提示部 死者の国
深い、深い、地の底で、アイビーは目を覚ました。
目を開いた瞬間は死ねなかったのかと絶望したが、視界に広がる見たことのない暗い森とシンッと静まりかえった世界に、アイビーは自分が死者の世界にきたことを理解する。
どこまでも広がる闇は真っ黒な木々が生い茂っているせいのようだが、鳥や虫の声などは一切聞こえない。
生前であれば怖ろしいと感じただろうが、今はどこか心地良く感じる。
生い茂った木々の隙間から覗くのも漆黒の暗闇ばかりだと言うのに、高い木の枝ぶりも足元に生えた苔の輪郭も、何故だかはっきり良く見えることをアイビーは不思議に思ったが、いつになく心は凪いでいた。
こんなに穏やかな気持ちになったのはいつぶりだろうと、アイビーは気の向くままに辺りを散策しはじめる。
歩き始めて数分、何だか視線が低くなった気がするが、死者の世界とはいえ、現世で首を切ったはずなのに、ちゃんと動く体に感心していると、アイビーの耳に少年の声が飛び込んできた。
「あーっ! いたぁ!」
声のした前方を見たアイビーの視線の先では、灰色の髪をした少年が藍色の瞳を吊り上げて、不機嫌そうに口を尖らせて仁王立ちしている。
「もう、勝手に歩き回っちゃだめじゃないか! まだ首も縫い付けてないのに」
「首?」
少年に言われてアイビーは、右手で自分の首元を確認しようとして初めて、自分が何かを両手で抱えていることに気が付いた。
何だかわからないが結構な重さがあるため、片手を離すと落としてしまいそうである。
何を持っているのかと視線を下へ向けるが、見えるのは自分の足元だけで、お腹の前で抱えているはずの物が、一向に見えない。
「あら? なんだか視界が変みたい?」
困り顔のアイビーに、声を掛けてきた少年がクスリと苦笑した。
「視界が変なわけじゃないよ。ここは死者の国だもん。まだ死んだばかりの君は、最期を迎えた時の姿のままだから、なくさないように本能で抱きかかえていたんだ」
先程はとても怒っていたようだったのに「よいしょ」と言って、少年は背中に括り付けていた大きな鏡をアイビーへ向ける。
少年の機嫌が治った原因はよくわからないが、鏡を覗いたアイビーは瞳を大きく見開いた。
アクアマリンの瞳にピンクブロンドの髪。
鏡には生前と変わらないアイビーの顔が映しだされたが、問題はその位置である。
少年の手にある鏡には自分の生首を抱えたアイビーの姿が映っていた。
「あら、まあ」
どうやらアイビーは自分の両手で自分の頭を抱えて歩いていたらしい。
道理でいつもより視線が低く、下を見ても足元しか見えないわけだ、と妙に納得したアイビーに、少年は若干引き気味に頬を掻いた。
「あら、まあ、って……それだけ? 普通は死んだことにパニクって茫然とするか、首がとれてる状況に騒ぎたてるかなんだけど」
「私、自分が死んだことは解ってたし」
「それでも! ふつうはそんなに冷静じゃいられないものなの! しかも首がとれてるってことは死因が首チョンパじゃん! もっと狼狽えるもんじゃん!」
「でも自分でやったし」
捲し立てる少年に、淡々と言い返すアイビー。
そんなアイビーの返事に少年は藍色の目を丸くした。
「え? うそ? 自分でやったの? お姉さん、見かけによらず豪快なんだね」
「豪快、なのかしら? それしか方法が思いつかなかっただけなんだけど」
「なんかよくわかんないけど大変だったんだね」
少年はうんうん、と頷くとズボンのポケットから手帳を取り出し、パラパラと捲る。
「ところでお姉さん、一応確認するけどお名前は?」
「……アイビー」
名前を聞かれて少し言うのを躊躇ったのは、死者の世界でもアイビーがアイビーだと知られた途端に、冷たい目で見られるのではないかと警戒してしまったせいだ。
それでも正直に名前を口にしたのは、久しぶりに嫌みでも虐げるでもない会話を、少年がしてくれたからである。
「うん、名簿通り。僕はカロン。死者の国の水先案内人ってところかな」
カロンと名乗った少年はアイビーの不安など気づきもせずに、手帳をまたポケットへしまうとニコリと笑った。
「じゃ早速だけど、アイビー、僕についてきて。首繋いでもらお? それじゃ不便でしょ」
「繋げられるの?」
「勿論! あっ、でも……」
驚いたアイビーにドヤ顔で胸を叩いたカロンだったが、すぐに表情を曇らせる。
「傷跡は残っちゃうよ? 死者の国に来ると生前の傷って綺麗に修復されちゃうんだけど、致命傷になった傷だけは、繋いでも跡になっちゃうんだ」
申し訳なさそうに告げたカロンにアイビーは瞳を瞬かせた。
「そうなんだ? 別にいいわ」
アイビーにしてみれば痛みとかは全くないので、繋ぐのが難しいのならこのままでも問題ない。
ただ頭というのは(当たり前だが)初めて持ったが結構重いので、繋いでもらえるならそれにこしたことはなく、傷跡などは些細なことだった。
これも死んだからこその達観かな、と思うが元々アイビーは自分も他人も容姿にさほど拘りはない。
