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人魚姫

作者: kunai

 人魚姫。

 哀れな哀れな海の姫。

 もらった足は役立たず。言葉もろくに喋れない。

 報われない恋の末、泡と消え去る馬鹿な姫。

 だから、ずっとずっと疑問だった。

 どうして彼女は海に帰らなかったのか。

 痛いばかりの地上。

 報われることなどありはしない不毛な恋。

 なのにどうして王子の傍にいたいと願ったのか。

 ————だけど、今なら分かる。

「……————っ!!」

 喋れなくても痛くても。報われないと分かっていても。

 伝えたい想いがそこにあったからだ。




 この世には地上で生きる民と海で生きる民がいる。

 海の民は人魚姫の末裔として細く長くひっそりと生きてきた。

 人間に恋し、最後は泡となり消えてしまった海の姫と、その姫を助けるために己の髪を差し出した姉姫たち。

 そんな彼女たちは『海姫様うみひめさま』と呼ばれ、海ヶあまがはら神社という、海の中で唯一の神社にまつられていた。

 その神社を管理するクライン家には四人の娘がいる。

「あンのボンクラ王子、また海の埋め立てやるつもりかよ!?」

 居間の中央に置かれた卓袱台に新聞を叩きつけながら、クライン家長女リアが怒鳴った。

 姉妹の中で一番感情のふり幅が大きい彼女は表向きはとても優秀なキャリアウーマンである。しかし家族、特に妹たちの前では口も悪くかなり砕ける。外ではバリバリ働くリアは、しかし家では料理はおろか掃除もまともにできないかなり残念な女性だった。

「ちょっと、リア姉さん、新聞で卓袱台叩かないで……。それ今日の新聞なのよ……」

 ひどい顔色で栄養ドリンクを飲みながら、次女のエアが苦情をいれた。

 ハマったアニメの二次創作も手掛けているエアは隠し通すのが厳しいと家族に公言する程度には重度のオタクである。深夜アニメの視聴もリアルタイムで行うため万年寝不足で常に顔色が悪い。

「エア姉さん今日はずば抜けて顔色悪いねぇ。死人みたい」

 無邪気な明るい声でさりげなく口が悪いのは三女のクレアである。

 外見は誰もが認める美少女であるクレアは、ゆるふわ系女子を演じる腹黒毒舌系女子である。その容姿と完璧に演じるゆるふわな性格で、狙った男は確実におとすあざとくも賢い女であるが、姉妹の前では砕け、容姿とのひどいギャップを生み出している。

「ちょっと! クレア姉さん!? ストッキングは洗濯ネットに入れて白いかごって言ったよねえ!?」

 外面エリートの長女、重度オタクの次女、ゆるふわ美少女(本人談)の三女を姉に持つのが末っ子のアリアである。個性的すぎる姉たちに翻弄されるおそらく一番の苦労人である。

「って、何でみんなしてあたしの話無視すんの。埋め立てよ埋め立て! しかも今度はショッピングモールの建設が目的って! はああああ!? なに考えてんのあの馬鹿王子!」

「連呼されなくても聞こえてるわよ……。寝不足の頭に響くから大声出さないで……」

 栄養ドリンクを飲み終わったエアと近くにいたクレアが新聞を覗き込む。

「今の王子って、ユウリ=アーレント、だっけ?」

「あー、外面はいいのにねえ。あの人」

 地上で一番豪華な城。この国を統べる王子と十二人の政治家の集う建物。

 それがアーレント家である。

「外面がいい奴って何でちょっと問題ありなんだろーね……。あんたみたいに」

「うるさいわよ死人」

 エアの返しにクレアがにっこり笑って毒を吐く。

 そこに、今日の洗濯当番だったアリアが一区切りついて居間に来た。

「お、アリアも来たわね。じゃ議題に入るけど」

「え? 姉さんたち何の話してたの。なに議題って」

 一人ついていけてないアリアがエアとクレアに尋ねるがリアの話を聞けと具体的には教えてもらえない。

「由々しき事態だわ。地上の民の奴らによって海の民の土地が奪われるわ」

「え? 地上と海で戦争でもすんの?」

 リアの物々しい言いようにアリアが目を見開いた。

「細く長く連綿と続いてきた海姫様の歴史が閉ざされる時が――――」

「……ごめん。エア姉さんでもクレア姉さんでもいいから詳しく説明して」

 痺れを切らしたアリアが二人の姉の方に首を巡らすと二人が苦笑しながら説明してくれた。

「ああ。そーゆーことね」

「アリアも納得したとこで、こっからが重要な訳だけど」

 もったいぶった長女の話し方に若干苛立ちも感じつつ大人しく耳を傾ける。

「今度あの馬鹿王子の婚約者を決めるパーティーがあるのよ。そこでめでたく婚約者の座を射止めた奴は王子が一つ願い事を叶えてくれるらしいのよね」 

 もう言いたいことは分かるでしょ、とリアがアリアたちに意味深な笑みを見せた。

「……つまり? 王子の后の座をもぎ取って海の埋め立て計画を白紙にする交渉をしろと?」

「アリア大正解」

 神社の鳥居並みに高いハードルにアリアは絶句した。そして。

「ぜっったい無理!! なにその無謀の作戦!!」

 心の底から否定した。

「無謀でも何でも! 私たちは海姫様を祀る神社の娘よ!? 私たちがしなくて誰がするってーの!?」

「まあ海の民は全員埋め立てなんて反対だろうけど、やりたがる奴はいないわよねー……」

「身体的負担は大きいし、荷は重いし。あたしやだな~」

「そうと決まれば……っ!」

 姉のその一声に、四人が同時に右手を突き出した。

「「「「じゃーんけーん……!」」」」




「で、お前が負けたの。アリア」

 その声にアリアはジト目で睨み返した。

「いくら何でも末っ子に民の命運任す姉ってどうなの」

「民の命運をじゃんけんで決めるお前らもどーかと思うがな、俺は」

 アリアが訪れたのは魔法使いの家である。日常的に使用する風邪薬から魔法のようなびっくり薬まで幅広く扱うこの男は海の民から魔法使いと呼ばれている。

 人魚姫の末裔として生きてきた海の民は、長い長い時の中で不便でしかなかった下半身の尾ひれを人間と変わらない脚へと変化させた。そして魚の尾から人間の脚へと変化させたのは魔法使いである。

「で、何かないの。地上に上がっても大丈夫な感じの薬」

 しかしあくまで水中を泳ぐ、歩くためのものである脚は地上に適しておらず、海の民が地上に上がれば激痛に苛まれた。

 何ともアバウトな注文をするアリアに魔法使いの男は長い前髪の隙間から笑ってみせた。

「あるのはある」

「え、うそ」

 そう言って魔法使いは青い液体の入った小型のビンをつまんだ。

「これは地上に適した脚に変化させるための薬だ。本来なら激痛を伴う所業だから多少の鎮痛作用は入ってる。それでも気休め程度だ。しかも効力は五日。それを過ぎると激痛は増すしそれ以上地上に留まったら体にどんな異常が起きても俺は責任がとれん」

「五日!? 少なっ!?」

「文句ゆーな。地上に上がれるってだけでも画期的。ありがたいと思え」

「五日でどーやって王子に気に入られんのよ!?」

「それはお前の女子力と運次第」

 ビンを受け取り中の青い液体をまじまじ見つめる。見るからに怪しそうなその薬を眺めるアリアに魔法使いが意味深な笑みを浮かべた。

「じゃんけんで負けたからとはいえ、まさか本当に王子の婚約者の座を射止めようとするとはな」

 容姿だけ見れば二十代前半にも見える魔法使いだが、彼らの時の流れは非常に遅いらしく、人間よりもはるかに長命だ。実際、アリアが子供の頃とこの魔法使いの容姿は全く変わっていなかった。

 そんな変わり者の男を見つめ、アリアは言いにくそうに口を開いた。

「勝算が殆どないことも重々承知だし、無謀だって分かってるけど」

 それでも。

「それでも、あたしは海が好きだから」

 埋め立てられてここに住めなくなるのはいやだ。だからやる。

「そうか」

 魔法使いはそれ以上何も言ってこなかった。この答えでとりあえず満足したのだろか。

「薬代は? いくら?」

「いーよ。俺もどうなるか気になるし、成功したらタダにしてやる」

「……失敗したら?」

「当然支払ってもらう」

 告げられた薬代はアリアのお小遣いと同額で、思わず膝から崩れそうになった。




「アリア」

 魔法使いから薬を貰ったアリアは一度自宅に戻った。

 特に用事があった訳ではない。飲むのに微妙に勇気が出ず、何となく家に帰りたかっただけだ。

 リビングにはまだリアやエア、クレアがいるような気がして、玄関から入らず泳いで二階の窓から室内に入った。

 二階は子供部屋で、リアとエアが、そしてクレアとアリアの二人で一つの部屋を使っていた。

 窓から泳いで入ってきたアリアの名を呼んだのは、同じ部屋を共有している三女のクレアだった。

「あれ、クレア姉さん。まだ下にいると思ってたのに」

「何? あたしがここにいちゃダメなの?」

 ダメではないが自室で一人籠こもりたい気分だったので「いや、別に……」と歯切れの悪い返しになってしまう。

「魔法使いから薬は貰ったの?」

「うん」

「そう。じゃああたしも、姉たちと海の民の代表として地上に上がる妹に餞別をあげる」

「餞別?」

 聞き返すアリアにクレアが近づく。掌に何かが載せられていたがそれが何なのかは分からなかった。

 近づいたクレアがアリアの首に手を回す。アリアはされるがままじっとしていた。

「はい」

 クレアが一歩後ろに下がる。アリアが首元に指を伸ばすと小粒な青い石のついたネックレスがつけられていた。

 その青い石はアリアも知っていた。

海石みせき?」

 海底にポツポツ落ちている海の民なら珍しくもない青い石。装飾品として使用されることも多く、特に地上では中々手に入らない貴重さからそれなりの値段がつけられることもある。しかし海石は大抵は水色がかっていて、ここまで青が鮮明なのは珍しい。

「これ、青が強くてきれーだね」

「でしょう? だから、それあげるわ」

「……何で?」

 何の見返りもなしにこの姉が貴重性の高いアクセサリーをくれるとは思えない。絶対何か裏がある。

 アリアの疑いに満ちた声に「失礼ね」とクレアが綺麗な顔を僅かに歪めた。

「餞別って言ったでしょ。口では絶対に言わないけど、リア姉さんもエア姉さんもあんたのこと応援してるのよ。じゃんけんとはいえ、妹にかなりの責任背負わせちゃったことに変わりないし」

