もう二度と、お目にかかることはありません
「リジー聞いてくれ!」
そんな言葉と共に、自室の扉が勢いよく開く。エリザベスは顔を上げると、手に持っていた分厚い手紙をそっと机に仕舞った。
「如何しましたか?クロノス」
エリザベスは立ち上がり、婚約者クロノスへ向けてそっと微笑む。
漆黒の長い髪、紅い瞳、端正な肉体を持つオオカミのような男。けれど、その瞳は人懐っこく細められている。
彼とは幼い頃からの付き合いだ。こうした不躾な訪問も、互いの信頼の証なのかもしれない。そう思うと少し、穏やかな気持ちになれた。
「ブラウン公爵から、結婚の打診があったんだ!」
クロノスは興奮したように捲し立てると、満面の笑みを浮かべる。
「まぁ……それはそれは」
ブラウン公爵というのは、先々代国王に縁の有力貴族だ。結婚相手となる公爵令嬢はたしか、まだ14歳という若さの、可愛らしく素直な娘である。
「喜ばしいだろう?な?」
「はい。おめでとうございます」
エリザベスは恭しく頭を垂れると、笑みを浮かべた。
「お父様もさぞお喜びのことでしょうね。クロノス様に続いて二男であるサイラス様まで良縁に恵まれたのですもの。年齢もお似合いですし、私も嬉しいです」
「いや、それは違うぞ?」
そう言ってクロノスは何故か眉間に皺を寄せた。
「違う、とは?」
「結婚を打診されたのは弟じゃない。この俺だ!」
「…………は?」
思わぬ言葉にエリザベスは目を見開く。クロノスは我が物顔でソファに腰掛けると、エリザベスを手招きした。
「先日の夜会であちらの御令嬢が俺に一目惚れしたらしい。可愛い娘にせがまれちゃ、公爵も嫌とは言えないだろう?それで今回正式に結婚の打診があった、というわけだ」
テーブルに備え付けてあった茶菓子を手に取りながら、クロノスは得意げに笑う。エリザベスは唇を引き結びつつ、クロノスの向かいに腰掛けた。
「けれどクロノス。お忘れですか?あなたは私の婚約者ですのに」
「当然忘れてなどいない!」
まるでこの世の全てを手に入れたかのような婚約者の表情に、エリザベスはため息を漏らす。
「二股などすれば地獄に落ちるからな。リジー、今日はおまえとの婚約を破棄しに来たんだ!」
聞き間違いようの無いほど、ハッキリと紡がれる言葉たち。恐らくクロノスは、エリザベスへの申し訳なさ等、微塵も感じていない。
(タイミングが良かったと言うべきなのか、悪かったと言うべきなのか――――)
机に仕舞った分厚い手紙。その内容を思い返しながら、エリザベスは小さく唸った。
婚約者として過ごしてきたこの数年間を思えば、多少は心が痛む。二人の仲は良好だったし、この良くも悪くも愚直な婚約者を、エリザベスは慕っていた。
「……いくつか確認をさせてください」
「なんだ?リジー?」
クロノスは微笑みながら首を傾げる。
「あなたのお父様はこのことを御存じなのですか?」
「当然、知らん。俺と公爵との間で決まったことだ」
やはりそうか、と思いつつもエリザベスは頭がクラクラした。彼の父親とも、幼い頃からの付き合いである。クロノスの父親がこれから味わうであろう心労を思うと、こちらまで心が痛む。なおも得意げな表情を浮かべているクロノスを、エリザベスはそっと見上げた。
「伯爵令嬢である君に比べ、あちらは公爵令嬢だ。おまけに王族にも近しい。未来の家長として、どちらの家と婚姻を結ぶべきかなど、自明の理だろう」
「王族、ですか」
エリザベスは思わず乾いた笑いを浮かべる。
(まさか今、そんな単語をこの男から聞くことになろうとは)
クロノスの瞳は、キラキラと希望で輝いている。きっと彼は、周囲からチヤホヤされたり、王族の側近として重用される未来を想い描いているのだろう。エリザベスは何やら気の毒に思えてきた。
「そういうわけだ。リジーのことはとても素敵な女性だと思っている。けれど、俺は君とは結婚できない!」
この場に全くそぐわない幸せそうな笑み。
彼には彼の正義がある。これが家のために正しいことだと信じて疑っていない。エリザベスの心を傷つけていることにも気づいていない。
(本当のことを伝えるべきなのだろうか)
けれど、真実を伝えたところで、彼はエリザベスの話を信じてはくれないだろうし、誰だって手の届くところにある幸せを優先する。
「分かりました」
ニコリと穏やかな微笑みを浮かべながら、エリザベスは頷く。クロノスは瞳を輝かせると、勢いよく立ち上がった。
「分かってくれるのか?」
「ええ、もちろん」
そう答えるや否や、エリザベスはクロノスの腕に包まれていた。小さく音を立てて心が軋む。
「ありがとう、リジー!おまえは本当に最高の女だ」
ひたすらに真っ直ぐで熱い、酷い男。けれど、エリザベスはこの男が嫌いじゃなかった。
だからこそ、この男にとって一番残酷な形で、制裁を加えることを胸に誓う。
「もう二度と、あなたにお目にかかることはありません」
クロノスの腕の中でそう呟くと、エリザベスはニコリと笑うのだった。
****
それから数年の時が流れた。
家督を継いだクロノスは、ブラウン公爵家の令嬢と結婚をし、可もなく不可もない人生を送っている。
可もなく、なんて表現になってしまう理由――――それをクロノスも理解していないわけではない。
長年彼の婚約者であったエリザベスは、とても美しく聡明な女性であった。クロノスの癒しだった。そんな彼女と会えない日々は、クロノスの心に大きな穴を開けてしまったのだ。
