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辺境伯の第六夫人! ~奥様たちは特殊戦闘員~  作者: フミヅキ
第二章 レティシア・ブロアードの華麗なる覚醒
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レティシア・ブロアードの華麗なる覚醒④

 その日の夜。


 アジトの中に入ることすら許されなかったレティシアは、体の痛みと空腹を抱えたまま、アジトの屋根の上に寝転がっていた。赤髪も顔も服も土にまみれたままだった。


「月がちょっとだけ近く見えやがる」


 どこか焦点の定まらないレティシアの緑の瞳に、丸々と太った月が写る。手を伸ばせば掴めそうにも見えた。


(なんて、届くわけねぇだろ。どうかしてるぜ)


 夏も最中のこの季節、むっとした熱気と、酔っ払いの吐しゃ物の臭いとが混ざって不快だった。


(ブロアードの外の世界はもっといいトコなのかな? でも、うちはここでやってくしかねぇんだ。ここで誰にも奪われねぇように、誰にも負けねぇようにチカラを付けないといけねぇ)


 レティシアが唇を噛みながらそんなことを考えていていると、アジトの前を通りかかった美女に声を掛けられた。


「あら、どうしたの? レティシアはまたご飯抜きなのかい?」


「セリカ姐さん……!」


 レティシアは屋根の上で飛び起きた。


 栗色の髪を結いあげ、大胆に背中を露出した深紅のドレスを纏う美人は、薄汚れたこの街からは浮いて見えた。しかし、高級娼館の売れっ子娼婦はそんなことには頓着せずにレティシアとの会話を続ける。


「その顔は何か悔しいことがあった顔だねぇ」


「そうだよ! また糞野郎どもにうちの成果を横取りされちまった。クソッ……!」


 顔をブスッとしかめるレティシアを見て、セリカはふぅと吐息を漏らす。


「蜘蛛の巣の親方も配下の管理ぐらいしっかりしたらいいのにねぇ。成果を横取りされ続けたら、やる気だって減ってくだろうに」


「ふん。これは親方のやり口さ。この前の流行り病で死んだのはうちの組の奴だけじゃねぇ。他の組でも何人か死んでて皆不安なんだ。きっと親方はうちをその不安の捌け口に使いてぇんだよ」


 投げやりに言うレティシアの言葉を「なるほどねぇ」と興味深げに聞きながら、セリカは艶やかに笑った。


「今日もうちに来るかい?」


「面目ねぇ」


 レティシアは屋根から降り、セリカの後ろについて彼女の仕事場であり住居でもある娼館「天藍楼」に向かった。


 国家公認の宗教で夫婦間以外の姦通を禁じられているフィリブリア王国において、娼館という業態はギザリア辺境伯領内に集中しており、特にブロアード地区のそれが有名だった。


 天藍楼はその中でも金持ちを相手にする高級娼館だ。天藍楼は小汚いブロアード地区の中心地からは少し離れた場所に、いくつかの同じようなグレードの娼館や料亭、湯殿など、関連施設が纏まった立地にあった。ブロアード地区とは思えないほど瀟洒な建物の並ぶ一角であり、この場所を「天国の(ヘブンズゲート)」と呼ぶ者もいる。本来であればレティシアのような薄汚れた子供が近づくことはできない場所だった。


「こっちだよ」


 セリカは天藍楼の裏手に手招きし、裏庭の端にあるベンチにレティシアを座らせた。一旦館の中に入ったセリカは、いくつかの皿の乗った盆を持って帰って来る。


「残り物だけどお食べ」


「いつもありがとよ、姐さん」


 マナーも何もなく、フォークを握りこんだ手でレティシアはすべての皿の中身を掻き込んだ。おそらく娼婦と客が近くの料亭に運ばせた店屋物の残りなのだろう。すべて冷めきって口を付けた跡のあるものばかりだったが、レティシアにとっては普通であれば口にはできないご馳走だった。


 そろそろ夜更けの時刻だ。


 娼館の女たちが客にしな垂れかかって必死に金を稼ぐはずの時間帯に、セリカがこんな風に自由にぶらついていられるのは、彼女の売り上げが他の娼婦とは桁が違うからだという事をレティシアは知っている。彼女の美しさと気っ風の良さに惚れ込んだ極太の客を何人と持ち、その余裕があるから初見の並客にも優しく接せられ、その並客の中から新たな彼女の信奉者が生まれる好循環をセリカは回している。噂によれば、娼館のオーナーですら彼女のご機嫌取りに必死らしい。


 そんな風だと他の娼婦たちからのやっかみが酷そうだが、面倒見の良いセリカは、悩みを抱える娼婦たちにそれとなく手を差し伸べていたので皆から好かれていた。


 今日はセリカにとっての休日――あるいは娼館のベッド以外の仕事をする日なのだろうとレティシアは考えた。体で奉仕するだけが娼婦の仕事ではないのだろうと。


(セリカ姐さんはきっとこの街で成功する人だ)


