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再現部 再びの学園

 例年より早く春が到来したその年、いつものように畑に鍬を入れようとした農夫は、どこからか声が聞こえた気がして手をとめた。


『く……めよ』


 微かに聞こえた言葉に農夫が声の主を探すも周囲に人はいない。

 気のせいかと再び畑を耕そうとすると、今度は空からはっきりと聞こえた。


『悔い改めよ』


 轟く声と共に空一面に浮かんだ光の文字に、農夫は尻餅をつく。

 その間にさらに驚くべき光景を目にした。


 いつもは大人しく放牧されている牛や羊が、柵を越えようと躍起になっているのだ。

 続いて聞こえたけたたましいまでの羽音に驚いてそちらを見れば、何百羽という鳥達が国境へ向かって飛んで行く。

 この村は国土の北方に位置しているが、いつもより早く春が来たとはいえ、まだ寒さの残る季節だというのに、北へ向かって一心不乱に飛んで行く鳥達の姿や、必死に逃げ出そうとする家畜の様子に否が応でも危機感が募った。


 声と光の文字の出現は国中で起こっており、数秒で消えたものの人々は混乱した。

 だが『悔い改めよ』と言われても、何に対して懺悔をすればいいのかわからない。

 それでもその言葉は女神様の啓示だとまことしやかに囁かれ、信心深い者や、後ろめたいことがある者は教会へ赴き神に祈った。

 一方、国としては特に何の被害もなかったため静観することにしたようだった。


 しかし、さらに不思議なことは続く。


 何故か教会で祈りを捧げた者達が皆、荷物をまとめて逃げるように国外へ出てゆくようになったのだ。

 逃げる際に人々は友人である商人へ声を掛け、商人は懇意にしている医師に、医師は貴族へ、と逃散の輪を広げ、不思議と良識ある者ほど国を去ってゆく。


 長年住み慣れた土地を離れるのは勇気がいる。

 だから残る者の方が当然多いのだが、それでも少なくない人数の相次ぐ国外流出に、漸く国は重い腰を上げた。


 調査の結果、春が訪れたのに雨が一切降らないことが人々が逃げ出す要因だとされた。

 冬が短かったため雪解け水も期待できず、河川もため池も干上がってしまい、せっかく畑を耕しても種を撒けなかったのだ。

 しかしそれだけでは、商人や貴族までもが流出する理由にはならない。

 農夫だって、たった一度の干ばつ被害で他国まで逃げ出すのは異常である。


 では教会で祈りを捧げた時に何かあったのかと調べても、神父もシスターも首を横に振るばかりで、明確な回答は得られなかった。

 それに神父までも他国へ渡ってしまった後だったり、教会へ行っても逃散しない者もいたりしたため調査は難航した。

 そうしている間にも人々は次々と他国へ渡ってゆき、農地は荒れたまま放置された。


 干ばつに人の流出。

 国は早急に対策をとる必要があった。


 早速、神童と呼ばれたリゼットに助言を求めるも、孤児院での炊き出しを増やすやら、貧しい人々へ助成金を出すべきやら、求めている打開策とは微妙にズレた意見ばかりを、したり顔で言い続ける彼女へ次第に失望の眼差しが増えてゆく。


 元々、リゼットは文化や福祉への造詣が深く、その方面の発展には貢献したが、社会インフラや農業生産についての功績はない。

 だから彼女に意見を求めること自体お門違いなのだが、これまで神童と持て囃された彼女に対する国王と王太子の期待は大きく、周囲の落胆の声など無視してリゼットの意見を採用した。


 当然、干ばつ被害は増すばかりで、人の流出も止まらない。

 それなのに国は有効な打開策を打たないどころか無駄な施策で財政を逼迫させた。


 そんな頃、遥か遠方にある大国の王子が学園へ留学することが決まったのである。


 隣国以外とは国交を開いていないため名前だけしか知られていない大国の王子は、学園に自国の王族からも貰ったことがないほどの多額の寄付金を収めたため、学園長は下にもおかない歓待ぶりだった。

 しかも王子はこの世のものとは思えないほど麗しい外見をしており、衆道に興味のない学園長でもドキドキしてしまうほどであった。

 だから麗しい王子の背後に控える、一緒に留学してきた令嬢に見覚えがあるような気がしたが、気のせいだろうと深く考えることをしなかった。


 王子と付き添いである令嬢は、この国の王太子とリゼットがいるクラスへ編入が決まった。

 生徒達は颯爽と教室へ入ってきた王子に視線が釘付けになる。


 少し鋭いこげ茶色の瞳に、鼻梁の通った鼻筋、薄目の唇はやや軽薄そうだが、全ての均衡がとれた整った顔立ちの中で完璧ではないものがあることが、より表情を魅力的に見せていて女生徒達から感嘆の溜息があがった。


