誰かの凪のあと
あまり多くを語る必要のない物語です。
あの女の子が今どこで何をしているか、誰かご存知の方はおりませんでしょうか? 名前は美しい祈り、と書いて美祈、今頃はもう、小学校六年生になっているはずです。しかし残念な事に、それ以上の手がかりは何ひとつとしてありません。人探しをしているのに、たったそれだけしか手がかりがないだなんて、なんと馬鹿げた話だと思われる事でしょう。でも、本当に、たったそれだけしか手かがりがないのです。
美祈と名づけたのは私の祖父でした。その祖父が先日、亡くなりました。亡くなる間際、祖父はしきりに美祈の事を気にかけていたのです。「美祈を引き取ってやれなかった事だけが心残りだ」、と。
…そう、亡くなった祖父のためにも、私は美祈を探し出してあげたいのです。そして祖父の死を伝えたいのです。私には、祖父と美祈が無関係だった、とは、どうしても思えないのです。
あの日私は、奇妙な出来事を体験しました。それはそれは、とても不思議な出来事でした。その体験を周囲の大人たちに話したところ、やれ「子どもの馬鹿げた妄想だ」とか、「まだ寝ぼけていて夢に見た事を現実だと思い込んでいるのだろう」とか言って嗤うばかりで、全く信じてはくれませんでした。両親ですら信じてはくれなかったのです。信じてくれたのは祖父だけでした。だからこそ、なんとしてでもあの美祈という少女の事を探し出さなければならない義務が私にはあると思っているのです。だからどうかお願いです、少しでも心当たりのある方が居たら、何でも構いません、どうか教えて頂きたいのです。
☆
それは十二年前、まだ私が子供の頃の事でした。夏休みになり、大好きだった祖父の家に泊まりに行った時、私は件の不思議な体験をしました。しかし、誓って言います、私の話には嘘なんて少しも混じってはいないのです。だからどうかこの点だけは信じて頂きたいのです。
私の祖父は漁師をしていました。それも昔ながらの漁師で、一人で小さな船に乗り、沖の方で鮪や鰹を釣るというやり方をする人物でした。私はそんな祖父が大好きで、毎年、夏になるたび、海沿いで一人暮らしをしている祖父の家に遊びに行く事を何よりの楽しみにしていました。
それはたいへん静かな夜の事でした。急に凪いだ海を見たくなった私は、寝静まっている祖父を起こさぬよう、静かに家を抜け出しました。歯を磨いた後なので、本当はいけない事だと分かってはいたのですが、誘惑に負けて飴玉を口の中に入れてから、砂浜へと駆けて行きました。祖父の家と砂浜は、徒歩で数分の距離でした。凪いだ海には白い月が浮かんでいました。
暗く静かな海岸に着くと、砂浜の上に、お腹の大きな女性が一人、横たわっていました。まさか、と思いながら近づいてみると、私が予知したとおり、なんとその女性は妊婦だったのです。私はすぐ近くまで駆け寄り、
「大丈夫ですか?」
と話しかけてみました。まだ幼かった私にも、その息の荒い女性が出産直前の状態である事は女の本能で理解できていました。
「すぐに救急車を呼びます。待ってて下さい」
その女性にハッキリと聞こえるよう、耳元で大きな声を出しました。するとその女性は私の手を掴み、思いのほかしっかりとした口調でこう言ったのです。
「救急車に来てもらっても駄目なんです。それよりもお嬢さんにお願いがあります。その前に確かめたいのですが、泳ぐ事はできますか?」
なぜそんな事を聞くのか、理由はまるで見当つきませんでしたが、ともあれ私は質問されたとおり、「泳げます」と答えました。スイミングスクールに通っていたので、泳ぐ事には強い自信を持っていました。夏に学校で行われる水泳の授業なんて、スイミングスクールでの練習に比べたら全然緩いと思っていましたし、同じ歳ごろの男子たちよりも速く泳げる事を何よりの自慢に思ってもいました。
「なら良かった。沖の方に小さな島があるのはご存知ですよね?」
「小さな島?」
そんな島なんてなかったはず。…そう思いながらも妊婦が指差す方向を見やると、なんとそれまで海面に浮かんでいたはずの白い月が消えていたのです。そして同じ場所に、それまでなかったはずの小さな島がはっきりと見えたのでした。
