4話:狼襲来(2)
5月26日(月)------
「夜の見回りも久しぶりですね」
讃良は懐中電灯を片手に少し緊張した面持ちで言った。件の事件の後、高学年のメンバーが持ち回りを増やして対応していたため、確かに久しぶりの見回りだ。
午後10時ともなると部活も完全に終わり、自治エリアを出歩く人影もなくなっている時間だ。道に沿って歩いていた一行だが、一本だけ電気が切れた街灯を見つけた。
「あれ?あの街灯って交換されたばかりじゃなかったっけ」
今日の見回りは学園の西側-----学生寮が密集するエリアに沿って行われている。出来るだけ早い対応を取るべきだろう。
「いま照らしますから待っていてください」
讃良が懐中電灯をその暗闇に向けた。細い光は5m先の地面まで照らし出すが、
「なんだあれ?空間が歪んでる?」
闇の中で何かが蠢いて見える。ふいに、地面を照らしていたはずの光が細かく反射しはじめた。
それは銀色の毛皮を被っている。
「っ……伏せろ!」
水上が叫ぶと同時に、丁寧に整備された地面に亀裂が走る。
足元が揺らいだことで、オオカミはぐらりと体勢を崩した。
真代と篠崎、讃良も能力行使準備を整え、水上の支援に回る。
「先輩、Agitato!!(激しく) あんたにはこれ!Zuruckhalten!!(抑制して)」
メロディを繰り出した篠崎の目線の先で、狼は一瞬たじろいだものの勢いはそのままにこちらへ向かってくる。
だが、先に奏でた攻撃力を高める旋律は、平時通りに効果を示している。
篠崎の能力が効かない…?
「真代、やつの思考が読めるか?」
何かがおかしい、と先輩は呟く。
いつもならば50m先からでも分かる思考が…読めない。生き物の心拍ですら感じられない様子が不気味だった。
(今日のヤツはまるで…実体のない幻覚じゃないか…)
いつもなら真代の指揮で動いていたチームは、オオカミの動きに気を取られて思うように動けないようだった。
(あと半分の距離なら聞こえるかもしれない)
ふと、オオカミの側に立つ男子寮が目に入った。街灯のある道からは外れるが、やむを得ない。
真代は林の中を、道を切り開きながら走り抜ける。草木を抜け、建物の敷地に入ると2階建てのアパートメントが見えてきた。
幸いまだやつの気配はない。
建物の外階段から屋上へ行き、高い場所からやつの動向を探ればいい。息を切らしながら開いた屋上への扉の向こうには、
月光を受けて光り輝く銀毛のオオカミがいた。
『オオカミが消えた…?』
息も絶え絶えに呟いたのは讃良の声だろうか?
真代は腰に据えられた護身用のナイフがあることを確認する。
篠崎たちのいる場所からここへは、全速力で走っても数分かかる。その上、こいつの移動速度では逃げるオオカミを追いかけることは出来ないだろう。
ここで食い止めるしかない、覚悟を決めた。
先に動き出したのはオオカミだった。
大きく駆け出した巨大な獣は、真代の身体を横抱き状態で噛みつこうとする。
すんでのところで身をかわし、無理やりしがみつく。
オオカミの首筋の毛束にしがみつきながら、腰元のナイフを探る。しかし、片腕で身体を支えている状態では上手く鞘から抜くことができない。
「………っは」
(ラチがあかない。このままじゃ何もできない)
地面に着地して体勢を整えれば…その考えは、片手に握りしめるこの剣がオオカミの前ではまるで歯が立たないことで消え去った。そもそもが後衛の真代に与えられたこれは、護身用としか想定されていないのである。
(六年前から何も変わっていないじゃないか?!)
ふいに襲う痛みに目を閉じた。着地した際に右足を挫いたらしい。目を開くと目の前にいたはずのオオカミの影はない。
一瞬のうちに消えた影を探すが、その瞬間、左腰に当てられた前脚にはじき飛ばされる。
「ぐあっ…」
バランスをとる間もないまま背中を屋上のコンクリートに打ちつけられる。強い衝撃に数刻息が止まった。
赤く光るオオカミの瞳に、六年前の光景が蘇る。
「真代?!そこにいるの?!」
連絡用トランシーバーからは篠崎の声が流れ続けている。
「オオカミが…いる」
向こう側からは小さく悲鳴が聞こえた。
『………』
それにしても。
(オオカミから生気が感じられない?)
ヤツは異常なほどの巨躯でありながら呼吸も嗅覚も動きも動物本来のそれを持っているはずだ。
リーダーが言っていたオオカミの異変を思い出す。
出現時間帯、場所、
何もかもが六年間続いた厄災のような生物と異なる。
(じゃあ目の前にいるこいつは、何者なんだ?)
オオカミの巨躯が重心を後ろに傾け、飛びかかろうとするその刹那、目の前を透明のベールが覆う。
それとともにオオカミの巨躯が大きくはじき飛ばされた…ように見えた。ほのかに水気を含んだ空気が弾けたように瞬時にやってくる。
(この液体は…水か?)
真代が突如起こった現象に身構えると、目の前に人間が降り立つ。そして、オオカミに背を向けるように向きを変えた。
真代と歳も変わらないだろう少女だ。
月明かりが逆光となり彼女の輪郭を浮かび上がらせると、ガラス玉のような水色の瞳が輝いた、ように見えた。
「私はこの闘いを終わらせにきた」と。少女は確かにそう言った。