 腕組みしながらクレアは苦笑した。

「でもあの二人は絶対にそんなこと言わないから、あたしが代表で伝えただけ」

 自由奔放で振り回されることばっかりで、でもやっぱりリアもエアもクレアも、唯一無二の姉たちなのだ。

「…………ありがとう」

 ああ、やっぱりあたしは、地上に行かないと。

 海の民全員はアリア一人には重すぎる。

 それだけの重みは背負いきれない。

 でも姉たちの想いには応えたかった。

「だからどうか、お願いね」

 綺麗に笑ってみせたクレアに、アリアは目線を合わせないまま頷いた。

 



 クレアから餞別に海石のネックレスを貰い、再び窓から外に泳ぎ出た。

「……っし! もう飲む!」

 小瓶の栓を抜き、青い液体を一気に喉に流し込む。冷たい感覚が喉を伝っていくのが分かった。

 そして。

「……っ!?」

 突然、息が出来なくなった。肺の中に水が入り込む。自由に泳げる筈の体は鉛のように重く沈みそうになる。

 何これ、何が起きたの、何で息が吸えない、泳げない。

 無我夢中で海面に向かって泳いだ。重い体で必死に海面に顔を出し盛大に咳き込む。

「げほ……っ! げ、ぇ、うぇ……っ」

 咳き込みながら周囲を見渡し、浜辺が近いことを知った。とりあえず陸に上がろうと泳ぎだす。

「くっそ……、体重い……っ!」

 苛立ちに任せて舌打ちする。足底で砂が触れるようになると、まろぶように砂浜に駆け出した。

「……っ、死ぬかと思った……っ!!」

 砂浜に両手をつき、肩で大きく息をする。まだ心臓は全力疾走していた。

 海中で呼吸が出来なくなったのも体が重く泳げなくなったことも、薬の作用で体が地上の人間と同じになったからだ。

 アリアが陥ったのは、地上の人間でいう『溺れた』状態なのだろう。海の民が体得している呼吸も泳ぎも全て失った状態で海中に放り出されたら――――。

「そりゃ……、あーなるわ……」

 呼吸が落ち着くまでしばらくアリアはじっとしていた。だいぶ落ち着いてきた頃、今度は足の痛みを自覚した。

「……これ、きついかも……」

 今だって本当に鎮痛作用があるのか疑いたくなるほど痛いのに、五日を過ぎたらどんな激痛に襲われるのか。考えたくもなかった。

「けど……、これからどーしよ」

 空はとっくに暗くなり星が瞬いていた。海を見れば真っ暗で、地上を見れば点々と明かりがついている。

 月明りだけが頼りの砂浜を少し歩いてみる。動くとより足の痛みが強まった気がした。

 考えないといけないことは山ほどある。しかし。

「溺れて体力ごっそり奪われたし、足は痛いし、服はへばりつくし、ここどこだよって感じだし」

 状況が最悪すぎていっそ笑えてくる。夜の海で一人笑っても空しいだけだし怪しまれそうだからやらないが。

「あ――――っ!! も――――」

 無意味に怒鳴った瞬間、視界が真っ暗になった。 

 あれ、と思う間もなく、アリアの意識は沈んでいった。




「————……」

 重い瞼をゆっくり持ち上げる。目に飛び込んできたのは見慣れた自室の天井――――、ではなく。

「あー、起きた?」

 見たこともない部屋の天井だった。同時に知らない男の声。

 アリアが声のした方に視線を向けると戸口に男が立っていた。

 誰。ここってどこなの。何であたしはこんなとこにいるの。

 言いたいことは山ほどあったが何から聞けばいいか分からず沈黙した。

 とりあえず緩慢な動作で起き上がる。その時、自分の着ている服が随分ぶかぶかなことに気が付いた。

「完全に意識飛んだ女を風呂に入れてやる力はねえし、とりあえず濡れた服だけ着替えさせたけど」

「……すいません、ありがとう、ございます……?」

 じゃあこのやたらデカい服はこの男のものか。さらに言うなら今の今までアリアが寝ていたこのベッドも。

「て訳だから下着見た。ごめん」

「…………」

 少しもごめんと感じていない声音で謝罪された。見られたことに恥ずかしさがない訳じゃないが今はアリアの羞恥心に構っている暇はない。もっと聞きたいことが先にある。

 アリアは正座して体ごと男の方を向いた。

「あの、それはいいんで……。あたし、何でこんなとこに……」

「あんた家出でもしたの」

「え?」

 ベッドの横の椅子に腰かけながら男が尋ねる。

「全身ずぶ濡れで海臭い女が砂浜で行き倒れ。入水でもしようとした訳?」

「入水、て」

「何があったか知んないけどやめときな。溺死って相当苦しいらしいし、ふやけてブヨブヨになった死体なんか見るも無残になるだろうし」 

「はあ……」

 家出した訳でも入水しようとした訳でもないが曖昧に頷いておく。この男の話し方からするとアリアを地上の民だと思っているようだった。

 まあ当然か、と内心アリアは呟いた。海の民が地上に上がればひどい足の痛みに襲われろくに動けないことは有名である。魔法使いによる常識はずれの薬によって地上に上がってきた海の民より、家出し入水するまで追いつめられた地上の民の方がまだ現実味がある。

 お前は海の民だと知らしめるように、一度強く足が痛んだ。

 そうよ、あたしは海の民よ。どう足掻いたって地上の民にはなれない。

 知っていた。地上の人間が海の人間に対して侮蔑を込めて『魚』なんて名前で呼んでることも。

 長女であるリアのように地上の民に強い嫌悪感を抱く者もいるが、アリアはそれほど嫌ってもいなかった。だから海の民だという理由で無差別の嫌われるのは中々に辛いところがある。

「風呂使ってもいいし何なら簡単な飯くらいは出すから、早いとこ家帰れよ。今頃親が心配してんじゃねえの?」

 あくまで家出した地上の民として接する男にアリアも合わせた。

「無理。家には帰らない。帰れない」 

 この返事は事実だったのでどもることなく言えた。実際、実現不可能なレベルの大きな目的を持って地上にまで上がってきたのである。

「なんで」

「……やりたいことがあるの。それを叶えるまで、家には帰れない」

「ふうん」

 しかし、これからどうしようか。タイムリミットは五日間。それまでにどうにかして王子の婚約者を決定するパーティーとやらへの準備をしなくてはならない。ああ、それよりも明日からの寝床と食い扶持どうしよう……。

「じゃあそれまでここにいれば?」

「えっ!?」

 思いがけない言葉に声が上ずった。

「やりたいことがあるんだろ。それが終わるまでここにいれば?」

「え、けど、」

「どうせ俺一人暮らしだから同居人が出来たとこで問題ないし」

「……待遇は?」

「三食寝床つき。やりたいことがあるならどうぞご自由に」

 正直、ここにこのままいられるならかなり有り難い。少なくとも寝床と食事の心配はしなくて済む。

 得体の知れない男だが、多分、悪い人ではないと思う。

「悪い条件じゃないなら、俺を選べば?」

 答えはすぐに出た。

「選びましょう」

「はい、選ばれました」

 おどけつつも割と真面目に返答したアリアに男は軽い返事をした。

「あ、けど、居候させてもらう訳だし、あたしにできることがあるなら、何でもするけど……」

 アリアの申し出に男が何度か瞬きした。そして。

「あー……、じゃあ、飯」

「めし?」

「あんたが住むなら三食ちゃんと作る気だったけど、基本メンドくていつもテキトーに食べてんだよな。一日一回だけでも作ってもらえたらありがたいかも。ちょっと多めに作っといてもらえたら温め直すことくらいは出来るから――――」

「やる」

「え、」

「やる。ご飯作るの。三食全部作る」

 正直言ってアリアもそれほど料理が得意な方ではない。どちらかというと苦手である。包丁で指を切ったことも味付けに失敗したことも数えきれないほどある。

 それでも何かやりたかった。恩返しがしたかった。

「じゃあお願いします」

 男が軽く頭を下げる。

「そいやあんた名前は?」

 この時になって初めて、お互いが名前も知らないことに気が付いた。

「……アリア。アリア=クライン」

 自分の苗字を名乗ったのは随分久しぶりな気がした。海の民にとって人魚姫を祀る海ヶ原神社は有名だし、それを管理するクライン家四人娘はさらに有名である。『あら、クライン家の娘さんじゃない。ええと、あなたは何番目の子だったかしら?』なんて会話を生まれた時から聞いている。

「アリアな。俺は……————」

 男が少し言いよどむ。不思議に思ったアリアが男の顔を少し覗き込むと男は小さく苦笑した。

「……イオリ。それが、俺の名前」

 イオリはなぜか、苗字は名乗らなかった。




「医者になりたいんだよ、俺」

 地上に上がって一日目。

 溺れながら地上に上がった時あたりはすでに夜だった。イオリの家で目が覚めたのが昼頃。風呂を貸してもらいようやく一息ついた現在が午後四時過ぎ。

 決して広くはないイオリの家はとにかく本が多かった。壁一面が本棚になっていて、それでも収まりきらずに床に積み重ねられたものもある。その本の殆どが人体や病気に関するものだったので、何でこんな本が沢山あるのかと尋ねてみた答えが先ほどのものである。

「すごいね、医者って」

 海の民の中にも医者という職業はある。ただ大抵の病は魔法使いの処方してくれる薬で何とかなるので、余程のことがない限り関わることはない。

 しかし地上に魔法使いはいない。だから『医者』が人間の生命に関わる重要なところを担う職業ということはアリアも知っていた。 

「どんだけ本読んで理解しても、結局実践が一番なんだよな。だから格安診療やってる」

「格安診療?」

「名前の通りなんだけど……、ちょーどいいタイミングで」

 その時控えめにドアをノックする音が聞こえた。イオリがドアを開けるとそこにいたのは十歳くらいの女の子が二人立っていた。

「あのね、外で遊んでたら、こけちゃって……。手当て、してほしいの」

 ぐすぐす泣いている女の子に代わってもう一人の子がそう言った。

「いいよ。どうぞ」

 イオリがドアを大きく開き女の子二人をリビングに誘導する。女の子の膝が赤く染まっているのを見て、アリアはとっさにベッドの横に置かれていた椅子を掴んで女の子の傍に置いた。

