序奏 悪女にされた令嬢
5話で完結しますが各話が結構長いので、お時間のある時にご高覧くださいますと幸いです。
目の前にゴロリと転がった生首にリゼットは声にならない絶叫をあげた。
隣にいた王太子は泡を吹いて気絶している。
生首の主はアクアマリンの瞳をカッと開けて、リゼットを凝視していた。
首から上がなくなった胴体がドサリと倒れる音がしても、リゼットは目の前にある瞳から目を離せない。
パニックになる教室の中、物言わぬ首だけになった令嬢が嗤ったように見えた。
◇◇◇
バシャッという音と共に腰から下が濡れる感覚がして、アイビーはギュッと閉じていた瞼を開いた。
視線を下に向ければ下半身がすっかり水に浸かっており、自分が学園にある中庭の噴水に落とされたのだと悟る。
落ちる寸前、咄嗟に両手で支えたため尻餅をついただけなのは幸いだったが、掌とお尻がジンジンと痛みを告げてきた。
しかし、それ以上に周囲から向けられた嘲笑の視線が痛い。
恥ずかしさとやるせなさで下を向いたままのアイビーが、とりあえず噴水から脱出するため片膝をつくと、頭上から高慢ちきな声が響いた。
「お前が悪女だから悪いんだからな!」
その罵声を皮切りに、アイビーを噴水に突き落とした令息達が口々に罵りの声を挙げる。
「俺たちは正義のために悪女に制裁を加えただけだ!」
「この国を破滅に導く悪女め!」
「お前なんかいなくなればいいんだ。この売女!」
貴族令息とも思えない暴言が吐き出されるが、それを遠巻きに見ている生徒も教師も、彼らを注意する様子は見られない。
それどころか皆、嘲笑を浮かべて濡れ鼠になったアイビーを眺めていた。
そう、まるで罵倒されるアイビーが悪いのだと言わんばかりに。
貴族が通う学園に入学してから、アイビーは執拗な虐めにあっていた。
それというのも王太子と彼の婚約者である侯爵令嬢リゼットが、アイビーが国を破滅に導く悪女だと学園中に吹聴していたせいだ。
リゼットは幼い頃から神童と呼ばれ、この国の文化や福祉を飛躍的に発展させた功績から王太子の婚約者となった。
孤児院の増設や庶民向けの学校の創立、大衆演劇や遊興施設の充実など、リゼットの発案は
まさに神がかり的な閃きとして執政官を唸らせた。
頭脳明晰な上に侯爵令嬢という身分、更には亜麻色の髪に翡翠の瞳をした美しい容姿のリゼットが、王太子の婚約者となったのは自然の流れだったのである。
そんな完璧な婚約者であるリゼットだったが、一人でいる時に酷く辛そうな表情を見せることがあった。
そのことに気づいた王太子が訳を訊ねると、最初は誤魔化していたリゼットだったが、やがて思いつめた表情で口を開く。
曰く、自分は転生者であり、ここはゲームの世界で、いつか現れる聖女にありもしない冤罪をかけられ、断罪されて国外追放となってしまうらしい。
聖女は可憐な見た目とは裏腹に、実態は王太子や令息達を次々に手玉にとってゆく生粋の悪女であり、彼女に魅入られた者達は破滅を迎え、やがて国さえも滅ぼしてしまうのだ、と。
怖ろしい未来を語りながらも「でも自分は国が滅ぶよりも大好きな王太子殿下と離れる方が辛いです」と涙ながらに訴えた婚約者に、王太子は心を撃ち抜かれた。
リゼットは美しい容姿をしていたが、綺麗すぎるがゆえに少し冷たい印象を持たれがちだ。
それは王太子も同様に感じており、加えて彼女の優秀さにも引け目があったのだが、この告白でその感情は一気に霧散する。
リゼットの優秀さが転生した知識から得たものだったことは、王太子の自尊心を復活させ、泣くほど自分と離れたくないという姿は庇護欲を誘い、この日から王太子はリゼットを溺愛するようになった。
リゼットが転生者だということは二人だけの秘密としたのも、王太子の恋心を擽った。