「あの島には神社があります。そこの祠に、このへその緒を納めて来て欲しいんです。そうでないとこのお腹の子は無事に産まれません。だからどうか納めて来て下さい」
その妊婦の切実な物言いに圧倒された私は、「何故そうなしなければ無事に産まれないのか?」という根本的な疑問を確かめる事もせず、へその緒を受け取るとすぐに服のまま海へと駆け出して行きました。そして右の親指の付け根にへその緒を挟んで、一番得意なクロールで小さな島へと向かいました。
夜の海は思っていたほど冷たくはありませんでした。距離にして100メートルほど泳ぐと、指先に島の砂浜の感触を感じ取りました。すぐに立ち上がり、辺りを見渡すと、そこには朱い鳥居が幾重にも重なった参道がありました。その参道は石段が積み重ねてあり、その石段の両端には灯の消えた灯籠がありました。私が石段を、一段、一段と登っていくと、足を踏み出すたび、その段の灯籠もまた、一つ、また一つと、闇夜の中に儚くも幻想的な光を放ち始めました。私はそれを不思議だとも、奇妙だとも、そして怖いとすらも思いませんでした。むしろ逆に、歓迎してくれているのではないかとすら感じられる仄かで暖かい光に、私は導かれるかのように参道の石段を踏破しました。
人っ子一人としていない夜の神社に入るのはこの日が初めてでした。そんな普通だったら肝試し大会でもなければ有り得ないような状況を、やはり私は、不思議と何故か少しも怖いとは感じませんでした。暗い地面に、アーモンドのような形をした光る何かが二つ、浮かんでいるのが見えました。きっと猫の眼に違いないと思われるアーモンド状の光は、私を警戒しているのか、ジッとこちらを見つめていました。やもすると、
「珍しいな、ヨミシロ祭りにニンゲンがやって来るなんて…」
と言う声が聞こえて来ました。それはどうやら猫の声ののようで、私の意識の中にハッキリと聞こえて、否、感じられるのでした。とろこで、こんな静かな境内で、どうして「祭り」が行われているなどとの言えるのでしょう。私はただただ疑問に思うより他に考えが浮かびませんでした。そんな疑問がその猫には分かったらしく、
「…えっ? これのどこが祭りだって? 祭り以外の何物でもないだろうに…。全くニンゲンってやつはやかましいのが好きだからな…」
その猫は更にこう語りかけて来るのでした。
「…昔まだボクがニンゲンのいる千代の世界にいた頃、"外は危ないから"っていうわけの分からない理由で窓の外へ出してくれないニンゲンの女がいたんだ。危ないもへったくれもないよ、動物はみんな、いつか必ずこっちの世界にやってくるっていうのに。とにかくそのニンゲンの女が、ボクの体と同じくらいの大きさの木の箱から、オンガクとかいう名前の騒音をよく垂れ流してたんだよ。それもこっちが眠かろうとなんだろうとお構いなしに、ね。ボクがこっちの世界に渡って来る時も、やたらめったら大きな声で泣いてたよ。ニンゲンってホント、ウルサイのが好きだよね。ところで君がこっちに来た目的はなんだい? ああ、そのへその緒か。なんたって今日はヨミシロ祭りの中でも百年に一度しかないヨミシロカミ大祭の日だからね、人間の子一人くらい、そっちの世界へ送り帰すぐらいの事は造作もないよ。おいで」
鳥が羽ばたく音が聞こえてきて、それと同時にアーモンド状の光は音もなく闇夜の中に霧散してゆきました。それを不思議に思いながらしばらく境内の中を歩くと、「ああ、きっとこれに違いない」、と思われる、目的の祠を発見しました。そこにへその緒を捧げ、手を合わせました。すると再び、
「さあ、これでもう用は済んだだろ。人間はただここにいるというだけですでにもうじゅぶんすぎるほどやかましいんだ。とっとと帰ってくれないか」
さっきの猫のものと思われる声が聞こえてきました。言われるまでもなく、私は再び夜の海へと向かいました。むろんあの妊婦の元へ帰り、へその緒を無事収めた事を報告するためにです。