 金髪や銀髪といった派手さはないが、落ち着いたモスグリーンの髪色は理知的に見え、タナトスと名乗ってニコリと微笑んだ顔は、鋭さが抜けて可愛らしい。

 まさにカッコよさも可愛さも兼ね備えた文字通り理想の王子様の到来に、リゼットも放心したように突如現れたイケメンに見惚れていた。


 リゼットはチラリと隣に座る王太子に目をやる。

 赤髪黄眼の王太子は今日も麗しいといえば麗しいが、髪と瞳の色は派手だというのに、転入生のタナトスに比べたら明らかに見劣りする。

 国力も負けているし、出来ることならあちらに乗り換えたい。


 リゼットの瞳が怪しく光ったが、隣に座る王太子の手前、他の女生徒のように分かりやすく秋波を送るようなことはしない。

 しかし内心は、いかにしてタナトスを篭絡するかでいっぱいであった。


 転入生の挨拶を聞いているふりをして、リゼットはじっとタナトスを見つめる。

 すると視線に気づいたのか彼がニコリと微笑んだ。


 その笑みにリゼットはドギマギしながら内心ほくそ笑む。

 何と言っても亜麻色の髪に翡翠の瞳をしたリゼットは自分の容姿に自信があった。

 今はもういないヒロインも大層可愛らしかったが、王太子が彼女の初期設定を底辺にしてくれたおかげで、誰にも相手にされず、競い合う土俵にさえ上がらせなかった。


 そう、本当は王太子と結婚するのはヒロインのはずだった。

 それを阻止できたのは偏にリゼットが転生者で前世知識があったおかげである。


 ヒロインであり聖女。

 悪役令嬢にとっては鬼門といえる相手。

 彼女が亡くなってから数ヶ月が経っていた。


 首を斬って自殺するなんて真似をしたため、当初は混乱を極めた学園も今はすっかり落ち着きを取り戻していた。

 彼女は王太子を手にかけようとした犯罪者であり、暗殺に失敗して死を選んだ愚か者とされている。


 だからタナトスに続いて教室へと入ってきた人物に、リゼットは驚きを隠せなかった。

 それは隣に座る王太子や他の生徒達も同じだったようで、皆一様に息を呑む。


 アクアマリンの瞳にピンクブロンドの髪、そして愛らしい顔立ちと小柄な体。瞳、髪、顔立ち、体型、どこをとっても数ヶ月前に亡くなった悪女にそっくりな令嬢の登場に、教室がしんっと静まり返った。

 そして何より皆が驚いたのは彼女が自分の名前を名乗った時だった。


「アイビーと申します。これからよろしくお願いいたします」


 鈴を転がすような可愛らしい声。

 だが誰もが自分の耳を疑った。

 彼女はアイビーと言ったのだ。


 皆の視線が壇上にいるアイビーへ集まる。

 教室中の視線を受けた彼女は、戸惑うようにタナトスへ目線を向けた。するとタナトスが担任の教師をチラリと見やる。


 ちなみに去年このクラスを受け持っていた担任は、王宮文官として栄転していた。

 代わりに学園長の縁故採用だった講師が教師へと転身し担任になっていた。

 当然、悪女の事件のことは知っているし、苛めのことも薄々勘付いていたが、当時講師だった自分は関わり合いになるのはごめんだと放置していた。

 それ故悪女アイビーの容姿も薄らとしか記憶にない。


 だからタナトスの視線を受けた担任は生徒達が変な視線を向けたのは、アイビーの制服が皆と多少違うせいだと勘違いした。


「アイビーさんは首元に傷があるため、制服の代わりにハイネックのブラウスを着用することが特例で認められています」


 首元に傷がある。

 そのことに生徒達がまた動揺する。

 だってアイビーは自身で首を掻き斬って死んだのだ。

 紛れもないこの教室で。


 生徒達の動揺を見てとって、アイビーと名乗った令嬢が俯きがちに口を開いた。


「申し訳ありません。皆さまにはあまりお見せしたくない傷がありますので、このような配慮をしていただきました」

「アイビーの制服のことで何か言いたいことがある者は私のところへ来てほしい。だが出来れば寛大な心で許容してくれたら嬉しい」


 タナトスの擁護に、アイビーの首元の傷については触れてはいけないらしいと判断した生徒達だが、彼女に対する違和感は拭えない。

 しかし相手は他国の令嬢であり、大国の王子が留学に同伴させるくらいの人物だ。

 偶然名前が一緒で容姿も似ていて、首元には人には見せられない傷があるだけだろうと、自分に言い聞かせるしかなかった。



 ◇◇◇


 学園の中庭にあるガゼボでリゼットはタナトスと談笑していた。


 最初こそ自分が蹴落としたアイビーそっくりな人間の登場に戦々恐々としていたリゼットだったが、タナトスへ近づきたいという欲求は抑えられなかった。

 本来ならタナトスに付き従うべきアイビーは体が弱いのか学園を休みがちであるし、干ばつ被害が広がっているため王太子も忙しい。

 邪魔な二人が不在なのをいいことに、リゼットは日毎にタナトスとの距離を縮めていった。


 今ではランチを一緒に摂るまで親しくなったリゼットが、とりとめもなく話す内容にタナトスは今日もまた感嘆の溜息を零す。


「リゼット嬢は優秀ですね」

「そんなことは……」

「医者が患者の家に往診へ行くのではなく、患者が医者の方へ行く病院を作るなんて、考えたこともなかったですよ」


 感心したように頷くタナトスに、謙遜する素振りは見せるがリゼットの頬が緩む。

 最近の王宮はギスギスしていて、リゼットが何か意見を述べても称賛の声は聞こえなくなっていた。

 一方でタナトスは前世知識を披露すれば感嘆と共に賞賛してくれる。


 これがこの世界での自分の本来の姿なのだと優越感を膨らませたリゼットだったが、タナトスの背後から小首を傾げた存在に、浮かれていた気持ちが潰された。


「ですが感染病に罹患したら、その病院にいる方は全員亡くなってしまうのでは?」


 今日は珍しく学園に通学していたアイビーが、一緒にガゼボへやってきていたのだ。

 タナトスはアイビーがいる時には常に彼女と行動を共にしているので仕方がないとはいえ、二人きりだと思っていたリゼットは面白くない。

 いつも休みか早退でもしてればいいのに、という気持ちを呑み込んで連れてきたというのに、話に割って入ってきた挙句、どうでもいい指摘をされてリゼットは内心舌打ちをした。


 感染病対策なんて知らないわよ! 重箱の隅を楊枝でほじくるような嫌な女!


