青空のすごく不思議 ~SF of the Magic Hour~
気が向いた。何の気なしに、同僚から手渡されたチケットが勿体ないとか、ただそれだけの理由で彼女は其処に足を踏み入れた。
十年近く前に夢とか憧れで終わらせた、十代の苦い思い出の詰まる場所だ。
そこは病的なまでに無機質だった。
無駄という物を極限までに排すればこういった空間が出来上がるのではないかというほどに無駄という無駄の省かれた、ただ観覧するという目的の為だけに誂えられた、それ以外に無駄な用途の無いただ一つに局限された無機質。
白いタイル地の壁、黒い木目調の妙にエナメル質な光沢を放つ硬質な床材、金縁の額に飾られるキャンバス地に極彩色の青、巨大な窓ガラスの向こうは似つかわしくない枯山水、何故か場の雰囲気にそぐわないショパンの第十五番変ニ長調、通称『雨だれの前奏曲』。
欠伸をする警備員、同僚同士で長時間話し込む典型的な“出来ない”職員、飾られている物の価値とかなんて殆ど分からなそうなカップル、スーツ姿の幾人か。
近頃話題の画家の個展だ。
青空ばかり描く、他に何も取り得の無い画家らしく、飾られている絵の殆どは時間や季節の異なる青空、時折夕暮れや朝焼けも混じっている。その中で一つ彼女の目に留まった物があった。
その完成度は真に迫っている。
写真で撮ったかのような鮮やかな空の切り口に挿し込む紫、黄や赤、雲に一筋混じる灰色や黒のコントラストは雨上がりの空特有の様々な色の交じり合う極彩色。心を打つ彼女の原初の風景だ。
挿し込むことのない乱反射気味の陽光は明暗を分けて、雨雲の向こうに見える青空の雲は一段高く、それが春や夏をモチーフにしているとわかった。そんな無力感しか伴わない理解に尚のこと、胸の奥にツンときた。こんなだから、来たくはなかったのだ。
若い頃は派手な友達がいたが、その派手さはどうやら私には感染してくれなかったようだ。
そんなふざけたことを考えることで気を紛らわせているが、これがなかなかどうして惨めな気分になる物だと直後に自嘲する。
やり甲斐もなく、ただただ弾力性を失って浪費するように生きる日々。仕事に生き甲斐を見つけられたなら幸せだっただろうが、仕事をしている時、まるで己は死んでいるのではないかとすら思えてくる瞬間が幾多あったことか。
脳死、そう脳死している。
右から左に、左から右に、前から後ろに、後ろから前に――毎日がそんな感じの単純作業で構成されている。単純な業務で構成されている。そんなことはないはずなのに、毎日中身は変わっているのに、続け過ぎてそんな些細な違いにも面白みを感じられない。その癖効率的な仕事での立ち回りだけはどんどん習熟していく。
失敗はするだろうが、概ねそれほど深刻な失敗は繰り返さない。ならば何を考えずとも、そう、息を吸って吐くだけの機械になっても何ら問題はない。
故に、脳死だ。生きていようが死んでいようが変わらず、生きているように死んだようにしているなら、それは脳死している。生きた脳死体が仕事を肩代わりして11時間を無為に過ごしている。
高校生の頃は、もう少し充実していたような気がした。大学生の時はちょっと違ったが、少なくともあの日々は、掛け替えの無かった筈のあの思い出したくもない思い出の日々は圧倒的価値を伴って彼女の胸に去来する。
思い出の残り滓を食む。もはや思い出すことさえ難しい輝かしかった思い出の残り滓を食んで居れば、また明日も生きていられる気がした。
定期的に去来する郷愁とか、躁鬱病染みた気分の高低とか、そういった端的に云って寂寥を覚える度に立ち止まって思い出の残り滓に舌鼓を打っていれば戻らなくても良く、進まなくても良い天国染みた地獄に居られると知っていた。
嗚呼、随分減っちャッたな――マう味も麻痺シテて分かラなヒナ
そんなとき、目が合った気がした。あの時の彼女と何処か似た雰囲気を持つ、彼女とは真反対に焦げ茶色の髪をしたパンツスーツ姿の女。
大事な話し合いの最中だろうに女は不思議と彼女の方を凝視していて、不意に小さくを手を振って微笑みかけてきた。人違いかと思えば、周りには誰もいない。ぱっと見美人なあの女に見合いそうな男の影もない。間違いなく、彼女に手を振っているのだ。
まるで生きている世界の違うような人間が彼女を知覚し、彼女に間接的に接触を図ろうとしていること自体が中々に面白いことのように思えた。好印象を残して置けば新しい取引先になってくれるだろうかと、脳死気味の脳味噌が仕事を引っ張り出そうとするのを自覚している。
しかし思う通りに手も、表情筋も動かない。
不思議なことに、毎日の仕事で表情筋も手も嫌と云うほどに動かしてきているというのに、あの女を目の前にしては蛇に睨まれた蛙のように、怖気づいたかのように、金縛りにでもあったかのように指一本動かせなくなってしまったのだ。
似過ぎていた。そんな所作を彼女はしなかったが、獲物を見つけて捕らえようとするネコ科の動物のようなあの瞳には見覚えがある。
その瞳から目が離せなくなるのは必然だったのだろう。稀代のイケメンとやらにあっても動じることの無かった彼女が、しっかりと化粧のされた整えられた整った顔立ちを目にして目を釘付けにされた。もはや訳が分からなさ過ぎて意味もなく泣き出したい気分だった。
そうするうちに、女の方は微笑みのまま彼女を見つめ続け、やがて詰め寄るスーツ姿の男や女を蹴散らすように彼女の方に向けて一直線、一条の光線となったかのように傍に立っていたスーツ姿の別の女性の制止すら振りほどいてゴツゴツと嫌に響く靴音を立ててやってくる。
よく見れば女が履いているのはパンプスやハイヒールといった所謂“女らしいとされるモノ”ではなく厚手の革の目立つコンバットブーツやら呼ばれるものだ。
そういった趣味でもあるのだろうかと現実逃避気味に考える彼女の元に、しかし女はその歩みを緩めることなく、いっそ歩調は崩れ小走り気味な大股歩きで彼女の方に一直線、狙いが逸れる様子はない。
避けようと思って動くことは出来なかった。どんな魔法を使っているのか、女に睨まれた彼女の足が素直に云うことを聞くことはありえなかった。
女の加速は加速度的に加速して、直後の抱擁。親しい友人と久々に再開したかのように、女は何の衒いもなく彼女を正面から抱きしめ悪戯の成功した子供のような笑顔で彼女の瞳を覗き返す。
「気に入ったのはあったかな。頑張ったんだよ、君の望む青空を作りたくって。うちにもまだまだあるけど、見ていくか?」
□
私は雨の日が好きだ。堪らなく雨の日が好きだった。
別にライトノベルの主人公みたいな、雨の日に生まれたとか雨の日にトイレの中で生まれたとか、そういった理由ではない。雨上がりの空が好きなのだ。
一般的に、雨の日は最悪だと云われるだろうが、彼女からしてみれば雨の日は最高の天気だと云えた。
雨の日はスカートが濡れるから、雨の日は靴の中がぐしょ濡れになるから、雨の日に傘を忘れるだなどとんでもない、翌日には風邪ということで休めるかもしれないが。
彼女も認めるところだ。ブーツにズボンの裾でも入れない限り雨水が靴の中に侵食してくるあの感覚は幾つになっても慣れるものではないと、雨の日が大好きな彼女も認める欠点だと云える。
別に日差しが苦手なわけではない。逆に晴れの日も好きだ。空一面に青のキャンバスが広がり、真っ白な太陽が地上をジリジリ焼く感触や草花が気持ち良さそうにユラユラ揺れる姿、雲の高い感じはまさしく青空と称して誰からも賛同を得られそうなものだ。
それでも晴れの日に負けず劣らず彼女は雨の日が好きだった。その理由もその感情も単純明快。
雨が降りしきる街の姿、ツンと冷え込んだ街の匂い、草花の明瞭な匂いに交じる土の香り――そして何より彼女を惹きつけてやまないのは、雨が降る最中の雲の切れ間から覗く陽光や灰色のキャンバスの合間から覗く青空、雨上がりのしつこくない湿気の香りに交じる空の匂いと青と灰の境界線から覗き見える青の極彩色。
虹だとかそんな陳腐なものではない。青に交じる極彩色が彼女は堪らなく好きなのだ。狂おしいほどに愛している。
少し日が傾いてきた夕方と昼間の中間色の雨上がり、雨上がりのマジックアワーと彼女が呼ぶところに於けるその時間にそれは目撃できる。
どんよりとした灰色の雲が風によってかき分けられ広がるクレバスのような切れ間が向こうに広がる青空を写す。
なるべく低い雲が良い。より明瞭にその光の極彩色を眺めることが出来るから。
そんな低い雲を見つけたなら、雲の切れ間と切れ間の間、青空と雲の隙間から日の光と共に漏れ出る光はきっと極彩色に彩られているだろう。