私が、更に更に不思議な体験をしたのは、まさにその直後の事でした。石段を降り、海に潜った直後、まるでコーヒーの中に落ちた角砂糖のように、あるいは口の中に放り込んだ飴玉のように、私の身体が細胞レベルにまでバラバラになって、海の中へと溶け出してゆくかのような未知の体験をしたのです。そして、まだマグマの海だった遠い遠い昔の地球が次第に冷え始め、水蒸気が発生して大気に雲が生まれ雨が降りだす光景を目の当たりにしたのです。更に、地球の永い歴史の中から、生命の誕生する奇跡の瞬間を、走馬燈のように目の当たりにした時、私の意識は突然目覚めました。
気づくと私は、砂浜に寝そべっていました。凪いだ海には朝陽が登り始めていました。そして驚いた事に、私の隣には、白装束に包まれた女の子の赤ちゃんが、大きな声を上げて泣いていたのです。不思議な事に、私に用を頼んだ妊婦の姿は、砂浜のどこをどう見渡しても見つかりませんでした。私はその赤ちゃんを抱きかかえると、すぐさま祖父の元へと向かいました。
「おじいちゃん見て! 砂浜に赤ちゃんがいたの!」
家に戻るやいなや、私は大声で祖父を呼びました。すると祖父は、
「なんていう事だ! これではまるで美祈に瓜二つじゃないか!」
その赤ちゃんを見るや否や、そう言って非常に驚いていました。
「誰? その美祈って?」
「話は後だ。おじいちゃんはこの子をお風呂に入れる。お前は自転車で紙オムツと粉ミルクを買って来てくれ」
赤ちゃんを抱き上げた祖父の背中に、私は「分かった」と声をかけ、自転車を走らせました。買い物を済ませた後、すぐに飛んで家に戻り、粉ミルクを淹れ、紙オムツをつけてやりました。もろもろの作業がひと段落つき、赤ちゃんが眠りについたのを確かめてから、その「美祈」という人物について祖父に尋ねました。
「お前には話してなかったかも知れないが、おじいちゃんな、死んだおばあちゃんと結婚する前、他の女の人と結婚してた事があったんだ…」
白装束に包まれ、スヤスヤと気持ちよさそうに寝息を立てる赤ちゃんを見守りながら、祖父は訥々と話し続けました。
「…その女の人との間に女の子の赤ちゃんができたんだが、当時はまだ戦時中でろくな食い物がなくて、産まれてすぐにその子は死んでしまったんだ。戦争が終わると食糧難はさらに酷くなって、タチの悪い風邪をひいてその嫁も死んでしまったんだ…」
祖父が淹れてくれたお茶を飲みながら、畳の上で姿勢を正しました。むろんそのお話の深刻さを受け止めたからに相違ありません。
「赤ちゃんが産まれた時、一刻も早く戦争なんて終わって欲しい、そんな祈るような思いを込めて『美祈』と名付けたんだ。もちろん戦時中にそんな事を言ったりしたら、たちまち非国民だと言われて村八分にされかねないし、この名前の由来はお祖父ちゃんと嫁と二人だけの秘密にしていたんだ。美祈が死んだ日も、この海から日本の街を焼きに飛んで来るB29を見たよ」
「その時の赤ちゃんと、この子が瓜二つだって言うのね?」
そう尋ねると、祖父は「ああ」と言って頷きました。
「ところでこの子はどうして砂浜にいたんだ?」
祖父の質問に対して、私は先ほど体験した奇妙な出来事を全て話しました。
…夜の砂浜に産気づいた婦人が寝そべっていた事。
…夜の海に浮かんでいた月が、いつの間にか島に変わっていた事。
…島に泳ぎ着くと、そこには神社があった事。
…神社ではヨミシロ祭りという祭りが行われていると猫に話しかけられた事。
…異様なほど静かだったのにも関わらず、その猫はこの神社では今祭りが行われていると主張していた事。
…そしてその祭りは、ヨミシロ祭りの中でも百年に一度のヨミシロカミ大祭と呼ばれる物で、人の子一人くらいならこちらの世界へ送り返すぐらい造作もないと言われた事。
…へその緒を祠に納めた後、自分の体が海に溶け込んで太古の昔から現在に至るまでの地球の姿を確かに見た事。
…そして目が覚めたら、白装束に包まれた女の子の赤ちゃんと共に砂浜にいた事。
ひととおり話し終えると、なんと祖父は、
「そういえばこの子、まだへその緒がついていたな。おじいちゃんもお風呂に入れてやった時、その事が気になってたんだ」
と言うのでした。