 そう心の中で悪態を吐いたリゼットだったが、表面上はおくびにも出さずに優雅に食後の紅茶へ口をつける。

 そんなリゼットを見たタナトスは、アイビーを窘めた。


「なるほど。だが神童と讃えられるリゼット嬢がその程度のリスクを考えてないわけないでしょう」

「え? ええ。それは当然ですわ。それよりもこのお菓子は美味しいですわね。ランチの後だというのについ食べてしまいますわ」


 自信たっぷりに返事をしたものの、これ以上余計な指摘をされたくなくてリゼットは話を変える。

 実はこれまでもタナトスと話している際に、こうやってアイビーが些細な指摘をすることが多々あった。


 タナトスを見るついでにアイビーを観察していれば、彼女がタナトスに好意を持っているということはバレバレである。

 だからタナトスと仲良く談笑するリゼットへの醜い嫉妬なのだろうが、正直邪魔でしかなかった。

 しかも指摘が細かいので回答に窮する場面も出て、タナトスにいいところを見せたいリゼットにとっては憎らしいことこの上ない。


 今はさりげなく誤魔化したが、答えられずに気まずい雰囲気になってしまった場面もあって、アイビーを敵認定したリゼットは、どうにかして彼女を貶めたいと思考を巡らせた。


「そういえば、リゼット嬢は市井での炊き出しも手伝っておられるとか。素晴らしいですね、さすが王太子殿下の婚約者ともなれば慈愛に満ちておられる」

「え?」


 本当は食べたくもないお菓子を咀嚼しながら、ムカムカする気持ちを抑えていたリゼットだったが、タナトスから振られた話に手を止める。

 他の女性を称えるタナトスに、アイビーが傷ついたような顔をしたのを、リゼットは心の中でニヤリと品のない笑みを浮かべつつ、表情は恥じらうように頬を染めた。


「そんな……少しでも苦しい方のお手伝いがしたかっただけですわ」

「なんとお優しい。まるで聖女のようです」

「聖女?」


 理想のイケメンに手放しに褒められ、有頂天になりそうなリゼットだったが、聖女という言葉に困惑の表情になる。

 そこへ怒りに満ちた声がガゼボへ響いた。


「リゼットは聖女などではない!」


 王宮での執務の目途がついたのか、打開策が見つからず放り投げてきたのか(おそらくは後者の方だが)学園へ遅れてやってきた王太子はガゼボを訪れるなりタナトスを睨みつけると、リゼットの隣へドカッと腰を下ろす。


「随分、仲が良くなったようですね。しかしリゼットは聖女などではありませんので、変な言いがかりは止めていただきたい」


 憤然とした様子の王太子に、タナトスは驚いたように瞬きをしていたが、やがて怪訝な表情になった。


「失礼ですけど、王太子殿下の言い分はまるで聖女を歓迎していないかのようですね」

「我が国で聖女といえばあまりいい印象がありませんので。それに聖女なんて所詮光魔法を使用して魔物を倒す位の価値でしょう」


 吐き捨てるように王太子が揶揄すれば、タナトスが瞳を瞬かせる。


「ですが魔物を倒せるのが聖女だけなのは事実です。それだけで十分希少な存在ではありませんか?」

「魔物など滅多に現れませんよ」

「それはそうですが過去には一夜にして滅ぼされた国もあるとか。魔物は神出鬼没故、予め兵を置くなどの事前準備もできませんし」

「来るかどうかもわからぬ魔物に怯えて、悪辣な聖女を崇めるのはどうかと思いますよ」


 聖女を悪辣だと断じた王太子の言い分に、アイビーの肩が微かに震えたのを見て、タナトスが正面から王太子を見据えた。


「聖女が悪辣ですか?」

「た、たとえばの話です」


 一瞬、射貫くような視線を向けられた気がして王太子がたじろぐが、タナトスはすぐにまた柔和な笑みを浮かべる。


「そうですか。ですが聖女がいれば天災など起こらないとも言われますし、やはり私は聖女は尊ぶべき存在だと思います。そういえば、現在この国は大規模な干ばつに見舞われているそうですね。心よりお悔やみ申し上げます。民も随分逃げ出したとか。それほど酷い干ばつなのでしょうか?」

「い、いえ。実はそこまで被害はなく、逃げ出した民も戻ってきております」


 王太子は嘘を吐いた。

 実際は干ばつ被害は相当深刻で、逃げた民も戻ってきていない。

 冬が去るのは早かったが、春だというのに恵みの雨が一滴も降らないのだ。


 農民は種を蒔けず、よしんば種を蒔いたとしても芽が出ることはない。このままでは秋の収穫は絶望的で、食料の備蓄がないまま冬になってしまう。

 王城や各領主館に蓄えはあるが、とても国民全員に配れるほどの余剰はなく、食べ物を巡って暴動が起こるだろう。


 他国から購入するにしても足元を見られ、相当な値段でふっかけられるに決まっている。

 その心配もあって自国の窮状を他国の王子に知らせるわけにはいかなかったのだ。

 それにガゼボ周辺には他の生徒達もいる。彼らに国の窮状を知られて下手に騒がれ、これ以上人が流出すれば取り返しがつかない、という判断もあった。


「そうですか。それは良かった。もし干ばつが続いてお困りのようでしたら、留学のよしみでわが国から隣国へ話を通し、水を運搬するのもやぶさかではないと考えていたのですが、どうやら余計なお世話だったようですね」