「私はリゼットを裏切るようなことはしない。聖女の皮を被った悪女になんかに惑わされないさ」
王太子は、そう何度もリゼットへ言い聞かせる。
しかし、そのたびにリゼットは、ゲームとやらの強制力が働き自分はやがて現れる聖女から断罪される運命なのだと、不安気に眉を下げ続けた
そう言われて、婚約者を盲愛する王太子が動かないはずがない。
ピンクブロンドの髪にアクアマリンの瞳をしたアイビーという名の令嬢。
リゼットから悪女の特徴を聞きだした王太子が、国中の令嬢達を片っ端から調べた結果、男爵家の庶子で最近まで平民として暮らしていたアイビーを見つけた。
王太子にしてみれば、自分の婚約者を脅かし国に害をなす悪女など、すぐにでも国外追放にしたかったのだが、いかに王族とはいえ、現時点ではまだ何もしていない令嬢をいきなり裁くことは難しい。
だから王太子はアイビーがリゼットに危害を加えないように先手を打つことにした。
アイビーより1つ年上で、既に学園へ入学していた王太子は生徒会の権力と人脈を使い、来年入学するピンクブロンドの男爵令嬢はとんでもない悪女だと噂を流したのである。
貴族の子は皆一様に、王都の貴族学園へ三年間通うことが義務化されている制度を利用し、アイビーが学園で孤立するように仕組んだのだ。
リゼットによれば、アイビーは聖女であることをひけらかし高位貴族の令息達を誑し込んで、逆ハーエンドとやらを狙う確率が高いらしい。
しかも王太子である自分も悪女に侍っているらしく、卒業後はアイビーを王妃にするそうだ。
下位貴族の男爵家、しかも庶子が王妃になるなど聞いたことがないが、思いつめた顔で語るリゼットに嘘は見られず、ましてや彼女を愛する王太子が信じないわけがない。
逆ハーエンドなどという男をバカにした未来を潰すには、悪女に誑かされる令息を作らせなければいいと考えた王太子は、男爵令嬢アイビーは庶子で貴族としての常識がなく、奔放な異性交遊と巧みな話術で、いずれはこの国を破滅に導く悪女であり、彼女とかかわると不幸になると、事あるごとに口にし続けた。
リゼットは自ら率先して動くことはなかったが、他の生徒から噂の真相を聞かれると困ったように曖昧に笑ったあと「ここだけの話ね」と言ってアイビーがいかに悪女かということを詳しく説明したため、いつしか生徒も教師も『ピンクブロンドの髪色+アクアマリンの瞳を持つ令嬢=悪女』という認識が出来上がってしまったのである。
そんなわけでアイビーは、入学当初から身に覚えのない悪意に晒され、苛められることとなったのだ。
アイビーは生徒だけでなく教師に話しかけても罵倒されるか無視され、学食では異物が混入した食事を出され、持ち物は無残な有様となって打ち捨てられた。
それらに対し最初は抗議していたアイビーだったが、やがて誰も自分の味方はいないのだと悟ると、得体の知れない恐怖を感じ何も言えなくなった。
だって会ったことも話したことさえもない教師や生徒さえ自分を嫌い虐げるなど、普通では考えられない。
しかし皮肉にもアイビーが沈黙したことで、苛めは益々エスカレートしてゆき、暗闇に引き摺りこまれそうになったり、上から花瓶が落ちてきたりは日常茶飯事で、最近は目の前の令息達のように噴水へ突き落したり、階段から突き落とされることも増えてきた。
噴水の中で座り込むアイビーを令息達は散々罵ると、いつまでも下を向いたままの彼女に興味を失ったのか、笑いながら立ち去って行った。
令息達がいなくなったことで、日和見の悪趣味な見物人も散って行ったことを確かめると、アイビーは徐に立ち上がる。
制服のスカートの水分を絞り噴水から出ると、夕方の寒い北風に煽られ、クシュンッと一つくしゃみが出て、アイビーは鼻をすすった。
落ちたのが真夏ならば良かったが、今は既に冬。