「ありがと。……そこに座って」

 前半はアリアに向けて、後半は女の子に向けてイオリが声をかけた。大人しく女の子が椅子に座って待っていると消毒液やガーゼを持ったイオリが現れる。

「ちょっと痛いけど、我慢な」

「うん……」

 イオリが女の子の膝に消毒液を吹き付けた。女の子は痛そうに顔を歪めたがじっと耐えている。綺麗になった傷口にガーゼを当て、すぐに手当ては終わった。

「他に怪我したとこは? 頭とかぶつけなかったか?」

「あとは大丈夫。頭も打ってないよ」

「そっか」

 血を拭いたガーゼやらを片付け出したイオリに女の子が口を開く。

「イオリせんせ」

「ん?」

「妹のこと、覚えてる? ユノ。昨日熱下がってご飯も全部食べれるようになったの」

「覚えてるよ。……よかった。元気になったんだな」

 イオリの口元に仄かな笑みが浮かんだ。その顔にアリアは内心驚いた。柔らかくて穏やかな、アリアが知っている誰よりも優しい笑顔だった。

 殆ど表情に変化がない男なのに、こんな顔も出来るのか。

「注射は痛くてイヤだったけど、治してくれてありがとうって」

「どういたしまして。お大事にって伝えといてくれる?」

「うん」

 イオリが頷く女の子の頭をひと撫でした。

「あとね、お金、今これだけしかもってないの。明日ママから貰ってくるから、待っててくれる?」

「これだけでいいよ。膝の怪我だけだったし」

 女の子がスカートのポケットから出したのは本当にささやかな額のお金だった。林檎一つくらいしか買えないような額。それでもイオリはいいという。

「じゃあな。もうこけたりすんなよ」

「うん。せんせ、バイバイ」

 女の子二人の姿が見えなくなって、イオリはアリアに視線を寄越した。

「これが格安診療」

「格安って、安すぎでしょ。なんでそんな安くやってんの?」

「俺、正式な医者じゃないしな。無免許だし。それに」

 女の子から受け取ったコインを掌で転がす。

「診察代や治療費が馬鹿高いから病院にも行けなくて死んでく奴がここには大勢いる。そーゆー人の支えになりたいんだよ」

 イオリの横顔から強がりや見栄ではなく、本気でそう考えているのが分かった。アリアとそれほど年齢も変わらない筈なのに、アリアよりもずっと強く逞しく、信念をもって生きている。

「はー、もう夕方か。腹減ってきたな」

 その一言でアリアの顔から微妙に血の気が引いた。何か恩返しをしたくてそう言ったが、果たしてイオリを満足させられるだけのものが出来上がるか急に不安に襲われた。 




 午後七時過ぎ。

「…………」

 テーブルの上に置かれた夕食をイオリはしばらく無言で見つめていた。

「な……、何よ、ちょっと焦げたりはしたけど、割と上手くいったと思ってんだから」

「あー……。想像を遥かに超えてたなって。いい意味で」

 正直なところイオリはアリアにそれほど料理の期待をしていなかった。自分より少しマシな程度。失敗とまではいかなくてもおおよそ上手とは言えないレベルを。

 しかしテーブルの上に並べられた料理は控えめにいっても上手いと称賛に値するレベルのものだった。

 アリアと向かい合うようにして椅子に腰かける。随分久しぶりに「いただきます」と声をかけてから、白い皿に載せられたハンバーグを口に入れる。かずかに目を見開いたイオリはそのまま無言で黙々と食べ進める。

「味、どう?」

 恐る恐る尋ねるアリアにイオリはようやく口を開いた。

「美味い。久しぶりにこんな美味いの食った。あんたすげえな」

 飾り気のないストレートな褒め言葉をもらってアリアが照れたように視線をそらした。

「てかハンバーグ作れるような食材うちにあったっけ。ひき肉ちょっと残ってたのは前見たけど」

「だからその中に豆腐やら細かく切った人参やらが山ほど入ってんの。かさ増しハンバーグ。うちでよく作ってたから」

 一人一人の食べる量は少なくても四人娘のいるクライン家である。いかに安く美味しく沢山の量を作ることが出来るかは永遠のテーマだ。クライン家では料理は当番制で、自然とかさ増しの方法だったり必要最低限の調理器具の使い方は身についたのである。

 自分の作ったハンバーグを食べながら、七十五点と自己評価を下す。

 やっぱクレア姉さんが作ったハンバーグみたいな味にはなんないなぁ。女子力の化身みたいな人だから料理も姉妹の中じゃ一番上手くて。ああでも豚の生姜焼きはリア姉さんの得意料理だしあれだけはクレア姉さんも敵わないって言ってたっけ。全然料理しないくせに生姜焼きだけは上手いんだよねリア姉さん。エア姉さんはおつまみ系とか、ある食材でパパッと作るのが得意で。おんなじものは二度と出来ないけどどれもこれもすんごく美味しくて好きだったな――――。

 少し焦げたハンバーグはリア以上クレア以下といったところか。今まで食事は姉に囲まれて食べていたのに今目の前にいるのは数時間前に出会った男である。慣れない感覚に少し戸惑う。

「へえ。そーゆーアイデア初めて知った」

 元々表情に乏しいイオリだが今だけは少し明るく見えた。その顔が拝めただけで食材と同時に自分の指を切ったことも、クレアの作るハンバーグを思い出し苦戦しながら味付けしたことも報われる。

「これが五日食べられるんならなかなかいい契約結んだな、俺」

 ああ、タイムリミットは五日だ。そのうちの一日がもう終わる。

 残り四日でどうやって王子に気に入られたらいいのか。

 ズキン、と足が痛み、アリアはそっと息をついた。




 地上に上がって二日目。

 今の王子がどういった人物かも分からなかったので、とりあえずイオリに尋ねてみた。

「ねえ、あの城の王子様ってどんな人なの?」

 地上に上がる前の姉妹会議で王子の名前を聞いた筈なのに全く思い出せず、そんな間抜けな質問になった。

 アリアのその質問にイオリは意外そうな顔を向けた。

「なにその顔」

「いや、あいつを知らない奴がいんだなって。しかもあんたくらいの年の奴で」

「……何それ?」

 まずい、この質問は地上の人間のするものとしてはおかしかったのか。無意識のうちに体が強ばった。

「まあいいや。この国を統べるのがあの城。アーレント城」

 幸いアリアを海の民と疑うこともなくイオリが説明し始めた。

「現当主はユウリ=アーレント。この前ようやく成人迎えて当主になった」

 ああ、ユウリ=アーレントって名前だった。そういえば。

「顔はいいし性格もいいってんで大抵の若い女はあいつのこと知ってんだけどな」

「……あんま、興味なかったから」

 その言い訳は果たしてちゃんと言い訳として機能しているだろうか。地上の民のこの年齢の女の言葉として不自然ではないだろうか。

「ああ、そいや今度あいつの婚約者決めるパーティーみたいなんがあるんだっけか」

 思わずアリアの肩が跳ねあがった。今一番欲しい情報だ。

 不審がられないように。それでいて最大限の情報を引き出せるように。精一杯自然に演じきれ。

「婚約者?」

「あの家は二十歳を超えると婚約者決定するパーティーが催されるんだよ。元貴族とか有名会社の孫娘とか、身分の高い奴が対象だけどな」

 やはり国を治める城の当主の婚約者だ。それ相応の身分ある女が対象なのは当然か。 

「それ、いつ開かれるの?」

「一週間後とか……てか、何でそんなこだわってんのあんた」

 やば、首を突っ込みすぎた。

「もしかしてあんたもそのパーティーに参加したいクチ?」

「……っ」

 ずばりと言い当てられて、すぐに否定すればよかったのに、それが出来なかった。

 思わず言いよどむ。それはすなわち肯定だ。

「あんたが昨日言ってた叶えるまで家に帰れないやりたいことってパーティーに参加すること?」

「……そうだって言ったら、あんたはどーするの。笑うの? 馬鹿にするの?」

 もう隠せないと判断して、口の端を吊り上げながらそう尋ねてみた。

 夜の浜辺に行き倒れていた得体の知れない女が、この国を統べる当主の婚約者になりたいだなんて大言壮語を吐いた。じゃああんたはどんな反応をするの。

 どうせ笑うんでしょ。馬鹿にするんでしょ。無理だって粛々と諭すんでしょ。

「ふーん。じゃあ俺も手伝ってやるよ」

「は……?」

 何を言われたか、本気で分からなかった。

「手伝ってやるよ。それ」

 昨日からこの男に絶句させられることばかりだ。

 笑うでもなく、馬鹿にするでもなく、手伝うと。

「や……、だって、そんなの、無理でしょ」

 なぜかアリアの方が弱気になって、力なく笑う。

「だって、招待状も、服もないのに。元貴族でも、有名会社の孫娘でもないのに。どうやって」

「そこら辺は俺が全部引き受けてやる」

 思わず縋ってしまいそうなほど強く言い切るイオリに、アリアが問う。

「ねえ、あんた、ほんとに何者なの……?」

 その声に、イオリは悪戯げに笑い、口の前で人差し指を立てた。

「内緒」




 地上に上がって三日目。

 アリアがイオリの家に転がり込んでから、イオリは別室のソファで眠り、アリアはリビングに置かれている元々イオリが使用していたベッドで眠っていた。

 いつもは朝食を作るためイオリよりも三十分ほど早くアリアが起床する。

 しかしこの日はイオリが起きるまで、アリアはベッドで横になっていた。

「……?」

 寝ているところを覗き込むのも悪いかと思いつつ、妙に胸の奥がざわついてベッドまで近寄った。

「おい? ……————」

 近づいて、すぐに異変に気付いた。

「……っ、ぃ、たぃ……、いた……っ」

 目の前には眉を寄せ、毛布を掴み、横を向いた顔から涙を流すアリアの姿。

「おい……っ」

 アリアの肩を強めに揺らす。何度か揺らすとアリアが重そうに瞼を持ち上げた。

「……イオリ……?」

「痛いってどこがだ」

 イオリの切羽詰まったような声に思わず息を呑んだ。

 確かに痛かった。ゆっくり寝ることも許さないような激しい足の痛み。日を追うごとに薬の効果が少しずつ弱まっているのは自分でも分かっていた。地上に上がった一日目より、今の方がずっとずっと痛いから。