「え?」

「この国は文化や福祉が近隣諸国より優れているようですから、当然干ばつ対策なども万全なのでしょう。援助などと烏滸がましい考えでした」

「そのようなことは……」


 苦笑するタナトスに、謙遜しつつも王太子は内心で舌打ちをする。

 援助ならば喉から手が出るほど欲しかった。

 しかし今更、本当は困っているから助けてほしいなど、王太子として口が裂けても言えない。


 回答を誤ったと王太子が内心忸怩たる思いで臍を嚙んでいることなど気が付かず、タナトスは快活に話を続ける。


「それにしても、やはりリゼット嬢の功績は素晴らしいのですね。聖女もいないのにここまで目覚ましい発展を遂げられるなど……もしかして転生者でしょうか?」


 タナトスから放たれた転生者という言葉に、驚愕したように王太子とリゼットが目を合わせた。

 明らかに動揺する二人の様子をチラ見しながら、タナトスはわざとらしく知らない素振りで首を傾げる。


「どうかしましたか?」


 にこやかに訊ねたタナトスだったが、その目は獲物を追い詰めたように鋭い。

 いつもなら場の空気を読んで相手が嫌がるような話題を逸らしてくれるタナトスが、今回ばかりは答えるまで逃がしてはくれない気がして、リゼットは引き攣った笑みを浮かべた。


「あ、いえ……申し訳ありません。少し取り乱しましたわ。それよりも転生者とは?」


 白々しく訊ねてみたものの背中に冷や汗が伝う。

 まさかこの世界の人間から、転生者という単語が出てくるなど考えもしなかったのだ。


「転生者とは文字通り異世界から転生してきた知恵者のことです。地下資源や農業に造船業、はては天文学や医療に精通しているような素晴らしい人物は大抵転生者なのですよ。我が国では転生者が女性ならば王妃に、男性ならば王女と婚姻し一代限りの国王として君臨させることが決定している位価値のある存在です」

「王妃に……?」


 リゼットの喉がゴクリと鳴る。

 ヒロインのアイビーが死んだことで物語は終わったはずだった。

 けれど、もしかしたら第二部が始まっていて、そこでは断罪を回避した悪役令嬢がヒロインになるのかもしれない。


 妄想が膨らみ、リゼットの頭の中では自分が転生者と名乗り出れば、大国の王妃になる未来が描かれる。


「実は貴国がこれだけ急激に発展したのは聖女か転生者がいるとしか思えなかったので、是非ともお会いしたくて留学を決めたのです」


 熱弁を振るうタナトスにリゼットは困ったように微笑んだ。


「お察しの通り私が転生者ですわ」

「リゼット?」


 リゼットの告白にタナトスは目を丸くしたが、驚いて声を上げたのは王太子だった。


 リゼットが転生者なことは二人だけの秘密だったはずだ。

 それなのにあっさりと暴露してしまったことが王太子には信じられなかった。

 加えて次にリゼットが放った言葉に愕然とする。


「この国の文化も福祉も、全て私が異世界の知識をもとに発展させたものですの」


 表情こそ、しおらしい素振りをしているがリゼットの言い分に、王太子は口内に苦いものがこみあげた。

 確かに提案したのはリゼットだったが、実行したのは自分や王宮官吏である。

 それをさも全て自分の功績だと言うような彼女に不信感を抱く。


 そんな王太子の心の葛藤など露知らず、タナトスは大仰に両手を叩いた。


「リゼット嬢が転生者でしたか。これはすごい」

「聖女ではなくて残念でしたわね」


 少し皮肉っぽくリゼットが微笑めば、タナトスがいかにも残念そうに溜息を吐く。


「あぁ、信じられませんが、そうなのでしたね。転生者である貴女が聖女ならば、益々この国は発展しただろうに、惜しいですね」

「聖女が国を発展させるだと?」


 聞き捨てならない科白に、それまでだんまりを決め込んでいた王太子が顔をあげた。


「ええ、勿論。魔物を倒せる聖女ですが、豊穣の女神様の加護を受けていらっしゃる聖女は存在しているだけで、国は豊かな恵みを享受できるらしいですよ。しかし、もし聖女を害すれば反動で凶作になるらしいですが。まぁ、聖女を虐げる愚かな国などありませんでしょうけどね」


 タナトスがそこまで言ったところで午後の授業の予鈴が鳴る。

 また体調が悪くなったのか少しフラつくアイビーを寮まで送っていく、と言って先にガゼボを後にしたタナトスを見送った王太子は、リゼットに険しい表情を向けた。


「リゼット、どういうことだ? 聖女とは国を破滅に導く者ではなかったのか?  それに君が転生者だということは二人だけの秘密だったはずだ」


 不機嫌を隠しもしない王太子にリゼットの笑顔が引き攣った。


 結局タナトスは、最後はアイビーを優先する。

 彼女の傷ついた顔を見れた時には心がスッとしたが、病弱アピールでタナトスに支えられながら寮へ向かうアイビーが心の中で勝ち誇った顔をしているように思えてならない。


 まったくもって忌々しいと考えていたところで王太子から責められ、苛立ちが募った。


「他国の聖女のことまではわかりませんわ。それに転生者と言われて動揺してしまったのです」

「王子は聖女がいれば豊かな恵みを享受できると言っていたな……彼女は聖女認定はされていなかったが、昨年まで確かに我が国は豊作が続いていた……まさかこの干ばつはリゼットに言われるまま彼女に冤罪をかけ亡くならせたせいなのか?」