ついでに言えばイケメンと騒がれていた王太子も、彼の側近である見目麗しいと噂の生徒達にもまるで興味がなかった。
だからリゼットが危惧していたという逆ハーエンドなど、興味の欠片もなかったが、それを言ったところでアイビーの言葉など誰も信じはしない。
「何? 私は敵じゃないアピール?」
「本当は全員と関係したいとか考えてる悪女のくせに」
「そういうの余計ウザいから」
女生徒へ訴えた時のことを思い出して、暗い気持ちになってきたアイビーだったが、そんな彼女の陰鬱な空気を吹き飛ばすように、カロンが食い入るように顔を覗き込んできた。
「え? いいの? 女の子なのに? 僕なんてお腹だけどデカい縫い跡があって、見るたび凹んでるのに……ほら見てよ? ひどくない?」
躊躇いなくカロンがペロンっと服を捲って見せたので、アイビーは瞳をパチクリさせる。
いくら年端もいかない子供だろうが、異性の肌を見たことなど無かった。
「えっと、それは私に見せちゃってもいいの?」
「別に減るものじゃないから。綺麗なお腹じゃないから少し恥ずかしいけど」
恥ずかしがるポイントが違う気もするが、善意から見せてくれたようなので視線を逸らすのも失礼かと思い、カロンのお腹を確認する。
小さなお腹の真ん中に刺されたような傷があり、それを繋ぐように黒い糸でバッテンが縫い付けられた跡を見て、アイビーは痛々しさに顔を歪めた。
「痛かったでしょう? 怖かったね」
思わずカロンの灰色の頭を撫でてしまったアイビーだったが、気安く触ってしまったことに体を強張らせる。
嫌われていた生前は、落とし物を拾っただけで「触るな!」と殴られたことがあったからだ。
しかしアイビーの心配を他所にカロンは照れ臭そうに頬を染めると、ニカッと子供らしい笑顔を見せた。
「僕はお腹を串刺しにされて出血多量で死んだんだ。だから、この傷。ったく、幼気な少年の玉のような肌にこんな傷つけるなんて最低だよね~? あっ、でもね僕やアイビーはまだマシな方なんだよ? 一番悲惨なのは毒が原因で死んだ人で、解毒剤を飲んでも顔が紫色のまま戻らないんだって」
頭を撫でていたアイビーの手を取ると、その手を繋いでカロンは歩き出す。
まるでエスコートでもしてくれるようなカロンの優しい握り方に、アイビーは片手で頭部を持つのはちょっと重いなと思いつつも、繋いだ手を放すことはせずに眉尻を下げた。
「それはちょっと気の毒ね」
「うん。毒だけにね。だから紫顔の死人は、みんなできるだけ早く泉の方へ行っちゃうんだ」
「泉?」
「うん。あ、ここだよ。ここで首を繋いでもらえる」
自分一人で見渡した時には暗い木々しか見えなかったはずなのに、カロンに案内された途端に目の前に現れた扉に、アイビーは驚きを隠せない。
さすが死者の世界、色々と不思議なことが起こるものだと感心したアイビーだったが、カロンはそんなアイビーの様子などお構いなしに、巨木の幹に括りつけられていた扉を盛大にノックしながら声を掛けた。
「やっほー! お客さん連れてきたよ~! 開けて~!」
しかし中からの返事はない。
「あれぇ? いるはずなんだけどなぁ?」
首を傾げたカロンが、大きく息を吸って、今度はひと際大声で叫んだ。
「開・け・て! タ・ナ・ト・ス・~!」
「そんな大声出さなくても聞こえてるっての! ほら、早く入れ。もぐりの奴らが勘付く前に」
勢いよく扉が内側から開かれたと思ったら、不機嫌そうな声と共に中へ引き入れられ、アイビーの後ろで、すぐさまバタンッと閉められる音がする。
「いたなら早く出てよ、タナトス。お客さん連れてきたんだ。首繋いでほしくて」
頬を膨らませたカロンの視線の先にいた人物に向かって、アイビーは慌てて頭を下げ……ようとして困ってしまった。
「えっと……アイビーと申します。このような状態ですので、頭を下げることができず失礼かとは思いますが、よろしくお願いします」
お辞儀をしようにも現在手荷物と化している頭では物理的に下げられないため、せめて誠意を込めて挨拶をしたアイビーを、タナトスと呼ばれたモスグリーンの髪色をした背の高い青年が、こげ茶色の瞳でしげしげと眺めてくる。
タナトスの年齢はアイビーとそう変わらないように見えるが、顔色が悪く頬はげっそりとこけ、細いこげ茶色の瞳がより一層鬱々とした印象を醸し出していた。
何より青白い顔の左半分、額から顎にかけて縦に分断された裂傷があり、その傷を塞ぐように白色の糸で×マークに縫いつけられているのが痛々しい。
そのせいで初めてタナトスの顔を見た者は大抵顔を背けるか、視線を胸元の方へ下げるかのどちらかであった。
だが人の外見的な美醜があまり気にならないアイビーは、刺し傷より切り傷の方が傷跡が目立つのね、と明後日のことを納得しながら彼のこげ茶色の瞳を覗き込む。
一方、そんなアイビーに対し、タナトスもまた明後日の方向で感嘆の声をあげた。
