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独りぼっちの七面鳥

作者: 北原夕湖

「じゃあな」

私たちは最後のキスをした。それは長い長いキスだった。

私はさよならを言わなかった。言葉を発すると、口元に残った亮介のマルボーロの香りが、消えてしまう気がしたから。

亮介が、東京駅の中央線ホームの長い下りエスカレーターに乗った。やがて、ヤエカのシャツが見えなくなり、ブリーフィングのリュックの紐が見えなくなり、ブリンクの眼鏡の縁が見えなくなり、遂には、くるっとした天然パーマの毛先まで見えなくなった。

世界で一番好きな人に別れを切り出されたはずなのに。なぜかお腹がグーグーと鳴っている自分に笑えた。

亮介の好みはオードリー・ヘップバーンに始まり、ケイト・モスやアレクサ・チャン。とにかく華奢な人が好きだったから、一五四センチの私は、四〇キロ以上になることを許されていなかった。だから、亮介と付き合ってから八年間。何かを思い切り食べたことがなかった。


「すまない」

クリスマスイブ。自分の誕生日に切り出されたのは意外な言葉だった。

亮介は、取引先の社長の娘と結婚することになったのだ。亮介は言い訳がましく、何度も言った。「好きなのはお前だ」と。

彼は安定を取ったのだ。他のみんなと一緒で、家に帰れば、「おかえりなさい」と言ってくれ、ご飯があり、子どもがいる家庭を持つことを選んだだけだ。私は外資系化粧品メーカーで働いている。海外出張も多く、、商社で働く亮介とはすれ違いの生活ばかりだった。結婚しても仕事を辞めるつもりなんてなかったから、仕方のないことだったのかもしれない。

反論するという選択肢もない、突然の離別宣言に私は茫然としていた。中央線の御茶ノ水駅で総武線に乗り換えるのを忘れ、四ツ谷まで行ってしまったくらいなのだから。何とか最後の力を振り絞って、飯田橋の駅に着いたころは身も心もへろへろだった。


亮介はワイン好きだ。休日は、好きなワインを買い、イタリアン料理店で惣菜を買い、神楽坂の私の家でラジオを聴きながら、微睡むのが休日の過ごし方だった。神楽坂通りから一歩入ったイタリア料理店は、お惣菜がテイクアウトできる。私はこの店のトリッパが大好物だった。亮介は「太るから」と言って、いつも二~三口しか食べさせてくれなかった。当の本人は、毎日の接待で下っ腹が出ていて、痛風だったくせに。


クリスマスイブの神楽坂通りは最悪だった。聖なる夜を祝福しようと、カップルたちで飽和状態だ。私は、人混みの間を縫い、逃げるように道を急ぎ、漸くいつものイタリアン料理店にたどり着いた。


「トリッパ下さい」

腫れぼったい目を見たシェフの美加子さんは察したらしい。土曜日の夜なら、二人で来るはずの私が、誕生日に一人で来たから。いつもより明らかに大盛りになったトリッパに加え出てきたのは、七面鳥の丸焼き。中にはチョリソーとインゲン豆、ジャガイモのソテーが入っているそうだ。美加子さんは言った。

「これ、余っちゃったの」

そう言ったあとに、小さな声で、

「何も言わないで、これ食べて。泣くのもエネルギーいるからね」と肩を叩いた。

亮介と付き合ってから、八年。ずっと食べていなかった肉の塊。思わず唾液が出てきた。もう、太ってもいい。自分の体形に難癖をつける人はいないのだから。

幸いなことに、明日のクリスマスは日曜日。仕事に行く必要もない。今日は食べまくって、明日は寝坊しよう。私は心に決めた。今夜は、新たな自分になるための儀式をしようと。


家に帰り、ワインセラーからワインを選ぶ。並ぶのは亮介が選んだワインばかり。コストパフォーマンスが悪いからと、亮介が怒っていたオーパス・ワン。甘口を間違えて買って、買い直しさせられたランブルスコ。そして、昨年の誕生日に亮介がくれた、生まれ年のコート・デュ・ローヌ。

「お前の生まれた年は、ワインの当たり年なんだよ」

亮介は年が一つ上だった。彼の生まれた年のワインは美味しくないのだそうだ。

「もう少し寝かしたほうがいい」という亮介の鶴の一声で、コート・デュ・ローヌは、今年のクリスマスイブに開けると約束していた。

しかし、彼がもうここに来ることはない。

私は一九八五年のコート・デュ・ローヌを取り出した。ヴィンテージワインのコルクは弱い。途中でコルクが折れてしまった。亮介は、どんなワインでも、華麗な手つきでワインを開けていたっけ。

いけない。これは彼を忘れるための儀式だったんだ。私は、気を取り直して栓を抜き、デキャンタグラスの上に網を置いてコルクを取り除いた。

宴の準備は整った。


「いただきます」

八年ぶりに食べる肉の塊、七面鳥を、涙と赤ワインで流し込みながら、私はむしゃむしゃ食べ続けた。揚げ物もケーキも、アイスクリームも解禁できる、と思うと涙が止まらなかった。

お皿が空っぽになるころ、私は思った。大丈夫。私は一人でも生きていける。これだけ、生きるための栄養を蓄えたのだから、と。


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