学園に入学したのが春だから、アイビーは既に半年以上も身に覚えのない苛めを受けていることになる。
冷えてしまった体を抱きしめながら寮の自室へ歩くびしょぬれのアイビーを、気遣う者は誰もいない。
それどころか、震えながら歩くアイビーを見かけた生徒が、聞えよがしにいい気味だと嘲笑う始末で、余計に足取りが重くなる。
次第にズキズキと頭痛までしてきて、今すぐこの場で蹲りたくなるのを我慢し、寮への廊下に足を踏み入れた時、その背に不機嫌な怒声が投げつけられた。
「廊下を濡らすな、不届き者! これだから常識を知らない奴は困る。何のために学園に通っているんだ? ここは男漁りの場ではないんだぞ!」
本当は無視して自室へ戻りたかったが、声の主を知っているアイビーは歯を食いしばって振り返る。
視線を向けた先には案の定、側近も兼ねた生徒達を引き連れた王太子の姿が見え、アイビーは心の中で嘆息をもらした。
「この悪女め! 大方、男を追いかけて池にでも落ちたのだろう。自業自得だ」
吐き捨てるようにアイビーを詰る王太子の隣には、彼の婚約者であるリゼットの姿も見える。
王太子に腰を抱かれ、まるでお姫様のように守られているリゼットを見て、アイビーは眉を顰めた。
アイビーは何もしていない。
それなのにこんな苛めをされるのは、リゼットがまだ起こってもいない訴えを王太子にしたことが原因だということを、アイビーはつい最近知ったからだった。
たまたま生徒会室の前を通りがかった時に、王太子と側近の話が聞こえてしまったのだが、自分が何故こんな理不尽な仕打ちを受けているのか漸く合点がいったアイビーは、それ以来王太子とリゼットを深く恨むようになっていた。
アイビーは二人に対して抗議を込めた眼差しを向ける。
王族と高位貴族の令嬢に対し、男爵令嬢のアイビーが出来る精一杯の反抗なのだが、アイビーが苛めの原因を知っているなど露程も考えていないリゼットは、彼女と目が合うと怯えたように王太子に身を寄せた。
しかしその瞳が微かに優越の色に染まっていることを、アイビーは見逃さなかった。
「リゼットを睨むな! この悪女め!」
リゼットの瞳に怒りを覚えたアイビーが口を開く前に、王太子が怒鳴りつける。
王太子の言葉に生徒の一人がアイビーからリゼットを守ろうと割って入り、ドンッと肩を押されたアイビーは、倒れまいと両足に力を入れて踏ん張った。
だが噴水に落とされた上に寒い冬の風に晒されて震えていた体では力が入らず、アイビーはその場でバターンッと盛大に倒れこむ。
痛い。
寒い。
辛い。
もう、疲れた。
普段なら羞恥心と負けん気の強さで、すぐにも起き上がるアイビーだったが、先程から蹲りたいほど調子が悪かったことや、どうせどう反論しようとも誰も自分を信じてくれる人などいないのだという諦めから、立ち上がる気力を放棄してしまう。
一方、無様に倒れたアイビーに「大袈裟な悪女め」と当初嘲笑っていた王太子達は、いつまでたってもピクリとも動かない彼女に次第に動揺を見せ始めた。
「まさか打ちどころが悪くて死んだりは……してないよな?」
微妙な空気が流れる中、一人の生徒が不安を口にしたことで、アイビーを押し出した生徒が焦ったように言い訳を始める。
「お、俺は肩を押しただけで倒してはいない! そもそも俺は殿下とリゼット様を守ろうとしただけで……」
「ひ、人のせいにするな! 私はこの女がリゼットを睨むから怒鳴っただけで、突き飛ばせとは言っていない!」
「わ、私も怖かったから殿下にしがみ付いただけで無関係です!」
「そんな……」
縋るような視線を向けられた王太子とリゼットが冷たく突き放し、言われた生徒は真っ青になり後退った。
「人を死なせたなんて……こ、こんなこと父上に知られたら、きっと廃嫡だ」