「いや、失礼とかは気にしないし、その状態じゃ確かにできないから別にいいんだけど……こりゃまた、すっぱり綺麗な首チョンパだなぁ」
あまりにあけすけな物言いだったが、不思議に不快な感じはしなかったので、アイビーは苦笑した。
「スパッといかないと痛いかな? と思ったので」
「へぇ~、……って、え? 自分で切ったの? うわ、本当だ」
目を丸くしてテーブルの上にあった用紙を確認し始めたタナトスに、アイビーはニコリと微笑む。
「はい」
「すごいなアンタ。自分の首をここまで綺麗にチョンパできる奴は中々いないぞ?」
全く褒められたことではないことを大仰に感心するタナトスに、アイビーは困惑してしまうが、そんな二人の様子を見ていたカロンが呆れたように口を尖らせた。
「タナトス、彼女はアンタじゃなくてアイビー。さっき自己紹介してたでしょ?」
「そっか、アイビーか。悪い、悪い。んじゃアイビーの度胸に敬意を表して、なるべく綺麗に繋げてやるからな」
カロンの的外れなツッコミにアイビーは内心唖然とするも、ここは死者の国なので感性が違うのかもしれないと思うことにする。
「お願いします」
アイビーの言葉に、タナトスは手にしていた用紙をカロンに渡すと、片膝をつき彼女の手にある顔の瞳と視線を合わせて、安心させるようにニコッと微笑んだ。
瘦せ細った骸骨のようなタナトスの笑顔はお世辞にも素敵とは言い難く、カロン以外の子供がいれば泣き出したかもしれない。
けれど自分をリラックスさせるために笑顔を向けてくれたのだと理解したアイビーは、ニコリと微笑み返した。
そんなアイビーにタナトスはちょっとだけ瞳を瞬かせたが、すぐに両手を伸ばし彼女の頭部を持ち上げ凝視し始める。
異性に触れられ、じっと見られていることに恥ずかしさを覚えたアイビーが赤面するが、タナトスは集中しているのか、首回りを見終えると、次に胴体の方の切り口を指でなぞった。
「切り口が綺麗だから、すぐに馴染みそうだな。迷いなくスパッと切られた断面ってのは何度見てもいいもんだ。端が潰れたやつとかガタガタのやつはセンスを疑うもんな。得物位、最上級のものを用意しろってツッコミを入れたくなる。だが、この切り口はいい。俺の中でのベストかもしれない。久々の上物に腕がなる。この一級品の傷を彩る糸の色は……っと、アイビーは光魔法が使えるだっけな。んじゃ、色は金色に決定」
細いこげ茶色の瞳をさらに細くして切り口をなぞりながら、ブツブツと独り言を呟くタナトスの指の先から金色の糸が紡ぎだされ、左手の掌の中心からは皮を突き破って20センチ程もある大きな針が空中に現れる。
その針の穴を金色の糸がスルリと通ると、タナトスがアイビーの頭部を胴体の上に慎重に置いた。
「しかし、光魔法の使い手がここへ落ちてくるとは……こりゃ、あの方の逆鱗に触れるなぁ……でもこれで漸く動き出すかもしれないな……まぁ、どちらにしても上は荒れるだろうけど……」
糸が通った針を手に持ち首と胴体を縫い付けながら、タナトスはまだブツブツと何かを呟いている。
アイビーの首を二周したタナトスがパチンと糸を切った音がしたと思ったら、光の糸も大きな針も消えてなくなっていた。
「ほい、できた」
「ありがとうございます」
頭部が定位置に戻り、元の視界の高さになったアイビーだったが、高身長のタナトスと視線を合わせるため見上げながらお礼を伝える。
繋いでもらった首は違和感なく動くようで、別に首チョンパのままでも良かったと思っていたのは間違いで、手を使わなくても自分の向きたい方向を向けるというのは有難いと実感した。
「やっぱり元の位置にあった方が便利ね。カロン、連れてきてくれてありがとう」
首を回してカロンへお礼を言ったアイビーに、灰色の髪の少年が照れ臭そうに笑う。
「どういたしまして。でも金色の糸か~、いいなぁ、縫い方がバッテンでもなんかオシャレ」
「縫い方に文句言うな。この縫い方じゃなきゃ、縫い目が引き攣れて違和感が出るんだからな」
「わかってるって。それにしてもアイビーは光魔法の使い手だったのに、ここに落ちてきたんだね」
興味深そうにカロンが言うので、アイビーは繋いだばかりの首を傾げた。
「死者は全員ここへ来るものなのではないんですか?」
アイビーの問いかけにカロンとタナトスが顔を見合わせる。
変なことを聞いただろうかと不安になるアイビーに、タナトスがポリポリと頭を掻いた。
「そっか。アイビーは死に立てホヤホヤだもんな。紅茶でも飲みながら説明するか」
「僕はホットミルクね」
そう言って勢いよく椅子へ腰かけたカロンに舌打ちしつつも、タナトスが指をならす。
すると何もなかったテーブルの上にティーセットとお菓子が出現したので、アイビーは目を丸くした。
「え? すごい!」
「……これくらいは普通だ」
素直な感想を口にしたアイビーに、タナトスは素っ気なく答えるが耳が真っ赤になっている。
