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天国から戻ってきた男

作者: 楠瑞稀

これは作者のHP『飛空図書館』に掲載されているのと同じ作品です。

 結局は一種の事故だった。

 それはまさに交戦の最中の出来事だったが、男の直接の死因となったのは戦ではなく崖から転落したことだった。

 戦争と言いきってしまうほどには大きくなく、せいぜい集落同士の縄張り争いとでも評するべきその戦い。それでも紛れもなく戦地と呼べるそこに身を置いていた男は、一方でけして争いが好きなわけではなかった。

 これまでも仕方なしに戦いに参加したことは幾度かあったが、積極的に人を傷つけたことは一度もない。周囲から役立たずと呼ばれようとも、男はいつだって大人しく逃げ回ってばかりいた。

 だがその時ばかりは、そうした行為が裏目に出た。

 狭い足場を逃げ回っているうちに、うっかり足を滑らせてしまったのだ。しかも運の悪いことに、その手には無理やり持たされていた槍を握ったまま。だから崖を転げている間に、男は槍の穂先を自分の腹に深々と突き刺してしまった。

 やばい、と瞬間的にそんなようなことを男は思った。これでは確実に死んでしまう、と。

 その判断には実に妥当なものであり、仮にすぐに仲間に助けられたとしても、もはや男の傷は彼らの知識では手の施しようがないものだった。

 そういった訳で、崖を転げ落ちながら男が自らの意識を手放したのも、ごく自然の成り行きだった。





 + + + + +





 ――そして現在。

 おもむろに着ていた服の裾を捲り上げ、男は自分の腹を撫ぜ擦った。けれど槍が刺さった跡どころか、崖を落ちた際に負ったはずの傷さえもどこにも見当たらなかった。

(おかしい。なんだかまだ――死んでいないみたいだぞ……?)

 そんな事を考え、男は首を傾げた。しかも着ている物だっていつの間にか変わっている。

 まとっているのは生まれて始めて触れるような真っ白で柔らかい衣だし、それどころか今いる所だってまったく知らない場所だった。周囲の壁は見たこともない滑らかな材質でできているし、天井からはまるで真昼の太陽のように暖かい光がふんわりと降り注いでいる。

(ここはどこなのだろうか)

 男は呆然と思った。

 ここは自分の理解を大きく超えている。それなのに喚いたり慌てたりもせずに、すっかり落ち着き払ってしまっている自分がいっそう不可解だ。

 男がただひたすらに困惑していると、何の前触れもなく壁の一方にぽっかりと穴が開いた。

 ぎょっとする男の目の前で、穿たれた壁の穴から一人の女性が現れる。ここに来て初めて出会った人間だ。しかし彼はただの一言だって、声をかけることはできなかった。

 それはあまりに不思議な女性だった。

 顔の造作は彼が馴染んだ仲間のそれとはだいぶ雰囲気が違っていたし、きらきらと光を弾く太陽のような色の髪や深い空色の目、そして身にまとった裾の長い白い服などがなんとも美しく印象的だった。

「気付かれたようですね」

 男に目を止め、そうやって尋ねてくる声もまたたいそう奇妙なものに男には感じられた。

 言葉自体はまったく聞きとれないのに、その内容が自然と思い浮かぶ。それはまるで頭の中に直接意味を注ぎ込まれているようだった。

 いったい何が起こるのだろうか。ビクビクと怯える男に女性は穏やかに微笑み、告げた。

「ようこそ、天の国へ。私は天の使いです」

 彼はぱちくりと目を瞬かせる。

 その単語自体は理解できた。しかしそれが何を意味するものなのかはさっぱり理解できない。

 きょとんとした顔をする男に、天の使いは首を傾げる。

「もしかすると天国が、お分かりになりませんのですか?」

 不思議そうにたずねる使いの言葉に、彼は正直にうなずいた。

 使いはわずかに怪訝そうな様子を見せたが、それでも丁寧な態度を崩さずに男に対して説明を口にした。

「天国はとても素晴らしいところです。美味しい食べ物も薫り高い酒もいくらでもあります。働く必要はなく、誰もが楽しく自由に暮らせます」

 天の使いの口から滑らかに発せられた言葉に、彼は驚きを隠し切れずもう一度眼をぱちくりと瞬かせた。

 あまりに突然のことに、何が何だか分からない。

 何故か傷はなくなってしまっているが、この腹に槍が深々と刺さったのを確かに自分は覚えている。だから自分はすでに、死んでしまっているはずではないだろうか。

 そう考えを廻らせる男の気持ちを察したのだろう。使いは穏やかに頷いた。

「ええ、その通りです。あなたは確かに一度亡くなっております。けれどあなたの魂はとても善良で清らかだったので、天の国で新しい人生を送れるよう、特別に取り計らわれたのです」