茫然と呟く生徒の顔色は既に青を通り越して真っ白になっている。
「お、俺は知らない! 知らないからな!」
そう言って走り去ったのをきっかけに、次々と駆け出す音が響く。
それは王太子とリゼットも同様で、我先にとその場から逃げ出して行った。
程なくして、しんっと静まり返った廊下で、アイビーはアクアマリンの瞳を大きく見開く。
あれだけの苛めを誘発させておいて、いざその対象に死の影が見えると狼狽え、逃げ出すことしか出来ない王太子達の様子を、アイビーは不思議な気持ちで聞いていた。
苛めをする方は苛められた者の気持ちがわからないと聞いたことがあるが、本当にそのようだ。
王太子もリゼットも、アイビーを追い詰めるだけ追い詰めているくせに、死という重い責任をとるつもりはないらしい。
苛めの理由も身勝手なものなら、それに付随して起こるかもしれない現象を予見し覚悟をしていないことも、なんとも身勝手なことである。
そう考えると次第にどうしようもないほどの怒りが込みあげてくるが、瞼を閉じて倒れたまま深く息を吸い込んだアイビーは、むくりと起き上がる。
再び自室へ向けて歩き出したアイビーのアクアマリンの瞳には、昏い色が灯っていた。
◇◇◇
アイビーは何もしていないのに罵倒されるのも、暴力を振るわれるのにも疲れていた。
ずっと下を向いて耐え続けるのも、もう限界だった。
そうかといって平民だった母親が亡くなったため引き取られた男爵家に戻っても、王太子とその婚約者に憎まれたアイビーに居場所があるとは思えない。
元々、男爵の正妻はアイビーを引き取るのを反対していたようだし、父親とは情を深めるほどの交流がなかったので、きっと死ぬまでただ働きさせられるか、奴隷のように売られてゆくかのどちらかだろう。
出奔して平民として生きていく手段も考えたが、アイビーを目の敵とするリゼットに唆された王太子は、逃げても執拗に追いかけてくるような気がした。
八方塞がりな状況の中、アイビーは無意識のうちに死を考えるようになっていた。
だが、このまま何の仕返しもしないまま人生に幕を下ろすのは癪だった。
得体の知れない悪意に恐怖する前は、苛めにきちんと反論できる位にはアイビーは反骨精神が強かった。
実は苛めの原因がリゼットの妄想と、彼女を溺愛する王太子の暴走だと知った時、アイビーはすぐさま学園長へ訴えたが、失笑されただけで状況はまるで改善されなかった。
それならばと、議会や新聞社、神殿へ訴えようかと考えたが、学園長でさえ一笑に付し調査さえしてくれなかったのだ。
王太子と神童と呼ばれる婚約者が、男爵家の庶子を貶める噂を流していたなど信じてもらえるはずもない。
そう思い直して諦めた。
「なんだ、もうとっくに詰んでいたんじゃない」
茫然と呟いて自室で声もなく涙したのは、つい先日のことだ。
だがアイビーが倒れたくらいでオタオタして逃げ出した王太子達を見て、自分が死ぬことまでは想定していないことが容易に知れた。
彼らが行っていることは、紛れもなく人を死へと追い込む陰湿な苛めに他ならないというのに。
リゼットの言う通り、アイビーが国に害をなす悪女であるならば、王太子権限を発動するなり、証拠を捏造するなりして、さっさと極刑にでもすればいいものを、まだ何もしていない令嬢を断罪する覚悟はないくせに、やっていることは死刑と変わりない私刑なのだから質が悪い。
現にアイビーの心はもう欠片もないほど擦り減ってしまったし、自尊心も希望も消失し、誰も信用できなくなった。
心を壊されたのだ。何もしていないのに。
アイビーが廊下で倒されたのは夕方だった。
その時間帯には寮へ帰る生徒が大勢いたはずだ。
けれど誰も倒れたアイビーを助けてはくれなかったし、王太子達が逃げだしたのを見て、誰も彼もがその場を後にした。