「私は冤罪など唆していませんわ!」


 王太子の推論にリゼットは思わず強く反論する。


 前世で亡くなる間際に転生を望むかと聞かれたので頷いたものの、実はリゼットには乙女ゲームの知識はあまりなかった。

 しかし転生といえば乙女ゲームであり、ヒロインと悪役令嬢は必要不可欠な登場人物であることくらいの知識はあった。

 ヒロインといえば髪色はピンクなので、自分は悪役令嬢だと思い先手を打ったが、リゼットが直接アイビーを冤罪にかけ自殺させたわけではない。


 それなのに、今更聖女の恩恵を知らされてもどうしようもないし、アイビーが死んだことまで、まるで全部リゼットのせいのように糾弾してくる王太子に苛々が爆発した。


「大体彼女が悪女だと言いふらしていたのは王太子殿下ではありませんか!」

「そ、それはリゼットがそう言ったから……」


 眦を吊り上げて怒るリゼットを初めて見て、王太子はタジタジになる。


 こんな情けない王太子など早々に切り捨てて、早くタナトスと婚約してしまいたい。

 そう考えたら、もう取り繕うことも面倒になってリゼットは立ち上がった。


「とにかく私は知りません。疲れたので今日はもう帰ります」

「え? 午後の授業は?」

「転生者である優秀な私に学園の授業など必要ありませんわ」


 嘲笑を浮かべて踵を返したリゼットは、そのまま振り返ることなくガゼボを後にする。

 一人残された王太子は唖然としていたが、やがて怒りと共にリゼットを盲目的に信じていた過去の行いに疑問を覚えた。


 思えばアイビーを孤立させたのは、この国に破滅をもたらす悪女だとリゼットが言ったからだ。

 まさか苛めが原因で自殺するなど想定外であったが、王太子は正義に基づいた結果なのだから仕方がなかったと考えている。


 けれど、アイビーは本当に悪女だったのか?


 彼女を排除するように動いたのは自分だが、言いだしたリゼットは今、あからさまに大国の王子であるタナトスに媚びを売っている。

 権力者に媚びを売る様は、リゼットこそ彼女が言っていた悪女のようだ。


 不信感で一杯になった心では疑惑が疑心を呼ぶ。

 もしかしたら自分はリゼットに利用されただけなのでは?


 そう考えたら心臓が鷲掴みされるほどの痛みに襲われ、王太子は頭を振った。


「違う……私は間違っていない……私は正義を実行しただけだ」


 そう言い聞かせてガゼボを出ようとした王太子であったが、その頭上にまた声と共に空に光の文字が刻まれた。


『悔い改めよ』


 今度は王都の上空だけに顕現した声と文字は、また数秒で掻き消えた。

 被害がないため今度もまた国は対策を取らなかったが、人々は不安を募らせる。同時に思った。

 悔い改める人物は王都にいる、と。



 ◇◇◇


 数日前に王都を騒がせた声と文字が人々の心に疑心暗鬼をもたらす中、学園の寮の一室でアイビーは沈んでいた。


 日を追うごとにタナトスとリゼットが仲を深めていく様は、演技だとは解っていてもアイビーの心に影を落としていた。


 それだけでなく、復讐するためにやってはきたものの、苛めを受けた過去がフラッシュバックして学園に行こうとすると決まって体調に異常をきたした。

 もう死んでいるはずなのにどうして? と思うが精神からきているものは誤魔化せないのだそうだ。


 数日置きにしか通園できず落ち込むアイビーに、タナトスもカロンも無理するなと励ましてくれるが情けない。

 それにタナトスがアイビーのいないところで、リゼットと仲睦まじくしているのかと思うと鼻の奥がツンとする。


 自分の存在意義を、生存価値を見失ってしまった過去の消せない傷は、いまだに深くアイビーの心に刻まれていた。


「やっぱり私なんか……」

「私なんかって言うなって言ったろ?」


 自虐的な思考で呟いた独り言に怒ったような返事がかえってきたことに、アイビーは驚いて後ろを振り返る。

 そこには不機嫌も露わなタナトスが腕を組んで立っていた。


「タナトス? え? 学園は?」

「クソ女がいい加減しつこくて辟易したから早退してきた」

「え?」


 でもそれが目的で学園に来たのでは? そう思うがタナトスの心底嫌そうな顔に、不謹慎だが嬉しく思ってしまう。

 クスリと微笑んだアイビーにタナトスの眉間から皺が消えた。


「やっと笑った」

「え?」

「カロンから元気ないって聞いた。今頃、あの女を足止めしてくれてる」

「足止め?」


 そういえばアイビーが休んだ時には必ず側にいてくれたカロンの姿が、今日は途中で消えていた

 一人になって弱気になってしまったからこそ鬱々と考えていたのだが、どうやら心配したカロンがタナトスを呼びに行ってくれたらしい。

 しかも猫なのにリゼットの足止めなんて芸当まで出来るカロンに、アイビーは目を瞬かせた。


 そんなアイビーにタナトスが違う違う、とばかりに顔の前で手を振る。


「そんな大したもんじゃないって。女子生徒の足元を頬ずりしながら歩いただけだから。カロンに気づいた女子が、かわいい~って人だかりが出来た騒ぎに乗じて、俺はあの女から逃げてきたってわけ」