「ねえおじいちゃん、その、最初のお嫁さんの写真、持ってないの? もしあるなら見てみたいんだけど」
祖父からへその緒がついていたと聞かされ、私は淡い予感を感じました。写真について尋ねたのは、その淡い予感を確かめたかったからに相違ありません。祖父は古い箪笥の一番上にある引き出しの奥から、一葉の写真を出し、私に見せてくれました。…すると、なんという事でしょう、その写真には、先ほど砂浜で産気づいていた婦人とそっくりな女性が映っていたのです。
「あの妊婦さんとこの写真の女、そっくりだ!」
「ますますもってして不思議な話だな。実はな、この写真と一緒にへその緒を和紙に包んで引き出しの奥に大事にしまっていたんだ。ところがいま写真を探した時にへその緒だけが見当たらなかったんだ。だからその不思議な話が夢や幻だとはおじいちゃんにはどうしても思えなくてな…」
あまりにも奇妙な出来事に、しばらく間、私と祖父は黙りこくってしまいました。その重い沈黙をかき消したかった私は、
「ところでこの後どうしたらのいいのかしら?」
きわめて当然の事を祖父に尋ねました。祖父はしばらく考えあぐね、
「警察に届けるしかないな」
ひとりごちる時のような口調でそう言うのでした。後は最初にお話しした通りです。警察にもあの不思議な体験は説明したのですが、前述のとおり、やれ「子どもの馬鹿げた妄想だ」とか、「まだ寝ぼけていて夢に見た事を現実だと思い込んでいるのだろう」とか言って嗤うばかりで、全く取り合っては貰えませんでした。さりとてではこの赤ちゃんの母親はどこにいるのか、それを説明できる人もいません。謎が謎を呼ぶばかりで、誰にも本当の事は分からず終いだったのです。
「この子を引き取りたい」
祖父は警察にそう申し出ました。しかし警察が行政に問い合わせたところ、「条例では、一人暮らしの老齢の男性が孤児を引き取る事は許されていない、だからそれは受け入れられません」という意味の返答をされ、にべもなく却下されてしまいました。
「だったらせめて、名前をつけさせて欲しい。美しい祈りで、『美祈』がいい」
「ご要望に沿えるかどうかは分かりませんが、ご意見だけは聞いておきます」
そのやり取りからしばらくした後、施設の車がやって来ました。そしてあの女の子の赤ちゃんは婦人警官に抱かれて施設へと去って行きました。
もうお昼を過ぎているというのに、その日の海はやけに静かに凪いでいました。
☆
もう一度お尋ね致します。あの女の子が今、どこで何をしているのか、ご存知の方はおりませんでしょうか? 正直に言うと本当は、今でも「美祈」という名前で呼ばれているのかどうかすら分からないのですが、しかし私にはどうしても、その子の名前は「美祈」に違いないと思えてならないのです。あの子と祖父が無関係だとも思えません。だからどうしても、あの子に祖父の死を伝えてあげたいのです。
あれからもう十二年が経ちます。あの日私は十二歳でした。つまり「美祈」は今、あの日の私と同じ歳なのです。だからというわけではありませんが、私にはあの子が見つかるのではないかという予感がしてなりません。とにかくどうか、どうかお願いです、何か少しでもご存知な事があるのでしたら、どうか私に教えて頂きたいのです。
そういえば先ほど、「お隣の国」が、「私たちの国」の島のすぐ近くにまたしても船を寄越してきたとニュースで報道されてましたね。「あの国」は、何かあるとすぐに私たちの国が昔やらかした事を蒸し返しては悪く言ってくるくせに、そういう自分たちは、「私たちの国」がかつてやっていた事と同じ事をしようとしている事に気づこうとはしません。また戦争になるのでしょうか、嫌ですね。これでは、「ニンゲンは、ただいるだけでやかましい」と言われても仕方ありませんよね。ああ、でも、「美祈」が見つかれば戦争を避ける事ができるのかも知れませんね。それともこればかりは、私の期待し過ぎでしょうかしら。
とにかく、「美祈」について何かありましたら、どうか教えて頂けますようくれぐれもよろしくお願い申し上げます。
前書き同様、多くを語る必要のない物語です。