それに気づいたカロンがニヨニヨと笑ったので、こめかみグリグリの刑に処しながら、タナトスが視線でアイビーへ着席を促した。
「ここは冥王ハデス様が治める死者の国、その中でも迷いの森と呼ばれるところだ」
「迷いの森?」
復唱しながらアイビーが席に着くと、タナトスから解放されたカロンが、ホットミルクの注がれたカップを両手で抱えながらフーフーと息を吹きかける。
「迷いの森はその名の通り、まだ迷いがある死者が来るところだよ」
「もぐりの奴らにとっては迷わされる森だけどな」
カロンの言葉にタナトスが皮肉気に補足を入れるが、アイビーは戸惑うように目を伏せた。
「私、迷いなんて……」
「ない。って、言いきれるのか?」
力強くタナトスに切り返されて、アイビーは言葉に詰まる。
迷いを断ち切ったからこそ、自死を選んで彼らに復讐したはずだった。
それしか逃げ道はないと思っていたし、一矢報いることができればそれでいいと思っていた。
けれど死者の国で目覚めた時には凪いでいたはずの心が、何故こんなにもモヤモヤするのか。
「ちなみにだけど、病気や老衰で死んだ奴はこの森へは来ない。善人のまま天寿を全うした奴はもれなく輪廻の泉へ行く。この森は他人に命を奪われた奴が迷いを抱えてやってくるところだ」
「私は自分で死にましたけど?」
タナトスの説明にアイビーは怪訝な眼差しを向ける。
「辛くて、悲しくて、絶望して、全てを諦めて自ら生を終わりにしたんだろうけど、それって他者に虐げられた結果命を奪われたってことと同義だろ?」
「それはそうかもしれないけれど……」
何もかも見透かしたようなタナトスの言葉に、アイビーの心の中に真っ黒い霧が充満し汚濁のように降り積もってゆく。
何故、自分は死ななければならなかったのか。
どうして、そこまで追い詰められなければならなかったのか。
本当に死ぬことでしか解決できなかったのか。
もしかしたら違う道があったのではないか。
そう考えると溜まった汚濁に心が破裂しそうになった。
「ねぇアイビー、もしかして自殺したのは自分が弱かったからとか考えてる?」
カロンの言葉にアイビーは反射的に顔をあげる。
本当はずっと心に引っかかっていた。
苛めを克服できなかったのも、自死を選んだのも、自分が弱かったせいだということ。
それを指摘されて顔を歪めたアイビーに、カロンはギョッとしたような表情になる。
「え? 違う、違うよ。僕が言いたいのは……えーと、どう言えばいいのかなぁ」
慌てるカロンと彫刻のように動かなくなったアイビーに、タナトスは呆れたような表情を浮かべると、盛大に溜息を吐いた。
「アイビーは自分で首チョンパするくらい度胸があるかと思いきや、変なところで気にしぃなんだな」
「タナトス、言い方」
半目でカロンに睨まれたタナトスだったが、指を鳴らして彼の口へクッキーを数枚突っ込むと、正面からアイビーの顔を覗き込む。
「いいか? 自ら死を選ぶほど追い込まれた奴が、弱いとか悪いとかなんてありえない。そんなもんは追い込んだ奴らの言い分で、奴らだって同じことされたら、きっとアイビーより早く逃げ出したはずだ。卑怯な奴らの勝手な理屈に染まるな。自分で自分を救ったアイビーは1ミクロンも悪くない。ここは死者の国の迷いの森、アイビーを虐げる奴らはいない。他に逃げ道なんてなかった。いいかい? 奴らはもういないんだ。辛い環境からきちんと自分で逃げ出したアイビーは決して弱くなんかない」
ブワッと涙が溢れてきて、アイビーの頬を幾筋もの水跡が伝う。
他人に優しい言葉をかけてもらえたのはいつぶりだろう。
自死を選んでしまったアイビーを慰めるためなのかもしれないが、自分を肯定してもらえることが、否定されないことが、こんなにも嬉しくて温かい。
「ぼ、僕もそう言いたかったんだ。それにアイビーはちっとも悪くないよ。だってこの善人名簿に名前が記載されているんだから!」
無理やり突っ込まれた大量のクッキーを急いで飲み込んだカロンが、ポケットから手帳を取り出し机の上にダンッと置く。
「この手帳に名前がある人間は、本来だったら輪廻の泉へ行くんだ。でも天寿の前に誰かに命を奪われちゃうと迷いの森へ来る。理不尽に命を奪われて迷わない人間なんていないからね。僕はそんな人間をタナトスのところへ連れてきて、致命傷を修復させるのがハデス様から与えられた仕事なんだ」
「つまり、アイビーは悪人ではないということだな」
クスリと笑ったタナトスに、カロンが大きく頷く。
「そうだよ。それに本当に悪い奴は追い込まれたら他人を巻き込もうとする。自分だけが犠牲になることが許せないくらい弱くて狡いんだ。アイビーは一人で戦って、一人で逃げた。全然悪くなんかないよ」
必死に言い募るカロンの優しさに、アイビーの涙は止まらない。
生きている間にこんな温かさに出会えていたなら、自死を選ばずに済んだだろうか。
考えても詮無いことだと解っていても、涙は止めどなく零れ、アイビーの頑なだった心を解いてゆく。
