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辺境伯の第六夫人! ~奥様たちは特殊戦闘員~  作者: フミヅキ
第三章 蔓薔薇屋敷の華麗なるご夫人方
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蔓薔薇屋敷の華麗なるご夫人方②

 レティシアは自室に引き上げ、帰省から戻っていたメイドのマリアにハミアへのお祝い品の用意を指示した。それから旅装を解き、バスルームの猫足の付いた浴槽に張られたお湯で旅の疲れを洗い流す。


 普段はそれで心身ともにリフレッシュできるのに、洗い流せない澱のようなものが心の中にあることをレティシアは感じた。ハミアのいない女子特殊攻兵隊の布陣や、ブロアード地区のドリスと今後どう共闘すべきかを考えたかったのだが、どうしても頭がぼんやりしてしまい、思考を集中することが出来なかった。


(なんだか気分が悪い……。少し風に当たろうかしら……)


 薄紫色のナイトドレス姿のレティシアは、蔓薔薇屋敷の最上階のバルコニーに出た。ちょうど陽が沈もうとする時間帯で、遠くの山際が茜色に染まり、空は薄暗い闇色に塗り替わろうとしていた。


 吹き抜ける風がレティシアの赤い髪を掻き乱し、ナイトドレスのスカートを煽る。


(ここから見える空は昔、ブロアード地区の――天藍楼の屋根の上から見えたものと似ているわ)


 レティシアは少し悪戯心が湧いて、バルコニーの柵の上に登り、そこからさらに屋根の上へとよじ登った。


 悪巧みばかりしていた少女時代のように屋根の上にぺたんと腰掛け、レティシアは夕暮れに染まる空を見つめた。これで少しは気が紛れるだろうかと考えたのだが、心の中の澱はあまり変わらなかった。


(何なのだろう……この気持ちは。何かこう……急に海から潮が引いていくような……雑踏に取り残されるような……)


 レティシアは心に漣のように広がる震えが何なのかわからなかった。この心の震えに気を取られてしまって、彼女は思考に集中できないのだった。その震えのきっかけはハミアの妊娠であることは間違いなかった。


(嫉妬……? それもあるかもしれない。でも、大きな妬みの感情に囚われているわけではないと思うの。いったいこの心の震えは何……?)


 レティシアは蔓薔薇屋敷への帰還以降の出来事を反芻する。皆がハミアの妊娠に驚き、浮足立って祝福している中で、レティシアもまた驚愕の波に飲まれていた。


(そう。わたくしは驚いて……そう、驚いて驚いて、今も驚きに震えたままなのだわ。それならば、わたくしが抱えているこの寄る辺ない感覚、これは……不安? 恐れ? わたくしは何に不安を感じているというの?)


 レティシアは心の中で自問自答を繰り返す。


(思えば、わたくしは蔓薔薇屋敷のご夫人方の誰かが……何よりわたくし自身がルシエル様のお子を身籠ることを、リアルな現実として想像したことがなかったのかもしれないわ。もしかして、その現実を受け止めるのが怖いの……?)


 レティシアは自分自身の体を眺めてみた。ネイスやルシエルと出会った時は子供そのものだった体が、いつの間にか成長し、女性的な丸みを帯びていた。


 レティシアは自嘲気味に笑う。


「アホかよ。いつかガキができてテメエの腹が膨れる時のことを、うちは真剣に考えてなかったってことか? そりゃあ、考え無しの小娘じゃねぇかよ……情けねぇ……」


 レティシアの呟いた小さな独り言を、屋根の上を吹き抜ける冷たい北風がどこかへ運んで行った。


(わたくしはルシエル様の妻となるということがどういうことなのか、その意味を真に考えたことがなかったのだわ。ただ恋や愛の物語に憧れる子供と同じだった……)


 レティシアは打ちひしがれた気持ちになって、唇を噛んだ。その時――。


「あなた、そこで何してるの?」


 急に聞こえた声に、レティシアは驚いてびくりと肩を震わせた。


 見れば、こちらもナイトドレス姿のキーリィがバルコニーから屋根の上のレティシアを見上げている。


「なんだか面白そうね。わたしもそこに行っていいかしら?」


「え!」


 キーリィは三角飛びの要領で、猫のように身軽な身のこなしで屋根の上へと降り立った。


「まあ、レティシアったら、なんて顔してるの!」


「え……?」


 キョトンとするレティシアの鼻先に、キーリィは人差し指を突き付ける。


「腑抜けたような顔をしているわよ。ブロアードに行った時にはあんなに生き生きしていたのに。まるで別人みたいね」


「わ、わたくしは……」


(情けない……。わたくしは本当のところ、ルシエル様の妻となる心構えが十分ではなかったのかもしれないだなんて……恥ずかしくてとても口にできないわ……)


