レティシア・ブロアードの華麗なる覚醒⑯
一時的に天藍楼は辺境伯軍の詰所として提供されることになった。また、兵士たちの寝泊まりの場所としてヘブンズゲートのいくつかの娼館が臨時に接収されていた。
これはヘブンズゲートが高台にあり、ブロアード地区を見通せること、またゴブリンの巣穴が作られておらず、拠点としての安全性が確認されているからだった。
レティシアは天藍楼の最上階のバルコニーの縁から屋根に飛び移り、ブロアード地区を一望する。見渡す限りでは生きているゴブリンの姿はなかった。
ただ、それまでのブロアード地区の光景からは一変している。たくさんの小屋やバラックやテントが破壊され、通りには駆除されたゴブリンの死骸が所狭しと横たわっていた。しかし、その中にはゴブリンから逃げられなかった人間の死体は見られない。おそらく、ゴブリンに食われてしまったのだろう。
その混沌の街区を、辺境伯軍の旗を掲げた兵士たちが四苦八苦しながら巡回している。
レティシアは屋根の上にペタンと座りこむと腕を組み、難しい顔で思案していた。
「やあ、レティシア。そんなところで何をしているんだい?」
「うお!」
突然聞こえた声に驚いてレティシアは屋根の上から滑り落ちそうになった。声のした方を向くと、下のバルコニーからルシエルが顔を覗かせている。
「な、なんだ、アンタですか。いやその……ゴブリンがホントにいなくなったのか確認してぇって思いましてね。マジでアンタらが一掃しちまったんですね」
「一掃……とは言っても、仮のものだ」
苦々しい顔でルシエルは言った。
「私たちはあの時表に出ていたものの大半を始末できたが、一部のゴブリンはこの街の地下の巣穴に逃げ帰っていった」
「アンタらには敵わねぇって判断したんじゃないっすか」
「巣穴の中まで追えればいいのだがな」
「あれは大人が入れるサイズじゃねぇでしょう」
ゴブリンの大きさは十二歳のレティシアとそれほど変わらない。当然、巣穴も子供がやっと通れる程度の狭さだ。それにも関わらず、ゴブリンの筋力は一般男子よりも強く俊敏なのが厄介なところだった。
「市街地での戦いというのは難しいものだ」
そう言うと、ルシエルはふわりとジャンプして屋根の上に降り立ち、レティシアの隣に腰かける。
「通りに溢れた敵に気を取られていると、死角の隘路や小屋の中や屋根の上からも敵が襲ってくる。しかも、この街の幅の狭い通りでは剣を振り回しにくい」
「延焼が怖くて魔術も使いづらいっすか?」
「そうだね。もし私が本気の魔術を見舞ったら、街ごと――逃げ遅れた住人や兵士たちも一緒に丸焦げだ。もう少し操作精度向上について研鑽しなければな」
ルシエルは溜息をついてから、レティシアを見つめる。
「しかし、それでも今回民間人の死傷者が最小限で済んだのは、ほとんどの住人が避難済みだったことがとても大きい」
そう言うと、ルシエルは優しく微笑んだ。
「この館の主人――セリカさんでいいのかな? 彼女がさっき教えてくれたのだが、レティシア、君が中心になって手配してくれたんだってね。今回の辺境伯軍の指揮官として礼を言わせてほしい」
「な、なんだよ、貴族の人がそんな改まって……! 別にうちは……この街が無くなったら稼げるもんも稼げなくなるからってだけだし……」
貴族からの丁寧なお礼にレティシアは戸惑い、慌てて話題を変えることにした。
「で、でもさ、アンタが無事に戻ってきてよかったですよ。ネイスさんがすげー安心してたんで」
ゴブリン退治を終えて無傷で天藍楼に帰ってきたルシエルを見て、ネイスは安堵から気を失ってしまった。彼女は今も眠り続けているが、それはとても安らかな寝顔だった。
だが、ルシエルは苦渋の表情を浮かべる。
「ネイスは心配性で……。彼女の体に余計な負担を掛けたくはないのだが、私のことを心配して無茶をしてしまうんだ」
「そりゃあ、アンタに相当惚れこんでるみたいっすからね、あの人」
少し茶化すようにレティシアは言ったが、ルシエルは神妙な表情を変えなかった。
「なあ、レティシア。私は彼女のためにも出来る限り早期にこの事件を解決したいと思っている。君はこの街に詳しいだろう? 今回の一件をどう考える?」
問われたレティシアは、少し考えてから口を開いた。
「カッシールがどうやってゴブリンを手懐けたかはわかんねぇですけどね、街がゴブリンで溢れちまった件に関しちゃ、アンダーストラクチャーのモンスター・スタンピードと同じことなんじゃねぇのかって考えてます」
「ふむ?」
「アレがなんで発生するのかって本当のところは解明されてないっていいますけど、一説には魔物が大量繁殖してあふれ出てくるって説があるそうじゃないですか。それと同じことがブロアードの地下で起こったんじゃないですかね?」
レティシアの言葉に、ルシエルが唸る。
「なるほど。今回はモンスター・スタンピードの小型版だったということかい?」
「はい。カッシールは何らかの方法でゴブリンを操っていたが、幼体ゴブリンを使役しきれないで逆襲されちまった。けど、カッシールの名跡も伊達じゃねぇ。ゴブリンも奴らの反撃を受けて、生き残った奴らはビビって巣穴に帰ったってとこじゃねぇですか?」
「なるほどね。それから地下でまた大繁殖したと」