「ちが……、痛く、ない……」

「嘘つけ」

 そっけないのにその声が冷たい訳じゃないから、甘えてしまいたくなる。頼ってしまいたくなる。

「薬も湿布もあるからどこが痛いのかちゃんと言え」

 もういっそ冷たくしてほしかった。

 放っておいてほしかった。

 あんたが傍にいたら、あたしはどんどんダメになる。

 地上に上がった代償の痛みさえ、どうにかしてもらおうと甘えて頼って縋ってしまう。 

 腕に力を入れて上半身を起こす。その際、目に溜まっていた涙が頬を滑り落ちた。

 それを乱暴に掌でこする。そのまま両腕で顔を隠して俯いた。

「ほんとに、痛くないの。大丈夫だから……」

「……ふーん。じゃあ、」

 すっとイオリの腕が伸びてくる。顔を隠していた両腕を掴まれ引き寄せられる。

「それ、俺の顔見て言って」

「……っ……」

 俯いたままアリアが目を見開く。

 言える訳ない。あの目と正面から向き合ったら、全て見抜かれそうで怖かった。

「……痛い……」

 ぽつり、と零れたのをきっかけに、堰を切ったように言葉と涙が溢れ出す。

「痛い。痛い。痛い……」

 同じ言葉ばかりを繰り返す。「どこが?」とイオリに何度尋ねられてもわざと答えなかった。

 痛いのは足だ。地上に適さない海の民の足を無理やり地上に適す形に変えた足。

 ――――そう、足の筈だった。

 なのに、全然関係ない胸の最奥がズキズキ痛んで仕方ない。

 何でこんなに痛いんだろう。

 どれだけ考えても原因も解決方法も分からない。

 「痛い」ばかりでどこが痛むのか全く答えないアリアにイオリもとうとう諦めたらしい。一度どこかに姿を消すと水の入ったコップと白い錠剤を持って戻ってきた。

「それ痛み止めだから。飲んだら多少楽になる」

「…………」

 優しくされる度にまた痛む。

 優しくされているのに痛いだなんて、なんて我儘。

「俺ちょっと外出るから。帰るの夕方くらいになると思う」

 俯いたまま一度も顔を上げようとしないアリアの頭を軽く叩いて、イオリはどこかに歩いていった。

 残されたアリアはしばらくベッドの上で静かに泣いていた。




 痛み止めの効果もあり、アリアの足の痛みはかなり軽減出来ていた。

「すっご……。こんな効くもんなんだ……」

 イオリのいない家で一人感嘆した。 

 そしてイオリが帰ってきたのは宣言通り夕方だった。

「あ、おかえり」

 強制された訳でも何でもないが自然と玄関まで出迎える癖がついてしまった。出ていく時は手ぶらだったイオリはなぜか大きな紙袋を左手に持っていた。

「はい、これ」

「? なに?」

 イオリから渡されたのは一枚の封筒。

「アーレント城でのパーティーの招待状」

「えっ!?」

 慌てて封筒を開くと中身は確かに招待状だった。

「あと当日の衣装な」

 左手で持っていた紙袋もアリアに渡す。受け取りながら、聞かずにはいられなかった。

「こんなの、どこで」

「言ったろ、内緒って」

 イオリはイオリで教えてくれる気はないらしい。

 婚約者決めのパーティーは一週間後だと、昨日イオリが教えてくれた。

 アリアが地上に上がって今日で三日目だ。薬の効力である五日まで、あと二日間。

 だけどパーティーは薬の効力が切れた四日後。

 そこまで、果たしてこの足がもつだろうか。

 不安は尽きなかったが、王子の名前すら知らなかったアリアにそれらの知識を授け、招待状や衣服といった必要物品まで揃えてくれたイオリには心の底から感謝していた。その感謝の形が日々の料理でしか返せないことが申し訳なかった。

「参加者リストの中の名前をちょっと借りた。そいつが不参加なのは確実だったから」

 招待状に書かれていた名前はカレン=フォルドー。これが不参加の女の名前らしかった。

「不参加って言ってた人がいきなり参加したら疑われない? あとこのカレンって人知ってる誰かがいたら一発でばれちゃうんだけど」

「生まれつき体が弱くて殆ど表に出てこないような奴だぞ。顔知ってる奴なんていたとしてもそれほど多くはないだろうし、疑われたら適当にはぐらかせ」

 この時、ふと疑問を抱いた。

 どうしてそこまで貴族社会のことを知っているのだろうか。

 アリアはイオリを『医者になりたい青年』として認識していたし、その認識に間違いはなかったはずだった。

 だけど――――。

 ただの『医者になりたい青年』が政治を司る城でのパーティーの招待状を用意することやその参加者リストから名前を借りることなど容易に出来る訳がない。

「……ありがとう。上手くはぐらかせるように頑張る」

 その疑問を隠すようにアリアは笑みを浮かべて礼を述べた。

 ベッドの横に置かれていた机に招待状の入った封筒を置き、再び台所に戻って料理を再開する。 

 その日の夕食もやはりクレアほど出来のいいものは作れなかったが、イオリを満足させることは出来たらしく綺麗に完食してくれた。




 地上に上がって四日目、五日目は何事もなく過ぎた。

 それでも少しずつ強まってくる足の痛みに毎食後に痛み止めを飲むようになった。頻回に飲み続けると胃の粘膜が荒れ胃痛を起こすこともあるため、胃粘膜保護剤も追加された。

 そして地上に上がって六日目。

 薬の効力が切れ、パーティーまではあと四日。

 足の痛みは桁違いに強まった。

「…………っ!!」

 ああ、これが地上に上がった代償の本当の痛みか。

 正直動きたくもないし地上にいたくもなかった。

 痛い痛いと泣き叫びたかった。

 それでもアリアはイオリの前では絶対に痛いと言わないことを決めていた。 

 痛いと言えばイオリは今まで通りそっけなくも優しく、痛み止めなり湿布なりをくれただろう。 

 そしてイオリが優しくしてくれる度に、薬を渡してくれる度に。

 胸の最奥がアリアを苛むようにズキズキ痛む。

 地上の人間に甘えるな。頼るな。縋るな。

 そう言われているようで。

「あと四日かぁ……。騙せるかな、あの男……」

 自分の演技力に自信など欠片もないが、それでもやれるだけやってみよう。

 激しく痛む足を床に降ろして、アリアは朝食作りに取り掛かった。




 地上に上がって八日目。パーティーまではあと二日。

 イオリは朝から患者の家に行ってしまったため、家にはアリアだけだった。

 朝の家事も一通り終わった頃に、それは来た。

「…………っ!?」

 腹部に刺すような痛みと喉元まで何かがせり上がってくる不快感。

 とっさにトイレに飛び込んだ。体を丸め便器に縋りつくようにして吐き出したそれは真っ赤に染まっていた。 

「う、そ……」

 薬の効力が切れても地上に留まった場合、どんな異常が起きても責任はとれないと魔法使いから警告は受けていた。

「パーティー行く前に、死んじゃうかもね、あたし」

 まるで他人事のように乾いた笑い声が出た。

 自分の体に起こる異常事態に真っ先に瞼の裏に浮かぶのは、生まれてからずっと一緒に過ごしてきた姉たちではなく、たった数日しか過ごしてないイオリの顔だった。




 地上に上がって十日目。パーティー当日。 

 パーティーが始めるのは午後六時からになっていた。午前中は台所でこそこそと動き、四時を過ぎたころからアリアは服を着替え始めた。

「何これ、すっごい可愛いんですけど」

 繊細でシンプルなデザインの淡い水色のワンピースはアリアの好みを見事に射ていた。姉が三人もいるアリアの私服は全てお下がりだ。おかげでクレアに貰った可愛い系からリアに貰ったクール系まで着る服に困ったことはないに等しい。

 服に関しては無頓着で姉たちのお下がりを文句も言わず着ていたため、自分の服を買ってきたことも買ってもらえたこともないアリアである。初めて買ってもらえた服が自分の好みにドストライクしているのだから感動もひとしおだった。