倒れたままのアイビーを、死んだかもしれないアイビーを、放置して。
もう慣れたことだとはいえ、アイビーは乾いた笑みを浮かべた。
「ふふふ。そうね、誰も助けてくれるわけないわよね。だったら自分でどうにかするしかないんだわ。もっと前にそうすれば良かった」
クスクスクスと久方ぶりに笑ったアイビーは、足取りも軽く自室へ戻る。
そのままゴロリと寝台へ横になり、自分がまだ靴を履いたままだったことに、また笑った。
「靴を履いたまま横になるなんて、男爵であるお父様がこの場にいたら、はしたないって怒られるわね。弱くなってしまったあの力だって、恥だから人前では使うなって言われていたけれど、もうどうでもいいわ」
笑っているのに昏い瞳をしたアイビーの頭の中は、一世一代の意趣返しをすることでいっぱいで、頭痛も体の痛みもいつの間にか吹き飛んでいた。
◇◇◇
噴水に落ちた日の翌日、アイビーは学園を休むと寮長を通して連絡をいれた。
苛めの対象の欠席連絡に、朝から彼女で鬱憤を晴らそうとしていた輩がつまらなそうに教室へ戻ってぼやくのを聞いて、王太子とリゼット、その側近達はアイビーが死んでいなかったことに内心大きく胸を撫でおろしていたが、そんなことはおくびにも出さない。
アイビーを突き飛ばした生徒だけはあからさまに顔色が良くなったが、リゼットが「きっと私達を動揺させる演技だったのね、悪女の嘘にまんまとひっかかってしまったわ」とポツリと呟くのを聞くと、周囲の生徒と共に怒りを露わにさせていた。
そんな中、王太子だけは如何に婚約者のためとはいえ、少しやりすぎているかもしれないと考え始めていた。
何故ならアイビーは入学以前も入学してからも、少しもリゼットの言うような悪女の振る舞いをしていないからだ。
リゼットが言うにはアイビーが豹変するのは聖女の資格を得てからだそうだが、入学前に小細工程度の妨害をしたとはいえ、今のところ彼女が聖女認定される要素はない。
それに本当に聖女は悪女なのか?
リゼットを疑うわけではないが、自分が蒔いた種とはいえ次第に過激になってゆく苛めに、王太子の中で不安が過る。
未来の話を聞いた時には国外追放も辞さない思いだったが、ここのところ冤罪の二文字が頭から離れない。
直接対峙するのはやめて少し様子見した方がいいか、と結論付け王太子は頭を授業に集中させようと前を向いた。
その時、ガラリと教室のドアが開き、アイビーが入室してきたのである。
最近ずっと俯きがちだったアイビーは珍しく顔をあげ、教壇まで歩いてくると、唖然とする教師を後目に、部屋中を見渡しにっこりと微笑む。
少し首を傾げたせいで、後ろへ流していたピンクブロンドの髪がさらりと零れ、澄んだアクアマリンの瞳に皆が見惚れた。
王太子が流した悪女という噂のためアイビーは苛められてきたが、まだ顔があまり知られていなかった入学当初は、他の学年の生徒が教室まで見にくるほど美少女だったのだ。
そんなアイビーの笑顔に、うっかり自分まで見惚れてしまった王太子だったが、隣で教壇を見つめたまま「イレギュラーイベント?」と呟き、青褪めるリゼットに気づいてハッとする。
そもそも学年が違うアイビーがこの教室にやってくるなんて、嫌な予感しかない。
今すぐ自分の教室へ戻れと王太子が注意しようとしたところで、アイビーが静かに口を開いた。
「男爵家が庶子アイビーにございます。皆さまには悪女アイビーと名乗った方がいいかもしれませんが、本日は皆さまに是非ともご教授していただきたい質問があるため、失礼を承知で罷りこしました」
棘のあるアイビーの挨拶に、彼女に見惚れていた教室の空気が一気に険悪なものとなる。
悪女に見惚れてしまった罪悪感からか、一部の者達が罵りの声を挙げようとするのをアイビーは視線だけで封じた。
