のようになっており、半ば飛び出した眼球がギョロギョロと辺りを見回し、むき出しの歯がカタカタと鳴り響いていた。
「た、助けて、助けて!」
悲鳴をあげて飛び退った生徒が、縋るように自分達の方へ逃げて来ようとするのを見て、リゼットは脱兎のごとく逃げ出した。
あんな気持ちの悪い化け物に触れられでもして、もしうつったらと考えただけで身の毛がよだつ。
リゼットは美しいものや綺麗なものは大好きだが、醜いものや気色の悪いものは大嫌いだった。
「なにあれ、なにあれ、なにあれ!」
前世知識にはない異形の姿になったアイビーに、リゼットは混乱した。
魔物が出てきたことといい、学園に閉じ込められたことといい、もう訳がわからない。
後ろを振り返れば、アイビーの彷徨っていた目玉が逃げるリゼットに焦点を合わせ、ニタアッと笑ったように見えた。
その笑顔にゾッとする。
せっかくアイビーを貶めてタナトスを手に入れるチャンスだったのに、もう少しで彼女を傷物に出来るところだったのに、どうして上手くいかなくなったのか?
王太子に嘘を言及されたことも予想外だった。
とりあえず今は逃げて体制を整えようと中庭から出ようとしたところで、背後から静かな声が掛けられる。
「リゼット嬢? どうしました?」
「タナトス様!」
聞こえてきた声がタナトスのものだと解り、リゼットは振り返りざま彼の胸に飛び込む。
王太子に見限られた以上、何が何でもタナトスだけは落とさなければ未来がない。
それに、どうせ遅かれ早かれそうなる予定だったのから、この混乱に乗じてこの国から連れ出してもらおうと、震える声でタナトスへ訴えた。
「ア、アイビー様が化け物に……」
「化け物?」
「そうです! いきなり顔が崩れたと思ったら、骨と皮だけになって目玉は飛び出すし……私、本当に怖くて」
「へぇ? 骨と皮だけ……俺は、あんまり変化ないかもな」
タナトスの不可解な言葉に顔を上げたリゼットの視界に映ったのは、いつもの彼の美しい顔ではなく、額から顎まで大きな傷痕がある痩せぎすの不気味な知らない男であった。
「だ、誰?」
目を見開くリゼットと男に、大粒の雨が容赦なく打ち付ける。
するとニタリと笑った男の肉が雨によってみるみるうちに流れ落ち、骨と皮だけになった顔の中で、こげ茶色の瞳がギョロリとリゼットを見下ろした。
「お前が見た化け物は、こんな顔だったか?」
「ぎゃあああああああ!」
学園中にリゼットのつんざくような悲鳴が響く。
落ち着いたこげ茶色の瞳の色も、上品なモスグリーンの髪色も、優しい声音も、確かにタナトスのものだった。
だが彼はあんなに醜い顔をしていない。
それともあの顔が本物のタナトスだったのだろうか。
あれではまるで異形の姿になったアイビーと同じ化け物だ。
タナトスだった男を突き飛ばして、リゼットは王太子の元へ逃げ戻ろうと再び踵を返す。
一方、王太子は異形の姿に変わったアイビーに驚愕し立ち竦み、国王は腰を抜かしていた。
生徒達も恐怖に震え、頭を抱えて蹲ったり、身を隠そうと物陰に潜んだりしている。
そんな混乱の最中、大粒の雨を割って後光と共に学園の上空に女神が降臨したのである。
◇◇◇
自らを豊穣の女神と名乗り慈愛の笑みを浮かべて現れた彼女に、誰もがこの惨状を救ってくれるものと安堵する。
しかし微笑む女神が発した言葉は想定外のものであった。
『三度、我の言葉を無視したそなたらは豊穣の恵みが無くなったこの地で、僅かな穀物を巡り争い死に絶え地獄へ堕ちるがよい』
顔は笑みを湛えているが抑揚のない無機質な声音はどこまでも冷たい。
そんな女神から放たれた無慈悲な裁定に国王が泡を食った。
「め、女神様、それはどういう意味です? 我々は貴女様の不興を買うような行いは、それこそ神に誓ってしておりません!」
「女神様! 私はこの国の王太子です。私も良心に恥じる行いなどしておりません!」
「わ、私もこの国へ多大なる貢献をしており、民のために尽くしていますわ!」
国王に続いて王太子とリゼットも慌てて反論を試みる。
女神が何か大きな誤解をしていると本気で思ったのだ。
『なるほど。悔い改める気は微塵もないようじゃな……救済措置は徒労であったか』
小さく呟いた女神は表情は変えずに、また冷たく言い放つ。
『我の聖女を死に追いやったお前達の言い分など聞くはずもない』
女神の言葉に、王太子とリゼットの顔色がサッと青褪めた。
まさか悪女として貶めたアイビーが、豊穣の女神が選んだ聖女だとは思いもしなかった。
ましてや地上のことにほとんど関わらない女神がアイビーにした仕打ちを把握し、断罪するために降臨したなど俄かには信じられない。
けれども現況は、こうして女神により断罪を突きつけられているのである。
限りなく拙い状況に二人が蒼白になるのを、微笑を湛えているはずなのに無表情に見える異様な顔で眺めながら、女神は手にしていた麦の束を空中で払う。
すると女神の前に目の細かい虫籠のような物が現れる。
その中では一匹のハエが忙しなく飛び回っていた。
『天上の神々から罰を受けてハエにされているが、これは転生の女神である』