「よく似合ってるじゃん。さすが俺の見立て」

「自分の手柄さりげなくぶっ込むよね。もっと素直に褒められないの?」 

「事実なんだから仕方ないだろ。ついでに髪もいじってやるからここ座れ」

 イオリが目の前の椅子を指さす。

「え? そんなのも出来んの?」

「ちょっとくらいなら」

 興味が湧いて思わず椅子に座った。背後に立ったイオリが髪に櫛を通す。

「何気に髪長いよな、お前」

「伸ばしてたつもりはないんだけどね。気づいたらここまで伸びてたというか」

「あー、分かるわ。俺も切るのめんどくて放置してたら肩のあたりまで伸びちゃってさー……」

 他愛ない会話をしながら髪を触られる感覚に意識を向ける。

 ああ、これが普通の恋人同士ならさぞ綺麗な絵面だったんだろうな。

地上の民である王子に恋したかの人魚姫は、報われない恋の末、泡となって消え去った。

 だから海の民は直感的に知っていた。

海の民が地上の民に恋しても、幸せになる未来なんて訪れない。

 『魚』と呼ばれる海の人間の手を地上の人間がとる未来なんて訪れない。

 会話しながらイオリが作ってくれた髪型はハーフアップだった。髪飾りで華やかになった自分の頭にアリアは食い入るように鏡を凝視する。

「うわ……、かわいー……」

「ちゃんとしたスタイリストとかにやってもらうともっと凝ったの出来るんだろーけど。俺はこれが限界」

「十分すぎる。ありがとう」

「どーいたしまして」

 使用した櫛やらを片付け始めたイオリに、ふとアリアが声をかけた。

「イオリ」

「ん?」

 振り向いたイオリの首に腕を回す。イオリの目が少しだけ見開かれた。そして。

「諸々のお礼。けっこーいい物だから高く売れるよ」

 イオリの首につけられたのはアリアがクレアから貰った海石のネックレスだった。

「これ、海石だろ?」

「知ってんだ」

「海からの宝石ってんで結構な高値で売られてるからな」

 うん、とアリアが頷き、人差し指で海石をつついた。

「だからあげる。当面の生活費の足しにはなるだろうから」

「いや、さすがにこんな高いもの受け取れな――――」

 断ろうとしたイオリの口をアリアが掌で軽く押さえる。

「お願い。受け取って」

 希少価値の高い青の強い海石だったのに地上の人間にあげたなんて言ったら、クレア姉さん怒るかなぁ。

 でもごめんね。あたしはどうしてもこの人にあげたかった。受け取ってほしかった。

 アリアの短い一言と眼差しにイオリは口を塞がれたまま頷いた。

「そろそろ城に向かった方がいいかもな。パーティー直前はかなり混むし」

 口を塞ぐ手から解放されたイオリが外に出る。タイミングよくこちらに走ってきたタクシーに軽く手を挙げた。

 静かに止まり後部座席のドアを開けたタクシーにアリアが恐る恐る乗る。

「アーレント城まで」

 イオリが後部座席から運転手に行き先だけを告げ身を引いた。

「頑張ってこい」

 ドアが閉まる直前の短い一言に、アリアが大きく首を巡らせイオリを見つめた。

 不安の強い表情のアリアを安堵させるように、イオリが小さく笑った。

「…………っ!」

 今、その顔は反則だ。

 いよいよという思いと痛む足とで不安は最高潮だったのに。

 そっけないあんたの優しさに、結局いつもあたしは救われてる。

 タクシーが動き出し、少しずつイオリの姿が見えなくなっていく。

 無性に泣きたい気持ちになって、それでもぎりぎりで泣くのをこらえた。

 今泣いたらせっかくイオリがしてくれたメイクも崩れるだろうから。

 それでもじんわり浮かんだ涙を乾かすように、城につくまでアリアはずっと窓の外を見続けていた。




 アリアを乗せたタクシーが完全に見えなくなってから、イオリは家に戻った。

 やらなければならない仕事はまだ残っている。今日はあともう一軒往診の予定だった。

 随分久しぶりに誰もいない家から往診に向かい、誰もいない家に戻ってきたのは七時前だった。

「疲れた……」

 仕事用鞄を投げ出してベッドに転がる。アリアが来てから使い始めた部屋のベッドがぎしりと重く軋んだ。

「あー……、そっか。もう俺があっちのベッド使ってもいいのか」 

 リビングに向かって歩いていると、台所に見慣れない鍋が一つ置いてあった。 

「……?」

 何の気なしに台所に立ち寄る。その鍋の蓋には一枚のメモ。

『ポトフ作ってみました。良かったら温めて食べて下さい』

「…………っ」

 パーティー用の衣装に着替える前、アリアが台所で何かをしているのは視界の隅で捉えていた。

 けどまさか、残されたイオリの食事を作ってくれていたなんて、一体誰が想像出来る。

「ああ、ほんとに……」

 なんていい子なんだろう。

 名前しか知らない。素性も分からない。真夜中の浜辺にずぶ濡れで倒れていた家出少女を、少しずつ、でも確実に好きになっていく自分をイオリは自覚していた。

 だけど自覚していくその想いの片隅で、消し去ることなど許されない声がイオリを詰る。

『————……、……っ!』

 浴びせられた罵声と怒声。蔑みのこもった視線とわらい。

 何年もの月日が経っても昨日のことのように鮮やかに蘇る一番忘れたい記憶が、ごく普通に人を好きになることを許してくれない。

「あいつは、あの子を選ぶかな……」

 選んでほしい。そうすればあの子の願いは遂げられる。絶対の幸せも手に入る。

 叶わないのはイオリのちっぽけな恋愛感情だけだ。

 そんなちっぽけなもの、俺が勝手に消化させるから。

 だから――――。

 その時、ズボンのポケットに突っ込んでいた携帯電話が鳴った。電話をかけてきた相手が誰なのか確認することもなく耳に当てる。

 耳に飛び込んできたのは切迫した相手の声。

 告げられた内容に、イオリは瞠目した。

「え……?」  




 タクシーに乗って十分ほどで目的地には到着した。

「すご……。ほんとに城だ……」

 豪華絢爛という言葉が相応しいような外壁と内装。煌びやかで品の良さそうな若い女性多数。

 間違っても神社の娘で海の民であるアリアが足を踏み入れるような場所じゃない。

 今すぐ回れ右をして帰りたい気持ちを堪えて歩き出す。

 激痛と表現しても間違いではないような足の痛みを抱えながら。

「招待状を拝見してもよろしいでしょうか?」

 丁寧な物言いで声をかけてきた男にイオリが用意してくれた招待状を見せる。

「これは、フォルドー家のカレン様ですか。あまりこのような場に参加されることのないお方だと聞き及んでおりましたが」

 体の弱い娘だ、というイオリの言葉を思い出す。

「……ええ、でも最近は体調もよくて。せっかくパーティーのお誘いも頂いたので」

 出来るだけ自然に、丁寧な言葉を意識する。少なくとも今の時点じゃカレンであることに疑われてはいないはず。

「そうですか。体調が芳しくない時はすぐにおっしゃって下さいね」

 軽く微笑んだ男にアリアも微笑み返し、沢山の女が埋め尽くすフロアに辿り着いた。

 やっとここまで来たという思いが胸の中を満たす。

 海の埋め立てに反対する海の民の声を地上で最も権力のある男に届けろ。あわよくばその計画を白紙にしろ。

 長女であるリアの命令はこれだった。

「あたしだって、海の埋め立てには反対よ」

 ぼそりと呟く声は周囲の喧騒で誰にも聞こえない。

「けど、もし、万が一、ほんとに婚約者の座射止めてその願いを叶えてもらえたとしてさ……」

 今までずっと気づかなかったけど。

「そうなったら、あたしは海に帰れるの……?」

 今だってこんなに足が痛くて、この前は血すら吐いて、限界はもうすぐそこまで来ているのに。

 あたしはちゃんと海に帰れるの?

 その疑問を掻き消すように一際強く足が痛んだ。

「い……っ!?」

 立っていられないほどの痛みに膝が砕けしゃがみ込む。同時に腹部を突き刺すような痛み。

「……っ……、!」

 咄嗟に口を押さえるがせり上がってきたものは止められない。嫌な感覚と共に口から赤黒い血を吐き出した。あっという間にフロアの床とアリア自身の掌、そしてワンピースが血に染まった。

 あーあ、せっかくイオリが用意してくれたのに。初めてあたしに買ってもらえた服なのに。結構、気に入ってたのに。

 突然血を吐いてしゃがみ込んだアリアに周囲がざわつき、距離を取られる。

 その様子をちらりと眺めて――――、視界に入った自分の腕に、息を呑んだ。 

「え…………?」

 むき出しの腕には所々、魚の鱗がついていた。

 慌てて体の他の部位を確認する。腕だけでなく足や、触った感じから頬にも鱗があることが分かった。 

 それはまるで、人魚姫の下半身の魚の鱗のように。

 奇しくもイオリから貰ったワンピースのように淡い水色の鱗が、所々生えていた。

 こんなの聞いてないよ、魔法使い――――。

 アリアの頬や手足の鱗を見た女が細く悲鳴を上げた。

「やだ、何よあれ……!?」

「気持ち悪い、こっち見ないで!」

「人間じゃないわよ、あんな化け物……!」

 嫌悪感を隠そうともしない女の声と視線に晒されても、アリアは動けずにいた。

 正確には動けなかった。

 足はもう立ち上がる力すら湧かないほど痛むし、血を吐いた喉は言葉を紡ごうとしても上手く機能してくれない。

 本当は違うと叫びたかった。

 違う、違う。あたしだってこんなことになるなんて思ってなかった。

 魔法使いの警告を無視したのはアリアだ。イオリから薬を処方されながらそれでも地上に留まったのはアリアだ。

 ずっとずっと疑問だった。

 痛いばかりの地上で、どうして人魚姫は海に帰らなかったのか。

 その答えが、今なら少し、分かるかも知れない――――。

「こいつ『魚』だ!! 海の民だろ!」

「……っ!?」

 低い男の声がフロアを突き抜ける。

 やけに重い頭を持ち上げてその声の主を見つけた。

 五十代くらいの、高級なスーツに身を包む身分の高そうな男。

 この城には政治を司る王子と十二人の政治家がいる。

 この男はその政治家の一人か。

 男がアリアの元まで歩いてくる。床の血は踏まないようにして、男はアリアの髪を無造作に掴んだ。

「……っ!」

 鋭い痛みにアリアの顔が痛みに歪んだ。

「違うとでも言うか? その鱗が何よりの証拠だろう。お前たち海の民は所詮『魚』だ。地上に上がったところで打ち上げられた魚に出来ることなど有りはしまいよ。ましてやこの国の王子たるユウリ様に近づこうなど虫唾が走る」

 浴びせられる侮蔑のこもった声と嗤い。抵抗する力もないアリアはそれでも視線に物理的な力があったなら殺せそうなほどきつく睨んだ。

「ころ、してや、る……っ!!」

 汚れも傷もないその靴に、吐いた血を塗りたくってやりたかった。

 ふん、と男が鼻で笑う。

「地上で死なれても迷惑だ。最期くらい生まれ育った海で死にたいだろう?」

 死という単語に思わず血の気が下がった。

 なに? あたし、死ぬの?

