展開部 冥王と王妃
迷いの森を抜けると、続いていた畦道が石畳へと変わる。
石造りの漆黒の城の巨大な黒鉄門へ辿り着くと、頭が三つある小山ほどに大きな犬が二匹見えた。
地獄の番犬、ケルベロスである。
招かれざる者が通ろうとした時には容赦なく食らいつき、八つ裂きにしてしまうという彼らだが、カロンは怖がる素振りも見せずにアイビーと繋いでいない方の手をブンブンと振った。
「ケルちゃん、ベロちゃん、お疲れさま~」
自分の前足に顎を乗せて眠っていたケルベロス達は、カロンの言葉に片目だけを開けると、また眠ってしまう。
彼らの口元に誰かの服の切れ端らしき物が挟まっていたが、アイビーは見なかったことにして大きな犬達の間を緊張しながら通り過ぎると、大きなホールへ辿りついた。
正面には玉座が見える。
どうやらここが謁見の間らしいが、事前に連絡もなしに王が面会してくれるのだろうかとアイビーが不安を覚え始めた頃、玉座の後ろにあった扉が音もなく開いた。
現れたのは床に引き摺るほど長い黒髪を持ち、牛か馬のような頭蓋を被って、骨の隙間から赤い瞳を覗かせている、個性的な外見をしている人物だった。
玉座へ腰かけたということは、彼が死者の国の王ハデスだということだろうが、何だかソワソワしているようで落ち着きがない。
「なんのようだ? タナトス」
「僕もいますよ! ハデス様!」
「カロン、見ればわかる」
早々に要件を済ませたいのが見え見えのハデスは、空気の読めないカロンがビシッと手を挙げたので余計に苛立っているようだが、配下の名前はちゃんと覚えているしカロンの失礼な態度も咎める様子がないので、見た目ほど変な王様ではないようだとアイビーが安堵したのも束の間……。
「久しぶりに会ったのにハデス様ったら素気ないなぁ」
「まあ、その外見で愛想を振りまかれても気味悪いですけどね。あ、俺も人のことは言えないか」
カロンとタナトスの軽口に、アイビーは驚いて固まった。
不敬罪。
その言葉が頭を過り、冷や汗が噴き出る。
しかしアイビーの不安に反してハデスは何も言い返さず、タナトスは淡々と話を進めた。
「ところでハデス様、本日罷りこしたのは、この娘に現世の鏡を見せることの承諾をいただきたいためです。アイビー」
名前を呼ばれてアイビーが緊張した面持ちで前へ出る。
「お初にお目にかかります。アイビーと申します」
「ああ」
素っ気ない返答に委縮しそうになるが、返事をしてくれただけマシなのかもしれない。
生前に一度だけ男爵に連れられ拝謁したことがあるが、アイビーが知っている国王は玉座にふんぞり返り、こちらが名乗っても大仰に手を挙げるだけで言葉など一切掛けてもらえなかった。
そんなことをアイビーが思い出している間にも、タナトスはどんどん話を進めてゆく。
「ハデス様、そんなわけで現世の鏡を彼女へ見せてもいいですか?」
「いや、どんなわけだ」
説明もなしに結論を言い出したタナトスに冷静なツッコミをいれたハデスを見て、またしてもアイビーがビックリする。
ハデスは別に怒っている風でもなく、性急過ぎるタナトスを窘めただけなのだ。
先程からのあまりにも気安い主従の関係に、驚きすぎて口が開きそうになるのを何とか堪えてるが、目が点になるのは隠しようがない。
そんなアイビーを見てカロンは苦笑するが、タナトスは至って真面目にハデスに奏上を続けた。
「境遇シート見ましたけど、かなり酷いんですよ。だから迷いを晴らすきっかけとして死後の世界を見せた方がいいと愚考しました」
アイビーの首を繋ぐ前に見ていた用紙をカロンから受け取り、タナトスはヒラヒラと胸の前で振る。
あの用紙は境遇シートと言うらしい。
つまりあれにはアイビーの生前の境遇が書かれているわけで、二人が自分に同情的だった訳が解った気がして、ツキリと胸が痛んだ。
その痛みにアイビーは内心で首を傾げる。
同情してくれるだけで有難い話なはずだ。
だって生前は誰もアイビーの気持ちを気遣ってくれる人などいなかったのだから。
でもこの痛みは何だろう?