日の光は雲の谷間を通り過ぎこちらに降ってくることはない。海水の反射によって彩られる青と、微量に挿し込む光がそれを彩っているのだ。
虹ではない。これは日の傾きによって空の色が切り替わっていく瞬間の極彩色だ。それが水分過多な地上から極彩色のようになって見える。自然の織り成す天然の極彩色。
雲の向こうが微かにオレンジがかっていて、そこから三原色とかを無視したような配置で色が連なっている。
橙色、薄橙色、肌色、桃色――日が少しずつ傾くたびにそれらの色合いは少しずつ変わっていく。青と紫と赤の交じり合う空の美しさを表現するにはこの世の中にある語彙はあまりにも貧弱だと常々思う。
そんな空が見られるから、彼女は堪らなく雨の日が好きだった。
彼女が美術部に所属していたのは、そんな理由からだ。
市大会での受賞や県大会での受賞――多少なり自信のついてくるそれらの事柄に彼女は何ら慰められることはなかった。誰にも面白がられない反応だとしても、彼女にとっては不満足極まりない出来だったのだ。
期日が迫っていたからそれら駄作の中で最もマシな出来の物を提出しただけで、その出来に満足など決してしていない。
――色合いが違う。息遣いが違う。筆致が違う。明暗が違う。光の方向が違う――何を取ってみても、私の思い描く理想の空にはなり得ていない。
駄作だ。駄作でしかない。コンナモノは――
額に入れられ校内の一層目立つ一角に飾られた入賞作品を切り裂いたのは、陶芸家がそうするように、納得いかないじぶたれ絵画が許せなかったからだった。
夕暮れの校舎で、誰にも見られることなく行った犯行だった。
形容しがたい無力感に襲われる彼女を、誰かが嘲笑うような気がしていた。
高校二年の、春のことだった。
端的に彼女は、行き詰まっていた。いくら美術部顧問や県大会の審査員の添削や高尚な美術理論を聞いたところで、それらは全くと云って良いほど自分の求めるものとは程遠い、これならまだじぶたれ絵画の方が近かったのではと思える物でしかなかった。
普通の美術作品や絵画を求めているのではないのだ。写真よりも精巧で精緻な青空の局地、“青空の極彩色”を描きたいのだ。
小学校入学時点から続けられた指導の実践と軽い挫折を経て――それはきっと誰にも理解されない孤独なのだろうが、彼女は求めた。
デジカメ越しのそれは、色覚異常でない限り赤目軽減や絞り値、ピントや開放度、更には逆光からのレンズや撮像素子の保護など、電子的な処理のせいで自分の目で見た物が必ずしも確実に再現されているとは限らない。場合によっては全く違う物が映ることすら稀にある。
義両親からそれほど安くはないグレードの一眼レフを貰っても満たされなかった彼女の絶望は、誰にも理解できない境地にあった。
ならば自分の手で描いてしまえばいいのだ。もっと小さなころに見た極彩色の青空を。夕暮れ時に混ざる青と赤の虎模様を。
どんなスポーツやどんな文化物にもある高尚なスポーツ理論や将棋理論と云ったものと似た高尚で押し付けがましい美術理論を学びたいのではない。全く真逆だ。
自分の描きたい物を描きたい。描きたいから描き続けている。描きたいから求めるものを学びたい。県大会入賞も市大会入賞もそのついででしかなくその過程に過ぎない。所属するからには成果は出さなければならないからだ。特に美術の推薦で入学したからには。
やる気がないなら辞めてしまえ――昨年担当した顧問から言われたことだった。
指導に従わないのは良い、正当解などないのだから。けれど異常なまでの空への執着にしては落ちたレベルに口を出された。
生きにくいなぁ――
思わず漏れた声に被さるようにしてラッカースプレーを吹く音が河川敷から聞こえたのはある種の必然だったのだろう。
憎たらしいほどの快晴の夕暮れ。こんな時間にラッカースプレーの音が河川敷から聞こえるのは珍しいどころではなく――彼女は気になって土手を降り、鉄道の高架橋、その橋桁の方に足を向ける。
コンコンコンッ、カシュッ、カシュ――
ビ―――――、プシュッ、プシュ―――
そんな感じの音が好き勝手鳴って、高架の構造からして自然と反響し、外へと漏れ出ている。ラッカースプレーともう片手にも何かスプレーのような物を持っているのだろう、機械の作動音が混じっている。
果たしてその正体とは何だったのか――無論人間ではあるのだが、音を出していた正体は彼女と同じくらいの年頃の女だった。
彼女がそこそこの学校なら、ラッカー缶を持つ女は下の上と云える位置の高校だ。別段学歴がどうとかそういったことを気にしているのではなく、ただ単に制服や上に着ているセーターの校章からそう判断しただけだ。
橋桁は何度も塗り直しを繰り返されているのか、それとも下手に塗り直す限度を超えたからか黒のラッカースプレーでその部分だけ塗り直されている。いつか有機溶剤が染み込み過ぎて倒壊するのではなかろうか。
頭髪は少しくすんだ金で、長いのを黒いゴムで一本の尻尾として縛っている。特段特徴的なアクセサリーをしているでもなく、ピアスを開けているでもなく、適度に制服を着崩している。スカートも折られている形跡はなく、ちょっと不良気分を出したい年頃のような感じさえした。
ただし、学校指定のベルトの上から大きなタクティカルベルト――無論彼女がこの時点でタクティカルベルトなどと云う名称を知っているわけではないのだが――を装着しており、そこに細かく空間を開けるようにナイロンを編み込んだ繊維塊の隙間にそれに対応したポーチやラッカー缶の収納されているグレネードポーチが取り付けられている。
極めつけにはラッカー系の塗料を至近距離で使っているのにもかかわらず防毒マスクの類をしていない。シンナーが臭くないのだろうか。
間違いなく、この女が異音の犯人だろう。
果たしてそんな異音を立てながら女が描いていた物とは何かといえば、摩訶不思議な落書きだった。
矢印を伴ったアルファベットと思しき何かが乱雑な風に橋桁を彩っている。
白とか黄色とか黒とか。赤とか青とか紫とか、乱雑に書き殴られている風に書かれている。
適当ではないのだろうことは見て取れるが、何を書きたいのかははっきりとは伝わってこなかった。
だが、自由だった。ある程度の理論はあるのだろうが、彼女はそれを誰に教えられたわけでもなく実践している風に見える。自分の技術として利用している。それは誰に口出しされるでもない自由さを伴っていて――彼女はその一部始終を眺め続けていた。
彼女がその場で女の奇行染みたそれを眺め続けて十分ほど、女は突然ラッカースプレーを吹き付ける手を止めて悪態を吐きながら振り向いた。
「――さっきから、何見てんだよ」
「えっと、何をしているのかなって」
「はぁ? 見ての通りさ。げーじつかつどーってのしてるのさ」
胸を逸らして自慢げに、しかしニヒルに笑んでいるのを見る分には可愛らしさが強く出てくるような娘だったが、しかしやっていることは日本国内では芸術とは認められない類、どちらかと云えば非行に分類されそうなことだった。
所謂ストリートアート、という物だろうか。何を風刺したいのかとか何を示唆したいのかなど分からないが、それが何かを主張したくて描いているのだということは分かる。
「その制服、向こうの高校のでしょ。家こっちなの?」
「え、うん」
「ふ~ん。アタシは向こう側なんだ。ただ頭悪すぎてここしか行けなかったんだけどさ」
ヘラヘラと笑いながら、先ほどまでの作業に戻る。
よく見れば橋桁には塗り直されたと思しき、色の不自然な部分が散見される。警官か役所の人間が塗り直しているのだろうか。
「塗り直された跡あるけど――いつもここで描いてるの?」
「そう。一度近くの交番の巡査にさ、こういったことはやめろって叱られて――それからずっとこんな感じ。塗っては塗り直されて、塗っては塗り直されて。いつかは橋桁が腐り落ちるんじゃないかな?」
愚かな大人にはアートは分からないんだよ。そうして満悦そうに語る彼女にとって、アートと称するこの絵には一体どのような意味があるのだろうか。
暗喩とか直喩とかそういった物一切ない等身大。押し付けられる子供らしさとかそういった物もない直線的な極彩色。其処には一切誰かの思惑とか押し付けられる不自然さとかは介在しない。その代わり何を描きたいのかの主張も伝わらないのだが。
人物を入れる必要もない、何かを主張するために摩訶不思議な物を重ね合わせているようにしか見えない物だが、それらの色遣いは何か参考になるだろうか?
