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Dark chocolate girl

作者: 神居kukupi

 その日、僕が地元のショッピングモールを訪れたのは、単に暇という理由だけではなかった。

 ちょうど一週間前の土曜日、僕は一年半ほど交際していた女性と破局した。穏やかな性格で、チョコレートをかたわらに置いて読書する姿が優美な女性だった。彼女とは大学の同期で、偶然同じ地域の企業に就職したこともあって、僕の方から交際を申し込んだのだ。

 しかし先週、彼女の家で僕がハンバーグを作って一緒に昼食を食べていたとき、不意に彼女が切り出した。

「ごめんなさい。私、もうこれ以上、怜治れいじくんと一緒にいられない」

 申し訳なさそうに目を伏せた彼女へ、僕は別れたい理由を訊いた。すると彼女は『あなたとは嗜好や価値観が違いすぎて、一緒にいると苦痛に感じる』という旨を述べた。

 思い返してみれば、僕は休日に気の進まない彼女を半ば無理やり動物園へ連れ出したり、運動不足になるからと散歩に誘ったりしていた。僕は自分をアウトドア派だと思っていないが、きっと彼女からすれば僕の干渉は鬱陶しくて仕方がなかったのだろう。

 別れ話を受け入れた僕は彼女に頭を下げ、一年半の恋愛関係に終止符を打った。



 それから一週間のあいだ僕は仕事に身が入らず、かといって土日を使って傷心旅行に行く気にもなれず、せめてもの気晴らしにショッピングモールへ赴いたのだ。

 愛用している靴がくたびれてきたので靴のチェーン店でスニーカーを買い、夕食のデザートにと和菓子屋で豆大福を二つ購入した。

 適当に昼食を済ませたら、三階の映画館にでも立ち寄って帰ろう。

 そんな事を考えながら、僕は一階にあるカフェへ向かった。店内は若者や親子連れで賑わっていたが、いくつか空いている席も見られた。

 僕がカウンター前の列に並びながら空席を眺めていると、少し離れてテーブル席に座る少女が目に留まった。明るめの長い茶髪が印象的な少女で、紺色のセーラーワンピースの上に、グレーのジャケットを羽織っている。ぱっと見たところ十歳前後に見えるが、年齢にそぐわないほど洗練された服装だ。

 少女はコーヒーカップの近くに、菓子のようなものを置いていた。菓子といってもカフェで注文するスイーツではなく、市販されているものらしき菓子だ。ここからでははっきりと視認できないが、チョコかビスケットだろうか。

「あの、お客様? ご注文はお決まりでしょうか?」

 やや高めな声に意識を引き戻され、僕はカウンターの方へ目を向けた。僕が少女を眺めているうちに前の客が注文を終えたらしく、若い女性店員が困ったような笑みを僕に向けていた。

「ああ、すみません。それじゃ、グアテマラのホットを一つ」

 食べたいメニューを瞬時に決められず、注文してからまずいと思ったが後の祭りだった。仕方がないので食べ物は後から追加することにして、僕は店員から離れて少女の座る席へ歩いていった。少女は僕に気づかず、菓子のパッケージを開けようとしている。

 彼女のかたわらに立つと、華奢な手に持つそれが板チョコであることに気付く。

「ちょっと失礼。相席、いいかい?」

 そう声をかけた僕に、少女はかすかに肩を震わせて目を見開いてみせた。しかしすぐに訝しげな目で僕へ訊ねてきた。

「……何を注文したの?」

「ホットのコーヒーだよ」

「ほかは?」

「何もないよ。お昼はあとで食べるから」

「なら、いい」

 どこか不本意そうな声ではあったが、彼女は同席を許可してくれた。

 少女の向かいに座り、僕は改めて彼女を見つめる。彼女の顔は日本人離れしていて、ぱっちりした二重(まぶた)と長い睫毛(まつげ)がチャーミングだ。先ほど見たときは十歳ほどかと思ったが、幼さの残る顔立ちゆえか、十代に満たないようにも見える。