女神の言葉に、大地の加護が雨で流れてしまったため半ば崩れた体を引き摺って、アイビーの側までやってきていたタナトスが顔を上げる。
こげ茶色の瞳が射貫くように籠の中へ向けられると、女神は滔々と語り始めた。
転生の女神は近年急激に信者が増えたことで増長した。
信仰心に比例していきなり強くなった神力に、女神としての権威を振るいたい彼女は、不慮の事故で亡くなった信者を転生させようと、死者の国へ落ちるはずだった魂を横から搔っ攫いはじめる。
慈悲の言葉で包んで次々と自分の信者を転生させる女神に、ハデスは抗議し他の神々からも苦言が呈されたが、完全に無視を決め込んだ。
本来、死者の管理はハデスの領域である。
元々転生の女神は救済するに値する極めて不憫な者だけを、ハデスの許可を得て転生させる役目を与えられていたに過ぎない。
であるから幾ら神力が強まったとはいえ、手当たり次第に勝手に転生させるなど、越権行為も甚だしいのだ。
けれど全能の神は、暫くは傍観し見守るように他の神々を諭した。
まだ若い転生の女神に全能の神は甘く、それも彼女を付け上がらせる要因だった。
それに女神は、否、神というものは得てして自分の行いに誤りがあるとは考えもしない。
転生の女神も例に漏れず、自分を信じる人間を転生させることに夢中で、その者が悪か善かの吟味を疎かにしてしまったことを、自身では気づいていなかった。
タナトスやカロン、他にも転生者に苦しめられ死者の国へ来た者にハデスと王妃は胸を痛めていた。
転生者が死んでからハデスが罪に応じた悲惨な地獄へ落としてくれていたが、全能の神が擁護している以上、生者のうちに手を出すのは難しい。
それに神々にも序列というものがある。
死者の国の王であるハデスや王妃の母親である豊穣の女神は上位であるが、天界にいないハデスの発言力は弱く、王妃自身の序列は高くない。
新参者である転生の女神よりは遥かに上だが、それでも他の神を断罪できるほどの権限は持っておらず、忸怩たる思いで過ごしていた。
そんなところに王妃の母の加護を与えられた聖女アイビーが、自死に追い込まれ死者の国へ落ちてきたのだ。
大好きな母が選んだ聖女を蔑ろにされて、王妃の堪忍袋の緒が切れた。
王妃は母にアイビーの身に起こったことを余すことなく伝えた。
転生の女神の増長に、母である豊穣の女神は静観を貫いていたが、自分が加護を与えた聖女を自殺に追い込んだことは許せなかったらしい。
事の顛末を聞いた女神の怒りは凄まじく、怒髪天を衝くとはこのことであった。
普段滅多に感情を露わにしない豊穣の女神の怒りに、さすがの全能の神も自らの非を認め転生の女神と転生者、さらには聖女を追い込んだ者達へ断罪の許可を与える。
しかしそこは女神。
転生の女神を許す気はないが、人間には救済が必要だと考え三度だけ悔い改める機会を与えた。
声と共に空に浮かんだ『悔い改めよ』の文字。
それは紛れもなく女神の慈悲であったのだ。
『不慮の事故で亡くなった者を救済しようとした志は良かったが、善人だけを転生させるという全能の神との約束を何故違えた?』
豊穣の女神の問いかけに、ハエは飛び回るのを止め抗議するように体を揺らす。
『言っておくがリゼットなる者だけが問題がある者ではないからな』
はじかれたように顔をあげたハエに、女神は表情を変えぬまま冷たい眼差しを向けた。
『知らなかったのか? そなたが転生させた者のほとんどが、悪意によって人を死に至らしめているのだぞ。加護を与えるのはいいが、我らは基本人間界に関与はしないもの。そのため加護を与える相手は慎重に吟味する。そなたのように頻繁に求めるままに与えていたら、いつかこんな日が来ると危惧して他の神々は忠告していたというのに』
小さな籠の中でハエは衝撃を受けたようにピタリと動かなくなる。
『まさか嫉妬からくる讒言だと思っていたのか? なんたる浅はか、なんたる愚か、なんたる無知。神と名乗るのも烏滸がましい』
容赦なく言い捨てた豊穣の女神に、ハエは力なく籠の内壁まで飛んでくると、頭を何度も打ち付け始めた。
女神が黙ってそれを見つめる中、何度目かの殴打の後、転生の女神はハエの姿のまま籠の底へポトリと落ちて動かなくなった。
『どうやら神としての矜持は失っていなかったらしい』
感情のない声で呟くと、女神はタナトス同様半ば崩れ落ちた体で成り行きを見守っていたアイビーに向かい目を伏せる。
『アイビー、すまなかった。我ら神々は加護を与えた後はあまり人間界に関与しない故、そなたを放置しすぎていた。今回のことで転生の女神は断罪され自ら滅することを選んだが、責任は聖女を与え豊作をもたらせば人間は幸せだと慢心していた我にもある。我の咎は、100年の幽閉。そしてそれが終わった後の16年間はコレーがいない間も仕事を放棄せぬこと』
「コレー様?」
知らない名前が出てきて首を傾げようとしたアイビーだったが、崩れそうな体では最早どこに力を入れれば首を曲げられるのか解らない。
そんなアイビーに女神は微かに眉尻を下げた。