「猫ちゃんになったカロンは格別の可愛さだもんね」

「確かに猫は可愛いけど、心底かわいい~って言ってんのは一部だけだと思うけど? あとは、かわいい~って言ってる自分が可愛いでしょアピールしてるだけ。あの女は間違いなく後者だな。で? アイビー、何かあった?」

「う、ううん、何も。迷惑かけてごめんなさい。私のことは気にしないで学園に戻って」


 ズキリッと痛む胸に蓋をして、反射的に否定し笑顔の仮面を張り付けたアイビーにタナトスがガシガシと頭を掻く。


「う~ん、いいか? アイビー、なんか誤解しているようだからこの際はっきり言っておくけど、俺があの女に靡くことは絶対にないからな。復讐のためにこの顔をつけて、あの女を篭絡し王太子を落胆させ、最後には二人を断罪するのが目的だってアイビーも知ってるだろ?」

「うん」


 知ってはいるが、不安なのだ。

 タナトスまで離れていったら? 自分を蔑む眼差しを向けてきたら?

 思い出したくもない苛めの日々がアイビーの頭を過る。

 特にこの学園にいると、抉るような胸の痛みとどうしようもないほどの焦燥がこみあげて、気持ちが強くもてなかった。


 そんなアイビーの気持ちを見透かしたようにタナトスが眉を下げる。


「不安になるな、アイビー。俺は絶対に君の味方だ」


 そう言ってもらえて嬉しいが不安は消えない。

 それにタナトスへの好意が余計にアイビーの中の不安を大きくさせていた。

 好きだからこそ裏切られたくない。

 でもこんなわがままを言える立場ではないことも十分に理解していた。


「ごめんなさい」


 再度謝罪をしたアイビーに、タナトスのこげ茶色の瞳が寂しそうに揺れる。


「不安消えない?」


 首を横に振ったアイビーだったが、タナトスにはバレバレだったようで盛大な溜息を吐いた。


「は~。そりゃこの学園にいれば不安にもなるよな。それに結局、他人を信じるかどうかって過去の経験とその人との信頼度によって推し量ることしかできないわけだし」


 ガシガシガシガシと今度は強めに頭を掻いたタナトスが呟く。


「信頼度か……」


 そう言うなり頭を掻くのをやめて、顎に手をやってひとしきり考えていたタナトスだったが、やがて意を決したようにアイビーを真っすぐに見つめた。


「俺がアイビーの復讐に手を貸すのは個人的な動機だって言ったよね? 理由話すから聞いてくれる?」


 そう言うとタナトスは、黙って頷いたアイビーの隣へ腰かけ重い口を開いた。



 生前タナトスには明るく奔放な婚約者がいた。

 歯に衣着せぬと言うが、婚約者はいい意味でも悪い意味でもそれであった。


 タナトスは背だけは高いが、細いこげ茶色の瞳をしており顔の造形は至って地味、しかも食べても太ることができない体質らしく頬がこけているため、婚約者からいつも薄気味悪い骸骨だと人目も憚らず罵られていた。

 婚約者はタナトスをこき下ろす一方で、好みの男性には素直に好意を伝えるため、次第に公然と浮気を繰り返すようになる。

 タナトスが何度注意しても逆ギレする有様で、やがて令息達を侍らせ好き勝手に振舞うようになっていった。


 だが、まさか殺されるほど嫌われているとは思っていなかった。

 タナトスの容姿を忌み嫌った婚約者は、ある夜会で不貞相手の騎士団長の息子にタナトスを葬らせたのだ。


 悪役令息は断罪されるのがセオリーなの、と訳がわからないことを言いながら、冤罪をでっちあげる婚約者に何故か周囲の者は同調し、タナトスの死は確定した。

 婚約者が青白い顔が大嫌いだったという理由で、顔を額から真下へ切り付けられ、その傷は太ももまで一刀両断にされタナトスは絶命する。

 政略結婚の婚約者を愛してはいなかったが誠実に振る舞い、そんなに自分が嫌なら婚約解消を進めようとしていた矢先のことだった。


 婚約者が転生者というのは死んでから知ったが、タナトスは身に覚えのない罪で殺されたことを恨み、あんな身勝手な女を転生させた女神のことも呪った。


「だからアイビーの復讐に加担したんだ。東洋の諺で坊主憎けりゃ袈裟まで憎いじゃないけどさ、転生者と聞くだけでズタズタに引き裂きたくなる」


 痛ましそうにタナトスの話を聞いていたアイビーが、不安げに眉尻を下げる。


「その婚約者は、どうなったの?」

「俺は聖女ではなかったからな。それに死に立てホヤホヤで、ハデス様や王妃様と面識なんてなかったし」

「そんな……」


 自嘲気味に微笑んだタナトスにアイビーが言葉を詰まらせる。

 カロンやタナトスと出会えてハデスや王妃の協力を得られた自分が、いかに恵まれていたのか改めて思い知って、申し訳なさに頭が真っ白になった。

 本当はタナトスこそ復讐をしたかったはずなのに、それは叶わなかったというのか。


 悲痛な表情をするアイビーが涙を堪えようと内頬を噛みしめた時、背後から明るい声が響いた。


「大丈夫。死者の国は、ああ見えてハデス様がきちんと管理してるんだから」


 いつの間に戻ってきていたのか、カロンはホテホテと歩いてくると軽やかにジャンプしてアイビーの膝の上へ着地する。


「タナトスを断罪した婚約者は、残りの人生は逆ハーエンドとか言って謳歌したみたいだけど、死んでからはまさに地獄だったと思うよ。彼女と僕の母親、二人とも蟲毒の坩堝に落とされた時は祝杯をあげたんだよね~、紅茶とホットミルクだったけど」