ならなかろうとも顧問の云う通り、偶には頭を空っぽにした方が良いかもしれない。その方が良いモノが描けそうな気がするほど、女の奇行染みたストリートアートは自由だった。その自由さを見たかった。
「見ていて良い?」
「今更かよ? 別にいいよ。お上品な絵画やらと違って大変にお下品だけどさ」
「そんなことないよ。それに、何かヒントになるかも」
「なんだよ、何かやっているのか?」
「うん。美術部で絵を描いてて」
「へぇ、随分とお上品なことだ」
毒気を抜かれたように、最初とは打って変わって親しみやすい感じに女は彼女を受け入れて、そのまま作業に集中しだす。
その後からはお互いに無言だった。女の方は喋る合間を惜しんで、彼女は集中を切らされる苛立ちを知っているから邪魔にならないように、それを見つめていた。
ハンディタイプのエアコンプレッサーと一体化しているエアブラシを色に分けて2~3本とラッカースプレーを各種駆使して慣れた風に橋桁に絵のような何かを展開していく。
制服が汚れないように最低限気を使ってはいるみたいだが、しかし大柄に色を重ねていく。基本色や純色を調色せずにそのまま塗り広げていくものだから、当然その絵が向かう先は単純だが、しかし完成は楽しみに思えた。
どんなものでもそうだ。作っている時が、そしてそれを目の当たりにしている時が一番楽しいもので――それがいま彼女から欠落しているものの正体だと、朧げに理解できた。
不意に夕暮れに目を向ければ、黄色い光線が街並みを焼き、炎のような橙色が空の青を侵食している。合間の大部分は紅と群青色に染まり、星がうっすらと見え始めている。
こういった物を写真のように描けない物か――我流とは須らく技術体系・技術理論を学んだうえで構築され造成される物であるが、彼女もそこは云われずとも理解できて実践できる類だった。
高校生程度がその身分相応に学べる限界まで学んでまだあの風景は描けそうにない。
別にそのまま描きたいのではない。自分の目に映る世界を自分の目に映るようにキャンバスに描きたいのだ。写真よりも写実的で、印象的な空を。雨上がりや夕暮れの持つ世界の終わり染みた美しさを。
それを目の前の女は実践しているのだ。自分の頭の中に思い起こされる、恐らくだが大人とかそういった物への反骨精神のような物を、自分の中の二次元的映像を三次元に持ち出している。何の苦も無く。
少なくともこんな思索に耽ることが出来る程度には、彼女の肩から力は抜けていた。
「ふぅ――終わり。さぁ、五月蠅いお回りが来る前に撤収撤収」
エアブラシ、合計で三本はあるそれの内二本を同時並行的にうがい(簡易清掃)を行い、パーツクリーナーでざら洗いをしてキッチンペーパーで拭き取る。
ラッカースプレーのマズルに付着した塗料もキッチンペーパーで拭き取り、蓋をして全て腰にぶら下げたグレネードポーチに収める様はとても手慣れていて、本当に何度もここでこんな奇行を繰り広げているのだと理解した。
出来上がった絵にどういった意図が込められているのかなど分からないが、それが女の内部に渦巻く無窮の混沌、その一端なのだということは理解できる。そしてそれが酷く反抗的なものだとも。
「――――またここに着ていい?」
「将来の画家さんがこんなところでサボりですか?」
茶化すようにヘラヘラと軽薄に笑っている姿はある種自虐的だ。そう彼女は思った。
才能があるなしではなく、女の傍は不思議と気を抜けた。親の顔色を窺う必要も無ければ今の顧問からのアドバイスを気にする必要もない。お互いがお互いを気にすることない静謐に近い空間が広がっていた。学校では、部活では到底あり得ない。
彼女の通っている高校の美術部、その半分は駄弁るのが目的で入っている。そういったのとは部屋を分けられているが、年相応一丁前にそういった願望や欲望は持ち合わせている。
お前の絵には子供らしさがないな――被写体を他にも入れてみたらどうだ? 例えば人とか。勿論実在しなくたっていいんだ。他にはそうだな、ありきたりだが風景とか。空を其れ単体で映えさせるのは難しいぞ――
子供らしさって何なのか――そういった一切を気にする必要がなかった。ここでなら、何か描けるのではないかと思えた。
「別にここはアタシの場所ってわけでもないし、好きにすりゃ良いんじゃない? アタシは拒まないよ」
それが初めて、居場所が出来た瞬間だった。
毎日のごとく、それはもう入り浸るという語がこれ以上なく適切なくらいに彼女は毎日そこを訪れた。高架の下の、毎日のように違う極彩色で彩られる女だけが使うことを許された黒い橋桁。
お互いに過度な干渉はしない。精々が普段学校でどうしているか程度の軽い雑談程度で、それ以上はない。後はお互いがお互い、やりたいことをやる。
女の方はいつも通り幾何学的とすら云えるストリートアートのような物を繰り広げ、彼女の方は彼女の方で、ストリートアートのような物を眺めるか気に入った空があったら写真を撮って下書きを描き始めるか――
他の所でも同様のことなど幾らでも出来るだろうと云えるような、そんなありふれたような生活だったが、何だかんだでお互いにその生活を気に入っていた。
深く突っ込みすぎるでもなく適度な距離間で。普通の友達みたいな関係を築いていたのだ。
数日、数週間と過ぎていくのは全く嫌悪感の無い日々だった。
部活終わりに立ち寄るので十分だった。部活を抜け出して入り浸る意味はないし、あまり早く着きすぎても女の方が着いていないこともある。
ここに来るならと防毒マスクを手渡されたが、大概ある程度距離を取っているため匂いはそこまでしないし、そのうえでお互いに活動しているからか、着けていなくても文句は言われない。時折とてつもない激臭のスプレーを使っていたりするので持ち歩いているが。
そんな日の終わりの合図は、女の芸術活動が終わった瞬間だ。女が夕暮れを超えても活動を続けるなら彼女もそれに付き合うし、ついて数分で済むなら彼女もそれに合わせる。逆も当然あり得る。
彼女が空をキャンバスに描いているのを女が眺め続け、彼女が描き終わるのに合わせて女も帰り支度をする。
名前を教え合う必要はなかった。そういった重いことがお互いに嫌だったのだ。
二人で好き勝手に喋り合ったり、お互いのやっていることに感想を述べあうだけで十二分に充実していた。私生活で待ち合わせをするほど交友関係に飢えているわけでもなく、だから名前を教え合う必要も、メールアドレスを教え合う必要も無かった。
それがお互いの、この高架下に集まるための暗黙の了解だった。
夏休みも同様に、早引けであることを理由にお互い昼間から高架下に集まっていた。
時には彼女の方が部活の関係で夕方ごろにやってくることもあるのだが、そんなときは集まらない。
彼女たちの関係は友達というにはドライで、しかし知り合いというには親密だった。
二人にとってはそれで良かったのだ。その程度の“親密だけれど程々に希薄な関係性”で。自由を求めた二人は、お互いの自由を阻害しないような友人関係を築いていた。
「ちょっと、ねぇ聞いてるの?!」
アトリエ代わりに使っている物置部屋に鋭く響く母親のヒステリックな中にある窘める様なそれに、彼女は筆をおいて振り向くことで返事とした。
熱中しすぎて気が付かなかったようで、そんなことはしょっちゅうだからか母親もそれには何も言わずに話を続ける。
「最近スランプみたいだけど、大丈夫なの? 次の大会までそんなに期間ないんでしょ?」
「別に、大会の為に描いているわけじゃないし…………」
「あのねぇ、美術て言うのはね、誰かに認めて貰えなければ価値なんてないのよ? “美の巨匠たち”を見ていれば嫌でもわかるでしょう? ウジェーヌ・アンリ・ポール・ゴーギャンだって、フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホだってアメデオ・モディリアーニだってエドガー・アラン・ポーだってフランツ・ペーター・シューベルトだって……死んでから有名になったって、死ぬ直前で有名になったってしょうがないじゃない。人間なんだもの、霞を食べて生きていけないのよ」
土曜日の夜十時あたりにやっている美術関連番組を引き合いに出しながら、如何にも心配だと言いたげに母親と呼ばれるべき存在は囀っている。
父親の連れ子だった彼女をそうと承知で結婚して、別に腹違いの妹と差別されているといったこともなくここまで育ててくれていることには恩義すら感じているが、こういった干渉が彼女は苦手だった。
無軌道な自由を求めているわけではない。しかし思いつかないことに関しては自分の力だけでどうにかできる問題ではない。結局、描けるときは描けるし描けない時は描けない。それを横から云われるのが、苦手だった。
別に不仲なわけではない。日常生活を送る分においては非常に良好な関係を築いていると云えるだろう。そして義母がこの上なくこの趣味に近い活動を応援してくれていることも。
なんとなれば、大会やらで入賞するたびに義母は彼女以上に喜ぶのだ。まるで彼女の不満とは正反対に位置するあまり認めたくない感情の類を全て吸い取ってしまったかのように。
「分かっているけど……」
「…………最近帰りが遅いのと関係あるのかしら?」
あまり云いたくないのだけど……そう前置いてから云いたいことを云うズルさは羨ましいくらいで、秘密に近い交友関係を知られていたことなどどうでも良くなるくらいどうでも良く感じられた。
いつものことだった。古い地球人がアニメだと決めつける様なそれがまた始まるだけで……彼女はいつものように聞き流して日課を続けるだけだ。
「やっぱりガラの悪い子と付き合っているからかしら……ねぇ、何か変なことされていたりしない? 脅されていたりとかするならお母さんたちがどうにかするから」
「別にそんなことないよ。彼女は、ベクトルの違う友達。私とは向いている方向が違うだけで、やりたいことは私と一緒だよ」
そんな彼女の返答なんてお構いなしに、義母のそれは続く。下手すれば妹以上に応援されている自覚があるからこそ、鬱陶しい。息が詰まって仕方がない。真綿で首を絞められているような、そんな感じだ。
私らしさって何だろう――?
