レティシア・ブロアードの華麗なる覚醒⑤
レティシアは十歳になると、窃盗グループ・蜘蛛の巣を離れて天藍楼の娼婦見習いになった。つまりは蜘蛛の巣の親方がレティシアを天藍楼に売ったということだが、レティシアにとっては「所属団体の移籍」程度の認識だった。
セリカ付きの見習い娼婦となったレティシアは、まだ客は取らずにセリカの身の回りの世話や彼女の客のお使いなどをして二年務め、十二歳になっていた。
レティシアはセリカのベッドルームの扉をノックしながら呼びかける。
「セリカ姐さん、朧月亭の店屋物をお持ちしました」
「ああ、ありがとね、レティシア。ゼーダさん、お夜食が来たそうですよ」
「おお。あそこの飯はなかなかイケるからな」
今日のセリカの客は右頬に大きな傷のある上背のある男だった。鋭い目つきをし、腕と背中にはドラゴンのタトゥーがあって、纏う雰囲気は堅気の人間のものではない。
ブロアード地区に本拠地を置く二大マフィアの一角、バティスティリ組の幹部だった。
着替えをするセリカをベッドルームに残し、ガウンを羽織ったゼーダがセリカ専用の応接ルームへと姿を現した。贅沢な調度品が並ぶこんなに広い空間を与えられている娼婦は、ブロアード地区の高級娼館の中でもセリカだけだ。
「ゼーダさん、お注ぎしますよ」
香辛料で味付けられた鶏料理を食べ始めたゼーダの空いたグラスに、レティシアは葡萄酒を注いだ。
「レティシアは気が利くな」
「ここでの仕事も長いので」
「それだけじゃねぇさ。この前もうちの若いのが薬の取引きでやらかしやがったのを胡麻化す手伝いをしてもらった。お前はガキのくせに頭の回転がおかしいくらいだ」
「それって誉め言葉ですか?」
「半分嫌味だな」
ゼーダはくつくつと顔を歪めて笑う。
「そうだ、実はお前に頼みたいことがあるんだ。この女、見つけ出せるか?」
差し出されたのは女性のスケッチが描かれた小さな紙だった。
セリカが軽装のナイトドレスを纏ってベッドルームから出てくると、ゼーダの紙を取り上げてしげしげと見つめる。
「あらまあ、美人さんねぇ。ゼーダさんの情婦か何か?」
「バカ言うな。あの時お前に助けてもらって以来、オレはお前一筋さ」
「あら、嬉しい」
セリカはゼーダの後ろから抱きついてしな垂れかかりながら耳にキスをする。
「で、この女は何なの?」
「ちょっとな、うちの組の……ワケ有り人物ってとこか。黒髪に水色の瞳。名前は――ネイスだ。この街のどこかにいるはずだ」
「生死は問わず見つけろって感じですか?」
「駄目だ。傷一つ付けちゃいけねぇ。説明の仕方が難しいがな、淑女の扱いを知らないうちの荒くれどもにゃ、あんまり任せたくねぇ案件ってことだ」
(なるほど。この女は何らかの重要人物で丁重に扱えってぇことか)
レティシアは緑の瞳をギラリと輝かせながらゼーダの目を覗き込む。
「この女は何者なんです?」
「お前が詳しく知る必要はねぇ」
ピシャリと質問を遮ったゼーダの様子を見て、レティシアはそれ以上の質問はやめた。
「了解です。任せてください」
(これはバティスティリ組に名を売るチャンスだ。でも、女の素性は気になるな)
レティシアは二人の食事の給仕をしながら、謎の女捜索のための算段を胸のうちで組み立て始めた。
※
夜が開けてゼーダが娼館を後にすると、セリカは応接室で煙草の煙と共に悩ましげな溜息を吐き出していた。
「さて。どうしたもんかねぇ……」
セリカの悩みの種は、天藍楼のケツ持ちがゼーダのバティスティリ組ではなく、ブロアード地区のもう一つの有力マフィア、カッシール組であることだった。超売れっ子のセリカがバティスティリ組の幹部を常連客に取っている上、その依頼で見習い娼婦が動いていることがカッシール組に知られればあまり面白いことにならないだろう。
現状では娼館内ではゼーダは極秘のVIPで通し、送り迎えも彼の素性が回りに悟られないようにレティシアが抜かりなく付き添っている。セリカにはそのような対応の客が他にもいたので、他の娼婦にもオーナーにもゼーダのことは今のところ露見せずに済んでいた。
「セリカ姐さん、これはチャンスなんじゃねぇのかい?」
セリカとゼーダの残した店屋物を摘まみながら言ったレティシアに、セリカは眉をしかめる。
「アンタ、客がいなくなると口の利き方が悪くなるのは行儀良くないよ」
「姐さんの口の悪さのがうつってるだけさ」