感じたことのない痛みにアイビーが戸惑う中、謁見の間に鈴を転がすような声が聞こえた。
「あら? 来客中でしたのね」
ハデスと同じ扉から入室してきたらしい女性が困ったように微笑む。
ピンクブロンドの髪にアクアマリンの瞳。
アイビーによく似た、けれど宝石のように艶々と輝く髪と、水晶を散りばめたような眩しい瞳をした女性はこの世の者(死者の国なのでこの世ではないのだが)とは思えないほど美しかった。
「ぺネ! 会いたかった!」
絶世の美女の登場に声を上げたのはハデスであった。
「小一時間前に一緒にお茶をしましたけれど?」
「ずっと一緒じゃなきゃ心配なんだよぅ」
「あらあら、仕方のない方ね」
突然現れた美しい女性とハデスのやり取りに、アイビーは目を丸くする。
死者の国の王であるハデスは、風貌は変わっているしタナトス達とのやり取りも気安いものだったが、決して威厳がないわけではなかった。
けれど今、美女の目の前の王は完全に大型犬と化している。
「だって春が来たら、ペネにまた会えなくなるもん。考えただけで死にそうだよ」
「死者の国の王が死ぬわけないじゃないですか」
「気持ち的に死んじゃうの。いや、物理的にも死ぬかも」
「お客様もいるのに困った方ね、って、よく見たらタナトスとカロンじゃない。久しぶりね、元気だった?」
纏わりつくワンコ(死者の国のトップだが)をあやしていたペネと呼ばれる女性が、階下に控えていたタナトス達に気がついて声をかける。
「はっ、王妃殿下もご機嫌麗し……」
「ペネとのイチャラブを邪魔するなぁ!」
ペネと呼ばれる美しい女性は王妃だったらしく、彼女の言葉に返事をしたタナトスの言葉を遮った夫のハデスは、黒い髪を逆立てんばかりに殺気を露わにした。
先程王妃と話していた時は蕩けるような表情だったのが、今は悪鬼のような顔になっている。
それを見た王妃がハデスの上着を引っ張った。
「ハ・デ・ス・さ・ま!」
「はい!」
元気よく返事をしたハデスは振り返りざま悪鬼から、また天使の笑みに変わる。
「嫉妬は嬉しいのですが、あまり過ぎると嫌ですわ」
「ごめんなさい、もうしません、許してください」
「解れば結構です。さてタナトス、あなたがここへ来るなんて本当に久しぶりね」
即座に謝罪したハデスに王妃は微笑むと、再びタナトスの方へ振り返った。
「はい。国王夫妻に於かれましては相変わらず仲睦まじい限りで喜ばしいことです」
「ちょっとハデス様の愛が重いけれど、ありがとう。それで、出不精のあなたがここへ来たのは、隣にいる可愛いお嬢さんのためかしら?」
「はい」
タナトスが肯定の返事をし、王妃に視線を向けられたアイビーが慌てて頭を下げる。
ちなみに愛が重いと言われたハデスはあからさまに落ち込んで玉座の肘掛にのの字を書いている。
しかし王と王妃のやり取りはこれがデフォなのか、唖然とするアイビーの横で、カロンがニコニコしながら王妃に伝えた。
「王妃様、このお姉ちゃんはアイビーって言うんです」
「そうなの? 教えてくれてありがとう、カロン。あなたは相変わらず可愛いわね」
「えへへ、ありがとうござ……申し訳ありません」
可愛いという言葉に笑顔でお礼を言おうとしたカロンだったが、王妃の隣でいじけていたハデスが射殺すような視線で見つめてくるのに気づいて、すぐさま謝罪に切り替える。
「ハデス様、子供にそのような視線を向けないでくださいまし」
「だってペネが私以外を可愛いって言うから」
「子供はみんな可愛いものですわ。ハデス様、話が進まないので少し大人しくしていてくださる?」
「うぐっ」
笑顔で釘を刺されて、素直に両手で自分の口を覆ったハデスの黒い髪を撫で、王妃はアイビーの方へ向き直った。
「それでアイビー、貴女は……」
そこまで言って、王妃が目を見開く。
「え?……その首の傷は? 待って……タナトスとカロンと一緒に来たということは、まさか迷いの森に落ちたの? 嘘でしょう? だって聖女よ?」
焦ったように呟く王妃に、アイビーが困ったように眉尻を下げる。
「あ、あの……恐れながら申し上げますが、私は聖女ではありません」
「聖女ではない?」
何故か眉を顰めた王妃にアイビーは戸惑いつつも説明をする。