彼女が高校二年生になってから変わった美術部顧問は、云ってしまえば心配性な人間だった。美術とかそういった物への造詣はそれほど深くないが、その分メンタルを非常に心配する。ある種平等に。
相手が女だろうと男だろうと態度を変えないのは一部の女子生徒に顰蹙を買っている原因ではあるが、しかし彼女はそんなところよりもその性分が行き過ぎて深く詮索してくるのが苦手だった。
よく云えば生徒思いなのだろう。珍しいが。ただ心配事があれば何かがあったのではないかと勘繰り――彼はそういったことでよく呼び出しを掛ける。
「最近なんだか勢いが良くないみたいだけど、あれかな、もしかしてその、スランプって奴かな? 前の先生、私よりもキツイ人だったからね、それが少なからず影響しているのかな?」
「いえ、そういうわけじゃないです」
「そう? あぁじゃあ進路かな? 来年からは受験で忙しくなるし、それでかな? 私にできる範囲なら力になるよ」
「いいえ、そういうわけでもなくて――」
「そうかい? ――あぁ、それかもしかしてその、あれかな。好きな子が出来たとか? あまり大っぴらには言えないけどその、それなら応援するよ――それとももしかして虐め? 脅されているの?」
「ち、違います! そういうわけじゃないです。色々と絵の勉強してはいるんですけど行き詰まってきているだけで、先生が心配しているようなことは……」
好きな人――それを聞いた時、微妙に心が凪いだ気がしたのは気のせいではないだろう。
人、というと少し違うが、名前も知らない女と過ごすあの河川敷の橋桁の袂、あの場所を狂おしいほどに彼女は愛していた。お互いにどういった立場かとか、そういったことから解放される場所のような気がしていたからだ。
世間的には褒められた交友関係ではないのだろうが、彼女にとってはどうでも良かった。要するに、自分が楽に過ごせるかが重要だったのだ。
不承不承気味な顧問の態度も、部活動での期待とやらも、押し付けられる子供らしさも、煩わしかった。そうでなければ自分の活動が続けられないと理解しているから云わないだけで、本当は部活とかそんなことはどうでも良かった。
自分の描きたい空を描くために必要な知識を、学びたい知識を学びたいのだ。そういう意味で、進路を間違えたかなと今更ながらの後悔を覚えている。
その日は生憎の晴れ模様だった。
いつもの河川敷には、今日はどうやら女の方が先についていたらしい。
いつも通りラッカースプレーとエアブラシで、女の中に燻ぶる何かを叩きつけるかのような苛烈さと一抹の寂しさを伴わせて描き広げている。その幾何学的な模様は未だに何を伝えようとしているのか分からなかったが、何かを伝えようとしていることまでは理解した。
いつもなら小ぶりなインテリア向けのキャンバスに何かを描く彼女は、しかし今日はボケっと女の奇行を眺めていた。
悩んでいた。スランプもそうだし、それによって掛けられる気を遣ったような親の言動も、顧問の言動も、ほくそ笑む同級生にも。うつ病とは他人への最大幸福の追求、詰まる所正義の追求によって生じるとは云うが、彼女の状態はその三歩四歩手前に相当するかもしれない。
別に正義を追及しているわけでもなく、自分の絵に掛けられる他人の感情が煩わしいのだ。自分の最大幸福のために描き続けているのにそこに他人の期待への返礼となる要素を混ぜなければならない。常に部員の追随を許してはいけないのだ。
他人のことを考えなければならないという事実そのものに嫌気がさしていたと云っていい。自分の最大幸福のみを追求すればそれはさぞかし気持ちが良いだろうが、それは許されない。少なくとも部活と云う狭い輪の中で成立するように、社会でそれが評価されるようにしなければならない。それが結果的に、他人の最大幸福を追求してしまうのだ。
自分一人で済ませられる趣味とかの世界ではなく、展覧会とかそういった場に出す以上、仕方ないのだろうが。
尻尾を振る代わりに学ぶ機会を貰っている立場で云うことではないだろうが、自由にさせてくれ。
こうも不自由なのなら、部活動として続ける意味はあるのだろうか。それを数度目の顧問からの呼び出し以来思い続けている悩みだった。
視線に耐えかねたのか、はたまた時折来る飽きからか、女は有機ガスフィルターを取り付けた防毒マスクを外さず彼女に声をかけた。女の中低音域の声はガスマスクの内部で反響しくぐもって聞こえて、何を云っているのか殆ど聞き取れない。
「どうしたんだよ、浮かない顔なんかして――らしくないじゃないか」
「――――私らしさって何だろう?」
「はぁ? 美術に飽き足らず哲学の道に傾倒しだしたか……? いやまぁ、そっちの方が教養あるっぽくて好きだけど」
教師の求める自分らしさとか、親の求めている自分らしさ、美術家が称するところの自分らしさ、彼女が求める自分らしさ―― 一体どれが本当の意味で自分と云えるのだろうか。
彼女なら知っているはずだという確信があった。少なくとも、あれを描いている時、彼女はありのままに自分を描き出していたと云えるから、そんな彼女なら、答えられるのではないかと。
浅はかな確信と浅慮蒙昧かつ回転の鈍い脳味噌は可笑しなくらいに淡泊な言葉を紡いだという自覚があった。
あほらし過ぎて下らない、しかしそんな阿保らしい問いに、彼女は何てことの無いように答えた。お前は一体何を当然のことを聞いているのだと言いたげな訝しげな視線を寄越しながら。
「あのさぁ、自分らしさって何って、その質問の方こそナニって感じなんだけど」
怒っているわけでもなく、呆れているとも少し違う。今にも溜息を尽きそうなほどに、その感情は、一言で片づけるなら憐憫に近い。少なくとも女は彼女を憐れむような、しかしただ猫可愛がりするような憐れみ方では断じてないのだけは確かだ。
太陽が下がってきて、程よい湿気と多量の水分を含んでブクブクに太った積乱雲越しに陽光を浴びせた。彼女と女だけを照らす自然のスポットライトが後光のように光を浴びせかけて世界は涼し気な橙色へと徐々に染まって――。
強すぎるでもない柔らかな風と、光と、青臭い噎せ返るような芝の臭いは何処までも何処まで遠大で、まるで世界には彼女たちしかいないのではないかと錯覚できてしまえるような心地よさがある。
女はどさっと音を立てて隣に座ると、しかし慰めるでもなく鼓舞するでもなく、確固たる確信を以て持論だけを伝える。それはまるで、これだけは間違っていないと私は信じている。私の信じる私に騙されてみたらどうだ、そんな風な優しさが垣間見えた。
「まったく――自分らしさなんて結局誰にも分かんないよ。それは今を生きている本人にさえもね」
「本人でも?」
「そらそうだよ。だって自分らしさって、誰かに“て~ぎ”して貰うもんじゃないだろ。自分にはこれしかないってなら、それが自分のやりたいことで、それを楽しんでやっていられてそれで満足なら、それが自分の自分らしさ何だと思う」
でもんなのわっかんねぇ!