『そうか……もうコレーと呼ぶのも止めねばな。あの子はもう死者の国の王妃ペルセポネなのだから』
自分に言い聞かせるように呟く女神に、タナトスが内心で苦笑しながら礼を言う。
「女神デメテル様とペルセポネ様に限りない感謝を申し上げます。それにハデス様にも」
『人の娘を攫ったうつけにまで感謝か……。ああ、我の咎はこの恨みも捨てるのであったな。我が幽閉される100年の間は、この地以外の人間達を眠りにつかせるためとはいえ忌々しい。だが、そうだな。あの子は何より大切にされているようだし、もう認めてもいいのかもしれぬ』
顔は相変わらず微笑を湛えたままだが、女神はどことなく淋しそうに見えた。
アイビーは、女神の言った内容についてはよく解らなかったが、何となく元気づけたい気持ちになって口走る。
「はい。ハデス様はまるで王妃様の忠実な犬のようです!」
言ってしまってからフォローになっていなかったかも、と慌てたアイビーだったが、ぶふっと隣でタナトスが吹き出し、女神は微笑を深くした。
『魔物が現れたのは想定外のことだったが、アイビーは光魔法を使用して助けたそうだな』
女神の言葉に一部の生徒達が視線を逸らす。
彼らはアイビーに助けられたにも関わらず、彼女を己の加虐心を満たすためだけに害そうとした。
あの時は興奮していて我を忘れていたが、冷静になった今ならば、状況が変わったこの時ならば、いかに自分の行いが恥知らずで拙いものだったのかを思い知る。
その生徒達をチラリと見て女神は小さく溜息を零した。
『あんな目にあったというのに、そなたはやはり心根の美しい子だった。満たされたとはいえ短期間で光魔法を復活強化させたことといい、生きていればきっと歴代最高の聖女となったであろうに……残念だ』
女神がそう言ったのと同時に、既にほとんど形を成していなかったアイビーとタナトスの体が一気に崩れ落ちる。
泥のようにグニャグニャになった二人の体は、どこからともなく現れた猫が連れ去って行ったが、大地の女神からの土の加護が流れ去ってしまった二人は死者のため、生者はその光景を認識することは叶わなかった。
ただ、二人が忽然と姿を消してしまった後に、人の顔の皮のようなものだけが落ちており、それが余計に不気味さを覚えさせた。
『聖女アイビーは死んだ。お前達が殺した。その報いを受けるがよい』
最後にそう言い捨てて、縋る人々へ一瞥もくれずに女神は天界の彼方へ消え去る。
やはり、アイビーは聖女だった。
そして聖女は聖女。悪女ではない。
では聖女を悪女と偽り貶めるように仕向けた者は……。
「私は悪くないわ! 先に動かなければ断罪されていたのは私なんだから! 大体、苛めていたのは王太子よ!」
金切り声をあげたリゼットの指摘に王太子が慌てふためく。
「な! 私だって悪くない! 苛めを増長させたのは他の生徒だ! それに学園長だって苛めを把握していたのに何の対策もとらなかったじゃないか!」
冷や汗をかきながらも女神が自分の罪を明るみにしなかったため安堵していた学園長が、突然矛先を向けられたことに狼狽する。
「そ、それは王族に配慮をしたからで、元はといえば国王が亡くなった彼女に冤罪をかけたせいではありませんか!」
「儂のせいだと申すのか! 誰か、この不届き者を処刑せよ! そもそも苛めなどというくだらないことをした、この学園の生徒や黙認していた教師が悪いのだ!」
激高した国王の言葉に罪の擦り合いはエスカレートする。
その間に学園の周囲を取り囲んでいたツタは枯れはて、代わりにこの国以外の世界中を覆い始める。
女神に見放された国に最早留まろうとする者はおらず、人々はこぞって逃げだした。
しかし女神の断罪の時に学園にいた者だけは、国外へ出ることが叶わなかった。
世界を覆ったツタが、まるで罪人を弾くかのように侵入を拒んだのだ。
ツタが枯れたことで学園から出られたことに一度は歓喜した者達は、自分達だけ国外へ出られないことを悟ると深く絶望する。
ちなみに世界を覆ったツタはアイビー。
女神の皮肉か聖女と同じ名前のツタにより、生きとし生けるもの全てが安らかな眠りについても、彼らは国外へ出ることが叶わず、静まり返った世界をただ遠くから眺めることしかできなかった。
脱出できなかった者達は、農民も商人も職人も動物もいなくなった地で、自分達の食糧を自給しなければならなくなった。
幸い干ばつは収まったようで晴れの日もあれば雨の日もある。
けれど、いくら苗を植えても土に触れた途端に枯れてゆくのだ。
ここにきて漸く彼らは、自分達が害した聖女に加護を与えた女神の偉大さに気が付いた。
豊穣の女神。
その女神が幽閉されていては雨が降っても当然作物は育たない。
女神が幽閉されている間は眠りにつかされた他国からの援助も勿論望めない。
僅かな食べ物を巡って壮絶な殺し合いが始まった。
カビの生えたパンを奪って国王を殴ったのは学園長だったのか、腐った果実の取り合いで王太子を斬りつけたのはリゼットだったのか、飢えと渇きで疲弊した彼らは、もう誰が誰なのか判別することもできない。