「はい。確かに私は生前光魔法が使えましたが、魔物を倒せるほどの強度はなく、精々暗闇を照らす程度のもので、それも死ぬ間際にはだいぶ弱っていました。ですから聖女ではありません」
「光魔法が弱っていた? それはいつから?」
「16歳で学園に入学してからなので半年以上前です」
「ありえないわ」
アイビーの言葉をきっぱりと否定した王妃が、波打つ美しい髪を揺らして頭を振った。
「ありえないのよ! だって私と同じピンクブロンドの髪にアクアマリンの瞳なのよ?」
自身の髪を掴んで叫んだ王妃を、アイビーは訳がわからず見守るしかできない。
「その髪も瞳も偽りではないのよね? 色粉を使ったとか魔法で変えたとかではなく、自前なのでしょう?」
「はい、そうです」
問い詰められてコクコクと頷く。
色粉はともかく、魔法で髪や瞳の色を変えられるなんて驚きだと思っていると、タナトスがパチンっと指を鳴らした。
途端に彼のモスグリーンの髪が鮮やかな銀色に染まり、こげ茶色の瞳は鮮やかな赤色となるが、再度指を鳴らすと元の色に戻る。
「見本をありがとう、タナトス。いえ、そんなことより問題は貴女よ、アイビー。光魔法は確かに弱くなってゆく者がいるわ。けれど、それは祖先に聖女がいた残滓が残っていたから発現したのであって、本来の使い手ではなかったからなの」
では自分もそうだったのかと納得するアイビーに、王妃は違うとばかりに拳を握る。
「でもピンクブロンドの髪にアクアマリンの瞳をした者は必ず聖女なの。これは絶対なの! だってお母さまが大好きな組み合わせなんだもの!」
力強く明言した王妃に、意味がわからなくて首を傾げたアイビーだったが、謁見の間にはつんざくような悲鳴が轟いた。
「ひいいいいぃぃっ!」
断末魔のような絶叫に玉座を見上げれば、ハデスの全身が震えている。
「ぺ、ペネ……そ、それ本当?」
「本当よ」
「ぎゃああああああ! もうダメだぁ! なんで? なんで君、よりにもよって殺されちゃったの?」
頭に被った骨をガクガクと揺らして、情けない顔でアイビーに言い募るハデスから守るようにタナトスが前へ出る。
「アイビーは自殺ですよ」
「尚、悪いよぅ! だって自殺するほど追い込まれたから、迷いの森に落ちちゃったわけでしょう? だめだ~、今度こそだめだ~。ペネが……ペネが連れ戻される……もう死んだ方がいい。私なんか死んだほうがいいんだ~」
玉座から転がり落ちたハデスが、王妃のドレスの裾を掴んでオイオイと泣き崩れる。
「だから死者の国の王が死ぬわけ……もういいですわ、面倒くさいからハデス様は放っておきましょう」
「ペネーーーーー!」
泣きじゃくるハデスを適当にあしらった王妃が、まだ訳がわからず茫然とするアイビーに向き直り沈痛な面持ちになった。
「光魔法が弱くなった原因は心の傷が原因ね。貴女一体、生前にどんな仕打ちを受けたの?」
「それについてはこちらを」
「天使から送られてきた生前の境遇シートね。これは……」
タナトスから差し出された紙を見て王妃は絶句する。
だが、やがてそのアクアマリンの瞳の奥が底の見えない色を灯しだした。
「へぇ~、そう……豊穣の女神であるお母さまの聖女を冤罪で苛めた者がいるの……どうやら最近しゃしゃりでてきた新参の女神が関係しているようね」
豊穣の女神だの新参の女神だの、話が神がかり的なものになってきてスケールの大きさについていけないアイビーを他所に、王妃が足元に縋りついているハデスの顎を持ち上げる。
「ハデス様、私、今から少し里帰りをしますわ」
「ペネ! 嫌だ! 私は君を離さないぞ! 絶対に! 死んでも離さないから!」
「だからここは死者の国で……ハデス様! ハウス!」
泣きながら抗議したハデスだったが、ハウスという言葉にピキーンと硬直し、一目散にダッシュして行ったかと思うと、物凄い速さで戻ってくる。
「いや、ハウスに行ってる場合じゃないから!」
「ひっかかりませんでしたか」
律儀に自室まで行って戻ってきたのか、というタナトス達の哀れみの視線などもろともせず、ハデスは必死に王妃へ縋りつく。
「嫌だ、ペネ。私のことを捨てないで!」