 ヨーロッパの骨董品店に並ぶ西洋人形(ビスクドール)のような、華やかでありながら気品をも兼ね備えた少女だった。

 少女は板チョコを一口サイズに割り、それを口へ含んだ。小ぶりな口でむぐむぐと咀嚼(そしゃく)するや否や、少女の顔が苦しげに歪んだ。

 僕がチョコのパッケージを見ると、大きめのフォントで「CACAO80%」と書かれていた。

「ははは、お子ちゃまにダークチョコはまだ早かったね」

 そんな軽口が口をついて出てしまったのは、彼女のリアクションがドジだった元恋人の姿と重なったせいだろうか。

 案の定、少女は薄茶色の瞳に憤怒の色をたたえ、僕をきっと睨んだ。余計に怒るだろうから口にしなかったが、口をへの字にした表情すらあどけなく、どこか気迫に欠けていた。

 少女は黙って僕から顔を逸らし、気を紛らすようにコーヒーカップを口へ運んだ。無糖のコーヒーだったらしく、少女の顔にまたも苦悶が広がった。

 無理もない。

 ヒトが舌で味を感じるセンサーである味蕾(みらい)は、子供の頃に発達してピークを迎える。しかし大人になるにつれ味蕾は減少し、六十代になると子供の半分以下になるという。

 つまり、子供は苦いものはより苦く、からいものはよりからく感じてしまうわけだ。だから、彼女がダークチョコやコーヒーを美味しく感じないとしても、決しておかしいことではない。

 見るに見兼ねて、僕は少女に言った。

「大丈夫? ミルクティーでも頼もうか?」

 もちろん馬鹿にしたつもりなど微塵もなく、それはシンプルな気遣いだったが、少女は頑なに首を横に振った。

 せめて気分だけでも変えてあげようと、僕はとっさに話題を変えた。

「ところで君の服、シックで洒落てるね。自分で買ってるの?」

 少女はむっとした顔のまま、小さく頷いた。

 そういえばまだ名前を聞いていないなと思い、僕は彼女に訊ねた。

「ところで君、名前は?」

「相手に訊くより先に、まずはおじさんから名乗れば?」

「おじさんじゃない」

 咄嗟に否定するが、十歳前後の女の子から見れば、二十四歳の男は確かにおじさんなのだろう。

 僕が簡潔に自己紹介してから促すと、少女は渋々といった様子で口を開いた。

「……アンネ」

「アンネ? 君、外国人なの?」

「一応、日本国籍」

 彼女は椅子に掛けていた鞄から、少し大きめなオレンジ色のメモ帳と、ピンク色の細身なペンを取り出した。メモ帳の表紙には「RHODIA」の字と二本の木のロゴ。文房具好きなら誰もが知っているフランスのメーカー、ロディアのメモ帳だ。

 アンネはメモの表紙を開き、方眼の紙にペン先を走らせていく。

「これが、私のフルネーム」

 突き出されたメモ帳には、綺麗な字で「杏嶺あんね・フリードリヒ」と書かれていた。おそらく彼女――杏嶺はハーフなのだろう。

 それから彼女の手元へ目が行き、僕はさらに訊いた。

「そのボールペン、カランダッシュの849シリーズだろう?」

「……知ってるの?」

「職業柄、文房具の知識はそれなりにあるんだ」

 僕は大学時代、地元の書店でアルバイトをしていた。実家から通う大学に近い距離であるためバイト先として選んだのだが、書籍の他に文房具も扱う大きな店だった。

 四年生の冬、就活がうまくいかず途方に暮れていた僕に、店長が「もしよければ、うちに勤めないか」と救いの手を差し伸べてくれたのだ。

 改めて本業として書店員となった僕は、その年の四月に文房具売り場へ配属され、文房具について学び、見聞を広めていった。だから、他人のペンを一目見れば、それがどのメーカーのどのシリーズなのかぐらいは分かる。

 カランダッシュはスイスの筆記具メーカーで、世界で最も高額な筆記具を作ったことで有名だ。ちなみにカランダッシュとは、ロシア語で鉛筆を意味する。

「確かそれは、ブリュットロゼっていう限定モデルだね」

「そうよ。本当に詳しいのね」

 感心したように笑んだ彼女だったが、すぐに真顔に戻って二重の目を脇へ動かした。彼女の視線を追うと、コーヒーを載せたトレイを手にした店員が、僕たちの方へ近づいてくるところだった。