そうして最後の一人が息絶えた時、死者の国の扉が開いた。
◇◇◇
罪人として死者の国へやってきた者は、まずケルベロスによって八つ裂きにされる。
王妃は甘噛みと言っていたが、実際は骨まで嚙み砕かれてその遺骸を地獄の各所へ放り込まれるのだ。
悲鳴と骨の砕ける音、そして放物線を描いて飛んで行く血で染まった流れ星を、迷いの森から眺めながら、アイビーは溜息を吐いた。
グニャグニャになってしまった体は死者の国へ戻ってきたことで、すっかり元通りになっており、ハデスと王妃に改めてお礼を述べた後、こうして鮮血の流れ星を眺める日々を送っているのである。
「暫くしたら彼らは輪廻の泉へ行くのよね?」
何気なく発したアイビーの呟きだったが、一緒のベンチに座って空を眺めていたタナトスが素っ頓狂な声をあげた。
「はぁ? 泉に行けるのは善人のまま天寿を全うした奴だって最初に教えただろ? 悪人が輪廻できるのは自分の罪と向き合って、心から己の行いを反省し且つ罪を許されてからだから」
「反省しても罪は罪だからね、犯した分は罰を受けないと。そう! つまりあいつらはこれからアイビーにしてきたことと同じ目に遭うってこと。自業自得だね」
タナトスに追随して、彼とアイビーの間に座っていたカロンも断言する。
他人の顔を被った偽りのタナトスはもうおらず、カロンもまた人の姿に戻っている。
カロンの猫の姿は可愛かったが、タナトスにはタナトスのままでいてほしいアイビーは、元に戻った彼を嬉しく思いながらも瞳を瞬かせた。
そんなアイビーに、タナトスはニヤリと口角をあげる。
「全く同じではないけどね。無限の回廊や蟲毒の坩堝の恐ろしさは、落とされた者にしかわからない。しかもここは死者の国だから」
「?」
首を傾げたアイビーにカロンもまた含みのある笑い方をする。
「死者は死ねないんだよね~」
「だってもう死んでいるからな」
不敵に笑ったタナトスだったが、彼らが言っている意味がよく解らなくて首を傾げたままのアイビーの頭を撫でた。
「それにしてもアイビーが一人で奴らに対峙すると言った時は肝が冷えた」
大仰に溜息を吐いたタナトスに、アイビーが眦を下げる。
「トラウマをね、消したかったの。でもダメだった。そしたら魔物が現れて、復讐したかったはずなのに気が付いたら助けちゃってた」
「強くて優しいアイビーらしいな」
「私、強くも優しくもないよ。だって魔物に怯えて、それを倒した私にも震える人を見たら、こんな人たちのせいで悩んでいた自分が馬鹿らしくなっちゃって、どうせなら虐げようとした人間に救われる惨めさを味わわせてやるって思いだけで動いただけだもん」
それに、とアイビーは悪戯っぽく瞳を動かす。
「雨も降りだしたから最後に死者の姿になって驚かせてやろうと思って」
「本当に度胸あるよな。けど俺は嫌だった。アイビーがまた酷い目に遭うんじゃないかと思うと怖かったんだ……本当に」
苦笑したタナトスだったが、力なく目を伏せたのを見てアイビーの胸が切なくなる。
きっとタナトスが同じことをすると言ったら自分は全力で止めたはずだ。
想像しただけで心配で不安で堪らなくなる。
そんな心痛を彼に与えてしまったことに今更気が付いて申し訳ない気持ちで一杯になった。
「ごめんなさい」
「いや、謝るのは俺の方だ。教室で断罪された時、側にいてやれなかった。復讐も協力するとか言ったくせに、結局失敗したしな。女神様が出張ってきてくれなきゃ今頃どうなってたか……不甲斐なくて、ごめん」
「側にいなかったのは私がお願いしたからでしょ? それに復讐が失敗したのは私が弱かったせいだよ」
「アイビーは弱くない。俺がもっと上手くやれていれば……」
「はい、そこまで!」
位置的な関係で、自分の頭上でお互いに謝罪するアイビーとタナトスを眺めていたカロンは、両手で万歳のポーズをとると制止の声を挙げた。
「僕、思うんだけど、きっと王妃様も女神様もアイビー達に本気で復讐させる気はなかったんじゃないかな?」
「「え?」」
目を丸くする二人の手を取って、カロンがギュッと包み込む。
「だってアイビーもタナトスも優しいもん。そんな人間の手をみすみす汚させるようなこと神様がするわけないよ。それに復讐だからって人が人を貶めていい免罪符じゃないと思うんだ。うまくいえないけど、神様は僕たちに彼らの末路を見届けさせて、心の蟠りを晴らしてくれたんじゃないかな、と思うんだ」
ニカッと笑ったカロンはアイビーに向かって片目を瞑った。
「ま、その途中でちょっぴり悪戯しちゃったのは大目に見てくれたんじゃない?」
二人の手を握りながら楽しそうに笑うカロンに、アイビーとタナトスが感嘆の声をあげる。
「カロンって、やっぱり凄いわ」
「今回ばかりは、俺もそう思う。お前、凄いな」
珍しく自分を褒めたタナトスに、カロンは一瞬だけキョトンとした顔になると、照れ隠しなのか頭をグリグリと彼の胸に押し付けた。
「もっと褒めて~」
「調子に乗るな」
「痛い~、アイビー慰めて~」
「だから調子に乗るな!」
ペシッと頭を叩かれたカロンが反対側へ座るアイビーに膝枕をしようとするのを、タナトスが自分の方へ引っ張って阻止する。