 あなたはこれまでに誰ひとり殺したことはありませんでしたでしょう。そう問われ、彼はおずおずとうなずいた。

 むしろ戦争ではまったくと言っていいほど役立たずだったため、仲間たちからはたいそう呆れられてもいたものだ。そうやって考えた時、彼ははっと思い至って慌てて使いにたずねた。

「な、仲間も――、」

 そんな素晴らしい所ならぜひとも戻って仲間たちを連れて来たい。彼はそう思ったのだ。

 しかし、天の使いはそれを聞くや沈痛な面持ちで首を振った。

「残念ながらそれは叶いません。一度この国に来た者は、けしてもと居た場所に戻ることはできないのです」

 じゃあせめて、妻子に自分は元気でここに居る事を伝えたい。男はそうも考えたが、やはり使いは首を振った。

 今まで生きていた世界とは二度と関われない。それが天国の覆せない摂理おきてなのだと言う。

 それゆえ、自分はもう二度と妻子にも仲間にも会うことはできない。

 それが分かってうなだれる男に、天の使いは慰めの言葉を掛けた。

「もちろんその人たちがこの先慎ましく善良に生きていれば、ここに呼び寄せられる事もあるかもしれません」

 もっともそれは男の耳にもあきらかな気休めの響きを帯びていた。

 天の使いは困ったように男を見ていたが、やがて小さく息をついた。

「これからどのようにこの国で生きていくか、後ほどまたご相談いたしましょう。今はどうぞゆっくりと休んでください」

 天の使いはそう彼に言い残して、静かに部屋を立ち去っていった。

 すっかり消沈した男はその後姿をじっと目で追っていたが、さして間も置かぬうちに、何かを決意したように立ち上がった。



 白く照らされた廊下を歩いていた女性は、ようやく辿り着いた目的の部屋の前で足を止めた。

 目立たぬように設置された制御盤(コンソール)の上に手のひらをかざし個体照合を行うと、認証コードを打ち込む。するとおもむろに壁が開き、入り口が作られた。

「ただいま戻りました」

「ん。お疲れさん」

 そこに居たのは女性と同じように裾の長い白衣を身につけた一人の男だった。

 巨大な機械に向かっていた彼は、作業をいったん中断すると女性に向き直る。

「それで、彼はどうだったかい」

「はい。無事に目覚めておりました。脳に刷り込んだ翻訳コードも問題なく機能している模様です。精神安定剤トランキライザーも同様です」

「人格についてはどうだい」

「機械が示した情報どおり、穏やかで感受性の高い人物であるようです。最も今はいくらか安定を欠いています。やはりまだ故郷に未練があるようです」

 女性はどこか負い目を感じている様子で今の彼の状態を報告する。男性も困ったように小さく息をついた。

「それについては仕方がないだろう。おいおいこちらに慣れていって貰うしかない。彼にもこれまでの人たち同様、――ここが天国であると説明したんだろう」

「はい。その通りです」

 女性ははっきりとうなずく。しかしもちろん、ここが天国であるはずはない。

 その事は、他ならぬ彼女たち自身がもっともよく知ることであった。



 かつては多くの危機的問題がこの世界を蝕んでいた。

 戦争や疫病、貧困や飢餓が世界を満たし、偏見や欺瞞などといった様々な要因によって、人々は争い、餓え、苦しんだ。

 そうした暗黒の時代は人類の歴史の上に長く長く横たわっていたのだが、しかし人々はただ絶望に駆られ諦めていたわけではなかった。同時にそれは少しずつ解決に向かってもいた。