婚約破棄の後も、クロノスは何度か伯爵家を訪れた。エリザベスにその後、新たな婚約者が見つかったのか。どんな風に過ごしているのか気になったからだ。
けれど、彼女と会うことは出来なかった。
手酷い門前払いを喰らったし、屋敷からはエリザベスの気配すら窺えなくなっている。
(リジーは今、どうしているのだろう)
ふとした時、クロノスはそんなことを考えてしまう。
そんなある日のこと。
長年病床に伏していた国王が譲位を表明した。
けれど、王太子の座にあった王子は数年前、若くしてこの世を去っていた。彼の他に、王の子は存在しない。このため、王位を継ぐのは、国王とさして年齢の変わらぬ王弟だろうと、皆が噂していた。
しかし、王が明かした後任者は思いがけぬ人物だった。
『王位を継ぐのは――――我が娘だ』
存在を秘匿された姫。正当な王位継承権を持つ娘の存在に、激震が走る。
一番焦ったのは王の弟や、その側近たちだった。
数年前の、王太子の死。それは王弟やその側近たちの陰謀だった。
病床の国王に新たに子を成すことはできないし、長く玉座に居座ることはできない。次の王位は自分たちの元に転がり込むもの。そう思っていたのに――――。
「王弟とその一派には私の兄を殺害した罪を償っていただかなくてはなりません」
玉座から凛とした美しい女性の声が響く。
(何故……どうしてこんなことに?)
クロノスは今、頭を床先に擦りつけ、新たに即位した女王へと跪いていた。
「お許しください、女王様。私は……私共は無実です!兄上が亡くなられたのは…………」
「事故だったと、そう申すのですか?」
冷ややかな声音に、クロノスは身体を震わせる。今、この場で釈明をしているのは、彼の義理の父親――――ブラウン公爵だ。
「ここに兄からの手紙がございます。死の間際に私に宛てた手紙です」
クロノスは顔を上げることができないため、女王がどんな顔をしているのかは分からない。けれど、その声音はどこか懐かしい。こんな時だというのに、何やらそれが気にかかった。
「この手紙には誰が兄上を陥れたのか、その方法、証拠の何もかもが記されています。兄は慎重な人でしたから、手紙は巧妙に隠されていて、全て集めるのに数年かかりましたが……筆跡鑑定も済んでいる、正真正銘兄からの手紙です」
王弟やブラウン公爵が歯噛みする声が聴こえる。
話の流れや義理の父の様子から判断すれば、犯人は彼等で間違いない。クロノスの全身から血の気が引いた。
(嘘だろう?なんのために俺は――――)
ブラウン家の令嬢との結婚は正しいことのはずだった。父親や母親、弟たちのためにも地位を盤石にして発展させる。それが自分の役目だと思っていた。
それなのにクロノスは今、王太子殺害の一派として断罪され、その地位を奪われようとしている。
「そっ、そもそも!あなたが本当に国王陛下の血を引く娘なのだとしたら、これまで何処にいらっしゃったのですか?どうして姿を隠して」
「それは当然、あなたがたから身を守るためです」
女王はにべもなくそう答えた。
「母は秘密裏に私を妊娠、出産し、とある伯爵家へ預けました。父が国王に即位したことを快く思わない勢力があることに気づいていたからです。そうして私は、兄がなくなるまでの十数年間、伯爵家の令嬢として大事に育てられました。あのまま兄が無事であれば、私はどこかの貴族に嫁いで、普通の幸せを手にしていたことでしょう」
その時、何処からか視線を感じて、クロノスはそっと身じろぎする。顔を上げられないことがもどかしい。けれど、この場で変な動きをすれば、それだけで命を落としかねない。クロノスのすぐ側に、衛兵の構えた槍が光を放っているのだ。
「けれど、そうはならなかった。父からの手紙で兄が殺された事を知り、私は伯爵家を出ました。次の王として即位するために。あなた方に気づかれぬよう、着々とその準備を進めていたのです」
女王の後ろには、幾人もの貴族や騎士たちが控えている。きっと、国王は信頼のおける配下には予め娘の存在を知らせていたのだろう。
誰がどう見ても、こちらに勝ち目は残っていない。クロノスは絶望感に打ちひしがれた。
「お話は以上です。連行してください」
最早反論する力は誰にも残っていないのだろう。一人、また一人と断罪された人間が連れていかれる。次はもう、クロノスの番だ。
「待ってくれ!おかしいだろう?」
騎士に腕を掴まれたところで、クロノスは思わず声を上げる。
辺りがシンと静まり返り、頭を垂れたままでも注目が己に集まっているのが分かった。
「女王陛下!あなたの兄上が殺されたとき――――私はまだ、ブラウン公爵とはなんの関係もなかった!爵位にだって就いてなかった!……父上だって同じだ、何も知らない!何もしていない!ですから俺の家は何の関係もございません!」
必死に声を張り上げ、クロノスは拳を握りしめる。
「――――――確かに、あなたは直接この件に関係がないかもしれません」
呟くようにそう言ったのは女王だった。暗闇に差し込んだ一筋の光に、クロノスの心臓は高鳴る。
「けれど、私は名実ともに『最高の女』になりましたから」
「…………え?」
その刹那、クロノスは再び絶望の淵へと突き落とされた。
(最高の女って)
過去、婚約者に向けて己が発した言葉がフラッシュバックする。
(まさか……まさか…………!)