しかし手を繋いだままだったので、カロンに吊られてアイビーまでタナトスに倒れこんでしまい、顔を見合わせて笑い合う三人の頭上を、また赤い流星が飛んで行った。
◇◇◇
やっと見つけた萎びた野草の取り合いをして親友に殴られ死んだと思ったら、巨大な犬によって体中を引き裂かれ、絶叫する激痛にのたうち回った後、見慣れた学園の床で気が付いた彼は安堵の溜息を吐いた。
何故、床に寝ていたのかは不明だが、引き千切られたかと思った体が無事だったことに胸を撫でおろしたのも束の間、彼はここが自分達の通っていた学園とは似て非なるものだということに気づき始め戦慄する。
ある時は、真冬に冷水を浴びせられ凍傷になったにも関わらず放置された。
ある時は、聞くに堪えない罵声を浴びせられ続け尊厳を踏みにじられた。
ある時は、謂われのない冤罪を被せられ救いを求めた手を振り払われた。
ある時は、暗闇から伸びてきた手により物陰に連れ込まれ心身ともに癒えぬ傷を負った。
身に覚えのない罪を着せられ、違うと否定しても誰も信じてくれず、悪意だけが向けられる世界。
まるで自分が全人類から憎まれてしまったような錯覚に陥った。
何故、自分がこんな目に……。
そう思って、彼は初めて気がついた。
自分が一人の少女にした行為の罪深さを。
王太子の心象を良くしたい。
周りがやっているから自分も。
そんな軽い気持ちで始めた苛めとも認識していなかった行為が、次第にエスカレートしていったのは、確かに自分の意思であった。
悪女を甚振ることは正義だと思った。
誰かの優位に立つということは気分が高揚した。
人を貶める行為に正義などありはしないのに、自己顕示欲と集団心理にすっかり侵されて加虐心だけが膨れあがったあの頃の自分。
こんなに苦しいものだとは思わなかった。
こんなに辛いものだとは思わなかった。
そう嘆いても、救いを差し伸べてくれる手はない。
毎日のように苛められ当たりまえのように暴力を受ける日々。
たった数日のことなのに体は疲弊し心は摩耗してゆく。
そんな中、階段から落とされそうになった時に、ふとこのまま抵抗しなければ楽になれると思ってしまったのは無理もない。
体中の痛みに苛まれながら転がり落ちた先で、誰かの声が聞こえた。
「たった数日で死を望むか……。やっぱり苛めってのは、やった方はやられた方より弱いもんなんだな」
命の灯が消え急激に冷えてゆく体で聞いた言葉の意味が理解できず、薄っすらと瞼を開けると、自分を取り囲んでいる者達が口元に笑みを浮かべている。
大怪我をしているはずなのに誰一人駆け寄ろうともせず、歪んだ嘲笑を浮かべたまま見下ろされている状況に、そこはかとない恐怖とこれで死ねると少しの安堵を覚えたのは束の間だった。
「そう簡単に楽にさせてはあげないわ。無限の回廊で、まだまだ彼女を味わって?」
耳に響いた鈴を転がすような声は、あの少女に似ているようで全く異なる薄気味悪いものであった。
悚然として彼は閉じかけた瞼を再び見開く。
しかし、そこは既に階段下ではなく、体中の痛みも消えていた。
今までのことは悪い夢だったのかと安堵して顔をあげた彼だったが、次の瞬間言葉を失う。
彼が視線を向けた先には鏡があった。
その鏡に映し出されたのは、見覚えのあるピンクブロンドの髪とアクアマリンの瞳をした少女。
しかしこちらを向いてニッコリと嗤っている少女は、紛れもなく彼自身の姿であった。
時を同じくして、学園を模した複数の回廊のいたるところから悲鳴があがる。
彼らは、いや、彼だけではなく彼女らは、自分の置かれた状況を理解して、これから無限に続く地獄に絶望した。
◇◇◇
「え? ここは王宮?」
王太子は見慣れた自室で目を覚ますと、柔らかな寝具の暖かさに安堵した。
思い出すのは、豊穣の女神の聖女を冤罪で亡くならせた罪で、食料を巡って殺し合いをした日々。
国外へ逃げることは許されず、確実に訪れる死への恐怖に、たかだか一人の令嬢を冤罪で死に追いやった罪はこれほどなのかと女神を恨んだ。
全ては王太子とリゼットのせいだと罵って、掌を返したように冷たくなった側近達、虫けらでも見るような眼差しになった令嬢達、怨嗟と侮蔑が投げつけられ、教師や学園長、父親である国王でさえ敵となった地獄の毎日。
空腹と飢餓に耐えられず糞尿さえも口にした悍ましい日常は、ある日鋭い痛みと共に唐突に終わったはずだった。
その後に巨大な犬に骨を砕かれ、腕は千切れ、腹から臓物が飛び出してきたのを、確かに見た記憶がある。
しかし今、王太子は空腹でもなければ体に痛みも感じなかった。
「ああ、良かった……あの地獄は夢だったのか」
そう呟いたところに頭上から何かが降ってくる。
咄嗟によけたものの、落ちてきた物に見覚えがあり、ギクリと体を強張らせた。
「どうしてこれが……」
茫然と見る先には、ズタズタに引き裂かれ羽毛が飛び出た枕があった。
アイビーが死んだ後に、彼女を悪者とすることで、自分の罪の意識を消去するため短剣で滅多刺しにした枕は捨てたはずだ。