そう嘯くレティシアに、セリカはふぅと溜息をこぼす。
「で、何を考えてるんだい、アンタは?」
「不義理を全部ここのオーナーの責任にすり替えちまうのさ。オーナーの判断でゼーダさんを客に取りました、大恩あるオーナーの命令には逆らえませんでしたってな。そんで、オーナーには責任を取ってここの経営権を放棄してもらうって寸法さ」
「その経営権をあたしが買い取るってわけ? そんなにうまく行くかねぇ。そりゃ、とっくの昔にあたしの娼館への借金は返し終わって多少は貯えもあるし、パトロンになってくれそうな人も何人かいるから金の問題はないけどさ。組の幹部連中には、娼婦上がりの女が娼館オーナーの権利買い取るなんざ認められないって奴もいるんじゃないのかい?」
レティシアは唇の片端を吊り上げてクスッと笑う。
「セリカ姐さんほどの人望と甲斐性があれば反対する奴なんざ、ほとんどいないさ。ゼーダさんだって姐さんを助けるためにうまいこと口裏合わせてくれるはずだ」
「ふむ……」
「それに実際のところ、姐さんがいなけりゃ、今の天藍楼は立ち行かねぇ。もしグダグダ言う奴が現れたら、最終的に姉さんが『前のオーナーには世話になりました。あたしがその意思を引き継いでオーナーになれないなら、ここを辞めます』って言やぁ皆して引き留めてくれるさ。『どうかどうか、オーナーとして残ってください!』ってな」
「すごいこと考えるわね、アンタ」
セリカは呆れたような表情で、若干十二歳の赤毛の少女を見つめた。レティシアは笑みを深くする。
「姐さんがオーナーになったらカッシール組を切ってバティスティリ組に乗り換えちまいなよ。うちが集めた情報だとどうも最近キナ臭くてさ、近々、二組がぶつかることになりそうなんだ。カッシールの先代総帥がちょっと前に亡くなっただろ?」
「ああ。後目で揉めてるんだってね」
「そう。その後継者争いの潰し合いでカッシール組が弱体化してるってんで、その機に乗じて潰しにかかるタイミングをバティスティリ組が計ってるようなんだ。大きな波乱でもない限り、ブロアード地区の覇権はバティスティリ組に移るだろうよ。だからさ、うちの娼館も乗り換えようぜ。ゼーダさんに頼みこんどきゃ、抗争の混乱に紛れてうまいこと取り計らってくれるさ。あの人だってうちの店のアガリには興味あるだろうしね」
「アンタはホントに……たいした奴だね」
セリカは灰皿に煙草を押し付けて煙を消すと、真剣な表情でレティシアの顔を覗き込む。
「さすが、あたしの見込んだ女だ。わかったよ、アンタの手に乗るよ。その代わり、アンタにはうまく立ち回ってもらうからね」
「わかってるさ」
自信のある顔で笑うレティシアを見ているうちに、セリカの顔に恐れのような表情が浮かび始める。
「ねえ、レティシア。ゼーダさんがあたしのとこに通うようになったのは、組同士のイザコザで傷を負ったあの人とたまたま行き会って、匿ってあげたのがキッカケだけどさ」
「それ以来、あの人は姐さんに首ったけだな」
「まさかだけどさ、その出会いを仕組んだわけじゃないだろうね、アンタ? こうなることを見越してさ」
レティシアはふいっと視線を逸らしてニヤニヤと笑う。
「さて? 姐さんが何言ってんのか、うちにはよくわかんねぇや」
「……。あたしは時々アンタが怖くなるよ。アンタにとっちゃ、このあたしですら、アンタが成り上がるための駒でしかないのかもしれないね」
「セリカ姐さんには成功してほしいのさ。うちにとって大事な人だから」
「アンタの役に立つだろうから?」
否とも応とも答えずにニコニコ笑うレティシアを見て、セリカは一度顔を顰めてからまた溜息をついた。
「そんなに人を利用することばっかり考えてると、いつか痛いしっぺ返しを食らうんじゃないのかい?」
「ご忠告はありがたいですけどね。ダメだった時ゃ、ダメだった時さ。失敗したり誰かの怒りを買ったりで刺されたってんなら、うちはそこまでの人間だったってことだろ。ま、そんなヘマしねぇように十分注意するけどさ。姐さんにも迷惑かけたくないしね」
「レティシア……」
レティシアの緑の瞳が昏く爛々と輝いているのを、セリカは不安げに見つめる。
セリカは思った。レティシアの瞳は、まるでダイスの丁半ギャンブルに、全財産どころか自分の命まで賭けて挑んでいる者と同じような陰影を持っていると。