 テーブルにコーヒーを置く際、店員が杏嶺のチョコに気付いて不快そうな顔をしたが、相手が子供だからなのか、何も言わずに離れていった。

 僕がグアテマラの香りを楽しんでから口へ含んだとき、不意に杏嶺が僕を見た。

「……さっきから思ってたんだけど、ナンパのつもり?」

「まさか、違うよ。ただ、さっきから気になってたんだ」

 そう、僕は断じてロリコンではない。

 カフェに菓子を持ち込み、苦い顔をして一人で食べている子供を見たら、誰だろうと不思議に思うものだろう。だから、お節介かもしれないが、事情を聞いてみようと思っただけだ。

「それで、きみはどうしてカフェで、一人チョコを食べていたの?」

 しかし杏嶺は答えず、自分のコーヒーカップにフレッシュを入れ、それをひとくち飲んだ。苦味はいくらか軽減されたはずだが、それでも彼女の表情はつらそうだ。

 あまり気の進まない思いで、僕は杏嶺のチョコを指した。

「それ、カルディで買ったチョコだよね?」

「そうだけど」

 返した彼女に、僕はできるだけ優しく笑んで続けた。

「実は、カルディは僕もよく行くんだ。前に付き合ってた彼女がチョコレート好きでね。コーヒーは嫌いだったんだけど」

「ふうん。怜治はチョコ、好きなの?」

 そう問いかけた杏嶺の顔からは、警戒心がわずかに薄らいだように見えた。彼女の心を開かせるために元恋人の情報を利用したくはなかったが、仕方があるまい。

 僕は頷き、かつての恋人と過ごした日々を思い返した。

「休みの日は、よく彼女の家で食事をして、デザートにダークチョコを食べていたよ」

「それで、どうして別れてしまったの?」

 少なからず興味を抱いたらしく、杏嶺がそう訊いてきた。どうやら女という生き物は、小さくても恋愛絡みの話を好む傾向があるようだ。

 特に嘘をつく理由もなかったので、僕は正直に話すことにした。

「お互いの価値観が合わなかったんだ。それで、振られちゃったんだよ」

「そう……大人の恋愛って、いろいろ難しいのね」

 感慨深そうに言って、杏嶺は視線を落とした。あまり深く探るべきではないと考えたのか、幼い顔にはかすかに自責の色が窺える。

 おもむろに、杏嶺はコーヒーをひと口飲んでから、ゆっくりと話し出した。

「今日、ママの誕生日なの。それで、家でパパと私も一緒に、誕生日を祝う予定で……」

 彼女によれば、この日夕食のデザートに母親の好きなダークチョコを食べるために、二週間ほど前から一人でショッピングモールを訪れ、ダークチョコを買って練習していたという。僕の予想通り、杏嶺の父親はドイツ人で、彼もまたダークチョコが好物らしい。

 しかし、そこで一つだけ疑問が残った。

 なぜ彼女は、クッキーやアップルパイなどの他の洋菓子ではなく、わざわざ苦いダークチョコを選んだのだろうか。自分の家族や恋人と同じものを楽しみたいという思いは分からなくはないが、苦痛を我慢してまで共有しようとするだろうか。

 熟考したところで答えは出ず、僕は彼女へ訊いた。

「それにしても、どうして君はそんな苦いものを無理して食べるんだい? 杏嶺ちゃんだけミルクチョコレートやケーキでもいいんじゃないか?」

「……このダークチョコじゃなきゃ駄目なの」

 少しむっとしたような口調で、杏嶺はそう言った。どうやら何らかの事情があり、僕がそれを察しなかったばかりに機嫌を損ねてしまったようだ。

 会話が途切れ、杏嶺は僕から視線を逸らした。

 それから彼女は、ときどき脇を通る店員をちらりと見て、しかしすぐに自分のコーヒーへ視線を戻した。一口だけコーヒーを飲んで顔を歪め、さりげなく周囲へ目を向ける。

 さっき店員が僕のコーヒーを持ってきたときもそうだったが、杏嶺は店員が近くを通るたびに注意深くそれに意識を集中させているようだ。これは一体なぜなのか。

 沈思黙考を続けた僕の脳裏に、ふとある推測がよぎった。それは何の確証もなかったが、それ以外の答えはないだろうという自信もあった。

 僕は、かたわらに置いていた和菓子屋の袋をテーブルの上へ上げた。

「ほら、これ。今夜の誕生日会のデザートに食べて」

「え……?」

 困惑の色を浮かべる彼女に、僕は続けた。

「中は豆大福だよ。君は小麦アレルギーなんだろう?」

 杏嶺は黙って俯き、やがてゆっくりと顔を上げた。

「……どうして分かったの?」

「君がなぜそこまでダークチョコに……それも、海外のものにこだわるのか、ずっと気になっていたんだ。もし君が小麦アレルギーじゃないなら、クッキーやケーキでもいいだろうし、日本のスーパーで売られているミルクチョコでも問題ない。でも、君はあえて不純物が少なくアレルゲンの表記がきちんとされている、海外のダークチョコを食べていた。日本のチョコだと、原材料に小麦が入っていなくても、同じ工場で作られている製品の小麦が混じる恐れがあると思ったから。そうだよね?」