「今、この時、先輩方の授業を妨害していることは謝罪いたします。けれど、私はどうしてこんなにも皆さまから嫌われているのでしょう? 私が悪女だから? 私が聖女となり王太子殿下達を篭絡し、この国を破滅に導くから? ですが私は悪女でも、ましてや聖女でもありません。光の魔法だって今はもう、このようにか細い糸しか放てませんもの」
そう言ってアイビーが左手から出した光は弱々しく、その強度ではとても聖女になれそうもない。
しかしアイビーが光魔法を使ったことに、教師と生徒達は目を見張った。
リゼットからアイビーが聖女になると聞かされていた王太子は知っていたが、実は彼女は聖女に必要不可欠な希少な光魔法が使える。
光魔法というが、この世界では光以外の魔法は存在せず、所持者もまた極端に少ない。
光魔法は熟練度が上がると発光だけではなく、照らした光を鉄線より硬質な線状に束ねて魔物を断ち切ることが可能である。
近年は魔物の被害はあまりないが、いつどこから出没するかわからない彼らの硬い皮膚を傷つけられるのは、熟練度の上がった光魔法の使い手である聖女だけであり、その存在は貴重とされた。
しかし発光程度の弱い魔法では魔物を倒せないため聖女認定はされない。
しかも光魔法は成長の過程で使用できなくなってしまう者も多いため、硬質化ができないうちは公にはしないことが多かった。
アイビーは貴重な光魔法を使える故に庶子でも男爵家へ引き取られたわけだが、もし魔法が弱まり聖女になれなかったらとんだ恥さらしになるので、男爵である父親は一応王宮を通して神殿へ報告はしたが公にはしていない。
事実父親の危惧は当たり、学園に入学してからアイビーの力は目に見えて弱まっていった。
平民だった昔は灯台のように明るい光を灯して、夜の街の治安維持に一役かったものだが、今はもう微かな糸のような光しか出せない。
今のアイビーのか細い光の線では、固い魔物の皮膚を断ち切ることなど到底不可能であるから、聖女認定などされるはずもなかった。
それでも光魔法を使える存在は貴重なことには変わりない。
アイビーは聖女の皮を被った悪女と噂で聞いてはいたが、まさか本当に聖女の資格があるかもしれないとは誰も考えていなかった。
ましてや学園に入学する前に男爵が王宮へ報告したアイビーの光魔法が、リゼットに懇願された王太子によって、王宮から神殿へ届け出られる所持者名簿から削除されたことなど、当然誰も知る由もない。
知る由もないが、今更ながらにアイビーに関する噂がどこか作為的なものだと気が付いて、教室内に動揺が走った。
だが、困惑する生徒達のことなど歯牙にもかけずに、左手から出した細い光の糸を弄びながら、アイビーの問いかけは続く。
「それとも私は存在自体が悪なのでしょうか? この国を発展させたリゼット様の功績はとても素晴らしいものです。そのリゼット様が、私が将来国を破滅させる悪女になると言うのであれば、きっとそうなるのでしょう。ならばさっさと私のことなど死刑にすればよかったのではないですか? 王太子殿下」
挑発するようにチラリと視線を向けたアイビーに、王太子は苦虫を潰したような表情になり、隣のリゼットは青褪めながら「こんな展開知らない」と小さく呟いている。
そんな二人の様子を冷めた瞳で見やっていたアイビーが、突然思いついたように破顔した。
「ああ、さすがの王太子殿下でも、まだ何もしていない令嬢を断罪することはできないため、ありもしない陰湿な噂を流し、残酷な苛めを繰り返させることで、自ら命を絶つように誘導したのですね」
「ち、違う。確かに噂は私が流したが死を望むほどの苛めを誘導した覚えは……」
咄嗟に否定した王太子に、アイビーは不思議そうに瞳を瞬かせる。