 俯きがちに口を閉ざすレティシアを見て、キーリィは溜め息をついた。


「あのね。あなた、最下位の夫人のくせに生意気に見栄を張るものじゃないわ」


 ピシャリと言ったキーリィの一見辛辣な言葉に、レティシアは恐る恐る彼女の顔色を窺う。


「キーリィ様、それはどういう……?」


「何に悩んでいるのかはわからないけれど、あなたはどうせ最下位の夫人なのだから」


「は、はい……」


「最下位の夫人には駄目なところがあって当たり前じゃないの」


「はい……」


 レティシアは恐縮して下を向いた。キーリィは手を伸ばすと、風で乱れたレティシアの赤い髪を撫でて整える。


「あなた程度が抱える悩みなんて、きっとそのうち解決できるわよ。だから、そんな顔しないの」


「キーリィ様……?」


「あなたは笑っている方がいいわ、レティシア」


 レティシアが顔を上げると、キーリィは優しく笑っていた。


 夕日と宵闇の色に染まる美しいエルフの姿に、レティシアはしばらく見惚れた。


 その時。


「調子はどうだい?」


 男性の声が聞こえて、レティシアとキーリィは飛び上げるほど驚いた。蔓薔薇屋敷に入ることができる男性は一人しかいない。


(ルシエル様⁉ わたくしたちが屋根の上にいることに気付いていらっしゃる……?)


 レティシアが慌てて何と返事をすべきか思案している間に、別の人物がルシエルに言葉を返した。


「だいぶ良いわ」


 第一夫人ネイスの声だった。


 レティシアとキーリィが屋根の端からそっと下を覗くと、ルシエルがバルコニーでネイスの乗った車椅子を押していた。


「こうやって二人きりで話すのは久しぶりだね」


 ルシエルはそう言うと、ネイスの傍らで片ひざを付いて目線を合わせ、彼女の手を取って口付けをした。ルシエルの青灰色と赤色の両目が熱っぽくネイスを見つめている。


「ねえ、ネイス、キスをしてもいい?」


「ふざけてはだめよ、ルシエル」


「ふざけてなんかないよ。私は君が好きなんだよ」


「……恥ずかしいわ」


「君はいつも可愛いね」


 膝立ちから立ち上がったルシエルは、ネイスの顎に手を添えると、少し強引に彼女の唇に自分の唇を押し当てた。


 屋根の縁からこっそり覗いていたレティシアとキーリィは赤く染まった顔を見合せる。


『………………!』


 二人は名乗り出る機会を完全に失ってしまい、しかもナイトドレス姿で屋根の上にいるというはしたない姿を晒すことにも抵抗があり、目と目で「このままやり過ごすしかない」と語り合い、頷きあった。


 キスの後、ネイスとルシエルはバルコニーの涼やかな風に吹かれながら和やかに会話を交わした。ハミアの妊娠の祝福と安産の願い、季節の移ろいや蔓薔薇屋敷の日常について。そんな二人きりの語り合いの中で、ルシエルはふと言葉を漏らした。


「君と話していると私は……僕はとても穏やかで幸せな気持ちになるよ」


「わたくしもよ」


 ネイスもそう言って微笑むが、その笑顔には若干の苦しみが混じっているように見えた。ルシエルは首を傾げる。


「どうしたんだい? 寒い? そろそろ部屋に戻ろうか?」


「いいえ。とても良い陽気で心地よいわ」


「じゃあ……?」


 戸惑うルシエルに、ネイスは清らかな水色の瞳を真っ直ぐに向けて告げる。


「ねえ、ルシエル。わたくしにこの蔓薔薇屋敷にいる資格はあるのかしら」


「……何を言っているんだ?」


 ネイスの言葉に不穏な空気を感じ、ルシエルは眉間に皺を寄せる。


「知っているでしょう。わたくしの体ではあなたの子供を授かることは見込めないわ。わたくしは辺境伯夫人としての務めを果たせない。レティシアがいればわたくしの未来視も必要ないでしょうし……。ハミアや他の皆は優秀な戦士としての務めを果たしながら、きっと元気な子供も産んでくれるわ」