呼吸を求め、ハクハクと口が動く。けれど、頭も身体も誰かに乗っ取られてしまったかの如く、思うように動いてくれない。
「もう二度とお目にかかることはないと、あなたとそうお約束しました。その約束は何としても守りませんと――――ねぇ、クロノス?」
ドクン、とひと際強く心臓が鳴り響く。クロノスは思わず顔を上げた。
「リジー……」
光り輝くブロンドに、深い緑色の瞳。彼の目の前には誰よりも気高く、誰よりも美しい、最高の女性――――元婚約者であるエリザベスが立っていた。
「あなたは国外に追放します。今度こそ――――もうお目にかかることはないでしょう」
花のように可憐に微笑むその笑顔は、あの頃とちっとも変わっていない。けれど彼女の瞳には、悲しみの色が見えた。
(俺は間違っていたのか)
自分は正しいことをしていると思っていた。家族のため、自分のため、正しい道を進んでいると信じて疑わなかった。エリザベスが今もこんなに悲しんでいたとは、気づきもしなかったのだ。
クロノスはその場に膝をつき、愕然と項垂れることしかできなかった。
****
「本当に、これで良かったのか?」
徐にかけられた声に、エリザベスは振り返った。
目の前には幼い頃からお世話になっていた伯爵家の一人息子、アーノルドが立っている。
今回、エリザベスが女王として即位するにあたり、一番の協力者となってくれたのがこのアーノルドだった。今後側近として仕えてもらうし、執務室に自由に出入りする許可を与えている。
「あなたが一言命ずれば、クロノスは助けることが出来ただろうに」
エリザベスは困ったように笑いながら小さく首を横に振った。
「そんなことしてたらキリがないもの。クロノスを助けるために他の人にも恩赦をかけなければならないわ」
今回の断罪で、彼と似たような立場の者は他にもいた。クロノスを助けるならば同様に、彼等のことも助けなければならない。
それに、クロノスに嫁いだ公爵令嬢や他の縁者が復讐を企てようと考える可能性もあるし、人間は簡単に嘘が吐ける生き物だ。誰がどの程度この件に関わっていたかを見極めることは難しいのだ。
「本当はクロノスに婚約破棄を言い渡された時点で、公爵が陰謀の首謀者だって分かっていたら良かったのでしょうね。そうしたら私は婚約破棄を止めていたかもしれないもの」
窓の外に広がる王都を眺めながら、エリザベスは目を細めた。ぼんやりと揺れ動く小さな灯り。今頃クロノスはあの辺だろうか。ついついそんなことを考えてしまう。
「――――まだ、あいつが忘れられない?」
背中がほんのりと温かい。心臓がトクンと高鳴るのを感じながら、エリザベスはアーノルドにそっと身体を預けた。
「忘れてほしいの?」
アーノルドとはそれこそ生まれたころからの付き合いで、兄妹のように育ってきた。
けれど、クロノスとの婚約破棄が成立し、エリザベスが王位継承に向けて動くにつれ、二人の関係は少しずつ変化してきている。兄妹としての親愛の情ではない何かが、着々と育っているのだ。
返事の代わりにと、アーノルドは真っ直ぐにエリザベスを見つめる。揺ら揺らと揺れ動く瞳はとても真摯で、エリザベスは思わず微笑んだ。
「大丈夫。私にはアーノルドしかいないから」
ギュッと力を込めて、アーノルドを抱き締めると、エリザベスの心が温かく灯る。
優しくて誠実でエリザベスだけを想ってくれる人。アーノルドが夫になってくれたら、きっとエリザベスだけではなく、国民だって幸せにできるだろう。
眼下に広がる王都の光を眺めながら、二人はそっと、初めての口付けを交わしたのだった。