「もう、本当に仕方のない方。いいですか? 私は里帰りをしますがすぐにまた戻ってきます。帰って来る頃には死者の国は忙しくなりますから、無限と蟲毒の管理者に連絡して待っていてくださいませ。」
王妃の言葉にハデスがポカンと口を開ける。
「無限と蟲毒?」
「はい」
「使うの? 彼らを?」
「ええ」
「……地獄だ」
「その地獄を支配されている方が怖がらないでくださいまし」
無限の回廊と蟲毒の坩堝は死者の国の王でも怖ろしいのか、顔面蒼白になったハデスとは対照的に、王妃は苦笑する。
「ちゃんと戻ってきますわ。だって私は死者の国の王妃なのでしょう?」
ね? と悪戯っぽく見上げる王妃に、ハデスの下がりきっていた眉がグイーンッと復活をとげた。
「うん! 私の奥さんはペネだけだよ。だからちゃんと戻ってきて?」
「勿論です。さ、ハデス様は早く準備をしてくださいませ」
「うん! あ、でも……」
不安気に赤い瞳を揺らしたハデスに王妃が首を傾げる。
「まだ、何か?」
「むざむざ聖女を自殺させてしまったこと女神はお怒りになるんじゃ……」
「それは怒り心頭でしょうね」
「じゃあ……」
さらりと言った王妃に、ハデスがまた泣き出しそうになる。
その頬をペチペチと軽く叩いて、王妃は諭すように彼の瞳を覗き込んだ。
「でもそれはハデス様にではありませんわ。だって貴方は死者の国の王ですもの。生者の国のことに干渉出来ないのは周知の事実でしょう?」
「それは、そうなんだけど」
「お母さまはキレると怖いですけれど、非のない相手を責めたりしませんわ。ですからハデス様が不安になる必要はありません」
まだ少し迷うような素振りを見せていたハデスだったが、きっぱりと断言した王妃に一応納得したように頷くと、上目遣いでおそるおそる訊ねてみる。
「うん、わかった。ところでペネ……もしかして君、凄く怒ってる?」
ハデスの問いかけにアクアマリンの瞳を究極まで細めた王妃がにっこりと笑う。
「勿論。だって私マザコンですもの」
言い切った王妃に、ハデスが「ですよねー」と力なく項垂れ、同情の視線を向けるタナトス達に視線を移す。
「タナトス、現世の鏡を見たいというそなたの願いを聞き届けよう。アイビーよ、死後の世界を確認するといい。見たら後悔するかもしれないが、何も知らないままでは迷いを晴らすことはできないだろうし、尊い命を賭けた君には知る権利がある」
「尊い命……」
反芻するアイビーに、ハデスが王妃に向けていた表情とは打って変わって真面目な顔で告げる。
「言っておくが聖女の命だから尊いというわけではないからな。命は全部尊い。死者の国の王である私が言うのもなんだが、限りある命の有難みは何ものにも代え難い」
ハデスの言葉に、投げ出してしまった自身の命の重さを指摘されたような気がして、アイビーは黙り込んだ。
そんなアイビーにハデスは小さく溜息を吐くと、指を鳴らしカロンの背に括り付けられていた鏡を宙に浮かせる。
「だからこそ他者を虐げ自ら命を絶たせるような非道は許されない。アイビーよ、現世の鏡へ手を触れ迷いを晴らすがいい」
言われたアイビーが鏡へ手を触れると表面が水のように揺らめき鈍く光を放つ。
その光と共に映し出される光景をアイビー達は固唾を飲んで見守った。
◇◇◇
「うまくいったわ!」
侯爵家の自室でリゼットは小さくガッツポーズをしていた。
「悪役令嬢に転生した時はどうしようかと思ったけど、ヒロイン断罪が出来て良かった! これで私のバッドエンドは回避できたわ!」
リゼットの目の前にある机の上へ広げられたノートには、見たこともない文字がびっしりと書き綴られている。
そのノートをパラパラと捲って確認していたリゼットだったが、やがて眉を寄せると身震いした。
「それにしても自分で首を切るとか、ヒロイン正気かよ? って感じよね。生首気持ち悪かった~」
不快そうに「うげ~」と口角を下げていた唇が、やがて忍び笑う形に変わる。
「しかし自分で死ぬとかマジでバカ。せっかく国外追放処分くらいにしてあげようと思ってたのにさ~。思いのほか王太子が苛めを先導してくれたせいもあるかもだけど、ちょっとメンタル弱すぎませんか? ってーの! 渡り廊下で倒れられた時は私達のせいで死んだのかと思ってビビったけど、勝手に自殺した挙句世間体を考えた国王に悪者にされちゃったんだから報われないわよね~。お気の毒、きゃはははっ!」