叫ぶように川に小石を投げ込んだ女は、しかし憑き物が落ちたような笑顔を彼女に向けた。そんな物おろしちまえよ――その笑顔は余りにも彼女の知る女のイメージに似合っていた。
何も心配事なんてなさそうな等身大。天然物の才能と言い換えても良いかもしれない。こういう娘にこそ適切な芸術の教育とやらが必要なのだろうと嫉妬交じりの羨望を覚え、そんな自分に辟易した。
能天気なまでの楽観的な、しかしこういった人間こそ真理を知っているのだと。
「他人がアタシ以上にアタシのことを知れるわけがないんだ。アタシがアタシを知ろうとしてアタシを一番理解できてないってのに、どうやって他人がアタシ以上にアタシを理解出来るって云うんだ」
「…………そっか」
「そうさ!」
「そっか……!」
ならやはり、決まりではないか。
静かに諦めにも似た決意を決めた彼女に対し、しかし女は輝くような笑みで彼女に手を差し伸べるのだ。しょうもないもの背負い込んでいないでこっち来いよとばかりに。
滅茶苦茶いい場所見つけたんだ――明日の朝、一緒に登らないか。アンタも気に入る、きっといい場所だから
掴んだ手を引っ張られるのに合わせて腰を浮かせば、大して間を置かずして女は彼女にそんな提案をしたのと、太陽が陰ったのは同時だった。
つながれた手を境に女が陰の側に、彼女は日向の側に。それはちょうど、女のイメージしている彼女の像をそのまま表現したかのような、無作為的な作為を感じさせる奇妙な構図だった。よく青春物の漫画で描かれそうな陳腐な構図――のはずなのに、女の目から目が離せない。
そんな物は関係ない――彼女の言葉を借りるならば。やっていることが正反対だとか、見た目やイメージの問題ではなく、女は間違いなく、強かった。日陰の中からも分かるほど煌々と輝く瞳がそれを物語っている。
女のキラキラした瞳が陰った中でなおも爛々と輝いているのは諦めていないからだろう。その反骨心を少しも疑うことをせずに前だけを見つめているからで、彼女が最初女を見かけた時に胸に燻ぶった感情をようやっと理解した。
羨ましかったのだ。
輝いて見える中に影を潜ませ、燻ぶる反骨心や怒り、憐憫やら憤りやらの全てを叩きつけて尚も止まらない優しさが、それでもなお輝ける強さを羨んだ。
羨んで、嫉妬して、届かなくてやきもきして、それでも凛々しくてどうしてもどうしても羨ましい。見当違いな憤りを覚えるほどに。
彼女のようになれれば――そんな無能染みた憧憬を抱くほど彼女の内心で渦巻く愛憎入り混じる複雑怪奇な縞模様を描く心は、それでもその光に焦がれた。
無軌道の中にある規則正しさ。自由な発想の中に全てを詰め込んだおもちゃ箱のようで、それが羨ましい。
彼女のように自由な発想が羨ましい。
彼女の描き出す極彩色の空のような描き方が羨ましい
彼女のような生き方が、羨ましい。
答えなんて最初から分かっていた。彼女のようには生きられない。自分のままであろうとするならば、自分の描き方を捨てきれないなら彼女のようになることなど土台不可能だと云うことは自明だった。
日向の中にあってもなお、彼女の鬱屈としたモノは深まるばかりで、きっと晴れることはないのだろうと思った。技術と積み重ねで己が非才を補ってきた己に対し、自分の人生を自分の描き方で生きて見せる彼女には到底敵わないのだと悟ってしまえた。
何とはなしにその約束に頷いたのに特にこれと云った理由は要らなかった。
友達に誘われたから出かける約束を承諾したというただそれだけのことで、今の彼女にそれ以上の理由など必要ないように思われた。
□
何故こうなったのだろう――
途中までは楽しい山登りだったのは間違いなかった。ではそれがこうなったのは何故か。それは目の前にいる警官によるモノなのは間違いないとだけは断言できた。
早朝から軽装で大して高くも無い山に登っていくところを、山の中腹付近で声を掛けられたのが運の尽きだった。
声を掛けられ引き止められ、女の方に関しては常連なのか中年巡査の名前を憶えてしまっているほどで――少し派手な彼女に対しあまり派手とは云えない、よく云えば模範的な、悪く云えば面白みも可愛げもない服装の彼女のミスマッチさから引き止められたのが事の顛末だ。
「――――――――――!!」
「な、来て正解だったろ?」
言葉も出ない彼女に対し、女は自慢げに両手を腰のあたりに当てて写真を撮った。
山の中腹から見る朝焼けはあまりにも奇麗だった。いやそんな言葉で片付けてはいけないくらいに奇麗であった。美しいという言葉ですら何の慰めにもならないほどに、圧巻にして凄烈なまでに奇麗だった。
山の中腹からでも見下ろせない空の高さは雄大と云うだけでは足らなかった。直前に雨が降っていたのも関係していただろう。雲の切れ間から望む雲間からの後光の美しさたるや、夕焼けのあの極彩色によく似ていて知らず身震いした。
朝焼けに沈む街並みを侵す朝靄は日差しを受けて輝き、薄霧が靄のように街を闊歩する様は圧巻の一言に尽きた。
対岸側の山を下る雲と云うには薄すぎて、しかし霧と云うには濃度の濃すぎる薄雲は街へ向けて一心不乱に疾走する。
山々の緑は夏の湿気と朝を告げる光の乱舞に眠りから叩き起こされたのか、それはまるで荒れ狂うように青々と息を吹き返している。
仄かに朝の訪れを感じさせた仄白んだ空は何処へやら。青くて黒い無窮が紫から黄緑へ、黄緑から段々赤やオレンジの極彩色に変換されて、最早辺り一面青白い蒼穹が駆け抜けて彼女たちを見下ろしている。
満天の星空は蒼穹の奥深くに眠り、月すら朧気にしか見えない。
自然が饒舌に放つ静かな暴力。人を魅了し畏れさせる、神がかって広大な光の乱反射がごとき乱舞。
思わず胸を押さえてしまうほどの暴力。胸の奥がキュッと詰まるような息苦しいまでの美しさ。知らぬうちに涙が出るほどの凄絶な朝焼けは、いつか見た彼女の原風景にも似ていて儚く、懐かしさすら伴って胸の奥に突き刺さった。
言葉なんていらない究極的な局地。自然の生み出す極彩色。際立ちすぎるほどにその境目に位置する色の塊たちは鮮烈で――まるで長らく忘れていた物を取り戻したかのよう。彼女の求めた光の極点、彼女の求めた“果て”だ。
一度流れ始めた涙は止まらない。止め処を知らずに流れ続けて、女が戸惑ったようにタオルを渡してくるのも現実味がなくなすがままだった。
「泣くほどかよ――ほらハンカチやるから、泣きやめって」
適当に涙を拭って景色を網膜に焼き付けるようにしてその一瞬から目を離すまいとした。
朝焼けも夕焼けも、一瞬を逃せば優美なその情景は過ぎ去りなくなってしまう。人の一生よりも儚く、早くに訪れる滅び。それが彼女の求めた一時の美を悠久に留めようとする行為の真相に他ならない。
余りにも目を奪われたから全人格、全人生を賭してでも描き切るつもりでいながらも散々遠回りを続けた。その果てに漸く、あの光景に似た物を目の当たりにした。
段々と、数分も間を掛けずに終わりを告げる朝焼けの朧げな美しさはしかし彼女の脳裏にこびり付くようにして離れなかった。今すぐにでもキャンバスに描き出したいのに持ち出してこなかったことを後悔したくなるほどに今、彼女は心の底からこれを描き出したいと思えていた。
久しく忘れていた心の奥底から響き渡る餓えた胃袋が吠え猛るかのような渇き、描き出したいという原初からの欲望、餓えて乾いて飽いて仕方がない魂から求めていたモノ。狂おしいまでに愛している。
渇望。そう渇望している。
こういった景色を、カメラ越しの偏光された画像としてではなく自分の目で見た正しい景色として出力したい。その力が最早出涸らしの様になってしまった己に残っていないとしても、その全霊を振り絞って描き出したい。
描くことに前例を注いでいるのではない。見たものを見たままに、美しい物を美しいままに、愛らしい物を愛らしいままに、恐ろしい物は恐ろしいままに描きたい。それが最終的に主観によって歪められているのだとして。
「――有り難う。今気が付いたけど、貴女ってとっても良い人よね」
「今更かよ? そうさ、アタシは友達には甘いんだ」
「友達――そっか、友達かぁ」
「なんだよ、嫌だってか?」
「違うよ。その逆。嬉しいなって」