 より善い世界を目指して懸命に努力していた人たちが、そして弛まぬ発展を続けた各種の技術がそのような問題をひとつひとつ解決に導いていったのだ。

 そしてある時、ついに世界中からあらゆる問題が取り除かれた。

 この世に生きるすべての人間の一人残らずが、餓えにも貧困にも悩まされることなく、平等にあらゆる権利を保障してもらえる世界。そこでは平和で幸福な人生を、誰もが享受することが可能となった。

 それはなんと素晴らしく、理想的な世界であることか。

 ――しかし、人々の予想に反してそうした最高の日々はあまり長くは続かなかった。やがてまったく予想だにしない問題が彼らの世界に浮かび上がってきたのだ。

 それは『出生率の異常低下』、そして『寿命の著しい低年齢化』である。

 原因はいずれもまったくもって不明。一説ではあらゆる問題が解決したことで人という種に終わりが訪れたとも言われたが、まさか仮にそれが真実であったとしても到底受け入れられるものではない。

 世界中の国が解決に向けて様々な方策を練った。最後には人類が一丸となってそれに取り組んだが、それでもその問題を解決することはできなかった。

 出生率は下がり続け、一方で死亡率は上がり続け、ついに世界の人口は数千万という単位にまで下がり始めた。

 人口は今後も更なる勢いで落ち込み続けることが予測されている。

 このままでは確実に人類は滅びる。

 目の前に突きつけられたその事実に人々はようやく絶望し、そして恐怖した。

 そしてその恐怖が最高値に達したとき、彼らが選び取ったのはこれまであえて禁じ手として封印してきた手段――近年になってようやく見出された新技術、『時間転移』を利用するものだった。



 プロジェクト名:『箱舟アーク

 それはすなわち、過去の世界の人間を現代に移住させる計画である。

 もっともそんなことを無作為に行えばいたずらに過去を改変することにも繋がりかねない。だからタイムパラドックスを極力避けるための対策として、歴史の上では明らかに死亡が決まっている人間、けれど現代の技術ならなんとか救うことができる人間をその死の直前に秘密裏に連れ出し、この時代で暮らさせることになった。