品性の欠片もなく笑うリゼットに、いつもの淑女の面影はない。
きっと、こちらが彼女の地なのだろう。
「あとはイケメン王太子を上手く掌で転がしつつ、前世知識で国を豊かにして贅沢三昧するだけ! 異世界転生最高! 逆ハー万歳! 邪魔なヒロインちゃん、永遠にさようなら~」
ベッドへダイブを決めて愉快そうに笑うリゼットの顔は美しいのに醜悪で、青褪めた顔をして食い入るように鏡を見ていたアイビーの、背後に控えていた王妃の扇がミシリッとなった。
「やっぱり転生者なのね」
「転生者? ですか?」
初めて聞く言葉にアイビーが首を傾げる。
タナトスとカロンの方を見たが二人とも訳知り顔で頷いている。
しかし何だか二人とも機嫌が悪くなったような気がして戸惑うアイビーに、王妃が困ったように微笑んだ。
「ええ。その説明は後にして、今はとりあえず次の人間を見てみましょう」
視線で王妃に促され、ハデスが指を鳴らす。
鏡に映し出されたのは王宮。
絢爛たる部屋の豪勢なベッドの上では、王太子が布団を頭から被って震えていた。
「私は悪くない、私は悪くない、私は悪くない……」
呪文のように繰り返す声が延々と聞こえる。
必死に自分に言い聞かせている王太子の情けない姿に、少しだけアイビーの溜飲が下がったような気がしたのも束の間、不意にガバッと起き上がると持っていた短剣を枕へ突き刺した。
「そうだ……私は悪くない! あの悪女が悪いんだ! 父上も言っていたではないか……私とリゼットを暗殺しようとして失敗して自殺したのだと。学園での苛めを逆恨みしたのだろうが、そもそも悪女だから苛められるのだ!」
自分のせいで死んだ者がいることを受け入れられなかったのか、開きなおった王太子は短剣で枕をめった刺しにしてゆく。
羽毛が散らばり辺りに舞いあがる中、王太子は歪んだ表情で自分を正当化する言葉を繰り返した。
「苛めは苛められる方に非があるから発生するのであって、死んだのはあの悪女の自業自得だ。いや、学園長が苛めはなかったと言っていた。全部あの悪女の妄想で、私達は被害者だ! そうだ! そうに決まっている!」
舞い散った羽毛が己の体へ纏わりつくのを、忌々しそうに振り払った王太子は歪んだ笑みを浮かべながら、のろのろと立ち上がる。
「苛めはなかった……悪いのはあの悪女だ」
断言した王太子の瞳には、もう怯えの色は消えていた。
元々思い込みの強い彼はアイビーを悪者とすることで、自分の罪の意識を消去したらしい。
やがて国王になる男の余りにも卑怯な逃げ方に、こんな人間が原因で死を選ばざるを得なかったアイビーは乾いた笑いしか出てこなかった。
そんなアイビーを気遣うようにタナトスが声を掛ける。
「アイビー、大丈夫か?」
「私は学園長に苛めを受けていると訴えました」
リゼットを見た時は衝撃と怒りしかなかった。
しかし情けない王太子を見た今は逆に少し冷静になり、ポツリと零す。
「アイビーはちゃんと大人に相談したんだな」
労わるようにタナトスに頭を撫でられ、アイビーは苦笑する。
「ええ。けれど取り合ってはもらえませんでした。挙句に苛めはなかったことにされたようです」
「教育者としてあるまじき行為だな」
「生徒も教師も、あの学園の人達は誰も私を助けてはくれませんでした。そして死んでもやはり私は悪者にされるのですね」
皮肉をこめて嘲笑を浮かべたアイビーに、タナトスは言うべき言葉が見つからないのか眉間に皺を寄せ苦しそうな表情になったが、その背後でミシミシと音を立てていた王妃の扇がバキャッと割れて床へ落ちた。
「あら、失礼。お気に入りだったのにもったいないことをしてしまったわ。あとで修復しなくてはね」
「ペネ、私が金継ぎするから心配しないで!」
青筋を立てながらもホホホと優雅に微笑んだ王妃の足元から、壊れた扇の残骸をハデスが慌てて拾い上げ、懐へ大事そうにしまいこむ。
確か王妃の扇は鉄製だったような気がする。
金継ぎの技術って国王に必要だったっけ?
