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打撃投手兼マネージャーとして輝跡が入部してきて、部員全員が驚きを露わにした。その表情を一切隠そうともせず―――隠すことを忘れて―――ただ輝跡を凝視していた。
クラスにいる野球部員はシニア時代の輝跡のことを知っており、輝跡の前では野球の話をすることは決してなかった。
あのような結末を迎えた輝跡が、野球を嫌いになっていないわけがないと思っていたからだ。
だけど、その輝跡が野球部に入ってきた。
そして、また投げる。
一人しかない女子マネージャーに仕事の内容を教えてもらいながら、輝跡は自分にできる範囲で仕事を手伝った。
すでに三年生は引退をし、新チームがスタートしている。
主将の向井の声がグラウンドに響いている。
バッドの音、土の音、選手たちの声。
もう聞く事のないと思っていた音が鮮明に聞こえてくる。
「橘くん、大丈夫?」
マネージャーの加藤とは部活中一番一緒にいることが多い。
輝跡が時々こうして呆然と立っていると、加藤は気づかわしげな声で話しかてくる。
こうゆとき相手の表情が見れたらいいのにと、輝跡は思った。
「なんでもないです。暑いなって」
「うん、まだまだ夏だしね」
まだ夏は終わらない。
輝跡の夏は始まったばかりだ。
あの時終わったと思っていた夏が、再び動き始めた。
磨いていたボールを瞳に映すと、投げろと言わんばかりに燃えている。
投げたい。早く投げたい。
心が騒ぎ出し、体が勝手に動き出そうとする。
輝跡は衝動を抑えようと、細い息を吐き出した。
「橘っ!」
「・・・何ですか?」
練習中のはずの向井の声が聞こえて、輝跡は振り返った。
「監督が投げてみろって。ブルペンでだけどな」
「まだ練習中でしょう?それに俺はまだこれがあります」
輝跡が籠の中にある大量のボールを指さした。
「そんなに時間は取らせねえよ。加藤、悪いけどこいつ借りるな」
「そんな嬉しそうな顔されたら貸すしかないでしょ。橘くん、悪いけど付き合ってあげて」
「わかりました」
二人の了承が得られた向井は輝跡の腕をつかむと、急かすようにブルペンへと向かった。
嬉しそうな顔。向井は今嬉しいらしい。輝跡には見えないからそれがわからない。
だけど、向井の声が弾んでいるのはわかった。
「大倉監督!連れてきました」
「向井、見えない相手を引っ張るな」
監督である大倉の言葉に向井の足がぴたりと止まった。
「すまない。大丈夫か?」
「・・・大丈夫です」
ここに来るまでに何度か躓きそうになったが、それを口に出したりはしない。
「橘、お前あれから投げてるのか?」
「いいえ、ボールすら触ってません」
「投げれるのか?」
「投げることはできます。でも、投手として投げれるかはわかりません」
輝跡のはっきりとした言葉に、大倉が苦笑を浮かべた。
「初めて会った時と変わらないな。よし、なら投げてみろ」
「よっしゃ!行くぞ、橘」
ピッチャープレートの感触を確かめると、輝跡は目を開けた。
白に映るピッチャープレートは、ここが輝跡の再スタートだと言っている。
「橘!いけるか?」
一八.四四メートル先から向井の声が聞こえた。
輝跡は顔を上げると、しっかりと頷いた。
「なあ、俺の事は何色に見える?キャッチャーミットは何色に見えてる?」
輝跡は目を開くと、青、黄色、オレンジ、白と混ざる色の中に、燃えるように揺れる赤があることに気が付いた。
輝跡の真っすぐ先に燃え盛る赤。
それが、キャッチャーミットだ。
「燃えるような赤」
輝跡が答えると、キャッチャーミットの音がした。
「やっぱりお前は投手だ。さあ、来い!橘ッ!」
輝跡はグローブの感触、ボールの感触を確かめると、あの時、あの瞬間の感触を思い起こすように腕を振り上げた。
もう立ち止まらない。
もう一度この足を踏み出す。