「ビビってずっと地下にいてくれたらよかったんすけど、増殖しすぎてどうにもならなくなってまた溢れ出てきたっていう……」
レティシアの考えに、ルシエルは真剣な表情で頷いた。
「ならば、また増殖して溢れてくるのも時間の問題か。君は本件への対策をどう考える?」
「水攻めっすね」
はっきりと断言したレティシアの言葉に、ルシエルは興味を引かれたように色の違う双眸を細めた。
「ほう? 具体的には?」
「アンダーストラクチャーの方はどんだけ深ぇ穴かわかってないですから水攻めなんて無理っすけど、ここは所詮ゴブリンが作ったチンケな巣穴にすぎねぇわけです。なら、ある程度の水がありゃあ、水没は可能でしょう?」
「その水源のあてはあるのかい?」
ルシエルの問いに、レティシアはニヤリと笑って答える。
「ブロアード水源計画の完遂っす」
「ふむ。なるほど、やはりそうだろうな」
ルシエルはレティシアの言葉を予期していたようだった。ブロアード水源計画は一旦着手されたものの今は放置されている公共工事だった。
ブロアード地区の生活用水は遠くの河川か近場の不衛生な沼の水を利用するかだ。水汲みの苦役はこの街の子供たちが担わされていた。
その住環境を改善するために計画された公共事業が、ブロアード水源計画――南エネリア川とブロアード地区を結ぶ水路の構築だったのだが、マフィア二組が水利権を求めて争い、それぞれが地元の政治的有力者や土木担当官吏にまで脅しをかけるに至って、工事は完成まであと一歩のところで放置されてしまっていた。
「エネリア砦に避難してる男衆を工事の人工に当てれば、短期間で行けるんじゃないっすかね? ゴブリンどもは今は繁殖中。成長しきる前に叩くことができりゃあ……」
「そうだな。兵士たちも動員しよう。各兵団責任者を呼んで仔細を検討し、すぐに手配しするよ」
ルシエルが言った言葉を数秒間反芻してから、レティシアは目を丸くした。
「え? あの……マジで言ってんすか……?」
「ああ、もちろん。何か問題があるかな?」
「い、いや……でも、うちみてぇな小汚ねぇガキの言う事をそんな簡単に採用していいもんなんですか……?」
レティシアの緑の瞳に疑いと不安の色が浮かんでいるのを見て、ルシエルは苦笑した。
「良いも何も。レティシア、君は素晴らしい作戦を立案した。だから現場責任者として私はそれを採用しただけだよ」
その言葉を聞いてもレティシアの緑の瞳からは疑いの色は消えなかった。ルシエルはクスリと笑う。
「ネイスがなぜ君を守ろうと思ったのか、わかる気がするよ。君はたくさんの可能性を抱えた女性だ。改めて、この街やネイスを守ってくれて、ありがとう。レティシア」
ルシエルはレティシアの目をまっすぐに見つめて言った。人間らしい青灰色の瞳とトカゲのような赤眼を細め、彼は優しく笑う。
真正面からその表情を向けられて、レティシアの心臓がドキリと大きく鳴った。頬と耳も熱を持って赤くなる。
そして、同時にレティシアの胸がチクリと痛んだ。それは今まで経験したことのない苦しい感覚を彼女に与えた。
(ネイスさんは、ホントはこの人を守りたくてこの街に来た。なのに、うちを助けるためにヴィジョンを見て……だいぶ体にダメージがきてるみてぇだった……。うちのせいだ……。ネイスさんの行動は全部この人のためなのに……うちは……)
気が付くと、レティシアはルシエルから目を逸らし、呻くように告白していた。
「ネ、ネイスさんが今、寝込んでるのは……うちのせいなんです……」
レティシアはネイスがバティスティリ組に脅されてヴィジョンを見た経緯を説明した。
自分の婚約者、しかも名家のご令嬢でもあるネイスが薄汚い子供のために体にダメージを負ったとなれば、さすがに怒るだろうとレティシアは思った。黙っている方が得であることは当然わかっていた。
(でも、このこと黙ってるのは、なんでかすげぇ苦しい……)
怒りをぶつけられたり、殴られたり、罰を受けたりする方がましだと思えてしまったのだ。レティシアはそんな心境の自分を不思議に思う反面、悪い気はしなかった。
だが、ルシエルは穏やかな表情を変えなかった。
「それはそのマフィアが悪い。君のせいではないよ」
予想に反するルシエルの答えに、レティシアは混乱した。
「どうして……なんだって、そんなに甘いんだよ! アンタも、ネイスさんも! どうして……!」
レティシアは叫んだ。彼女は今まで人との関わりでこんな風に優しくされたことがなかったのだ。
そんな彼女の心の揺れをわかっているのか、ルシエルはレティシアを落ち着けるように彼女の肩にそっと手を置いて、彼女の瞳を覗き込みながら言った。
「大丈夫。君とこの街は私が守るから」
ルシエルの色と形の違う双眸が力強く輝くのを、レティシアはぼうっとしながら見つめた。
レティシアは自分の心臓が鼓動を打つ速さを増すのを感じた。ルシエルの触れている肩の辺りに熱を感じて、耳たぶや頬の辺りも熱かった。
なぜ自分の体がそうなるのかわからなくて、レティシアは混乱する。同時に、水色の瞳の優しい女性の姿がレティシアの脳裏に浮かんだ。なぜか胸にまた痛みが走った。
(な、な、何なんだよ……これ!)
まだ幼い彼女は自分の心の流れが何を意味するのか、この時はよくわかっていなかったのだ。