「でも私は、私が死ぬことで苛めた人達が心に傷を負えばいいと思ったわ。それだって十分、相手を傷つける行為じゃないの?」
蟠っていた気持ちを吐露すれば、カロンとタナトスは二人して即座に首を振った。
「一生残る傷ならね。でも人間は怖ろしいくらいすぐに過去を忘れて、自分を正当化してゆく生き物なんだよ? 自分が加害者なら尚更ね」
「被害者は過去を忘れられなくて苦しむのに、加害者は無かったことにできる。それって理不尽だよな。勿論人は成長してゆく生き物だから、その過程で多少は過ちを犯す。けれど誰かを故意に貶める行為を犯したことがある奴は、カロンの手帳には名前が記されない。だから、たとえそいつが冤罪で殺されても「もぐり」で迷いの森へ落とされて、罪が消えるまで彷徨い続けるはめになるんだ。当然カロンはもぐりの奴をここへは連れてこないし、俺も致命傷を繋いだりはしてやらない」
「繋げたり解毒剤を与えられないもぐりは悲惨なんだよ」
カロンが眉を寄せ、タナトスがニヤリと笑う。
「致命傷って言うくらいだからな? 死にたてホヤホヤなら自分が死んだ衝撃の方が勝っていて体が痛みを忘れているが、時が経つと死んだ時と同じ痛みが襲ってくるようになるんだ。刺し傷や切り傷なら気を失うほどの激痛が、毒や溺死ならのたうち回るほどの苦しみが、常時襲ってくるなんてまさに地獄だろ? それでも冤罪で命を奪われたってのを加味されて暗い森を彷徨うだけで済んでるんだがな。無限の回廊や蟲毒の坩堝はもっと悲惨だからなぁ」
「ひっ! そこ視察で連れていかれたことある。気が狂わないように出来てるのに、おかしくなりそうになった。案内人も明るい人っぽかったけど、なんかヤバかった」
「ヤバくなきゃあんなところの管理なんて任せられないだろ」
「確かに! 僕、普通で良かった!」
力強く頷いたカロンに苦笑したタナトスが、アイビーを振り返り優しい笑顔を向ける。
「そんなわけでアイビーは正規の迷い人としてこの森へやってきた。だから胸を張って迷っていいんだ。なにせもう死んでしまったんだから、誰に遠慮する必要がある?」
胸を張って迷っていい、という意味不明な言い分だったが、アイビーは泣きながら何度も頷く。
言いたくなくて、晒したくなくて、心のずっと奥の方に閉じこめていた醜い感情。
それから溢れた黒い霧と汚濁を払って、アイビーは死ぬ間際に鍵をかけた蓋を開ける。
「私……私を追い詰めた人達に自ら死ぬことで意趣返しをしたかったんです。自分たちの苛めのせいで死んでいった者がいること、一生心に楔を打たれて苦しめばいいって。それで復讐できたと思っていたけれど、もし彼らの後悔が一時的なもので平気な顔して生きていたらって思うと悔しいなって、首を切った刹那に過ってしまって。きっとそれが迷いなんだと思います。自分の命を懸けたのに相手が苦しまなかったら、私は何のために死んだんだろうって……執念深くて嫌な性格かもしれませんけど、それが私の本音です」
死ぬしか逃げ道がなかった。
死んで楽になりたかった。
でも望んで死んだわけじゃない。
それしか選択肢がなかっただけだ。
出来ることなら、もっともっと傷つけてやりたかったし、苦しむ様も見てやりたかった。
だが、こんなドロドロした感情を持っていても善人といえるのだろうか?
言い切ってスッキリしたとはいえ、アイビーの胸中は複雑だった。
呆れられているかもしれない。こんなに性格が悪いから悪女として苛められたのかもしれない。
しかしアイビーのそんな心配を吹き飛ばすように、タナトスが快活な声で肯定する。
「いいんじゃないか? ハデス様がアイビーを善人と判断したのなら、死者の国ではそれが絶対だからな。俺もアイビーが悪いとはこれっぽっちも思わないし」
「うん。とりあえず、アイビーの迷いが晴れるまでここにいたらいいよ」
「ここは俺の家だが?」
ツッコミを入れてきたタナトスにカロンが口を尖らせる。
「ケチくさいこと言わないでよ。それにタナトスだって、アイビーが死んだ後、苛めた奴らがどうなったのか知りたいでしょ?」
「カロン、わかるの?」
はじかれたようにカロンを見つめたアイビーに、灰色の髪の少年は背中に括り付けていた鏡を叩いてニコリと笑った。
「まあね。でもこの鏡で現世を見せるにはハデス様の許可がいるから、これから挨拶に行こう?」
「今が冬で良かったな」
「春から秋は腑抜けになっちゃってるからね」
「冬は仕事を早く済ませるために必死だから、すぐに許可が下りるだろう」
苦笑しながら言い合うカロンとタナトスに、アイビーは首を傾げる。
そんなアイビーにニカッと笑ったカロンがホットミルクを飲むのを見て、慌ててアイビーも紅茶へ手を伸ばす。
すると隣でパチンという音がした途端に、話し込んだせいで冷えてしまっていた紅茶から湯気が立ち上がった。
「温めなおした。淹れたてより風味は落ちるけどな」
