レティシア・ブロアードの華麗なる覚醒③
レティシアは物心がつく前にブロアード地区のゴミ捨て場の端に捨てられた。そんな彼女を拾ったのは、子供を手足に使う窃盗グループ・蜘蛛の巣だった。彼らのターゲットは主にブロアードに訪れたばかりの不慣れな者たちで、主に掏摸、ひったくりをメインとしたグループだった。
グループ内の大人は親方一人。彼は子供たちをいくつかの「組」に分け、年長者に年少者の面倒を見させつつ、組ごとに盗品の成果を競わせた。トップ成績の組には褒美を、日々のノルマを達成できなかった組には体罰を与えることで競争を煽る。その結果、組間で必死に成果を競い合うようになり、そのいがみ合いはエスカレートして、口喧嘩から流血沙汰に発展することも珍しくなかった。
レティシアは十三歳の女子がリーダーを務める組に入れられ、彼女らに面倒を見てもらいつつ、基本的な盗みの技術を磨いていった。しかし、不運なことにこの組のメンバーは流行り病にかかり、当時八歳のレティシアを除いて全員が死んでしまったのだ。
蜘蛛の巣の子供たちは病気にかかっても治療を受けることはおろか、盗品のノルマを下げることも許されなかった。食事や寝床は成果を上げた組の子供たちに提供され、病人が増えて成果を上げられなくなったレティシアたちの組は劣悪な衣食住の環境に置かれ続けた。それが子供たちの寿命を決定的に縮めたのだ。
レティシアが酷い咳と高熱から回復したのはたまたま幸運に当たっただけ。
(親方はうちらを切り捨てたんだ!)
悲しみと不安を悟られまいと、まだ八歳のレティシアは心の中で怒りを駆り立てて顰めっ面を作ることに努めていた。そんな彼女を見て、蜘蛛の巣の親方は無精髭を撫でながらニヤニヤと笑う。
「可哀そうになぁ、レティシア。だがな、お前を別の組に入れてやることはできねぇ」
「わかってるっすよ。今までいがみ合ってた他の組に、どのツラ下げて入れるのかっつーことっすよね」
「わかってんじゃねぇか。つまり、お前は今からたった一人だけの『組』になる。しかし、一人とはいえ組は組だ。お前ひとりでも最低限、組のノルマはちゃんと達成しろよ」
「え、いくらなんでもそりゃあ無理ってもんじゃ……」
親方は口ごたえしたレティシアの頬を殴り付け、さらに、うずくまった彼女の腹を蹴り上げた。
「ガキのくせに生意気に意見すんじゃねぇ! この野郎! こっちだってなぁ、マフィアに決まった上がりを献上しなきゃなんねぇ立場なんだ。必死なんだよ! わかってんのか、えぇ⁉ オイ!」
「わ、わかりました……! わかりましたよ、親方! すみませんでした!」
レティシアは痛みに耐えながら土下座して許しを請うた。
彼女はたった一人で高い成果を上げなければならなくなった。組のメンバーの助けを得られないレティシアは、今まで以上に仕事に工夫をすることが必要となった。
※
ブロアード地区のごみごみしたメイン通りには、明らかにこの地区の人間ではない男二人が歩いていた。成金趣味の服と、周囲への警戒が足りない隙のある足取りから、おそらくはエネリア砦の兵士相手に商売するため領都あたりから来た商人で、ついでにブロアードの娼館街に遊びに来たような連中だろうとレティシアはあたりを付けた。蜘蛛の巣にとってはいい鴨だ。
だが、レティシアはまだ手を出さない。近くに見知った顔があったからだ。
その見知った顔――レティシアの競争相手の組の少年は商人の片方に向かって走り出すとぶつかり、謝りもせずに再び走り始めた。ぶつかられた商人は目を白黒させていたが、もう一人の商人がハッと我に返り、少年を追って走る。
「そこのガキ、待てー!」
大人の脚力に少年は勝てなかった。商人は少年を捕まえ、彼の手に握られていたものを取り上げる。
「コイツ、掏摸だ!」
「おお! ワシの財布だ!」
呆けていた商人も追い付き、慌てて財布を取り返す。
「クソガキめ、砦の兵士に突き出してやる!」
「くそ! 放せ~!」
少年は商人の腕に噛みついた。
「ギャ!」
緩んだ腕から逃げ出した少年は、二人の商人に向かって目くらましに通りの砂を投げつけてから踵を返して走り出す。
「くっそー! もうちょっとで成功だったのによぉ! 覚えてろよぉ!」
少年の悔しげな捨てゼリフが通りにこだました。商人二人は取り戻した財布の無事を確認してニヤリと笑う。
「ふん。あんなガキがワシらを出し抜けるものか」
「我らのような金扱いのプロから金を奪おうとするなど、浅はかな子供だ」
(よし! あのおっさんら、今ので油断してんな! これでつけ込みやすくなった)
掘っ立て小屋の影でレティシアはニンマリと笑い、次にはそれを消して人懐っこい無邪気な少女の顔を作ってから通りに出た。
「大丈夫かい、おいちゃんら。さっきの奴のせいで服が砂で汚れちまってるぜ。せっかくの男前が台無しじゃんか」
そう言って、レティシアは布切れで商人の服を拭ってやる。
「む……悪いな。嬢ちゃん、ありがとよ」
「この街にも優しい子供はいるんだな」
レティシアは、今度はモジモジしながら商人二人を見上げる。
「あの……実はさ、お礼を求めるわけじゃねぇんだけど、うちはそこでやってる飯屋の娘なんだよね。夕飯にゃちょっと早ぇけど、休んでったらどうだい? 割引きするぜ」
「ハハハ! お嬢ちゃんは商売上手だな。よし、行こうか?」
「おお! 少し座らせてもらいたかったところだ」
「よっしゃ! 父ちゃん母ちゃんにお客さん連れてきたって褒めてもらえる! おっちゃんら、さっきのガキにやられて歩くの大変だろ。うちに掴まって!」
「ハハハ! お嬢ちゃんは力持ちだねぇ」
必死に二人の大人を支えようとする少女の健気な姿に、商人たちは微笑ましさを感じたようだった。料理屋に連れて行くと、レティシアはまた客引きに行くからと店からそそくさと出ていった。商人たちは「子供ながら商売熱心だ」と最後まで彼女を疑うことはなかった。
レティシアは掏摸の成功に気分が湧きたって歩幅や足取りのリズムが変わることがないよう気を付けながら、町はずれのバラックの間の死角に入り込む。懐の中にある「二つの財布」の中身を覗き込んで彼女はニヤリと笑った。
(よっしゃ! 成果は予想以上だぜ。これで今日のノルマはクリアだな。色々仕込んだ甲斐があったってもんだ!)