あの日あの瞬間、数年ぶりに笑顔を見せた父親に連れられて新しい家に向かうとき、まるで運命のように父親と見惚れたあの夕焼けを描きたい。
その憧憬ともつかない、その妄信にも似た、ただただ“描きたい”という一点にのみ注がれた渇望。それが己の原動力であったはずで、それが今更目が覚めたのか腹の虫が鳴くよりも五月蠅く、油蝉が松〇〇三のように吠えるよりも騒がしく、胸の奥底から鳴り響く潮騒が只管描けと、そう耳元で喚き立てるのだ。
もはや本能にも似た描きたいという衝動に、抗うすべなどないが、しかし彼女の手元には簡易的に描き出せるようなアプリを入れた携帯電話も無ければキャンバスの類もカメラも持ち合わせてはいない。
だからその本能を必死に抑え込んで、その景色を忘れまいと努めた。友人と共に見たこの光景を。
そこからは急転直下だったと云っていい。
太い男の声が二人の背中に掛けられたのは必然だったのかもしれない。青い制服を纏った警官が一直線に彼女たちの目の前に現れたところで彼女の世界はまた混沌としたモノクロームに逆戻りしたように感じられた。
縋るように女の指に絡められた自分の指が優しく握り返されたのにだけ、安心できた。
地元の交番の狭い詰め所には暇そうな若い警官と、自分たちに声をかけた張本人たるそろそろ四十代に掛かりそうな巡査長と筆記具を手に持った婦警と巡査長と同じくらいの年かさの男が見張りを務め、彼女たちとそれぞれの両親が詰めかけて最早暑いと云った感覚を通り越し涼しさすら感じられた。
事情聴取自体も、そしてそのそろそろ壮年の領域に突っ込みそうな中年の巡査長の言葉尻も優しい物だったが、しかしその場において、彼女は何一つ発言できないでいた。
女がフッと優しく微笑んで、中年の巡査長に見えないよう唇に人差し指を縦に構えて何も喋るなと暗に告げる上、何より女の両親が彼女に喋る暇を与えなかった。
最初こそ彼女もこういった補導の話でよく聞く、相手の親からの責任転嫁かと思いきや、女の両親は何も話を聞かない内から犯人を女の方だと決めつけて叱りだしたのだ。何の証拠も無ければ、何の弁明も聞かぬままに。
警官も、巡査長も、彼女の両親もそして彼女自身でさえも、呆気にとられて何も声に出すことなどできなかった。宛ら魔女裁判のような唐突さで始まった茶番がごとき謝罪と、そして女を罵倒する歪な家庭像がありありと、これ以上なく浮き彫りになって、彼女は知った。女があの高架下で何を描きたかったのかを。その行く末を。
「すみません、うちの娘がご迷惑をおかけして。ほらお前も謝るんだ!」
父親は平謝りしてさらには女の金の絹糸のような奇麗に染まり上がった髪の毛を掴んで頭を下げさせたが、彼女にはそれがまるで別世界で行わていることではないのかと、そう思わざるを得ないほど、嫌な意味での現実感の喪失を味わうこととなった。
何かを描いている時とは違う、気持ち悪い物を目の当たりにした時とも違う、美しい物を見た時ともまた違う現実感の欠如。嫌な意味で、未知を見た。
これは本当にこの世の出来事なのだろうか。
「貴女があの子を連れ回して悪さを働こうとしたから、お父さんもお母さんも貴女の為に怒っているのよ。本当に分かっているの?」
彼女がすでに悪さを――犯罪を起こそうとしていたと決めてかかる物言い。
違うそうではないのだと口を開くべきなのに縫い付けられたかのように口角の筋肉は微動だにしない。出るのは嗚咽にも似た喘ぎだけ。云わなければならない言葉は何一つ音声信号として出力されない。その間も目の前で女の親は女を叱っている。罵倒している。次にはまた謝りだす。
悔しい。泣き出したい。怒るべきなのか悲しむべきなのか、それとも立ち上がるべきなのか分からなくて、それら全てが纏まってただ只管に悔しいのだ。
己の鈍間な口に、今頃になって何が起こっているのか理解した出来の悪い脳味噌に――己の愚鈍さに腹が立って仕方がない。
しかし女は顔を伏せたまま不敵に笑んで首を振るのだ。
お前は黙っていろ、そう云っているかのようでもあり、
大丈夫、と伝えようとしているかのようでもあり、
無意味だ、と諦めているかのようでもある。
確かに彼女は一般的に非行に分類される行為を続けていた。それは恐らく、注意深く女のことを見守るこの巡査長が橋桁を塗り直していたのだろうが、それでも彼女は何も言わない。
吹雪が過ぎ去るのを只管に待ち続ける白熊やペンギンのようで、彼女があの橋桁で描きたかったことの真意が、何をしたかったのか、どうしたかったのか、自分と云う存在を何処に持って行くべきなのかを表現したかったのだと理解できる。
あそこが居場所だったのだ。彼女がほんの出来心でやったことを本気で怒った巡査長と繰り広げるあの延々と終わりのない無意味且つ唯一女の人生の中では比較的平穏だった瞬間。
そこに彼女が介入した。女は拒まなかったし、彼女を友達だと認めてくれたが、あれは彼女が自分の人生の行く先を描いた地図だったのではなかろうかと思わずにはいられない。
しかし女は顔を中年警官に見える程度に俯けたままで何も言わない。女の両親からの罵声にも、彼女の両親が制止する声にも何も反応せず、彼女にすら目を合わさず中年警官の目を見つめ続けていた。
彼女にすら予想できない。女はきっとまた突拍子もないことをやって場をひっくり返すに違いない――彼女がそうして救われたように。
けれども同時に頭を掠めるのはあの諦めたような笑顔で、その不穏当な雰囲気は、このまま引き止めなければ彼女も、そして女も取り返しのつかない過ちになると分かり切っていた。
止めるなら今しかないのだと理解して、彼女から受けた恩を返すにも今しかないのだと状況が否応なしに知らせる。
彼女が粘つく唾を飲み込み意を決して違うのだと声に出そうとしたその瞬間、中年警官が女に聞いた。女の決意を検めるかのように。
「本当に、お前がこの子を連れ立って佳からぬことをやろうとしたのか? お前、そういうことする奴じゃあないだろう」
「この子が計画したに決まってます! 偏差値も低ければ橋桁に落書きすることもやめない、 挙句に他人様の子供を浚って夜遊び! どうぞ、豚箱にでもぶち込んでください!」
「貴女からは後でじっくりをお話を聞きますから、今は娘さんから聞かせて貰いたい」
中年警官が若い方の警官に目配せをするのと同時、先ほどまで記録を取っていた婦警が自分の娘を豚箱に放り込めと宣う母親と、巡査長と同じくらいの年嵩のガタイが良い警官が父親だろう方を隣室に誘導し始めた。
彼女と両親とを隔離しなければ話が全く進まないからだと云われなくとも理解できる。そうすれば彼女も正直に話せようと云う気遣いも透けて見えて。それでも女は決意した目で中年の巡査長を直視していた。
流し目気味に羨ましそうな目をされたのが気に罹った。
そこからはまるでスローモーションやコマ撮りアニメ染みて見えるほど、まるで現実感もスピード感も欠如した、ただただ重苦しく只管に後味の悪いのが舌先から喉元までの無窮を一秒が百倍、千倍、万倍にまで拡大されたかのような中で尽未来際の如く味合わされる苦痛にも似た後悔が続くのみである。
「――――アタシがやりました」
「……それでいいんだな?」
詰問するような、後戻りできないのだと確認する強い言葉尻と余計な動きを封じるかのごとき鋭い眼光に気圧されて、彼女はまた、何も言えなくなった。素直に誰かの云うことを聞くお人形になった。
それが悔しかったのに――
「――――――――――――――――――――――――はい」
女は胸の奥底から絞り出すようにして、掠れ気味の声で答えた。
彼女の両肩から力が抜けたのは、永遠とも思われる延々と続く無窮のような、そんな地獄のような一瞬が過ぎ去ってからだった。
云わなければ一生後悔すると分かっていて何も言えなかった。今から云った所で後出しじゃんけんなんぞ通用しないのだと分かっているが、人として、今からでも云わなければ人として取り返しが付かない。
だと云うのに目の前が滲んで、嗚咽が漏れて何も言えない。
「…………分かった。――ではすみませんが、今日の所はお帰り頂いて結構です。後日連絡がいくことがありますので、いつでも出られるようにお願いします」
□