 そう確認した僕に、杏嶺は静かに頷いた。

 小麦パフやビスケットの使われていない純粋なチョコレートなら、ほとんどの場合小麦は含まれていない。それに、小麦を含む製品と同じ工場で作られているならば、その旨はパッケージにきちんと記載されている。しかしすべての製品がそうではなく、海外は日本よりもアレルゲンの記載が厳しい国が多い。

 また、最初に僕が相席を申し出たとき、杏嶺は開口一番に注文したものを訊いてきた。これは、僕がパンやケーキなど小麦を使った料理を注文していないか知るためだったのだ。注文されたものを持った店員が近くを通るたびに注意を向けていたのも、パンの粉などが自分の方へ落ちてこないか心配だったからだろう。

 しばらくの間黙り込んでいた杏嶺が、おもむろに口を開いた。

「本当は、ゼリーとかマシュマロとか、別のお菓子でも食べようかと思ってたの。でも、できればママやパパと同じものを食べたほうがいいかなって。そう思って……」

「少し無理をして、家族そろって同じチョコを楽しもうとした……というわけだね」

 杏嶺は頷き、そっと目を伏せた。泣きそうなのを必死に我慢していることが伝わってくる、悲痛な表情だった。

 気付けば僕は、小さく息を吐いて言葉を発していた。

「それなら、なおさら自分が美味しいと思うものを食べたほうがいいと思うよ。そのほうが、君のお母さんもお父さんも嬉しいだろうし」

 言って、僕は彼女に微笑みかける。

「君だって、自分が美味しいと思っているものをお母さんが不味そうに食べてたら、嫌だろう? だから、君は我慢してダークチョコを食べるべきじゃないんだ」

 僕の言葉を聞いていた杏嶺の瞳が薄っすらと潤み、一筋頬を伝っていく。

 そこで僕は失念していたことを思い出し、慌てて訊ねる。

「あっ、そうだ! 杏嶺ちゃん、あんこは苦手じゃなかった? もし駄目なら、別のを――」

 僕の言葉を遮るように、杏嶺は首を横に振った。日本人でもあんこが嫌いな人は少なくないため失敗したかと思ったが、どうやら杞憂だったようだ。

「ありがとう。怜治……」

 手でそっと涙を拭い、杏嶺は柔らかい笑みを浮かべた。年頃の少女らしい、可愛い笑顔だった。



 杏嶺とカフェを出た僕は、フードコートで共に蕎麦そばを食べた後、モールの一階で別れることになった。

 本当は「このあと一緒に、映画館でグリンチでも見ようか」と誘いたかったが、彼女の年齢を思い出して、道徳心がストップを掛けた。昼食のときに彼女から聞いたのだが、杏嶺は小学五年生で、ちょうど一ヶ月前に十一歳の誕生日を迎えたところだという。

 片手に提げた和菓子屋のビニール袋に紅茶のボトルを入れ、杏嶺は僕の顔を見た。

「本当に、今日はありがとうね。怜治」

 モールの出入り口前で優しく目を細める杏嶺に、僕も笑って返した。

 最初は生意気な印象の強い女の子だったが、少し一緒に過ごしてみると、明るく思いやりのある少女なのだと気付かされる。

 清々しい気持ちで僕が身を翻して歩き出した、そのとき。

「じゃあね、おじさん!」

 肩越しに振り返ると、したり顔で片手を振る杏嶺の姿が見えた。

 前言撤回。やっぱり彼女は生意気で、小憎たらしい女の子だ。

 そう思う一方で、頬を緩めそうになる自分に気付き、それを誤魔化すように僕は大声で返した。

「おじさんじゃない」

 僕より十三も年下の少女は、からかうように笑んだまま俺をじっと見つめ返していた。

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