そんな疑問が頭を過ったが、自分以上に怒りを露わにしてくれる人物がいるというのは、随分と気持ちを軽くしてくれるらしい。
壊れた鉄扇には申し訳なかったが、少し自暴自棄になりかけた心が落ち着きを取り戻し、アイビーはまた鏡を覗き込む。
枕をめった刺しにして疲れたのか王太子は、ソファで眠りについていた。
スヤスヤと眠る顔は穏やかで、リゼットといい王太子といい神経の図太さに呆れてしまう。
その後も他の生徒や教師を映してもらったが、皆保身と自己肯定する者ばかりで、誰一人として反省を口にする者はいなかった。
悪女だから悪い。
苛められる方が悪い。
自分は悪くない。
根本にあるのは、この国の未来のために王太子とリゼットの意に沿う行動をした正義の結果だということ。
アイビーが自死したため誰も直接手を下したわけではないことも、彼らの罪悪感を薄れさせた。
また国王がアイビーを暗殺者に仕立て上げ王太子達を守ったことも大きい。
反吐が出そうな人間達の醜さに、皆が一様に黙り込む中、鏡が最後に映しだしたのはアイビーが学園に来る前に住んでいた場所だった。
冤罪を背負わされた男爵家は、当主と妻が処刑された後、目障りだといわんばかりに暴徒によって打ち壊され、幼少期に住んでいた街は無人の廃墟と化していた。
男爵家はともかく、全く関係のない街まで悪女を育てた罰だと一方的に破壊させたのは、リゼットと王太子である。
リゼットはアイビーを悪女に仕立てあげ冤罪を真実とさせる思惑が、王太子は見当違いも甚だしい八つ当たりだ。
恨むなら悪女を恨めと騎士達に追い立てられ、住む家を追い出された人々は、自分達の街が破壊されるのを茫然と見ていることしかできなかった。
散り散りになって街を去ってゆく人々の瞳には、誰しも憎悪の炎が灯っていて、まだ光魔法が使えた頃、夜の街を照らし人々から感謝されていた日のことを思い出し、アイビーは溜息を吐いた。
「私と男爵家だけが悪者になったんですね」
「本当に胸糞悪い」
吐き出すように言い捨てたタナトスに、アイビーが眉尻を下げる。
「タナトス、ありがとう」
アイビーの苦笑にタナトスは眉根を寄せた。
「は? もしかしてまた仕方ないとか考えてるんじゃないだろうな? だとしたら……」
「そんなわけないじゃない!」
タナトスの言葉を遮って叫んだアイビーの瞳から涙が零れ落ちる。
「何で後悔していないの? 何で普段通りの生活を送ってるの? 私のこと苛めて死に追いやったくせに、何で無関係の人だけが傷ついて、当事者は平気なのよ! ……私が死んだことは無駄だったの? あいつらの心に何の傷もつけられなかったの? 私……私は……」
無駄死にだった、なんて思いたくない。
死んで楽になりたかったけれど、死にたかったわけじゃない。
自分達のせいで人が死んだことの悔恨と慙愧を思い知らせてやりたかったのに、何事もなかったかのように振舞う彼らが許せない。
迸るほどの黒い感情がアイビーの心を闇に染めてゆく。
「復讐したい……」
それは地を這うような低い声。
文法的には願望。だがアイビー的には断定、だ。
許さない、許すものか。
醜い感情かもしれないが、偽らざる気持ちを吐露したアイビーのアクアマリンの瞳が強い意志を灯した。
そんな復讐の業火に心を逆巻かせるアイビーに、朗らかな声がかかる。
「俺も協力する」
「勿論、僕も!」
当然とばかりに頷くタナトスと、片手をあげて元気よく名乗りをあげるカロンに、アイビーが目を丸くする。
出会ってから二人は常に優しかった。
死者の国の王に謁見できたことも、気になっていた死んだ後の世界を見ることが出来たのも、全部二人のお陰だ。
だが、見ず知らずのアイビーにどうしてそこまでしてくれるのか不思議でならない。
今だって怒りに身を任せて荒んでしまいそうなアイビーに、わざと明るく声をかけ解してくれたのだ。
「どうして二人はそんなに私に親切なの? 境遇シートっていうのを見て……同情してくれてるから? でも私なんかの復讐に二人を巻き込むわけにはいかないよ」
自分で言った同情という言葉にアイビーの胸が何故かツキリと痛む。
それに違和感を覚えながらも、無関係の彼らを巻き込むわけにはいかないため、やんわりと否定したアイビーに二人は顔を見合わせると、先に口を開いたタナトスは溜息交じりに頭を掻いた。
「私なんかとか言うなよ……確かに境遇シートを見て同情はした。けどそれだけじゃなくて、ずっと頑張ってた奴を応援したいと思うのは当然じゃないのか? 出会ったばかりだけど俺はアイビーの人となりを見て信じるに足る人間だと判断した。だから巻き込まれるわけじゃなく自分の意思だ。それにアイビーに協力するのは俺の個人的な動機もある」