もう一度この左手から放たれるボールがミットに収まる音が聞きたい。
向井なら必ずどんな球でも捕ってくれる気がした。
スタートラインを踏み出す。
勢いよく左手を振り下ろすと、キャッチャーミットが音を鳴らした。
その瞬間、何人かの声が聞こえてきた。
突然聞こえてきた声に輝跡は驚いて視線を彷徨わせた。
「橘ッ!」
土を蹴る音が近づいてきたと思ったら、強い衝撃を受けた。
それが、向井の腕で、自分が抱きしめられていることがすぐに分かった。
「お前はまだ最強の投手だ!」
「ちゃんと届いたんですか?」
「ああ、ド真ん中ストライクだったよ。お前はまだ投げられる」
「そっか・・・そっか・・・・」
投げられた。そのことが分かった瞬間、腹の中から何かが競りあがってきて、言い表せない衝動に駆られた。
「お前ちゃんと笑えるじゃねえか!」
向井の言葉でこの衝動がなんなのかやっとわかった。
嬉しいんだ。嬉しくてどうしようもないんだ。
失った投手を、もう一度この手に取り戻したんだ。
「ありがとうございます、向井さん」
嬉しくて、もう一度この場に立たせてくれた向井に感謝を伝えると、すすり泣くような音が聞こえた。
「向井さん・・・?」
輝跡が首を傾げていると、他の声が聞こえてきた。
「おいおい、向井。お前が泣くなよ!」
「てか、お前俺の存在忘れるなよ」
二つの声が聞こえてきて、輝跡は視線を彷徨わせた。
話し方からして相手が三年生だと言うことはわかる。だけど、入部したての輝跡にはまだ声だけで相手を判別するには情報が少なすぎた。
「橘、お前の球打ってみたくなった」
「・・・誰ですか?」
「ああ、本当に見えてないんだな。あんな球投げるから見えてるのか思ったぞ」
「おい、高橋!」
「悪い悪い。副主将の高橋だ。よろしくな」
「同じく副主将の沢村だ」
「見てたんですか?」
「勿論見てたよ。去年から向井がうるさくて、嫌ってほど聞かされてたからな」
「おい、嘘を言うな!」
沢村の言葉に、いつの間にか泣き止んだ向井がはっきりとした言葉で否定した。
「嘘じゃないだろ。お前、監督が青南シニアに行ったって聞いた瞬間、はしゃぎまくってただろ」
「その日の練習異様に気合入ってたしな」
追い込むようにして付け足された高橋の言葉に、向井の呻るような音が聞こえた。
「だから、俺らも結構楽しみにしてたんだよ」
「でも、沢村さんは投手ですよね?」
沢村のさきほどの言葉で、輝跡は沢村が投手であると思っていた。
「投手は三年生が中心だったから、今年は手薄なんだよ」
「そうですか。でも、俺は試合に出れない」
「わかってるよ。でも、お前が打撃投手してくれれば、打撃は上がるかもな」
好意的に受け入れてくれる二年がどんな色をしているのか気になって、輝跡は目を開けた。
黄色。それがこの二人の色だった。
「お、目が開いたな」
目ざとく気が付いた高橋が輝跡の目を覗き込んだ。
その瞬間、黄色が風のように押し寄せてきて、輝跡は後ずさった。
「おい、やめろ高橋!」
声と一緒に腕を引かれ、輝跡がたたらを踏んだ。その手が誰の手かはすぐにわかった。
「大丈夫か?橘」
聞こえてきた声に、輝跡は目線を上げた。―――真っ赤な赤が目に映った。
「え?目見たらダメな感じ?」
高橋の驚いたような言葉に、輝跡は目線を変えた。
「そうなのか?」
沢村の言葉に輝跡は首を横に振った。
さっきはただ驚いて後ずさってしまっただけだ。普段はめったに目を開けない。だから、慣れていないだけで、目への影響は一切ない。誤解を解くため輝跡はすぐに口を開いた。
「少し驚いただけです」
輝跡の言葉を聞いて、三人の安堵した音が聞こえた。
「向井、沢村、高橋、そろそろ練習に戻れ!橘もいったんマネジャーの仕事に戻れ」
「はい!」
大倉の声が聞こえた瞬間、向井の手が離れた。
「じゃあ、橘。また後でな」
二年生が走って戻っていく背を見届けながら、輝跡はボールを握りしめた。