罪の証の身代わりに切り刻んだ枕など、とっくに捨てさせたはずなのに、誰が持ち込んだのかと、王太子は憤りも露わに周囲を見渡すが誰もいない。
「誰か!」
人を呼ぶも、いつもはすぐに駆け付ける女官や護衛の声も足音すら聞こえてこない。
「何故誰も来ない! 王太子である私が呼んでいるのだぞ!」
掛布を捲り、上体を起こした王太子が引き裂いた枕を投げ捨てる。
「おい! 早く誰か来い! ちっ、無能共が!」
「無能はお前だろ?」
「ひっ!」
突然、響いてきた声に王太子は心臓が飛び出そうなほど驚愕した。
だが無能と言われたことに気づいて激高する。
「誰が無能だ! 私はこの国の優秀な王太子で……」
「罪もない女子生徒を苛めの標的にして自殺させ、その罪さえも握りつぶす卑怯者が優秀か?」
「な、なぜ、そのことを……あれは悪い夢で……まさか……!」
悪い予感に青褪めた王太子は、慌てて周囲を確認した。
また、あの地獄の学園に戻されたような気がして体は小刻みに震え、呼吸は自然と浅く速くなる。
しかし相変わらず王太子がいるのは王城の自室のベッドの上であり、そのことに大きく安堵し、ホッと胸を撫でおろしたが不思議な声は続いた。
「お前、自分が無能だって悟られないようにしていたんだろ? 異世界の知識を持ったリゼットの言うことを聞いていれば優秀な王太子でいられるものな。逆ハーエンドなんかになって自分以外も彼女に侍ったら比べられちゃうもんなぁ?」
「ち、違う。私はリゼットを守ろうと……」
触れられたくない本心を突かれて、王太子が狼狽える。
「じゃあ、リゼットが嘘をついたと知った時、どうしてみんなの前で糾弾したんだ?」
「それは王太子としての正義感から……」
「正義? ではなぜ自身のことは断罪しない? そういえばアイビーを貶めたのもまるで自分ではないような言い方をしていたな」
「当たり前だ! 私は騙された被害者なのだから!」
「そうかな? アイビーの苛めを誘発させたのはお前なのに?」
「だから、あれはリゼットが……」
「リゼット、リゼット、リゼット。結局全部人のせいにするんだな。王太子ってのは狡いのかい? それともお前自身が卑怯なのか?」
「私は狡くない! 私は被害者なんだ! だから私は悪くない!」
叫んだ王太子に、天井からの声は呆れたように溜息を吐いた。
「あ~、もうその件いいから。やっぱ話しても無駄だったわ」
切り捨てるような言い方に、不安に駆られた王太子が縋るように言い訳を始める。
「ま、待ってくれ! 私は彼女を殺すつもりじゃなかった。だが私の知らない所で、勝手に苛めが酷くなってしまっただけなんだ。まさか自殺するほど追い込まれているなんて思いもしなかった。そんなに苦痛だったのなら私に直接抗議してくれれば良かったんだ。そうしたら助けた! これは本心だ!」
「やっぱお前、無能な最低野郎だな」
「へ?」
本気で身の潔白を語った王太子は、言われた言葉を理解できなかった。
自分は悪くない。いや、ちょっとは悪いかもしれないが情状酌量の余地はあるはずで、今の弁明を聞けば相手も納得してくれると確信していた。
だからこそ、予想していない返しに目が点になったのである。
「死にたくなるほど追い込んだ元凶に抗議できたら始めからしてるっての! それができないから苦しんだんだろ! ……どんな頭の構造してんだよ、コイツ。マジで胸糞悪いから、俺もう帰るわ!」
吐き捨てられた言葉に王太子の頭が真っ白になる。
「い、いやだ。待て……なんで?」
己の罪を理解していない王太子が、天井へ叫びながらベッドから降り立つ。
そこへ先程とは違う声が降ってきた。
「嬉しいなぁ、やっと坩堝に堕とせるよ。あ、もう一人とは話さなくていいの?」
「あっちはイカレ過ぎてて話すだけムダ。あと、よろしく」
「りょーか~い」
愉快そうな声と共に、王太子の立っていた床の底が抜ける。
ぽっかりと開いた穴は限りなく長く行く先はどこまでも暗い。
絶叫をあげながら落ちてゆく王太子の腕はみるみる茶色く染まってゆき、形も人の手ではないものに変化していき、形が変わる度に激痛に襲われる。
顔も体もゴキリゴキリと鈍い音と共に変化を重ね、やがて完全に人の姿では無くなった頃、ぐしゃりと地面に辿り着いた。
「死ねないってのは、ある意味本当に地獄だな」
落ちる間際にポツリと呟かれた言葉が、やけに耳に残ったが、王太子がその言葉の真の意味に気づかされるのは、もう間もなくのことである。
◇◇◇
死んで尚、頭が三つもある巨大な犬に体を嚙み千切られ放り出された後、気を失っていたリゼットは、グルグルと世界が回るような感覚に目を覚ました。
なんだか体中が痛い気がして視線を動かしたところで息を止める。
巨大なクモや大蛇のようなムカデ、山ほどもある芋虫といった奇怪な生物に、周囲を取り囲まれていたからだ。
リゼットは、あまりの恐怖に声が出ない。いや、声を出したら奴らに感づかれそうで、叫びだしたいのを懸命に堪えたというほうが正しい。
身動きできない恐怖の中、一匹の巨大な茶色いカブト虫と目があった。
シャアアアアッ!