喚くように、叫ぶように、叩きつけるように何かを叫んでいたのは憶えていた。しかしそれが言葉と云う体を為していたかどうかに関しては一抹の疑問が残った。
――泣き叫ぶように感情を叩きつけた彼女を思い出した。きっと今の自分の原点はあの瞬間だろう。あんな顔をさせてしまった己の不甲斐なさに、毒しか持たない不出来な親の醜態を放っておくアタシはきっとあの瞬間彼女に切り捨てられたのかもしれない。
呆ける女の目も、両親の顔も、何もかもが一瞬で色あせて空以外にまともに色を認識できなくなったような気さえする。それでも女の云った言葉の意味は変わらず、無力で愚かな夜道を這う鳥の如く撃ち落された気分であの時の情景を、あの朝に友達と見た情景を一心不乱に、忠実に描き出した。其れしかやれることが無かったからだ。
――明くる日も、明くる日も、毎日毎日、幾日も幾日も、幾星霜待ち続けても彼女はあの場所には来なかった。やがてもう彼女は来ないのだと知った。そんなあるとき、夏休み明けのコンクールにあの絵が出展された。
名前も知らなかった彼女の、あの時に流した生の感情をそのままに彩られたあの傑作は、しかし彼女に会いに行けば既に退部した後だという。友達なら渡してやれと、彼女が忘れて云った画材を手渡されて途方に暮れるアタシを、部員たちは陰で潜むように笑っているような気がした。
彼女も家も電話番号も知らない。お互いに何も教え合わないことがあそこに集まる条件だったから、何も知らない。筆の扱い方も、塗料の載せ方も、キャンバスの扱い方も。何処からやってくるのかも知らない怒りに任せてエアブラシも塗料もスプレー缶も、全部なぎ倒して己の非力さ加減に泣いた。
コンクールに応募したそれは他のどれも、他の何も歯牙にもかけずに入賞した。しかし彼女の中の曇天は晴れることもなく、やがては空の色すら分からなくなった。
あるいはこの曇天が晴れないでくれと思っていたのかも知れなかった。空の色も、あの雨上がりの極彩色も何も覆い隠されたままで良い――――都合よく被害者になりたかったのではないかとは、成人してからの精神分析だ。
退部届を出したのは気まぐれではない。元々はそうするつもりであったのだからある種予定調和ですらあったはずなのに、彼女にはそんな唯一強者が持たなければならない覚悟からの解放感も無く、あの橋桁に立ち寄る勇気もなく、時間が刻々と過ぎるのを無為に横過することを選んだのだ。
――高校二年生の冬から、周りが受験ムード一色へと遷移していく中アタシだけは絵の勉強を始めた。初めは拙い落書きを教師に笑われたが、憎たらしいほどに教え方は上手かった。
落書きだったナニカが絵としての体を為し始めたのは高校三年生の夏に差し掛かるころだった。彼女のような空が描きたくて、それが自分にできる贖罪だと、その強迫観念が何処から湧き出でる物なのか、その正体すら知らずに描き続けた。
勉強は結局国語以外からっきしだったが、絵だけは一年でコンクールに入賞できるレベルになっていたのは、毒舌教師と巡査長のが居たからだろう。
そんな被害者面で贖罪した気になっている己に反吐が出そうになる、そんな二年を過ごして、特段取り柄もないままに大学へ進んでそのまま地元で就職した。
大学在学中は男漁りをしたこともある。コンパで知り合った派手な女に唆されるままについて行って処女性を安直に放棄した。胸に空いた空虚な洞を埋められるものがあれば何でもよかったのだ。
そうやって出会い、三年間の付き合いにもなった彼氏も、やがて彼女の根底にあるものを理解し介在する余地すらないと引き下がって行くのは、最早道理だろう。お互いが対等であることを望んでいるのなら尚更に。
『今でも俺はきみのことを好きだと云える。メールで語り合って、生で会って、デートして、慰めるようにセックスしても、きっと君と俺との距離は全く縮まっていなかったのではないかと思う』
――大学には何とか通えた。段々と素行が良くなっていくアタシを見て両親とも安堵したらしい。
巡査長はもうあの橋桁を塗り直さなくて良くなったことを悔やんでいた。あれが毎日の交番勤務で一番楽しかったと云ってこれまでに描いてきた絵の数々を納めた写真を見せられては、どう反応すればいいのか困った。
大学でも相変わらず絵の勉強を続けた。アタシが描きたい空はまだ遠くにある。アレと同じ境地に、若しくはそれ以上の境地へと足を踏み込まなければならない――そんな感情が何処からか湧いて来ている自分を自覚するとあの強迫観念が何処から湧き出てきたものなのかを理解した。同時に、自分がこと人間関係において酷く臆病な人間なのだとも、その年になって理解した。
続けていればいつか会えるのではないかと云う、そんな儚い希望に縋る己の愚かしさに誰かを付き合わせる何てこと出来るはずもなく、細々と絵を売って暮らすような日々がやってきた。
当然の報いだったのかもしれない。あの時ああすればと、後悔はどんどんと後に立ってくる。
無気力な人生に無精力な営み。
元は繊細だったはずが、今では無意気で適当なまるで路傍の石。
かと思えば無畏施者にもなれずに無意義に生きるだけの、無為法を気取る半端者。
結局生きる糧を得るためには後退し続ける人生であろうとも動かねばならず、何かを為そうとも思っていないのに何かをしていなければならないと、それが一体何を指してそう囁くのかも、何処からか湧き続けて肥大し続ける強迫観念の出所すら知らず、白痴のままに働き続けて弾力を失う日々の辛さに嫌気がさしていた。
かつてあれほど新鮮で、かつてあれほど冷えぬよう熱を入れて、かつてあれほど愛して、かつてあれほど真剣で、かつてあれほど切実だった思いが奇麗さっぱりとその像を曇らせていたことに気が付いた時に、意外なほどの無感情でその事実を受け入れてしまった。
――その後数年間、ただただ前に進みたくて、届かないものへと触れられるようになりたくて、それが具体的に何を指すのかも、その感情が何処から湧いて来ているのかも分かっていながら我武者羅に描き続けた。
ようやっと売れ出した二十代中盤、白痴の如く描き続けて弾力を失う日々、あの絵の鮮烈さを、あの絵の輪郭を忘れそうになる日々の辛さに筆をおりかけた。
かつてあれほど新鮮で、かつてあれほど冷えぬよう熱を込めて、かつてあれほど後悔して、かつてあれほど悲嘆し、かつてあれほど切実だった思いが時の流れによって奇麗さっぱりとその像を曇らせていたことに気が付いた時、思わずアトリエ代わりの部屋でキャンバスを殴り壊した。
己はこんなにも恥知らずな人間だったのかと己を心底見下げ果て、もうこれが己の限界なのかと知った夜、夢を見た。
己はこれほどまでに浅ましい人間だったのかと嫌気が差して、もうこれが己の限界なのかと知った夜、夢を見た。
ずっと昔の夢だ。まだ彼女もトモダチも15~6の若者で、澄み渡った大気のひざ元には低く低く山野を下っていく薄霧が街並みを犯していく姿が見える。
朝焼けの中、街並みの明かりはまばらで、背後には自分たちの足跡だけが残る。
雨上がりの、まるで夕焼けがごとき朝焼けの中、聞こえるのはお互いの息遣いだけだった。
青々と息を吹き返す緑の匂いと包み込まれるような土の香り。仄かに香るアスファルトの匂いに交じってジメジメとした水分の感触が、雲の行き交う音が聞こえてくる。
この瞬間は、彼女と一緒にいたあの瞬間は永遠に続くものだと――また一緒に、来年も再来年も見られるものだと、愚直に信じていた。
□
「でな、あの巡査長ってばアタシの密かなファンだったんだよ。こうずらぁっと一面にこれまでアタシが描いてきた奴を並べてさ、只塗りつぶすのは勿体ないから、だってさ!」
「そうなの? 意外ね」
「そうだろ」
二人の女が歩いて居た。
片方はスーツには似つかわしくない厚手のコンバットブーツで、彼女にはよく似合っている絹のように美しく染まった金色の髪を一本に結んでいる。
片方は踝ほどまである紺の飾りっ気が薄いスカートに襟のあるブラウスにパンプス。特に髪を染めているでもなく、首筋あたりで緩やかなウェーブが掛かっている。
片方はげらげら笑いながら、もう片方は柔和に微笑みながらお互いがお互いに隣あって歩いている姿は、陳腐な表現だが恋人同士のようでいて微笑ましい物があったが、しかしすぐにお互い気まずそうに視線を逸らしていた。