 男が後ろに控えていた別の男に声をかける。何を話していたのかは、意識を失わないことに必死になっていたアリアには分からなかった。




 アリアが後ろ手を掴まれながら連れてこられたのは城の裏手にある崖だった。

 目の前は海で、城のテラスからはさぞ綺麗な眺めが望めるのだろう。

 しかし日の落ちた今の時間帯、光源となるのは月と城から漏れる明かりのみで、どこからが海面なのかも曖昧なほど暗かった。   

 そんな海を背に崖に座り込んでいるのはアリアで、そんなアリアを取り囲むように数人の男たち。

 どの男たちも高級そうなスーツを身にまとい、政治家仲間であることが伺えた。

「……何する気」

 アリアの短い問いかけに、髪を掴んできた男が嗤いながら答える。

「地上に打ち上げられた哀れな魚を海に帰してやるだけだ」

 男が一歩、また一歩とアリアに近づく。

 男を睨みつけながら、アリアは小さい足音を捉えた。

「……?」

 その足音は徐々に鮮明になっていく。それがかなりの速度を出して走っていることにも気付けるほどに。 男の手がアリアに向かって伸ばされる。

 それと、同時に――――。



「アリアっ!!」




『パーティー会場となるフロア内でアリア様が吐血し、海の者であることがクランツらにばれました』

 その電話を受け取ったイオリはアーレント城までの道を全力疾走していた。

 その電話をくれた人物と、そしてアーレント城と、イオリは接点を持っていた。

「……っ、……っ!」

 城までの行き方は覚えている。もしアリアが現れずこの先一生あの城と関わることがなくなっても忘れることはないだろうと確信できるほどに鮮明に。

 イオリはアリアのことを殆ど知らない。

 でもアリアはイオリのことをそれ以上に何も知らない。

 だってアリアをパーティーに参加させることが出来ればイオリの役目はそれで終了だ。 

 教える意味のない人物。だからこの数日どんなにアリアが怪訝な顔をしても疑問を抱いても何も答えなかった。

 電話の相手と調整に調整を重ねた計画。不備はないはずだった。

『城の裏手にある崖から、彼女を海に突き落とすつもりではないかと』

 だけど不備はあった。今更自分が行って何か出来るとは思ってない。それでもただじっと待機していることは出来なかった。    

「昔より体力、ついたはずなんだけどな……っ」

 息が上がる。肺が焼かれたように痛む。

 でも吐血したという彼女は、自分よりもっとずっと痛かっただろう。

「や……、痛かったのは、もっと前からか……」 

 いつだったか、アリアが泣きながら痛いと告白した日があった。

 あの時はどれだけ問い詰めてもどこが痛いのかは言わなかった。

 あの日以来アリアが痛みを訴えたことはなかったが、確実に彼女は苦しんでいた。

 すぐ傍にいる人の苦痛に気付けなくて、何が医者になりたいだ。

 自責の念にじりじりと苛まれながらも足は動かしていたので目的地には何とか辿り着いた。

 殆ど視界の利かない中を慣れた足取りで城の裏手に回る。

 そしてその姿を捉えた。

 断崖絶壁を背に数人の男に囲まれ、血で汚れたワンピースをまとった彼女を。

 男の手がアリアに向かって伸ばされた瞬間、イオリは怒鳴るように叫んだ。




 ————なんで。

 何で、どうして、その声が。

 鋭く名を呼ぶその声に、今まさにアリアを崖から突き落とそうとしていた男の手が止まった。

 暗い闇の中から現れたのは、ここ数日ずっと一緒にいた男の姿。

「イ――――」

 名前を呼ぼうとした声は、一瞬動きの止まった男が再び腕を突き出したことで遮られた。

 咄嗟のことに体が反応できず、ぐらりと大きく傾く。

 アリアが反射的に伸ばした手は空を掻き、すぐに崖の下から何かが落ちたような水音が聞こえた。 

 男たちの重苦しい沈黙をイオリの怖いほど静かな声が破った。

「俺は人殺しだけど。これであんたらも同罪だね」

 アリアを突き落とした男が瞠目する。そんな男の反応など興味もない素振りで、イオリは崖から迷うことなく飛び降りた。一瞬の間をあけて崖下で水音が上がる。

「人殺し……?」

 残された男の一人が呟く。そしてもう一人が。

「今の声、イオリ様か……?」




「————……?」

 少しずつ、意識が浮上していく。

 その感覚に今まで意識を失っていたことをぼんやり認識した。

 やけに重い瞼を持ち上げる。

 最初に飛び込んできたのは――――強い、青。

「え…………?」

 揺らめく強い青色は、クレアから貰った希少価値の高い海石しか思い浮かばない。

 あのネックレス、あたしがつけてたんだっけ……。

「……違う…………」

 あれは、あたしがイオリにあげたんだ。

 じゃあ何であの色がここにあるの。

 妙にある圧迫感に体の動かしにくさを感じながら青いそれを掴もうとして腕を伸ばす。

 その時初めて、今の自分の姿を知った。    

「なん、で…………」

 さっきから妙に圧迫感はあった。それの正体は。

「イオリ…………?」

 イオリが自分を抱きしめているからだった。

 意識はないのに、その腕だけは緩まなかった。

「何で……!? あたし突き落とされて、え? 何でイオリまで……っ!?」

 突然訪れたパニックの波を何とかやり過ごし、思考を精一杯働かせる。

 ここは海だ。だって今まであんなに痛かった足が今は痛くないし、生まれ育ったこの感覚を肌で覚えている。だとしたら地上の人間であるイオリが長時間ここにいるのは非常にまずい。溺死する! 

 そのくらいの思考が働かせる程度には意識も覚醒してきたアリアは、とりあえずイオリの腕の拘束を解いた。そのまま抱えるようにして海面に浮上する。  

「陸は……っ」

 幸いにもすぐに陸地は確認できた。ここからそう遠くもない。成人男性を抱えて泳いだことはないが不可能な距離ではない。

 一人で泳ぐ時よりもはるかに体力を浪費させながら何とか波打ち際まで運びきった。

「イオリ、イオリ、ねえ……っ!」

 膝に乗せたイオリの血の気の失せた頬を力なく叩く。

 ねえ、目ぇ開けてよ、声出してよ。

 ねえ――――生きてる、よね?

「イオリぃ……っ!」

 声が揺らぐのも抑えられない。悲痛なほどのアリアの声に、

「あーあ。そんなになっちまって」

 応えたのは、イオリではない別の男。

 その姿を視界に捉えて、アリアは瞠目した。

「魔法使い……?」




「……ああ、やっぱりそうなったか」

 男の言葉に女が嘆息混じりで呟いた。

「ここまで頑張ったあの子に何かご褒美あげないと姉としての示しがつかないよねぇ」

 もう一人の女が苦笑する。

「ってことだから」

 三人の女の目が魔法使いを捉える。

「これと引き換えに、頼むわよ。————魔法使い」




「何で、魔法使いがここにいるの……?」

「お前に重要な選択肢を提示するために」

「重要な選択肢……?」

 魔法使いはつい、と意識を失ったイオリを指差した。

「そいつ、助けたいか?」

「当たり前でしょ!」

 即答したアリアに魔法使いがわずかに目を細める。

「なら、ここに放置すればいい」

「え……?」

 思いがけない台詞にアリアは言葉を失った。

 放置? そんなことしたら、イオリは――――。

「死にはしないさ。こいつがアーレント家と何らかの関わりがあることはお前だって薄々気づいてるだろう? 海に落ちた『魚』の安否はどうでも良くても、この国を治める一家と関わりを持つ男をそう簡単に見殺しにはしない。すぐに助けが来るだろうさ」

 それに、と魔法使いは続ける。

「海に落ちた時、体の痛みは消えただろう? 今ならまだ海に帰れる。こいつは地上の人間に助けられて、お前は海に帰れて、ひとまずはハッピーエンドになる」

 その言葉に思わず息を呑んだ。

 海に落ちた時、あれほど痛かった足は、体は全く痛まなかった。久しぶりに感じた海の感覚も泣きたくなるほど懐かしかった。

 膝の上のイオリの血の気のない顔を見つめる。   

 今、イオリを砂浜に置き去りにすれば、アリアは海に帰れて苦痛からも解放される。イオリも助かって、海の民との面倒な関わりも断ち切れる。  

「この場からお前が何も告げず姿を消せば全て丸く収まるんだよ」

 そうした方がいい。その方がお互いハッピーエンドだ。そうした方が――――。

「————断る」

 俯いてイオリを見つめるアリアから発せられたのは拒否だった。

「だって、」

 顔を上げたアリアは泣くのを誤魔化すように笑った。

「イオリを助けたのはあたしだもの」

 その返答に魔法使いが少しだけ目を見張った。

「地上の人間じゃない。海で意識失ったイオリをあたしがここまで連れてきたの。なのに地上の人間に助けられたなんて思われたくない。そんなのホントに惨めで哀れな海姫様と同じじゃない」

 必死の体で助けたのに、王子は人魚姫が助けたのだとは知らない。

 偶然通りかかった地上の姫が意識のない王子を介抱したから、人魚姫は出る幕を失った。だから王子は地上の姫が助けてくれたのだと勘違いしたまま結ばれる。

 人魚姫。

 哀れな哀れな海の姫。

 もらった足は役立たず。言葉もろくに喋れない。

 報われない恋の末、泡と消え去る馬鹿な姫。

「あたしは第二の海姫様になんかなりたくない」

 だから、ずっとずっと疑問だった。

 どうして彼女は海に帰らなかったのか。

 痛いばかりの地上。

 報われることなどありはしない不毛な恋。

 なのにどうして王子の傍にいたいと願ったのか。

 ————だけど、今なら分かる。

 喋れなくても痛くても。報われないと分かっていても。

 人魚姫の伝えたかった想いは、きっとこれだ。

「あたしが助けたんだよって気づいてもらって、あたしが幸せになりたいの!」

 傲慢だと、我儘だと、馬鹿にされ詰られても。

「あたしはイオリが好きだから! 他の奴に横取りされるのは願い下げなの!」

 人魚姫みたいに他の姫に横取りされて、幸せになる王子の姿を遠目から見ているだけなんてそんなの絶対嫌だから。

 人魚姫みたいに声を奪われた訳じゃないあたしは、持ちうる言葉全てを使って想いを吐き出すよ。

「だからあたしは海に帰らない」

 それに、とアリアは苦笑する。

「姉さんからの命令も遂行できてないのに帰ったら、追い出されちゃうし」

 王子の后の座をもぎ取って海の埋め立て計画を白紙にする交渉をすること。イオリが十分すぎるほどにパーティー参加の舞台を用意してくれたのだから、なけなしの女子力を駆使してでもやれるだけのことはやってやるつもりだった。

「お金なら一生かかっても払うから。だからお願い。イオリを死なせないで。あたしを地上に残らせて」

 殆ど無表情でアリアの告白を聞いていた魔法使いが、その時初めて口端を吊り上げた。

 それと同時に――――。

「————勝手に殺さないでくれる?」

 聞き馴染みのある声にはっとした。反射的に視線を落とすと青白い面差しのイオリがうっすら目を開けていた。

「イ、オリ……?」

 イオリがゆっくり上半身を起こし、重そうに持ち上げられた手が鱗のついたアリアの頬に触れた。

「うん。……ごめんな。痛いの気づいてやれなくて」

 大丈夫だと、首を横に振るつもりだった。

 なのに意思に反して体は言うことを聞かず、目から大粒の涙がこぼれるばかりだった。

「…………っ!!」

 引き攣れたような音を立てて息を吸う。縋りつくように腕を伸ばしそのままイオリに抱き着いた。意識を取り戻したばかりのイオリは緩慢に、それでもしっかりとアリアの背に腕を回した。

「……泣くほど、この人間が大事だったんだな」

 かすれるほど小さく呟いた魔法使いをイオリが睨みつける。その視線を受けて、魔法使いは意地悪く笑った。

「胡散臭かろうと俺は魔法使いだ。お前の素性も過去も全部知ってるさ。なあ。————イオリ=アーレント」

 アーレント。それはこの国を統べる一族の名であり、アリアが痛みを耐え抜いて訪れた城の名だ。

「お前を失いたくないとしがみついて泣いてくれる奴がここにいるのに、お前はまだ嘘を貫くか?」

 その一言にイオリの表情が歪む。そんなイオリには目もくれず、魔法使いは膝を折ってアリアと目線を合わせた。おもむろに伸ばされた手がアリアの髪を撫でる。

「痛かったろ?」

 思いがけない労りの言葉と優しい手つきにアリアが思わず顔を上げた。

「お前にあの薬を渡した時に、俺は絶対五日ももたないと思ったよ」

 地上に適さない海の民の脚を無理矢理地上に適す形に変える。それがどれだけの痛みを伴うか。かつて人魚の尾ひれを人の脚に変えた魔法使いは嫌というほど知っていた。

「けどお前は頑張ったんだよな。————こんなになっちまうまで」

 魔法使いの手が髪から鱗の生えた頬に移る。その指先が涙に濡れた水色の鱗に触れた。

「だから一つ、ご褒美やるよ」

「ご褒美……?」

 ぽかんとしたアリアに魔法使いは笑う。



「地上にも海にも適した体に変えてやる」



 予想外の答えにアリアが目を見開いた。

「出来るの? そんな、魔法みたいなこと」

「あのなあ。俺を誰だと思ってる?」

 片目をすがめるアリアとそれほど年の変わらない男。その正体は紛れもなく。

「……魔法使い」

「ご名答」 

「ほんとにそんな魔法あるんなら、何で最初からしてくれなかったの」

 アリアが恨みがましい目で魔法使いを見つめる。

 そんな便利な魔法があるならあんな怪しい薬まで飲んで耐え抜いた激痛は一体何だったのか。

「言ったろ。五日ももたないと思ったって。どうせ五日も経たずに戻ってくる奴のためにこんな大がかりで厄介な魔法したくないさ。けど、お前の姉貴たちからも頼まれたんだ。もう断れないんだよ」

「姉さんたちから……?」

 なぜここで姉の名前が出てくるのか。それに。

「……何と引き換えに、あたしにその魔法かけてくれる気になったの」

 地上に適した足を手に入れるための薬代すら払ってないのに、どうしてこんな厄介な魔法をかけてくれる気になったのか。

 三人の姉たちは魔法使いに何をした? 何を言った?