口角を上げたタナトスの横で、カロンもニコニコとアイビーを覗き込む。
「僕も協力したいのは自分の目的があるからだよ。あと、強いて言えばアイビーに一目ぼれしたからかな。可愛い子を放ってはおけないからね」
思いもよらない返答に、アイビーは目を白黒させる。
「ひ? え? ひとめ? え?」
「アハハ! 混乱してるアイビーも可愛い」
「カロン、あんまりからかうな」
ペシッとタナトスに頭を叩かれて、カロンがむくれる。
「からかってないのにー」
カロンは頭をおさえると、ぷうっと頬を膨らませた。
「タナトスだって惚れそうって言ってたじゃんか。僕がアイビーのことが好きなのは本当だもん。だから早く復讐しに行こうよ」
まるでピクニックに行こうみたいなノリで言うカロンだったが、その言葉は呆気なく否定されてしまう。
「それはできない」
振り返った先では、ハデスが骸骨の隙間から苦渋の表情を覗かせていた。
「死者は生者に干渉できない。あいつらが死んだ後なら私の権限でいくらでも罰を与えられるが、死なない限り手出しは無理だ」
ここは死者の国。
既に死んでしまったアイビーは生きている彼らに干渉できない。それは王であっても無理らしい。
申し訳なさそうに視線を逸らしてしまったハデスに、アイビーは項垂れた。
「そうなんですね……」
生者と死者の世界の隔たりを思い知って、そういえばその隔たりを求めて逃げてきたのだとアイビーは自嘲する。
アイビーの命を賭けた意趣返しは失敗し、復讐もできない。
本当に自分はなんのために生まれてきて、何のために死んだのかと、滑稽にさえ思えてきたところで、それまで彫像のように現世の鏡を睨んでいた王妃が静かに宣言した。
「いいえ。できるわ」
「ペネ?」
驚いたように自分の妻を振り返るハデスに、王妃が目を細める。
「私に任せて。お母さまに報告がてら、三人を地上に連れて行くわ。確かに死者は生者に干渉できないけれど、私は死者の国の王妃であると同時に大地の女神でもあるのですもの」
厳かに華麗に微笑んだ王妃は、女神と讃えるに相応しい威厳を放っていた。
とても夫を尻に敷いたり怒りに任せて鉄扇を壊したりするような、生々しい行いをする人間には、いや、今は生物にさえ見えない。
そんな神々しさを放つ王妃に、ハデスが泣きそうな顔で訊ねた。
「ペネ、行ってしまうの?」
「すぐ戻ってきますわ。ハデス様は準備をしていてくださいませ」
「……そうだね、私が手伝えることは少ないけれど、せめて君に言われた準備はしっかりしておくよ。これでも死者の国の王だしね。無限と蟲毒の管理者か……はぁ~」
盛大な溜息を吐いたハデスは、どうやら二つの地獄の管理者に会うのは相当嫌であるらしい。
王妃が里帰りするのも大ダメージなので、すっかりしょげてしまったハデスだったが、その耳元へ王妃が囁いた。
「私、ハデス様のそういう真面目なところが大好きですわ」
ふわりと笑った王妃が放った一言に、ハデスが骸骨の上からでも解るほど赤面する。
「へ? だ? ふぎゅぅっ……」
身悶えながら変な声を出したハデスはその場に昏倒してしまう。
「あーぁ、ハデス様ったら嬉しすぎて気絶しちゃったよ」
あちゃ~と天を見上げたカロンに王妃がカラコロと笑う。
「さ、今の内にさっさと地上へ戻るわよ。目が覚めたらまた駄々をこねるに決まってるもの」
国王を放置したまま踵を返した王妃に、もしかして、いやもしかしなくとも意図的に気絶させたのだと三人は思ったが、ハデスが哀れで誰も口にしなかった。
◇◇◇
王妃に先導されるまま死者の国と生者の国の間までやってきたアイビーとタナトスは、現在土まみれになっていた。
何故なら王妃が一緒に連れてきていたケルベロス達に何か合図をすると、彼らに後ろ足で思いっきり土を掛けられたからだ。
突然の出来事にアイビーもタナトスもなすすべもないまま頭まですっぽりと土で覆われる。
カロンだけは王妃が直前に引き寄せたため無事であり、驚いたように目を真ん丸にしていたが、慌てて二人に近づこうとして腕を掴まれた。
「ダメよ、子供に復讐はさせられないわ」
「え?」
王妃に諭されてカロンは困惑する。
土を掛けられることと復讐が、どう結びつくのか解らないという顔のカロンの前で、アイビーとタナトスに掛けられた土が体に吸収されてゆく。
すると、生者の国へ近づくにつれグニャグニャと不安定になっていた体が、しっかりと形を保てるようになっていた。