「――なぁ、あれからどうしてた? あれからあの橋にも来なくなって、学校の子に聞いたら美術部やめたって聞いたし…………」
「うん――ちょっと、色々と考えちゃって…………これからも続けられるのかとか、色々……」
「……そっか。そりゃ、そうだよな! あんな汚いの見せられちゃ――」
自虐的に笑って頬を掻くも、女の言葉に対して彼女は否定も肯定もせず、曖昧に首を振るだけだった。
お互いにどう接するべきなのか、お互いの距離の測り方が分からなくなっていた。もう一体何年は鳴れていたというのか。十年近くはお互い音信不通ですれ違い続けていた。この小さな町で。
埋めたくとも埋められない。お互いがお互いに気を使っているからこそ、何も言えない。何を云うべきなのかも。
すっかりお互い擦り切れていた。
「そっちこそ、個展開けるようになったなんて、凄いじゃない。どの配色も鮮やかで……きっとあのまま続けていても、私じゃああの色使いには至らなかったと思う」
「そんなことない!」
取り繕うように否定するのは内心そう思っていたからではないのかと一瞬己の汚い部分が鎌首を上げたように感じられた。
仮にだ、仮に今そう思ったとしてだ、女には才能なんてものはこれっぽっちも無かった。短期間で覚えられるだけ覚えて、見るべきものを見て勉強して実践して、その繰り返しの中で技術を得ただけに過ぎず、事実既にスランプに陥って何か月が経とうとしているのか、数えたくもない。
「あるよ。私にはもともと、才能なんてなかったもの……」
「なんだよそれ――アタシだって、才能なんかこれっぽっちもない!」
語気を荒らげるのはその言葉に傷ついたからでは断じてない。ただ彼女にまでそう云われるのが、見下されることへの嫌悪感に過ぎない。
絵の買い付けに来た人間も、同業者も、揃いも揃って才能が枯渇したと陰で何事か云い合っているのを知っている。それと同じ、見下されるような、僻みや嘲弄されるようなその才能と云う単語だけは聞き捨てならなかった。彼女だけは、そんなこと言わないと勝手に思っていたからだ。
はっと気が付いた時には彼女の両手首を女の両手が握り締めていて、すぐに両手を離すと彼女から目を逸らした。
彼女を嫌いになったわけでもなければ彼女に愛想を尽かしたわけでもなく――彼女の両の瞳に浮かんでいた自分の顔が、その目つきがまるで獲物を前に舌なめずりするネコ科の動物のようでいて一瞬、恐ろしく思えたのだ。
「――――もうやめよう、この話は」
「――――うん、ゴメンね」
「いいから、やめよう」
「うん」
お互いに無言で歩き出すのは、お互いがお互いの知らないお互いを直視することを恐れてのことなのか、二人の間に先ほどまでの空気は全くと言っていいほどなく、それでも二人はつかず離れずの距離を隣り合って歩き続けた。
閑静な住宅街は歩いて行けば十分くらいで川に辿り着く。少し歩けば二人の母校に挟まれるちょうど中間地点にある一軒家だった
一軒家とはいってもかなりの年数が経っていて、更には家の周り中生垣とウリ科の植物の弦が一面に伸び、玄関に至るまでの道のりにある小さなアーチにもまた同様に菖蒲か何かが天井を形作るように伸びている。
前の持ち主の物だろうか、風化して殆ど壊れているプラスチック製の滑り台やかごのような形状のブランコなども、庭の端に見え隠れしている。女の年齢的に、ここまで風化するほどの年月を住んでいないことは明らかだが、女は自慢げに買ったのだと明かした。
「この仕事、親に大分反対されてさ。それであの両親の所にいたくなくって買ったんだ。大学卒業したてでそんなに売れてなかったから、10年くらいのローンを組んだんだけどさ、ここ最近羽振りが良くってローン全額払えちゃったよ」
乾いた笑いを灯しながら家の鍵を開けると、扉を開け乍ら“お茶くらいは出せる”と云って彼女を家にあげた。ここまで着て最早彼女に断る理由はなかった。
女は早速生活スペースだろう洗濯物やらで散乱した部屋に入りながらお茶を淹れに向かった。
家の中は最早懐かしい塗料の香りと消し忘れたのだろうテレビの音、エアコンの駆動音に換気扇が猛烈な勢いで塗料の臭いを廃棄しようとする音で溢れていた。
アトリエと思しき部屋の扉は不用心にも開け放たれたままで、中にはそれはまぁ色々と物が散乱している。
絵筆にキャンバス、描き終わったのかそれとも描き途中なのか分からない青やらで雑多に塗りたくられたキャンバスに塗料皿、画集やら写真集やら模型誌やら、詰め込める物は全てこの部屋に詰め込んだと言いたげなそんな雑多で片付いていない、端的に表すならば兎にも角にもこれ以上ないまでに落ち着きのない部屋。
女の性格がよく表れていると一瞬笑いだしそうになり、部屋の片隅に置かれた物品に目が行ったのは、果たして偶然だったのだろうか。
部屋の片隅に、其処だけぽつんと埃一つ被らずに置かれていたのは彼女が高校生の時に愛用していた画材一色そのものであった。
塗料皿が二枚に始まり絵筆が数本、最早中身なんぞ固化しているだろうに後生大事に取って置かれている油性の塗料が十数本に、キャンバスから敢えて絵の具を取り除くためのヘラからキャンバスを保持するためのイーゼルまで。一つたりとて欠けることなく完璧な状態で保管されていた。
まさしく、自分が現役で筆を執っていた時の画材だった。間違えようもないほどに、高校に置き忘れてそのままにしてしまった画材一式だったのだ。
「――久々に何か描いてみるか?」
気が付けば女が彼女の真後ろに立っていた。両手には湯気の立つ紅茶のカップとブラックコーヒーがある。一体何分ほど、己はそれに見入っていたのか。
「高校二年の秋、同い年のアンタが他のコンクール参加者に大差をつけて最優秀賞を取っただろ、あの後アンタの学校に行ってあの時のこと謝ろうと思ったんだけどさ、やめちまったって聞いて。そしたら、アンタんとこの部活の子たち薄情なんだよね。同じ学校なんだから直接手渡しゃ良いのに、友達のアンタが渡しなさいよって渡されて」
その後も結局会えず仕舞いで、そのままアタシが頂いてたのさ。
女は彼女に紅茶を手渡すとコーヒーに口を付けた。眉間を寄せて苦いと一言溢すと直後に一気飲みしてしまった。
シニカルな一面に気が一瞬和らぐ気がして、何の気なしに筆を握った。もしかしたらあの時みたいに何か浮かぶかもしれないと思ったが、やはりなにも浮かばなかった。
緊張で手汗が浮かぶ。手がゆっくりと震えだし、取り落しそうになるのを女の手が彼女の手を包み込んだ。
「なんだい、描き方を忘れちまったのかい? それなら、これ見てどう思う?」
女は後ろから優しく彼女の肩を抱き、今イーゼルに立っている絵を見せた。
いつだったかに見た朝焼けに似た情景だった。サインもされていない、まだ未完成の絵だ。既に十分すぎるほどに完成しきっているはずなのに、しかしその絵には、何かが足りなかった。
街並みを焼く朝焼けは、ともすれば夕日のような色遣いのように思える。もう少し黄色味を強くしてはどうか。
空を描く青に深みと浅みが足りないような気がする。狭間の色が必要なのではなかろうか。
そして何よりも、夕焼けのような朱が足りない。
いつの間にか夕焼けを直視することすら忘れていた。朝焼けを見ることすらなくなっていた。美しさを言葉にするのなら、陳腐な言葉で佳ければ腐るほど出てくる。それを形容する色の語など、日本語には余りにも有り余るほどに沢山あるのだから。
見たことない人にすらその美しさが伝わるように。毎日腐るほど見ている人でも、その美しさが改めて実感できるように。
手の震えは止まっていた。今なら何でもできそうで、知らず心にはあの夕焼けが灯っていた。極彩色に彩られた夕焼けが。
「紺碧と松露、それと夕焼けみたいな鮮やかな朱」
「うん。じゃあそうしよう」
女の手が塗料皿の上に載っている顔料を混ぜ始めた。
Das Ende
凄く久しぶりの更新ですね……。取り敢えず去年告知していた夏短編、今年になってようやっと完成しました。是非とも感想などお待ちしております。
これからも魔弾の射手をよろしくお願いします。