 レティシアはセリカのことをそう感じていた。


 皿を舐める勢いでがっついて頬張り、唇についた食べカスも指についた油脂も舐めとったレティシアは、空になった皿をセリカに返した。


「ごちでした、姐さん」


「いつものことながら、いい食べっぷりねぇ」


 苦笑し、盆を持って下がろうとするセリカを、レティシアは「ちょいと待ってくれ」と呼び止め、勢いよく頭を下げた。


「実はセリカ姐さんにお願いしてぇことがあるんだ!」


「どうしたのさ、改まって」


「実はうち、読み書きができるようになりてぇんだ。姐さんとこの娼館は買ってきた子達のために、時々読み書きとか礼儀作法の先生を呼んでるだろ。そこにうちも混ぜてほしいんだ。セリカ姐さんなら口利いてもらえるだろ?」


 社会的階級や経済力のある客を相手にする天藍楼の娼婦には、ある程度の教養が必要とされたのだ。


 セリカは不思議そうに首を傾げる。


「どうして?」


「今のままじゃ、埒があかねぇ。うちはもっと効率的にマトを騙してノルマをクリアして……いや、自立して生きてぇんだ。親方からも、この街の中でも」


 緑色の瞳を爛々と光らせながら語るレティシアを見て、セリカは口紅を厚めに塗った唇を失笑の形に変える。


「あんたの事情はわかるよ。でも、うちの娼館が……いえ、このあたしがアンタに教育を施すメリットは何? 先生を呼ぶのもタダじゃないからねぇ」


「その言い方、やっぱセリカ姐さんは天藍楼を手に入れようとしてんだな。まあ、実質的に今も半分くらいはこの娼館を支配してんだろうけど」


 レティシアの言葉にセリカの顔から笑みが消えた。


「あんた、何を言いたいわけ?」


「うちに教育を与えてくれたら、うちがセリカ姐さんを名実ともに天藍楼のオーナーに押し上げてやるよ」


 途端にセリカが吹き出して笑う。


「あらあらまあまあ! ガキのくせに大きく出たもんだね!」


 くつくつと笑うセリカに、レティシアは口を尖らせた。


「もし信じらんねぇってんなら……もし、オーナーになんのが不首尾に終わったら、教育費用は将来うちの体で払うよ」


「ふん?」


 セリカの目が興味をひかれたように、きゅっと細められた。


「セリカ姐さんが時々うちに親切にしてくれんのは、下心があるからだろ。うちの顔と頭は悪くねぇ。近い将来、親方からうちを買い取って、姐さんとこで働かそうと考えてるんじゃねぇの? その時、あれこれ言う事きかそうって今から恩売って種撒いてんだろ」


「あらまあ。くくくっ!」


 セリカは美しい顔をニンマリと歪めて満足そうに笑う。


「あたしが見込んだ玉なだけあるねぇ。いいわ。明日丁度授業のある日だから来るといいよ」


「ありがてぇ」


「うちの子たちに混ざるならその格好もなんとかしないといけないわねぇ。古いものだけどあたしが子供の頃着てた服をあげるから持っていきな。あと体を清潔になさい。その臭いもどうにかしないとねぇ。ヘブンズゲートの湯殿に入れるよう手配してあげるわ。女たちの湯浴みが終わった後の一番汚い湯でだけどね」


「セリカ姐さん、恩に着るよ。いいトコの奴らを騙すんなら格好を整えるのも必要だしな。助かる」


「この子は将来が楽しみだね」


 セリカは真っ赤な唇を歪めて満足げに笑った。



 レティシアがセリカからもらった仕立ての良い服を着て仕事を始めると、仲間を引き連れたムートが当然のように突っかかってきた。


「なんだよ、レティシア。随分と似合わねぇ服着てんじゃねぇかよ。生意気だな! それ寄越せよ。売れば金になる」


「やめろ! うちの大事な衣装なんだよ!」


 レティシアの言葉は無視され、ムートの組の子供たちがレティシアのドレスを引っ張り始める。


(やっぱり来たか。他人の足を引っ張ることしか考えてねぇ下衆どもめ!)


 レティシアは精一杯の眼力で少年たちを睨み返しながら叫ぶ。


「これはセリカ姐さんとこの衣装を借りてるんだ! これをダメにしやがったら姐さんとこの用心棒がすっ飛んできて、オメェら袋にされんぞ!」


「な……! な、なんでお前がそんな……!」


 用心棒が来るのは嘘なのたが、レティシアの言葉の効果はあった。子供たちは彼女がセリカに気に入られていることは知っていたし、彼女の言ったことの真偽を確かめる伝手がなかったからだ。


 遠巻きになっていく子供たちを睨みながら、レティシアは心に炎を燃やす。


(ふん。お前らなんかそのうち、うちの手足にしてやんよ! あの糞ムカつく親方だってな! うちがこのクソみてぇな街を仕切るくらいにまでなってみせる!)


 若干八歳で、レティシアはブロアード地区で成り上がる強い野心を抱えていた。

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