 嬉しそうに尻尾を揺らすカロンだったが、その柔らかい毛並みを無意識で撫でていたアイビーの手は止まった。


「え? まさかカロンのそのお腹の傷は……」

「そ! 僕、母親に殺されたんだ」


 あっけらかんと言い切ったカロンだったが、残酷な事実にアイビーは言葉を失う。

 そんなアイビーの膝の上で伸びをしながらカロンもまた生前の出来事を話しだした。



 カロンは転生者の子供だったが、両親と全く似ていない灰色の髪をしていたので、母親にいつも邪険にされていた。

 それでも両親の仲が良かったころはまだマシだったが、やがて父親が浮気。

 そもそも母親も婚約者のいる父親を略奪しての結婚だったらしいのだが、自分のことは棚に上げて嫉妬に狂った母が辺りかまわず喚き散らすため、父は家に帰ってこなくなった。


 元々粗略に扱われていたカロンへのネグレクトは益々酷くなり、何日も食事が与えられず意識が朦朧としていたある日、ふらりと部屋へ入ってきた母親に「アンタを生んでからシナリオが狂ったのよ、間違いはリセットしなきゃ」と言われ腹を刺されて殺された。


 カロンにとって母親はヒステリックに怒鳴り散らし、痛みと憎しみしか与えてくれなかった存在で、最期まで愛情を向けてくれることはなかった。

 それが途方もなく悲しくて悔しかったせいなのか、死の間際に母親のことが大嫌いだと認識する。

 けれどその時には既に虫の息で、息子を刺したくせに嬉しそうに笑って「リセット、リセット」と意味不明な言葉を発している母親を恨みながら死ぬしかなかった。


 そうして気が付いた時には死者の国へ来ており、タナトス同様、死後に母親が転生者と知って女神を恨んだ。


「そんなことが……。カロン、辛かったね」

「もう、よく覚えてないから平気だよ」


 自分のお尻に顎を乗せ丸まりながら、ふふんと鼻を鳴らしたカロンだったが、嘘だな、とアイビーは思った。


 カロンがアイビーの復讐に協力的なのは、タナトス同様、転生者を、母親を恨んでいるからなのは話を聞いて明白だった。

 だが同時にまだ母親からの愛情も求めている。

 恨んでいるのに、愛されたかったと相反する心の葛藤を抱えているからこそ、王妃も直接復讐に関わらせないようにしたのだろう。

 これ以上カロンの心が壊れないために。


 まだ子供だったというのにカロンの闇は深く、それなのに明るく振舞っている姿がいじらしくて、アイビーはその背を撫でる。


「カロンは頑張ったのね。凄いわ」

「僕、別に頑張ってないよ? ……それに母親に殺されちゃうような人間だもん、全然凄くない」


 アイビーの手放しの称賛に、キョトンとしたカロンだったが、自嘲気味にポツリと零すと自分の毛並みに顔を隠した。


「ううん、凄い。それに優しい」

「え~、褒めても何もでないよ~」


 おどけるカロンを両手で持ち上げて、アイビーは自分の額と猫の額をくっつける。


「カロンは凄い。カロンは優しい。カロンは可愛い。ありがとう、大好き。ね? ギュッってしてもいい?」

「ええ~……全く、しょうがないなぁ」


 照れつつもカロンが承諾してくれたので、アイビーはギュウッと彼を抱きしめる。

 自分の愛情では母親の代わりにはならないだろうが、それでもカロンの複雑に絡まってしまった心の歪みを少しでも解せたらいいな、とアイビーは思った。


 ◇◇◇


 ひとしきり抱擁がすむと、また膝の上で丸まったカロンを慈しむように撫でるアイビーを、穏やかな眼差しで見守っていたタナトスが声を掛ける。


「カロンは?」

「寝ちゃったみたい」


 そう言って微笑むアイビーの膝の上へ手を伸ばし、カロンを撫でるタナトスの手つきは限りなく優しい。

 その手に自分の手を重ねてアイビーは小さく息を吐いた。


「タナトスも辛かったね」

「ま、俺はカロンと違って相手に愛を求めていたわけじゃないから、精神的なダメージは少ないんだよな。単純に冤罪で殺されたのがむかつくってだけ」


 ニカッと笑ったタナトスだったが、それでも婚約者なのだから愛そうと思った時期もあったはずだ。

 それなのに一方的に嫌われて冤罪をかけられ、傷ついていないわけがない。


 それに聖女だからというだけで、王妃に優遇され復讐を果たせるアイビーに嫉妬してもいいはずなのに、タナトスはそんな様子をおくびにもださず、初めから協力的であった。

 今だってタナトスはアイビーのために憎い転生者を篭絡してくれている。

 それなのに自分はつまらない嫉妬をして、タナトスやカロンを心配させてしまった。


 自分の身勝手さにアイビーは下を向く。

 すると隣に腰掛けていたタナトスが徐に立ち上がり、ソファの周囲を行ったり来たりし始めた。


「タナトス、どうしたの?」

「いや、う~ん。思い上がりじゃなきゃいいなと思っていて、しかも勘違いだと取り返しがつかないし」

「何の話?」


 いきなり落ち着きがなくなり意味不明な返事をしたタナトスに、アイビーが不審がる。