「お前、変なところで鋭いな」

 そして魔法使いは若干視線を逸らしながら言いにくそうに口を開いた。

「……お神酒みき

「……はい……?」

「……っ、だから……っ! お前らの海ヶ原神社に供えられるお神酒だよ! 海姫を祀る神社に供えられる酒なんざ滅多に手に入らない高級品なんだぞ! それくれてやるって言われたら引き受けるしかないだろ!?」

 普段感情すらろくに見せない男の思わぬ激白にアリアは一瞬固まった。

「意外と、人間らしいところあるね、魔法使い」

 しかしその意外性がおかしくて、随分久しぶりに笑いが込み上げてきた。

「悪いかよ。人間よりはるかに長い時間を生きるんだ。そのくらいの娯楽許されるだろ」  

 魔法使いがくすくす笑うアリアの頬の鱗にもう一度触れる。

「地上にも適す体になったら、この鱗も吐血するまで傷ついた消化器官も元に戻る」

「うん」

「予想外の頑張りを見せてくれたお前と酒に免じて薬代もチャラにしてやる」

「……ありがとう」

 アリアの頑張りよりも酒の力の方が大きい気がしないでもないが。

「っし、目ぇ閉じろ。いいって言うまで開けるなよ」

 言われた通り目を閉じたアリアの前に手をかざして、魔法使いの詠唱が始まった。




「……目、開けていーぞ」

 詠唱が終わり、目を開けていい許可が下りて瞼を持ち上げる。  

 反射的に頬に手を伸ばすとつい数分前まであった鱗が消えていた。

「鱗、なくなってる……」

「俺が頑張ったからな」

「……ありがとう。すごく嬉しい」

 ゆるく笑ってみせたアリアに魔法使いが手を伸ばす。

 その手を、アリアの背後から伸びてきたもう一人の手が掴んだ。

「……さっきから触りすぎじゃないか?」

 今までずっと沈黙していたイオリだった。敵対心とまではいかないものの友好的ではない目のイオリに魔法使いが意味深に笑う。

「ふーん。お前にもそんな感情があるんだな」

「生憎俺は人間なんで」

「人を妖怪みたいな言い方すんな。ったく」

 魔法使いが立ち上がり、海に向かって歩き出す。

「アリア=クラインを海にも地上にも適した体に変えた。俺は役目を果たしたからな」

「魔法使い!」

 腰のあたりまで海に浸かった魔法使いが歩を止める。

「今度海に帰ったら、お神酒ほど上等なものじゃないけど、いいお酒買って持ってくね」

 アリアの言葉に肩越しに振り返った魔法使いはほんの少し笑って海の中へと消えた。  

 残されたのはアリアとイオリだけだ。

「……イオリって、アーレントの人だったの?」

 アリアの恐る恐るといった問いにイオリが苦笑した。

「うん。イオリ=アーレント。……それが俺のほんとの名前」

 一瞬イオリの目に暗い影がよぎったように見えたのはアリアの錯覚か、それとも――――。

「すごい長い話になるけど、聞いてくれるか?」

 波の音がやけに大きく聞こえる。

 アリアの返答を待たずに、イオリはどこか歪んだ笑みを浮かべた。

「俺さ、人ひとり殺したんだ」

 その瞬間、アリアが目を見開いた。




 二十三年前にアーレント家に一人の男児が生まれた。

 それがイオリ=アーレントだった。

 そしてそれから三年後にもう一人の男児が生まれた。

 それがユウリ=アーレント。成人したばかりのこの国を統べる新しい王だった。

 本来王位を継ぐのは長男であるイオリの筈なのになぜ次男のユウリが継いだのか。

「話ちょっとずれるけど、先代当主……つっても俺の父親なんだけど。あいつは反吐が出るくらい女好きで、結婚して俺やユウリが生まれてからもそれは続いてた。笑えるだろ? 表じゃ誰からも愛される誠実な男が裏じゃ毎夜女をとっかえひっかえ遊んでるんだぜ? それもこの関係をバラさないように馬鹿みたいな多額の金払って」

 十二人の政治家に囲まれ、的確に指示を飛ばし仕事をする当主としての姿か、女遊びを繰り返すクズな男の姿しかイオリは知らない。父親としての姿を見たことは一度もなかった。

『お父さんがあんな風になっちゃったのは私が妻としての役目を果たせてないからなのよね。そのせいであなたたちに迷惑かけちゃってごめんなさいね』

 母親は先の長くない病気だった。イオリやユウリは頻繁に会いに行っていたがここにも父親が訪れたことは一度もない。そんな父親に憤るでも詰るでもなく、泣いて謝るのがイオリたちの母親だった。 

「とっくに家庭崩壊してた。幸せだなんて感じたこともなかった」

 それでも表面上の家族関係は保てていた。

 完全に崩壊したのはイオリが十五歳の頃。

 イオリの手によって崩壊した。

父親あいつと関係をもった女の一人が、何を思ったのかユウリを殺そうとしたんだ」

 何も変わったことのない夜だった。

 イオリとユウリの部屋は隣同士で、夜中にユウリの部屋から物音がして目が覚めた。

 何となく、嫌な予感がした。

 妙にざわつく心臓を落ち着かせるように何度か深呼吸しながらユウリの部屋のドアを開くと。

『……っ、……っ!』

 口を押えつけられ身動きの取れないユウリと、ユウリにまたがりナイフを振り上げる女がいた。

 その後の記憶が、イオリには一切ない。

 だけど、気づいたら――――。



「女が血まみれで倒れてて、俺の服も顔も、そいつの血で汚れてた」



 せ返るほどの血の臭いに吐きそうになって、今まで右手に握りしめていた何かを離して口を覆った。ごとん、と床に落ちたそれは女が持っていた筈のナイフだった。

 一目見ただけで生きていないと分かる女と、目を見開いて声も上げずに泣くユウリと、血まみれでナイフを持っていたイオリ。

「その後は早かったよ。父親あいつは俺を人殺し扱いして家から追い出した。警察に通報しなかったのは女遊びの事実が世間にバレるのを危惧してだろうな。城の中の奴にも厳重な箝口令かんこうれいが敷かれた。世間にバレることなく俺はただのイオリになって、ユウリが次期当主にならざるを得なくなった」

 誰からも愛される誠実なこの国を統べる王は、実は女遊びを繰り返すクズ野郎。家庭内は崩壊し、遊び相手となった女を自分の息子が殺したなんて、そんなのこの国始まって以来の不祥事だ。

 だから世間にバレる前にその事実をなきものにした。国の安寧を考えれば遊び相手の女とイオリの犠牲なんて些末なものだったから。

「ユウリが必死に説得してくれたよ。けど、子供の言うことなんかに大人は耳を傾けちゃくれない。それがあの父親ならなおさら」

 泣きながら違うと叫び続けたユウリとは反対に、殺人の罪を着せられたイオリは異常なほど冷めていた。父親あいつに何を言ってもその声が届くことは絶対ない。

「人間って恐ろしいモンでさ、一度疑いの目をもつと絶対に覆せないんだよ」

『あの子が手にかけたんだって』

『死体は滅多刺しだったらしい』

『どうしてイオリ様が!?』

『あんな殺人犯をいつまでこの家に留めるつもりだ』

『明日は我が身かも知れないというのに!』

『こっちを見るな、人殺しが!』

 十二人の政治家や家政婦からの罵倒、蔑み、憐憫。負の感情をこれでもかと浴びせられ、イオリ自身出ていきたくて仕方なかった。

『こんな狂った家、こっちから出て行ってやるよ!!』

 久しぶりに会った父親にその一言だけ叩きつけ、イオリはアーレント家から追放された。

「俺の教育係で世話役だったルイスって奴がこまめに連絡や物資くれたから、十五でも何とか生活は出来たんだけどな」

 城の外に出て初めて知ったことが数えきれないほどある。

 一番の衝撃はまともな医療も受けられず死んでいく人間の多さだった。

「その時、医者になりたいって思ったんだよ。……人殺しの俺が初めて見つけた夢だったんだ」

 近場の本屋で医学書を買っていくうちに、医者になりたい青年がいるという噂が広まった。その噂を聞きつけた患者がイオリを頼って訪れるようになった。無免許のイオリが診療を行うことは違法である。それでも必要とされてしまったら、もう断れなかった。

 そんな生活を八年続けた。あの日犯した罪を忘れることなど出来ないまま、イオリは二十三になっていた。




「————まあ、言っちゃえばこんな感じなんだけど」

 イオリの壮絶な過去にアリアは絶句していた。

「で、八年そんな生活続けてたある日、夜の浜辺にずぶ濡れの女の子がいたんだよ」

 固まっていたアリアの肩がぴくりと動く。ぎこちなく指を動かして自分を指差すアリアにイオリが頷いた。

 その時、ふと思い出した。 

「あ、あのね、あたし、言ってなかったしもうバレてるけど、ほんとは、」

「海の人間なんだろ? ————最初から、知ってた」

「え……?」

 最初から知ってた?