「ありがとうございます」
ボソッと呟いたタナトスに、アイビーは微笑みながらお礼を言う。
優しい気遣いに心まで温かくなるのを感じつつ、照れながらも微笑み返してくれたタナトスに何故かちょっとだけドキリとしながら、アイビーは紅茶を飲み干したのだった。
◇◇◇
紅茶とクッキーを食べ終えたアイビーは、タナトスとカロンと連れ立って王城への道のりを歩いていた。
相変わらず月明りも何もない真っ暗闇だというのに、生い茂る木々も、その間を縫うように曲がりくねった道も、よく見える。
しかしタナトスの家を出て数歩進んでから、何気なくアイビーが振り返った時には、既に彼の家の扉は木々に隠れて森と一体化されてしまったので、物理的に本当に迷わされそうだと、家を出る際に羽織らせてもらったマントの襟首を握りしめた。
「あ、アイビー、あれがハデス様のお城だよ!」
カロンの言葉に、タナトスの後ろに続いて目印のない森の小道を歩いていた足を止め、顔をあげる。
指差された方向に視線を向けると、真っ黒な木々の隙間から漆黒の石造りの荘厳な外壁が見えた。
しかしアイビーは、その途中で視界に入った人物に目を凝らす。
視線の先では二人の男女が、道ではない森の中を虚ろな足取りで徘徊していた。
「あれは?」
「あれがもぐりだよ」
「認識阻害のマントを着用しているが、一応隠れた方がいいな」
先頭を行くタナトスがアイビーとカロンを木陰に隠し様子を窺う。
「死にたてか? 随分元気に徘徊している」
「生者と死者の時間間隔は違うから何とも」
タナトスの問に苦笑して答えたカロンに、アイビーは不思議そうに首を傾げた。
「時間の感覚が違うの?」
「そうだよ。アイビーはここにきて数時間しか経ってないと思ってるでしょ? でも生者の世界では死んでから数週間の日数が経ってるはずだよ。ちなみにあのもぐりは落とされて間もないはずだけど、本人的には数年経ってる感覚だろうね」
それでももぐりが彷徨う時間としては短い方だけど、と肩を竦めたカロンの背の向こう側に見えた女性の顔に、アイビーは目を瞠る。
女性の顔はドス黒い紫色に変化していた。
それはつまり毒殺されたということだ。
しかしアイビーが気になったのは女性の顔色ではなかった。
「……あの人が何故迷いの森に?」
アイビーの問いかけに、カロンは容易く答えを口にする。
「天寿の前に冤罪で命を奪われたからだね」
「え? 何故? それにすぐ隣の人間のことが、まるで見えないみたい」
連れ立って歩いているのかと思ったら、やがて俯いたまま円を描くようにグルグルとその場で回りだした女性に一瞥もくれず、男性の方は覚束ない足取りで遠くへ立ち去ってしまった。
まるで女性のことなど最初から見えてなかったかのように。
戸惑うアイビーに応えたのはタナトスだった。
「迷いの森ではもぐりで迷っている人間同士の認識はできない。時間の感覚も狂っているから、ずっと一人で致命傷の痛みや苦しみを抱えて迷うしかない。でも俺達やアイビーのような正規の死者は光のような存在として認識できてしまうらしく、寄ってきてしまうんだ。だから認識阻害のマントを着用するんだが、中には微妙に視認できてしまう奴もいる」
「そんなもぐりに見つからないために、タナトスの家は巧妙に隠してあるし、正規の死者は早急に保護が必要ってわけ。光を見つけると救われたいと思うのか、必死で追い縋ろうとするから厄介なんだよ」
カロンの言い分に、アイビーはタナトスの家を訪ねた時、即座に室内へ招き入れられるやいなや扉を閉じられたことを思いだす。
乱暴な態度にびっくりしたが、それにはちゃんと理由があったのだと納得したものの、少し離れた先で彷徨い続ける女性が気になって仕方がなかった。
「タナトス、カロン、お願いがあるんだけど……」
「お願い? なぁに?」
ニコニコと笑顔で振り返ったカロンだったが、次に出てきたアイビーの言葉に盛大に眉を顰める。
「あの人の側まで行ってもいいかしら?」
「ええ? 正気? 何されるかわからないよ?」
「俺もお勧めはしない」
不満げに口を膨らませたカロンの隣で、タナトスも難しい顔をしている。
「でも、ずっと何かを呟いているの。私、あの人に冷たくされたけど、それは仕方がないことだって思ってる。だから何故、もぐりになってしまったのか知りたい」
二人の顔を真っすぐ見つめて懇願するアイビーに、タナトスとカロンは目を見合わせると、仕方がないというように、木々の合間を滑りこむように女性に近づいて行った。
女性はまだグルグルとその場に留まって、只管何かを呟いている。
アイビーは女性の声が聞こえる木の陰まで移動すると、耳を澄ませた。