レティシアは競争相手の少年より先にこの二人のターゲットを見つけていたが、一人での仕掛けに不安を感じていた。そこで、少年にそれとなく情報を流した。彼の組は技術が雑なせいで失敗率が高いので、その間隙を縫って成果を掠め取ろうと計画したのだ。
(あとはこの財布を親方に渡せば……! でも、その渡すまでがな……)
レティシアは警戒するように周囲に視線を配りながら走り出す。
アジトに使っている掘っ立て小屋の近くまでやって来たレティシアは、建物の影からキョロキョロと周囲の様子を入念に伺う。人影のないことを確認して、レティシアは思いきって通りを駆け出した。あと一歩でアジトだったが――。
「何コソコソやってんだよ、レティシア!」
嘲るような声と共に、レティシアは背中を思い切り蹴り飛ばされた。小さなレティシアは吹き飛ばされ、前方に倒れ込んだが、それでもくじけずに素早く起き上がって逃げようとした彼女を、彼女よりも一回り大きい少年たちが取り押さえる。
「そいつを渡しな、レティシア!」
「嫌だ! やめろぉ! 放せ!」
少年たちはアジトの隣の崩れかけたテントに潜んでいたらしい。レティシアの首を肘で抑え込んでいるのは、さっき盗みに失敗した少年の組のリーダーでムートという名の少年だった。襲ってきたのはムートと同じ組の数人の子供たちで、レティシアの必死の抵抗もむなしく、少年たちは彼女の戦利品を奪い取る。
「それはさっきうちが盗ったやつだろ! うちのノルマに必要なんだ! 返せよ!」
「知らねぇよ! お前から奪ったら、オレらのものだっつーの!」
「チクショウ……!」
親方のいるアジトは目の前だった。あの財布さえ渡せれば、ノルマを満たして今日は温かい飯と柔らかい寝床にありつけたのだ。
「残念だったな、レティシア!」
そう言って、ムートはアジトの扉を開け、安楽椅子でくつろぐ親方に、レティシアから奪った二つの財布を差し出す。親方は嬉しそうに笑い、「よくやった」と少年の頭を撫でた。
「そ、それは! ホントはうちが盗ったやつだぞ!」
アジトの外でレティシアが悔しげに叫んだが、親方は不機嫌そうに口を曲げる。
「オレはここで待ってる。そこにお前らはブツを届ける。わかってることだろ、レティシアよぉ? オレは最終的に誰がオレんとこに物を持ってきてくれんのかって事だけを見てんだ」
「ぐ……。で、でも……! 組同士で成果を取り合うなんざ、不毛ってもんだろ! そこら辺のルールを親方が是正してくれよ! 組の間でいがみ合うのをやめて、盗みにチカラを集中した方が蜘蛛の巣全体のためになる! そもそも、うちがたった一人で他の組と同じノルマを課せられるってのが不公平で……」
早口で捲し立てていたレティシアは、ハッとして口を閉じた。親方の口元がヒクヒクと怒りに震えていたからだ。
「アイツはグループの序列ってもんがわかってねぇみてーだな。教えてやれ」
「へい」
ムートはニヤリと笑い、腕をポキポキと鳴らす。ムートは後退りするレティシアの腹を殴り、蹲った彼女の体を笑いながら蹴り続けた。そんな様子を他の子供たちが喝采をあげながら見ている。
「ギャハハハハ! レティシア、おめーはホントに口だけだな! 悔しかったらやり返してみろよ!」
(クソ……! クソ……! ムートの奴め! 盗みの技術も、仕掛けを考える頭もねぇくせに、こういう時だけイキがりやがって!)
まだ体が小さく、腕っぷしも弱いレティシアは、他の組の子供たちからの暴力に抵抗する術がなかった。
(糞クソ糞! こんなクソみてぇな街で、クソみてぇな奴らに好きにやられて、やってらんねぇ! いつか絶対ぇ目にもの見せてやるかんな!)
袋叩きにされながらも、レティシアの緑の双眸は爛々と輝いていた。