「ほんとはあんたが海から上がってきた瞬間から倒れる瞬間まで、全部見てたんだ」

 アリアの息を呑む音が異様に耳に響いた。

「なん、で……」

「海の人間が地上に上がれば激痛に襲われてろくに生きられないって話は有名で、なのに海の人間が地上に来た。じゃあどんな身体的変化が起こるのか。それが知りたかった。————ただの、興味本位だった」

 ああ、あたしは思っていた以上にイオリのことを何も知らない。

 短期間とはいえあんなに一緒にいたのに、どうしてこんなに分からない。

「あんたが海の人間って知らなかったらたとえ夜の浜辺に倒れてても助けたりしなかった。見ず知らずの奴助けるほど、俺はお人好しじゃない」

 イオリが口端を吊り上げて、暗くわらった。

「最低だって思ったろ? その通りだよ。だって俺は人殺しであんたは人魚姫だ。共通点なんかどこにある?」

「……っ、あたしは……っ!!」

 悲鳴のような声でアリアが叫び、イオリの胸倉を掴んだ。短時間にいろいろなことが起こりすぎて疲弊した体では掴み上げるまでには至らなかった。瞬間イオリがアリアの手首を掴み返してくる。その力は紛れもなく男の人のそれで、容赦のない力にアリアの手が緩みかけた。

 胸倉を掴んで弱々しくも引き寄せたイオリの顔が目の前に迫る。そして。

「あたしは! 人魚姫なんかじゃないっ!」

 疲弊など微塵も感じさせないような毅然とした声で、そう言った。

「あんただってそうよ! 何で人殺しだって言われて否定しなかったの!? 否定しないで流されて、だからずっと苦しむんでしょ!?」

 人魚姫だから。海の民だから。

 人殺しだから。この国を統べる王の子供だから。

 だから何だ。そんなものに当て嵌めるな。そんなものを押し付けるな。

「ホントは『あんたは人殺しなんかじゃない』って否定してほしかったんでしょ!?」

「…………っ!?」

 イオリが目を見開いて息を呑む。その目が一度大きく揺らいだのをアリアは見逃さなかった。

「あたしならあんたを否定してあげられる。人殺しじゃないって言ってあげられる」

 だから――――。



「だから! あたしを選べ!」



『悪い条件じゃないなら、俺を選べば?』

 行く当てもなかったあの時、ずぶ濡れで倒れていた正体不明のアリアに選択肢をくれたのはイオリだった。

 そっけなくも優しいイオリのくれた選ぶしかない選択肢。

 あの時の台詞を引用していることに聡いイオリならとっくに気付いているだろう。

 アリアの感情のままに叫んで突き付けた選択肢の返答は。



「————選びましょう」



 あの時のアリアと同じ返答で返された。

 同時にイオリの頬を涙が伝う。

「イオ—―――」

 名前を呼ぼうとした声はイオリの伸ばした腕によって遮られた。

 意識を取り戻したばかりの時にも一度抱きしめられた。その時とは比べ物にならないほど強い力で。

「お前……、めちゃくちゃすぎる……」

「……だってこうでも言わないとあんた立ち止まったままだったでしょ」

「絶対そうだった」

「大丈夫、あんたは人殺しじゃないよ」

「……うん」

 しばらくしてイオリがアリアの肩を掴んで離れた。泣いて赤くなった目で、イオリは少しだけ笑ってみせた。

「お前がここまで頑張ってくれたんだから、俺も出来ることやらなきゃだな」

「何する気……?」

 微妙に不安そうな声のアリアに、イオリは笑うだけだった。




「ユウリと交代して俺が第一王子になる」

 イオリに世話係でもあったルイスにその一言だけ告げると、電話の向こうから帰ってきたのは沈黙だった。

『……本気でお考えですか』

「本気だよ」

 その声に揺らぎや迷いは一切なかった。

「元々ユウリは第二王子で当主になる理由も政治に関わる理由もない。なのに俺があの家から追い出されたからユウリに面倒が全部回された。今更なに勝手なことをってあいつに蔑まれても文句は言えない。けど」

 一度そこで切る。脳裏に浮かぶのは、人殺しじゃないと否定してくれた強い少女。あの子の存在が、イオリに茨の道を歩かせる決意をくれた。あの子のためなら茨の道でも歩けると思った。

「……それが俺に出来る償いで、俺がしなきゃいけないことの第一歩なんだよ」

『上の政治家連中は相当反対されると思いますよ。勿論イオリ様の父親である前当主様も黙ってはおられない。査問会も数えきれないほどあるでしょうし、決して楽なことでは――――』

「楽じゃないことなんて身をもって知ってるよ」

 簡単に貼られた人殺しのレッテルは簡単には剥がせない。

 いくら殺してなんかないとイオリが叫んだところでその声は誰にも届かない。それはこの家を出ることになったあの事件で思い知っている。

 そんなイオリが現当主であるユウリの代わりに当主となるなんて、考えただけで吐き気がしそうなほどその道は険しい。

「面倒事に巻き込んでごめん。けど協力してほしい」

 絞り出すように告げたその言葉に。

『私はイオリ様の世話係ですから。そのくらいいくらでも』

 

 



 その数ヵ月後。

 異例中の異例である、第一王子の変更が行われた。

 遺伝子検査や数えきれないほどの査問会を経て、ようやくイオリが第一王子であると認められたからだった。

 第二王子であり弟であるユウリは城に戻ったイオリにおかえりとだけ声をかけた。

「俺、やっぱ政治とか無理だったよ。政治家の年寄りに言い寄られて取り決めて、国民のための政治なんて出来やしなかった。そういう政治的なとこも人を惹きつけるカリスマ性も、圧倒的にイオリの方が上だって思い知らされた」

 ユウリが自虐的な笑みを浮かべる。

「……楽な方に逃げてごめん」

「そんな殊勝な面持ちしないでくれる? 調子狂うんだけど。というか似合わなさ過ぎて気持ち悪い」

「お前……」

 城を逃げるように出て八年間抱えてきた申し訳なさから素直に謝ったのにこの言われようである。包み隠さずズケズケ言い放つあたりは昔と何も変わってない。

 改めて自分の向かいに座る男に目を向ける。

 イオリの記憶よりユウリの背は随分高くなり、顔つきもわずかに子供のあどけなさを残しつつも意志の強そうな目をした青年になっていた。

「お前、だいぶ変わったよな。背とか抜かされそうなんだけど。性格もこんなんだったか?」

「残念なことにそろそろ成長止まってきたからね。追いつくくらいが限度かな。性格はね、政治家の年寄り連中の相手してたらこーなった」

「ああ……」

 あまりに納得できすぎてそれ以上何かを聞こうとは思わなかった。

「唐突になんだけどいい?」

「なにが」

「俺ね、いま好きな子いんの」

「……ホント唐突だな……」

「そー言ったじゃん」

 ユウリは悪戯をした子供のようににんまり笑った。

「その子はこの城のメイドでさ。イオリと一緒。身分違いの前途多難な恋なわけ。その子の傍にいるためにイオリのサポートに徹底するよ」

「お前の恋愛のついでか」

「なにか文句が?」

 にっこりと綺麗にユウリが笑う。

「まあ、それでもイオリほど困難な恋愛じゃないけど。また政治家連中から何か言われるだろうなぁ。名家の出でもないただのメイドと付き合ったりなんかしたら」

「前例あるし大丈夫だろ」

「……ありがたいことにイオリが前代未聞の前例作ってくれたおかげで、俺いますげえ気が楽なの。イオリ様様」

 イオリの言う前例とは言わずもがな海の民であるアリアのことである。イオリが第一王子に戻るかもしれないという話が上がっていた頃にアリアの正体も国民に公表されていた。

「国民よりも年寄り連中がうるさかったよなぁ。アーレント家の血筋に魚の血を混ぜる気かとか何とか」

「埋め立て案出したのあいつらだしな。その被害者が直訴しに来りゃあらゆる攻撃材料ぶつけて排除しようとするだろうさ」

 その時の様子を思い出したのかユウリが遠い目をする。

『海の埋め立てを中止してもらいたくて、そのためにあたしはここに来ました』

 イオリとユウリ以外敵だらけの空間で、アリアは毅然としてそう言った。

 その一言が老人たちを烈火のごとく怒らせる原因となったのは言うまでもない。

 魚風情が一体何を。

 そんなことを言うためにここまで来たのか。

 そのためだけにイオリ様とユウリ様を利用したのか。

 罵詈荘厳の嵐の中、怒りの導火線が燃え尽きる寸前だったアリアを鎮静化させたのは。

『この子を海に突き落とした殺人未遂があること、都合よく忘れてない?』

 イオリのその一言だった。政治家たちの罵詈荘厳がピタリと止まる。

『忘れさせてたまるかよ』

 その時のイオリの目ほど冷たく怖いものをユウリは知らない。

「あん時のイオリ怖かったわー。突き落とした罪を国民に公表しないかわりに海の埋め立てを白紙にさせるんだもんなー」

 しかも、とユウリはテーブルに転がっている小型の機械を指で弾いた。

「白紙にするって言った政治家の声、録音してんだもんな」

 アリアと政治家連中の言い合いが始まった直後から、埋め立てを白紙にすると言った言葉までをイオリは掌に隠していたボイスレコーダーに録音していた。

 言い逃れなんかさせないために。言質は取ったという証拠になるように。

「この男だけは敵に回しちゃだめだと思ったね、俺は」

「ひどい言われようだな」

「俺には出来ない。やっぱサポートで十分だわ」

 苦笑したユウリはそういえば、とあたりを見渡した。

「当事者であるアリアちゃんは?」

 政治家たちから見事白紙をもぎ取った彼女は一時間ほど前から姿が見えない。

「あー、姉に報告するために一旦海に帰るんだと。すぐ戻るからとは言ってたけど」

 リア姉さんたちの報告してくる! と嬉々とした表情でアリアは城を飛び出していった。

「久しぶりに会うんだろうし、まだしばらく帰んないかもな」

 その時。

「————リ、イオリ————っ!」

 外から名前を呼ぶ声が聞こえた。思わず近くのテラスに近寄り外を見る。

「姉さんたちすっごい喜んでた! めちゃくちゃ褒めてくれた! 今度はいいお酒持って魔法使いのとこにも行かなきゃ!」

 イオリたちのいる四階、ユウリの自室を見上げて笑うアリアの姿があった。

 海から出て走ってきたのだろう。全身ずぶ濡れになった姿は、アリアが海から出てきた直後行き倒れ、イオリと初めて出会ったあの日を彷彿とさせた。

 あの日と大きく違うのは、今その顔を彩るのは目を細めてしまうほどの明るい笑みであることと、あの時アリアの首から下げられていた海石が、今はイオリの首元で揺れていること。

 太陽の光に照らされて嬉しそうに笑うアリアの姿を見て、イオリが優しく微笑んだ。





 人魚姫。

 哀れな哀れな海の姫。

 もらった足は役立たず。言葉もろくに喋れない。

 報われない恋の末、泡と消え去る馬鹿な姫。

 だから、ずっとずっと疑問だった。

 どうして彼女は海に帰らなかったのか。

 痛いばかりの地上。

 報われることなどありはしない不毛な恋。

 なのにどうして王子の傍にいたいと願ったのか。

 ————だけど、今なら分かる。

「……————っ!!」

 喋れなくても痛くても。報われないと分かっていても。



 あなたが好きだと、だから傍にいたいのだと。

 伝えたい想いがそこにあったからだ。

 









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