「他の皆さまが勝手にやったことだと? しかし王太子殿下が悪女と断ずれば、皆さまが私を手酷く甚振ってもいいのだと判ずるのは必然でありましょう? 苛めを誘い精神的に追い込んで自ら命を絶たせるなんて、未来の国王になられるお方はやはり権謀術数に長けてらっしゃいますのね」
「そ、それは貴様が悪女だから……」
「先程も申しました通り私はまだ何もしておりませんのよ? それは学園入学前から今現在に至るまで、私のことを調査している殿下が一番よくご存じではありませんこと? それなのに私は学園に入学してからずっと悪女だと罵られ苛めを受けてきました。リゼット様が殿下へ告げられた悪女の振舞など、生まれてこの方一度もしたことがありませんのに、ねぇ?」
可愛らしくコテンッと首を傾げたアイビーだったが、教室は静まり返っていた。
無理もない。
王太子とアイビーのやり取りから、彼女が完全なる冤罪の被害者であることが知れ、自分達は全員加害者であることが判明したのだから。
ゴクリと誰かが唾を飲む音さえ響くほど物音一つしない教室の中、アイビーは微笑んだまま右手でピンクブロンドの髪をサラリと後ろへ靡かせると、アクアマリンの瞳を一層細めた。
「けれど、神童と呼ばれたリゼット様と王太子殿下が相手では、下位貴族である私がいかに真実を訴えても無意味なのだと、この学園へ入学してから身を以て思い知ってございます。ですからお二人のお望み通りに精神を病んだ私は、限りない恨みと共にこの命を差し上げますわ」
刹那、アイビーは左手で出していた光の線を短く凝縮させ自らの首へ振り下ろす。
教師も生徒も王太子もリゼットも、アイビーを止める暇はなかった。
魔物を斬れそうにもないアイビーのか細い光魔法は、しかし、令嬢の柔らかい首を落とすには十分な強度であった。
断ち切られた勢いのまま血飛沫をあげて飛んだ首が、リゼットの机の上へゴロリと落ちる。
それを見たリゼットが声にならない悲鳴をあげ、隣にいた王太子が気絶したのを皮切りに、あとはもう教室は阿鼻叫喚の嵐となり、騒ぎに駆け付けた護衛騎士や他の学級の教師が衝撃の光景を目の当たりした生徒達を宥めたが、事が事だけにそれから数時間もの間全く収拾がつかない有様であった。
事の顛末を聞いた国王は驚愕に頭を抱えつつも、すぐさま学園に箝口令を敷く。
それは生徒の心情を慮ったためでも、学園の醜聞を避けるためでも、ましてや一男爵令嬢の非業の死を憂いたわけでもなく、偏に優秀な王太子と神の子と言われるほど国に貢献したリゼットに瑕疵がつくことを倦厭してのことであった。
死なせるつもりはなかったと訴える王太子と、この国の将来を憂いての行動だったと言い募るリゼットに、国王は大仰に頷くと、直ちにアイビーの実家である男爵家を取り潰す沙汰を下す。
男爵の罪は光魔法の使い手を故意に王宮へ届け出ず、その力で王太子とその婚約者を亡き者にしようと画策したということだった。
学園長や教師に生徒、後ろ暗い想いがある誰もが真実を述べることに口を噤んだため、男爵夫妻は毒杯を仰がされ、アイビーは暗殺が失敗したことによる自殺と断定された。
アイビーの命を懸けた意趣返しは、王太子やリゼット、その他大勢の生徒達を少なからず動揺させることには成功した。
だが真実は闇に葬られ捻じ曲げられた彼女の死は、彼らを大いに安堵させ自分を肯定化させる要因となる。
自分は悪くない。
悪いのはあの程度の苛めで勝手に死んだ悪女だ。
そう思い込むことで表面上は落ち着きを取り戻し、皆がアイビーのことなど無かったことにしようとした。
まるで男爵令嬢のちっぽけな命など権力の前には無意味だったのだと嘲笑うかのように、アイビーの悲しい人生は死を懸けても尚、報われることはなかったのである。
そんな悲劇のまま物語は幕を閉じる……はずであった。