 それこそが彼らの考え出した、現時点でもっとも有効な人口減少抑止策だったのだ。

 もっとも、そこにはまだ一つの問題があった。

 それはこれまでとまったく違う時代、まったく違う文化に生きてきた人間を如何にいまの時代に適応させるかということ。

 馴染みの無い世界にいきなり連れて来られるのだ。対象となった人間には途方もないストレスが生じる。そのため、人々の移住をスムーズに行うための対応策が焦点となった。

 そうして講じられたのが、彼らの宗教観を利用してみればどうだろうかと言う案だった。すなわち彼らに対して、ここが『天国』であると説明するのだ。

 この時代、世界三大宗教を始めとするほとんどの信仰が衰退している事を考えれば、なんとも皮肉なものである。だが結局これ以上に効果的な手段は他になかった。

 もちろんやがては真相を明らかにすることになるが、彼らが真実を受け入れられる知識、経験を得るまではそうした嘘は必要不可欠。

 それゆえに今回彼らが連れてきた男に対しても、そういった経緯で同様の説明が行われたのであった。



「――ですが、彼はどうやら天国という概念を理解してはいないようです。信仰の形態が違うか、あるいは信仰そのものを持っていないのかも知れません」

 これまでにはなかった事例に、女性は当惑を深くする。男性も返す言葉にわずかに驚きを含ませた。

「ふむ。それは興味深い。今回はいつもより年代を大きく遡らせたからな。詳しいデータを取りたいので装置の設定を彼が居たころのままにしておいてくれないか」

「かしこまりました」

 作業を再開させる男性の傍に寄ると、女性も同じように機械に向かい操作を始める。

 そうして彼らは二人して仕事に没頭していたが、そんな中ふいに男性は静かな独白を漏らした。

「――しかしこうして考えると、我々がしていることはまさに神との善良なる魂の奪い合いだな」

「博士……」

「天国までも騙り、きっといつか我々には神罰が下るに違いない」

 神をも恐れぬ行為。そう冷笑するような呟きに、助手である女性は悲しげな眼差しを男性に向ける。だが男性はむしろ淡々と言葉を続けた。

「けれど神罰がいったいいかほどのものか。このままではそう遠からず人類が滅びるというのに、今更何を恐れる必要がある」

 もちろん、彼だってこれが正しい行為ではないということはきちんと理解している。

 いたずらに運命を歪めて、いつか取り返しのつかないしっぺ返しが待っているのかもしれない。

 だけれど今はこれより他に方法がないのだ。

 他に誰も――解決策を見つけることができなかったのだ。

「かりそめであろうと、世界を救う手立てがありながらただ滅びを待っていて、何が科学者だ。何が科学技術だ。神が世界を救わないのなら、――我々自身が神になるしかないじゃないか」

 自嘲を込めて彼がそう呟いたとき、突然けたたましいアラーム音が室内に響き渡った。

 ぎょっとした彼は慌ててマイクを掴み、問い質す。

「どうしたっ。何があった!」

『7番高炉が暴走しています。どうやら時空間流トラブルが生じたようで――、』

「分かった。今すぐそちらに向かう!」

 視線を受けた女性も、慌てた様子でうなずく。

 そうして彼らは取るものもとりあえず、大急ぎでその部屋を飛び出していった。



 やがて無人となった研究室に、誰かがそっと入り込んだ。

 入院患者用の貫頭衣を身にまとった彼は、今日過去からこの時代に連れてこられたばかりのあの男だった。

 彼の目覚めた部屋は扉の構造自体は分かりにくくなっているものの、外側からの鍵は掛かっていない。これまで連れてきた者達は、みな神の威光に萎縮し勝手に出歩くことはなかったけれど彼は違った。

 天の使いを名乗った助手の後をこっそりとつけ、ここまで辿り着いたのだ。

 もっとも厳重に閉められたこの扉の前では、ただ右往左往しているしかなかったのだが、運の良いことに中の住人たちは扉を開け放したまま大急ぎでどこかに走っていってしまった。

 これを好機と部屋に入り込んだ彼は、勘を頼りに目の前にある機械類を手当たり次第いじっていく。

 天の使いは一度ここに来た者は二度と戻れないと言っていたが、彼はどうしても諦め切れなかった。せめて妻や子に、自分の無事だけでも伝えたかったのだ。

 無我夢中でコンソールをいじっているうちに、彼はふいにカバーの掛かった赤いボタンを見つけた。その色鮮やかさに惹かれ、男は反射的にそのスイッチに手を掛ける。


 ――もしその場面を見ている人間がいたら、きっとこう評したに違いない。

 それはまさに、悪戯に歪められた運命の皮肉であろうと……。



  + + + + +



 気がつくと、男は自分の良く知った場所にただずんでいた。そこは自分の住む集落からほんの少し離れたところ。彼は覚えのある道をたどり、大急ぎで仲間の元に戻った。

 彼が戻ってきた事に気付いて、仲間たちは非常に驚いた。何しろ彼は先の闘いの中でとっくに死んだものとばかりに思われていたからだ。

 驚く仲間たちに、彼は自分がこれまで天の国とやらに居たことを語った。説明を求める仲間に、彼は天の使いとの会話を思い出しながら喋る。

 いわく、そこは善良な魂だけが死後招かれる場所だ。

 いわく、そこは争いもなく、土地も食べ物も豊富で幸せに満ち溢れた場所であると。

 仲間たちは尋ねた。そこには自由に行き来することができるのか。

 彼は残念そうに首を振る。

 一度そこに招かれた者は、二度と元の場所に戻ることはできない。自分が戻ってこれたのは、たぶん自分がまだ完璧な死者ではなかったからだろう、と。

 そんな夢物語のような彼の話を聞きながら、しかし仲間たちは思った。

 もし叶うなら、自分たちも死んだ後にその天の国とやらに行ってみたいと。

 天国から戻ってきた男にさらなる話を請いながら、彼らは自分たちの住処――岸壁に穿たれた洞穴の中へと帰っていく。

 彼らのうちに初めて宿った感情、のちに『信仰心』と呼ばれるものをその胸にたずさえて。


 ――時は有史以前。

 それは人類が文明を持たずいまだ原始的な生活を送っていた、そんな時代のことであった。




【終】

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