「大地の加護で生者の国へ行っても崩れない体にしたの。ただし水には弱いから雨には注意してね。勿論お風呂もダメだけど、死者には地上の汚れはつかないから問題ないわね」
満足そうに頷く王妃に、アイビーもタナトスも事前に言ってくれればいいのにと思ったが、自分達のために加護を授けてくれた王妃に抗議はできない。
それにケルベロス達が褒めて褒めてと言わんばかりに尻尾を揺らしたので、風圧に吹っ飛びそうになるのを堪えるのに必死だった。
そんな中、カロンが泣きそうな顔で王妃に縋る。
「な、なんで僕だけ加護をくれないんですか?」
「さっきも言ったでしょう? 子供に復讐はさせられないの。こんな可愛い手でそんなことしてほしくないわ」
カロンの小さな手を握りしめながら王妃が囁く。
「まあ、あの二人にも見届けさせるだけのつもりだけど、その過程でちょっと悪戯しちゃうのはありよね」
「……え?」
小声だったため聞き取れなかったカロンが首を傾げるが、その目は自分だけが加護をもらえないことがショックだったようで、涙が浮かんでいた。
切なげなカロンの表情に王妃は困ったように眉尻を下げる。
「でも、そうね。ほんの少しだけ、直接関与できない位のお手伝いだけなら許してあげる。それでカロンの気が済むなら」
瞳一杯に涙を湛えたカロンに悲しそうに微笑んだ王妃は、フッと息を吹きかけた。
大地の女神の息吹を纏ったカロンの体は収縮し、やがて小さな猫の姿となる。
「生者の国に行くとタナトスは魔法を使えなくなるから、カロンは猫の姿で二人をサポートしてあげて。ね?」
そう王妃に諭されても、まだ少し納得していない様子のカロンが困惑するようにアイビーに視線を向けた。
復讐に協力してくれると言ってくれたことは嬉しかったが、子供のカロンを巻き込むことに少し抵抗を感じていたアイビーも、王妃の采配に同意して頷く。
アイビーの動作にカロンは複雑な笑みを浮かべたが口を引き結ぶと、王妃にペコリとお辞儀をした。
「わかりました。ありがとうございます……って僕、普通にしゃべれる?」
「当たり前でしょう? だって姿は猫ちゃんだけどカロンはカロンですもの。でも生きている人間には言葉は通じないから安心して」
猫の姿で驚くカロンは可愛さ満点だ。
そんなカロンを撫でながら王妃は微笑んだが、タナトスが懐からゴソゴソと取り出した物を見てギョッとした。
「タ、タナトス、それは?」
「これは人の顔の生皮ですね」
「生皮?」
顔を引き攣らせた王妃が聞き返すが、タナトスは至って平然としたもので淡々とした手つきで生皮をビローンと広げる。
「東洋の妖怪と呼ばれる奴らの中に天邪鬼ってのがいますよね? 昔、あいつらから貰ったのを思い出しまして、今回使えそうだと持ってきたんですよ……っと」
手に持っていた皮を躊躇なく被ったタナトスの顔を見て、今度はアイビーが目を丸くした。
「顔が……」
「持ち主は結婚詐欺師の男だったらしい。いい顔だろ?」
凛々しくも甘い、いかにも女性受けするような顔になったタナトスが、ドヤ顔を決める。
「アイビーを陥れた王太子の婚約者、確かリゼットとかいう女はイケメンが好きみたいだから、この顔の方が何かと好都合だと思うんだ」
「私は元のタナトスの顔の方がいいな」
「え?」
「え? あ……いえ、その……あの……」
思わず本音を吐露してしまい、アイビーは焦ってしまう。
まさか好きとはいえず、とはいえ上手い言い訳も出てこず、しどろもどろになるアイビーに、タナトスは困ったように笑った。
「わかってるって。気を遣ってくれてありがとな」
ニコリと笑ったタナトスはモスグリーンの髪もこげ茶の瞳もそのままなのに、顔の造りだけが違う。
世の令嬢達が見たら卒倒しそうな位に眩しい顔は、けれどアイビーには馴染めない。
「別に気を遣ったわけじゃないんだけどな……」
呟きはタナトスには聞こえなかったようだが、王妃は人知れず苦笑すると、お座りをして行儀よく待っていたケルベロス達を振り返った。
「ケルちゃん、ベロちゃん、ここまで送ってくれてありがとう。これから忙しくなるから、帰ったらゆっくり休んでね。悪い子が来たらたくさん甘噛みしてあげて、その子に相応しい場所へ放り込んであげてちょうだい」
王妃の言葉にまたも嬉しそうに尻尾を振り回したケルベロス達に見送られて、アイビー達は地上を目指す。
絶対に振り返ってはいけないと王妃に厳命されていたので足早に歩を進め、大地の割れ目を潜ると、あの日逃げ出した生者の世界に無事辿り着いたのだった。