 思い上がりとは聖女だからといい気になるな、勘違いとは転生者に復讐するためにアイビーに協力したに過ぎないのに嫉妬とか迷惑だ、という話だろうか。


 自分の考えに、またしても落ち込んだアイビーに、タナトスは歩き回るのをやめるとソファの背もたれに手を置いた。


「あのさ……さっきアイビーがカロンにしてたことすれば元気になる?」


 言葉と同時に背後から抱きしめられたのは一瞬だった。

 すぐに離れたタナトスだったが、アイビーの顔が真っ赤に染まりながらも微笑んでいることを確認すると嬉しそうに破顔する。


「よかった。嫌がられたら死ぬところだった。あ、俺もう死んでるんだっけ」


 ハデスのボケと王妃のツッコミを一人で熟したタナトスに、一拍置いてアイビーが笑いだす。

 抱きしめられたのは一瞬だったのに、優しさと愛しさが込められていて、アイビーの中にあった不安と嫉妬は消えていた。


「俺があのクズ女に靡くわけがないってこと信じてくれた?」

「うん、信じる。ごめんなさい」


 コクコクと何度も頷くアイビーの頭を撫でて、タナトスはもう一度彼女を抱きしめる。

 アイビーの膝で眠るカロンのせいで背中からしか抱きしめられないことが不満ではあるが、自分に抱かれて幸せそうに微笑む彼女を、タナトスは心から愛しいと思った。


 ◇◇◇


 漸く安心したのか腕の中で眠ってしまったアイビーをカロンごとベッドへ運んだタナトスは、後ろ髪を引かれながら自室へ戻った。

 既に午後の授業も終了している時間なので、学園へ戻る気はない。


 ふと窓の外へ視線を向ければ、雲一つない東の空にはまだ明るいのに既に月が昇ってきていた。


「悔い改めよ、か」


 始めは国、そして次は王都に、現れた声と文字を復唱してタナトスは口角を上げる。


「女神様が救いの道を授けるのは何度までなんだろうな?」


 窓を開ければ春の心地よい風が吹き込んでくるが、その空気は乾燥しきっており、まだまだ雨が降る気配はない。

 雨が降らなければ、農作物は育たない。

 だが、よしんば雨が降っても、この国がもう終焉に向かっていることを、タナトスは気づいていた。


「いくら文化や福祉を充実させても、人間は食べ物がなければ死ぬ。僅かな食糧を巡って争う時に前世の知識とやらが、どこまで役に立つかな?」


 そう独り言ちて意味深な笑みを浮かべたところに、窓の外にぬっと人影が現れる。


「タナトス君、久しぶり~」

「げっ!」


 奇声をあげて窓を閉めようとしたタナトスよりも素早く、人影は室内に入ってきて口を尖らせた。


「酷い挨拶だなぁ」

「どうしてお前がここに? それに何で死者なのに地上で形を保っていられんだよ?」


 不機嫌も露わに眉を寄せたタナトスのことなど気にすることなく、入室してきた者は恍惚の笑みを浮かべる。


「いや~、ハデス様が坩堝に落とす奴がいるって言うから、待ちきれなくて見学しに来ちゃった。形は、それはほら、僕って下手な神様よりも管理者歴長いから、年長者の技巧でちょちょいと」

「ちょちょいとってなんだよ……失敗して左目なくなってるぞ?」

「あ、これは失敗じゃなくて~。もう久しぶりすぎてワクワクしちゃってさ~、興奮しすぎて自分の目玉穿り出して食べちゃっただけ」


 テヘッと笑った人物に、タナトスは胡乱気な眼差しを向けた。


「俺、お前とは一生分かり合えない自信あるわ」

「あはははは。それより回廊の方にも随分落とされるんだって? あっちもすっごい張り切ってるよ。何でもこの学園そっくりの回廊を作ってループさせるんだってさ。相変わらずえげつないよね」

「えげつなさでいったらお前といい勝負だと思うけどな」

「そんな、褒めないでよ。照れるじゃん」

「褒めてない。けど今回ばかりはお前ら変態共に期待するわ」


 盛大な溜息を吐きながらも、自分に言い聞かせるように呟くタナトスのモスグリーンの髪が、窓から入ってきた風に靡く。


「もうすぐ雨が降るかもねぇ。久しぶりの雨は、はたして恵みの雨となるか、裁きの序になるか」


 結末を解っているくせに、楽しそうに笑った蟲毒の坩堝の管理者に、タナトスは呆れたような笑顔を見せたのだった。


『悔い改めよ』で、お察しかと思いますが、王太子の名前はジョバンニです。本家のような女好きではありませんがクズ男といえば彼なので。しかし先に名前を出すと展開がバレてしまうなと後回しにしていたら、出す機会を失ってしまいました。

次話で最終回となります。最後までお付き合いいただければ幸いです。

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― 新着の感想 ―
[一言] すみません、 「悔い改めよ」で検索したら「ネコへの態度を悔い改めよ」って画像が出てくる場合もあるんですけど。 「神」の字から一部分ちまちま取っちゃったような感じですね。 (全部の検索エンジ…
2024/03/12 16:43 退会済み
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