「ネイス……?」


「わたくしが第一夫人であることに、世間や表の城内では批判もあるでしょう? もし、わたくしの存在が負担であれば、いつ離縁されたとしてもわたくしに不満はないわ」


「なんでそんなことを言うの?」


 まるで迷子になった子供のような顔でルシエルが言った。


「僕は君に子供を望んで結婚したわけじゃない!」


 彼は強い声でそう言った。


「私は……僕は……。何度も言っているけれど、僕の初恋は君だし、僕が世界で一番愛しているのは今でも君……」


 言いかけたルシエルの唇に、ネイスは自分の人差し指を当てた。


「ルシエル、おそらくそのセリフはこの蔓薔薇屋敷においてはそれ以上言ってはならない言葉よ」


 戸惑いの表情となったルシエルに、ネイスは優しく微笑む。


「でも、ありがとう、ルシエル。わたくしは幸せよ」


「ネイス……。もう二度と離縁の話はしないでくれ。約束してくれるね?」


 ルシエルの色と形の違う双眸がネイスをじっと見つめていた。


「……わかったわ」


 何か苦い薬を飲み込むような表情の後、頷いたネイスは微笑んだ。


「わたくしはあなたとこの屋敷の皆といられて幸せ。本当よ」


「そうか……。よかった」


 微笑むネイスにルシエルも優しい笑顔を返す。


 そろそろ山の稜線の下に太陽が消えようとしていた。強い風が吹き、ネイスの黒髪を煽る。秋から冬への季節の変わり目を伝えるような冷たい風だった。


「気温が下がってきたみたいだね。そろそろ部屋に戻ろう」


「ええ」


 ルシエルがネイスの車椅子を押してバルコニーから去った。


 屋根の上のレティシアはそれを見送りながら、二人の絆の強さに強い感銘を受けて――けれども、自分の緑色の瞳から涙がポロポロといくつも零れ落ちるのに気が付いた。


「あ、あれ? あ、あ、あれれ?」


 レティシアは戸惑った。なぜ涙が出るのか、自分でもよくわからなかったのだ。涙を止めようとすればするほど心が乱れ、目から涙は止めどなく流れ出て、口からは嗚咽が漏れ始める。


「う、うう、うぅ……。ち、ち、違うんです! これは決して、へ、変な意味の涙ではなくて……!」


 レティシアは隣のキーリィに弁解するように――あるいは自分自身に言い聞かせるように言った。


「お二人に妬みを感じたとか! 独りぼっちな気持ちになって寂しいとか! そういう邪な気持ちではないんです! わ、わ、わたくしはお二人のことを、ほ、ほ、本当に敬愛しているので、こ、これは、えぇと、これは……な、何なんだろう……?」


 自分自身の涙に戸惑うレティシアを、キーリィは優しく抱きしめた。


「キ、キーリィ様……⁉」


 驚くレティシアを抱き寄せたまま、キーリィはきっぱりと笑う。


「レティシア、わかっているわ。それは嫉妬なんかじゃなくて、二人が幸せそうなのが嬉しかっただけ。嬉し涙よ。そうでしょう?」


「あ……! そ、そう……うぅう……きっとそうです!」


「そうよ。そう思っていればいいのよ」


 キーリィはそう言って笑い、腕の中のレティシアを見つめた。


「明日、ベッドから起きたら、いつもみたいに笑って皆に『おはよう』が言えるわ。そうでしょう?」


「は、はい……。い、言えます……!」


「わたしもきっと言えるわ。ルシエルにもネイス先生にも、ハミアとマミアと伊織ちゃんとあなたにも、いつもと同じように『おはよう』って」


 レティシアが近くで覗き見れば、キーリィの青色の瞳も潤んでいるのがわかった。


「それ以上はわたしを見ないで、レティシア」


「は、はい……」


 レティシアは言われたとおりにキーリィから目を逸らし、彼女の胸に顔を埋めて泣いた。自分とは違って誇り高いエルフであるキーリィは、涙を溢れさせることを自分自身に許さなかったのだとレティシアは思った。


 キーリィは目をきゅっと瞑ってレティシアを抱きしめる腕に少し力を込める。レティシアの嗚咽が聞こえなくなるまで、二人はずっとそうしていた。

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