襲ってきた巨大なカブト虫を振り払った己の手を見てリゼットは驚愕する。
リゼットの手は青緑色になっており、ギザギザがついたハサミになっていた。
さらに腹には茶色い虫が湧き出ており、ありえないところから足が生えている。
悲鳴を上げようと口を開けばカチカチと音がなるばかりで、何の言葉も紡げない。
その姿はまるでカマキリのようであったが、鏡がないので確かめようがなかった。
受け入れられない状況に、言葉にならない声を発するリゼット。
これならまだ、あの地獄の学園での日々の方がマシだったかもしれない。
その時、ガブリッと足に何かが食いついてきた。
痛いと思ったのも束の間、すぐまた新しい痛みが今度は胴体から襲ってきて、気がつけば多数の虫達がリゼットに群がっている。
生きながら食べられる激痛に薄れゆく意識の中、終われる悪夢に安堵した。
だが次の瞬間、リゼットの意識はまた浮上する。
今度は醜い魔物の姿になってしまったようだった。
そこでもまた魔物同士の争いが起こり、リゼットは豚の魔物に無理やり犯されながら食いちぎられ生を終える。
すると次は爬虫類に、両生類に、次々に姿を変え、幾度となく生と死を繰り返されても、リゼットの精神は正気を保ったままだった。
人でなくなった喪失感と、自分が嫌悪していた醜い生物への転生。
生きたまま食われる激痛と、悍ましい屈辱の交尾に、いっそ狂ってしまえたらどれだけいいかと何度も思った。
けれどリゼットは狂えなかった。
そうして途方もない年月を繰り返した後、初めて人の姿になれた時、リゼットはそれまでのどの生物より長く生き抜くことが出来た。
逃げて騙して、時には身体を使って媚びを売って、辿り着いた先には廃れた墓標が立っていた。
リゼットはその墓標に向かって必死に走った。
弱肉強食の世界を繰り返したことで、ここは蟲毒の中で、勝ち残った者だけがこの地獄から救われることを、前世の知識から予想を立てたリゼットは、もう一人墓標へ向かっていた者を背後から刺し殺す。
殺した相手がかつて自分の愛した王太子だとは気が付かないまま、墓標を手にしたリゼットは暖かな光に包まれ安堵した。
やっと終われる。
精も魂も尽き果てて、リゼットの心にあるのはその一言だった。
その時また世界が回るような感覚と共に愉快そうな声が脳裏に響いた。
「ここは地獄の深淵、蟲毒の坩堝。精神が病むことはないし、君も君の婚約者も既に死んでいるから、この繰り返しに終わりは来ないよ。あ、時間のことは気にしないで。僕が坩堝を回せば何度でも何度でも、やり直すことができるんだ。もっともっと過激な地獄をずっとずっと永遠に与えてあげるから、殺し合いを楽しんでね。だって人を嬲るのが好きなら、嬲られるのも好きでしょう?」
残酷な宣言に、浮上しかけていたリゼットの心が再び絶望の底へ叩き落される。
そして次に瞼を開けた時、リゼットは周囲を巨大な虫たちに囲まれていたのだった。
◇◇◇
鮮血の流星群が落ち着いた頃、アイビーはタナトスに連れられ輪廻の泉にやってきていた。
「アイビー、ここでお別れだ」
突然告げられたタナトスからの別れの言葉にアイビーは首を振る。
「私、ここでタナトスと一緒にいたい」
「それはできない」
にべもなく否定されたことにアイビーの胸がギュウッと掴まれたように痛むが、今はそんな痛みにかまけている場合ではなかった。
「どうして? ちゃんと働くわ。タナトス達に迷惑をかけないようにするから!」
「自殺した者は死者の国では働けない。途中で命を放棄した贖罪が終われば、輪廻する以外の道はないんだ。そうしなければやがて魂ごと消滅してしまう」
「そんな……」
ここへ連れて来られた時から薄々別れを告げられるのは気づいていた。
けれどタナトスは優しいから、アイビーが残るといえば側においてくれると安易に考えていた。
だがそれは甘い考えだったらしい。
逃げたツケをこんなところで支払わされるとは、やはりこの世は因果応報となっているのだろう。
「私、やっぱり逃げなければ良かった。自ら死んだりしなければ、タナトスと一緒にいられたのに……」
「そうだな……」
タナトスの返事に、アイビーが悲しく笑う。
「あの時みたいに、逃げていいんだって言ってくれないんだね」
「そうだな……」
「もう! そうだなしか言えないの?」
「そう……だな……」
軽口を叩いてみるも、タナトスは同じ返事だけを繰り返す。
しかしその拳は強く握られ、肩が震えているのをアイビーは見逃さなかった。
本当は好きだと告げたい。離れたくない。
タナトスだってきっと同じ気持ちでいるはずだ。
けれどそれを言ってしまったら、タナトスをもっと苦しめてしまいそうで、アイビーは涙を堪えて笑顔を作る。
「タナトス!」
名前を呼んで抱きついたアイビーに、タナトスは抱き返そうとして手を止めた。
腰にも背中にも回されない腕にアイビーは自嘲して後退ると、踵を返してじゃぶじゃぶと泉へ入水する。
「私、今度はちゃんと生きるから。生きて天寿を全うして、またタナトスに会いに来る。だから、おばあちゃんの私でもちゃんと見つけてね」
腰のあたりまで水に浸かったアイビーが振り返る。