「どうして私がこんな目に……。私に子供が出来なかったから悪かったの? 血の繋がっていない子を我が子として愛せばよかったの? そんなの無理よ。だって私の子じゃないもの。だから冷たくしてやった。マナーも勉強も知ったこっちゃないわ。なんで私が赤の他人に優しくしなくちゃいけないのよ。ああ、苦しい。喉が痛くて焼け付くようだわ。こんなに苦しいのに何故誰も助けてくれないの。あの子のせいで毒杯を仰がされたというのに、死んでも尚、私は救われないの? これがあの子に辛くあたった罰なの? じゃあ旦那様が愛人の子だと連れてきた時に、ぐちゃぐちゃに踏み潰された私の矜持はどう守れば良かったのよ……」
女性は男爵夫人。
生前、アイビーを引き取った父親の正妻だ。
アイビーは学園の者達のことは恨んでいたし、父親である男爵にも思うところはあったが、夫人だけはある程度辛くあたられても仕方がないのだと思っていた。その権利が彼女にはあると、そう考えていたので、もぐりとしてこの森にいるのが不思議だったのだ。
「ごめんなさい」
夫人の独白を聞いても、やはり彼女が彷徨う強い理由が見当たらず、そればかりか自分が現れたせいで人生を狂わせてしまったことが申し訳なくて、反射的に出たアイビーの謝罪の言葉に、女性は呟くのを止め虚ろな顔をあげた。
「まさか……そこにいるの?」
「はい」
木の陰から滑り出たアイビーの姿は、認識阻害のマントのせいで女性には小さな光にしか見えないはずだ。
それでも、不意に目の前に現れた光を女性はアイビーだと確信したようで、掴みかかるような勢いで激高する。
「あんた! あんたのせいで男爵家は取り潰されて、私達は毒杯を仰ぐはめになったのよ!」
「取り潰し? そんなことに……」
「全部、全部、あんたが転がりこんできたせいで、私の人生台無しよ! あんたが悪女だから王太子とその婚約者に睨まれて、学園でも苛められるのよ!」
夫人の言い分にアイビーは目を伏せる。
「……私が学園で苛められてたこと、知ってたんですね」
「貴族の妻は社交がメインなのよ! 学園での噂なんてすぐに聞こえてくるの、当たりまえでしょう!」
「そうですか……」
淡々と返すアイビーに、夫人が少しだけたじろぐ。
「な、何よ? 助けてほしかったとでも責めるつもり?」
「いいえ。無駄でしょうから」
きっぱりと言い切ったアイビーに夫人は紫色の顔を引きつらせると、盛大に笑い声をあげた。
「ふ、ふはは。ふははははは! そうよ、無駄よ! 助けるつもりなんてなかったもの。言っておくけれど父親だって同じよ? だって私が苛めを報告しても何の行動も起こさなかったのだから」
アイビーを助けるつもりなんてなかった。
そのことが、男爵夫人がもぐりとしてここへ落とされた理由なのかもしれない。
しかし黙り込んでしまったアイビーのことなどお構いなしで、夫人は責めるように喚き散らす。
「愛人の子なんて、そんなものよ! それなのに苛めの腹いせに王太子達を暗殺しようとするなんて何て大それたことをしてくれたのよ! そのせいで男爵家は冤罪をかけられて、あんたと一滴の血の繋がりもない私がどうして殺されなきゃいけなかったの! ああ! 苦しい! 苦しい! 辛い! もう、うんざりなのよ! なんでこんなことに! なんでよおぉぉぉぉぉ!」
絶叫するように悲鳴をあげる男爵夫人に、暗殺なんて誤解だと弁解しても火に油を注ぐだけのような気がして、アイビーは静かに頭を下げた。
「巻き込んでしまって、申し訳ありませんでした」
アイビーの姿が見えるわけではないはずだが、一瞬、肩で息をしていた夫人の紫色の顔が大きく歪む。
苦し気な顔で唇を噛みしめていたが、やがて胸に手を当てると大きく息を吐き出した。
「…………あんたは彷徨っていないのね」
「はい」
「では、悪女という噂もやっぱり嘘なのね」
淡々とした口調は、悪女が嘘だと確信しているような言いっぷりで、はじかれたようにアイビーが夫人を見返す。
夫人が悪意ある噂を嘘だと思ってくれていたことが意外だった。
学園の誰もがアイビーを悪女として認定して、どんなに否定しても信じてくれなかったのに。
しかしアイビーが何かを言う前に、夫人は踵を返した。
「さよなら……アイビー」
初めて名前を呼んでくれたことにアイビーは目を瞠るが、夫人は振り返ることなく立ち去ってゆく。
その背を見送ってカロンが呆れたような声を掛けた。
「アイビーが謝罪する必要はないと思うけど?」
「あの人は被害者だから」
眉尻を下げたアイビーに、カロンは不服そうに口を尖らせる。
「そうかな? 愛人の子だからって冷遇していいわけはないよ。だからこそ、この迷いの森にもぐりとして落とされたんだし」
「それでも夫の不貞の証である私を、心情的に許せないって思うのは仕方がないと思うの。それに冷遇って言っても文句を言われたり睨まれたりしただけで、男爵家では暴力を受けたり食事抜きにされたりはしていないわ。苛めの噂を聞いても助けようとはしてくれなかったけど、父親へ報告はしてくれたみたいだし、根っからの悪い人ではないのよ。勿論、信頼はできなかったし、期待もしていなかったけれど、母と私を正妻に遠慮して捨てたくせに、光魔法が使えるからって呼び戻して放置した父親より、あの人の方が気がかりで声を掛けてしまった位には恨んでいないわ」
男爵夫人が消えた先とは別の方向へ立ち去った男性を思い出したのか、アイビーは苦笑する。
あの時視界に入ったのが男性だけだったなら、話をしてみようという気持ちにはなれなかった。
父親である彼がどうなろうと、どうでもいいと思ったから。
「私は男爵夫人が早く輪廻の泉に辿りつければいいなと思う」
真っ暗闇と毒の苦しみの中、唯一の助かる道かもしれないアイビーに縋ってこなかったということは、きっと彼女なりに後悔はしているのだと思う。最後にアイビーの名前を呼んだことからも、それが解る。
愛人の子へ謝罪を口にするのは矜持が許さなかっただけで。
殺されても尚、長い間苦しみを味わうことになったが、まもなく彼女は輪廻の泉に辿りつけるだろう。
けれど父親の方は、まだまだかかりそうだなぁ、とカロンは思った。
愛人の子だからと実の娘を捨ておいて、光魔法を使えると聞いたら引き取って、挙句苛めの報告を受けても何の対処もしない父親なんて、たとえ冤罪で殺されても中々この森から出るのは難しいだろう。
「ご愁傷様」
「何か言った?」
「んーん、何でもなーい」
ニパッと笑ったカロンにアイビーが不思議そうに瞳を瞬かせるのを横目に、タナトスは口元へ手を当て考え込む。
「そんなことより俺が気になったのは、アイビーが王太子達を暗殺しようとしたことになってるってことだ」
「あ……そうですね。……やっぱり男爵令嬢の自死なんて隠蔽されてしまったんですね」
自嘲するように視線を下へ向けたアイビーに、タナトスがイラつくように吐き捨てる。
「ああ、男爵夫妻が毒殺されたっていうことは、完全に苛めをなかったことにして、剰え冤罪までかけたってことだろうな」
「は~、悲しいくらい正義はないんだね」
「私の命を何だと思ってるんでしょう……」
やるせなさを吐き出すため溜息を吐いたカロンだったが、アイビーの拳がプルプルと震えだすのを見て心配そうにタナトスへ目を向けた。
視線を受けたタナトスは困ったように、そっとアイビーの頭を撫でようと手を伸ばそうとする。
しかしその手が触れる前に、がばっと顔をあげたアイビーが、震えていた拳を空へ突き上げた。
「これじゃ死に損だわ! カロン、タナトス。ハデス様のところへ急ぎましょう! 私は死後の世界を見たい。私の迷いをどうやって晴らすかの答えは、きっとそこにあると思うから」
気落ちして泣いてしまうかもしれないという心配はカロン達の杞憂に終わったようで、慰めようとしたタナトスの手は、空振りに終わる。
行き場のなくなった手で、ばつが悪そうに頬を掻いたタナトスだったが、軽く微笑むとアイビーの隣へやってきた。
「アイビーは強くて優しいな。惚れそう」
「え? えええ?」
いきなりの告白に、アイビーが素っ頓狂な声をあげる。
「ま、俺みたいな不気味な骸骨に惚れられても迷惑だろうけど」
「そんなことは……」
カカカッと笑うタナトスだったが、対するアイビーは首まで真っ赤になっている。
平民だった頃には生活のため必死だったし、学園では嫌われるばかりだったので告白などされたことがなかった。
下心がありそうな生徒はいたし、実際いかがわしいことをされそうになったが、必死で逃げた記憶がある。
今でもその時のことを思い出すだけで身の毛がよだつ。
けれどタナトスに好意を向けられても嫌な気持ちは微塵もなく、何なら少し嬉しいとさえ思う。
だが免疫がないため、どう返事をしていいのかわからなかった。
「タナトス~、こんなところで愛の告白とか情緒なさすぎ~。だからモテないんだよ」
「うっさい。ほら、ハデス様のところに行くぞ」
アイビーが逡巡している間にカロンが割り込んできて、タナトスは漆黒の城へ向かって再び先頭を歩き始める。
背の高い後ろ姿を追いかけながら、アイビーは残念な気もするし、ホッとしたような気もした。
しかし慌てて追いかけたせいで、張り出していた木の根っこに躓いてしまう。
幸い転倒はしなかったが、恥ずかしさを誤魔化すために照れ笑いをすると、顔の前に手を突き出された。
「この辺は道がデコボコしているからな」
タナトスから差し出された大きな手を、おずおずと掴むと、彼も自分も死人のはずなのにほんのり温かさが伝わってくるようで不思議だ。
「あ~! どさくさに紛れて手ぇ繋いだ~。やらし~。ねぇアイビー、僕とも繋ご?」
そう言って後ろを歩いていたカロンまで手を差し出してくるので、アイビーは苦笑しながら、少し小さなその手を握りしめる。
カロンの手も冷たいはずなのに温かかった。
やれやれと言いたげなタナトスと、調子っ外れな鼻歌を歌うカロンに囲まれて、アイビーは暗い道を歩く。
こんなに楽しいと感じたのはいつぶりだろう。
タナトスもカロンもどうしてこんなに優しくしてくれるのかわからない。
わからないけど、彼らの側は温かくてまるで陽だまりのようだと感じた。