「ああ、見つける。必ず見つけるよ、アイビー。今度は迷いの森ではないこの輪廻の泉で、君をずっと待っているから」
「うん、その時こそ一緒に……」
タナトスに返事をしようとしたアイビーの言葉は、泉の流れに引き込まれ最後まで聞くことはできなかった。
「行っちまったか……」
そう呟いたタナトスだったが、その時、泉のほとりで佇んでいた彼の背中がドーンッと押される。
「な? カロン?」
頭から泉にダイブしてしまい、濡れ鼠になったタナトスが振り返った先では、彼を突き飛ばした張本人であるカロンがニコニコと笑っていた。
「あーぁ、泉に入っちゃったね~。これはもう輪廻するしかないよ、仕方ない」
悪戯が成功した子供のような顔で、あっけらかんと言い放ったカロンに、タナトスが眦を吊り上げる。
「お前、これ悪戯じゃ済まないぞ? 俺が輪廻しちまったら、迷いの森へ落ちてきた奴を治療できないだろうが!」
「忘れたの? 地上は女神様が眠らせたから当分誰も落ちてこないって」
「そういう問題じゃないだろうが!」
「大丈夫だってば! タナトスがいなくなれば、僕が案内役から治療担当に昇格するかもしれないし!」
「そんな簡単にいくわけないだろうが! 大体、勝手に職務放棄したらハデス様だって困るだろ!」
「ハデス様なら大丈夫だよ。今は幽閉されている女神様のご機嫌をとるのに必死で、他のことにかまけている暇ないもん。王妃様はきっと黙認してくれるだろうしね!」
「だからって無茶苦茶だ!」
口の減らないカロンに、タナトスがついに怒鳴った。
豊穣の女神の幽閉先が死者の国だと知った時、ハデスは泡を吹いて倒れた。
ハデスは過去、王妃ペルセポネを慕うあまり攫うような形で死者の国へ連れてきてしまい、それ以来、デメテルから非常に恨まれていた。
今でこそハデスと王妃の仲は良好なので目を瞑っているようだが、王妃が死者の国へ来ている冬の間は豊穣の女神としての仕事を放棄しているほど、絶対に許さないアピールされているのである。
今回アイビーの件があり、幽閉が終わった後は彼女が生きた年齢の分だけ冬も働くことにしたようだが、期限を設けているあたり、やはり手放しで許すつもりはないようだ。
そんな女神の登場に、ハデスが悲鳴をあげながら右往左往している様子を知っているので、これ以上迷惑をかけるわけにはいかない。
それなのに輪廻の泉に入ってしまうなんて、と頭を掻きむしるタナトスにカロンは声を張り上げた。
「無茶でもいいの!」
言い切ったカロンが眉を下げる。
「ねえ、タナトス。地上が眠っている今なら輪廻の泉もすぐには新しい命を誕生させないよ。つまり今アイビーを追いかければ同じ世界同じ世代で巡り合えるってこと、こんなチャンス二度とないんだから」
「それは……」
タナトスもそのことを考えなかったわけではない。
けれど長年してきた仕事を放棄するのは気が引けたし、本当にアイビーの相手が自分でいいのかという葛藤も少なからずあった。
言い澱んだタナトスに、カロンが泣き笑いのような顔になる。
「僕、優しいアイビーのこと本当に好きなんだ。でもアイビーはタナトスがいなきゃ幸せになれないんだよ。アイビーの光魔法が短時間で復活強化されたのは、満たされたからだって女神様も言ってたでしょ? それって絶対タナトスが側にいたからだもん。僕は母親に愛されなかったけど、好きな人にはいつも笑っていて欲しいし、幸せになってほしいと思う。勿論タナトスもね……」
「お前……」
切なげに語ったカロンにタナトスの目頭が熱くなる。
そんなタナトスにカロンは俯きそうになった顔を上げると、ニパッと笑った。
「それに、タナトスはもうばっちり泉に浸かっちゃったから、輪廻するしかないじゃん!」
輪廻の泉に一度足を踏みいれた者は、死者の国へ戻ることが出来ない。
それは絶対の決まりであった。
「それはそうだが……」
カロンに吊られてタナトスが苦笑したそばから、泉の流れに引き込まれ始め慌てて手を挙げる。
「カロン、ありがとう! またな!」
「うん。たぶん僕もすぐ行くよ。だって僕は君らの……」
意味深に呟いたカロンが見守る中、タナトスの背の高い後ろ姿は泉に消えてゆき、やがて完全に見えなくなった。
◇◇◇
豊穣の女神が幽閉されてから100年後、ツタに覆われた世界が動き出す。
長い眠りから覚めた国々では豊作が相次ぎ、飢えで亡くなる者はいなくなり、不足していた食料を蓄えることができた人々は、女神に深く感謝し、冤罪で亡くなった聖女に祈りを捧げた。
そんな中、ある夫婦に一人の愛らしい女の子が生まれる。
ピンクブロンドの髪とアクアマリンの瞳をしたその子は、家族や周囲の愛情の元すくすくと成長し、やがて街でも評判の美人となった。
しかし彼女は、隣の家に生まれたモスグリーンの髪色とこげ茶色の瞳をした地味な少年に何故か幼い頃から首ったけで、どんなに素敵な男性に言い寄られても決して彼の側を離れなかった。
刺繍が得意な少年の方も少女を溺愛しているのは明確で、そんな二人を周囲は温かく見守り、やがて二人は結婚する。
生まれた子供は両親の色を受け継がず灰色の髪と藍色の瞳をしていたが、二人は全く気にせず利発で人懐っこい息子を大層可愛がったらしい。
ご高覧くださり、ありがとうございました。