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乾いた空気。
舞う砂埃。
頬を伝う汗。
夏の日差しが球場全体を包んでいる。
リトルシニア日本選手権大会決勝のマウンド。
バックを守る仲間の声が鮮明に聞こえてくる。
歓声もうるさいぐらいに聞こえる。
自分の耳が壊れてしまうのではないかと思うぐらいに、鼓膜を激しく揺らす。
一八.四四メートル先のミットが近いぐらいにはっきりと見える。
小さく息を吐き出すと、左手に収まるボールをぐっと握りしめた。
高く上げた腕を振り下ろした次の瞬間・・・。
橘輝跡は、マウンドに立つ術を失った。
* * *
放課後の学校、明日からの夏休みに浮かれる学生たちの声で溢れかえっている。
走る足音、笑い声、ドアの音。全ての音が輝跡の意志とは無関係に耳へ入ってくる。
教室の窓際、一番後ろの席で橘輝跡は音を耳にしながら、窓の外を眺めていた。
だが、その目は閉ざされている。
輝跡は立ち上がると、机の上にある鞄を肩にかけた。
「おっ、橘帰るのか?この後みんなでカラオケ行こうってなってんだけど、橘も来る?ついでに夏休みの計画も立てようって」
聞こえてきた声の方に顔を向けるが、その目は閉ざされたまま。相手の顔は見えていない。
輝跡は小さく肩を竦めて見せた。
「いや、俺はいいよ」
「そっか。んじゃ、良い夏休みを~」
「東山もな」
クラスメイトの誘いを断り、輝跡は迷うことなく教室から出て行った。
見えなくても見えている。それが、輝跡の目。
あの夏、輝跡は視力を失った。
だが、その目は全てを映さなくなったわけではなかった。
目を開ければ、世界は色で溢れかえっている。
青、黄色、緑、黒、白、赤。
まるでキャンバスの上のように、色で世界が創られている。
初めてその世界を見た時は気持ち悪さに何日も高熱で寝込んだ。
だけど、あの夏から一年・・・。
輝跡は初めからこの世界しか見えていなかったかのように受け入れていた。
このまま真っすぐ家に帰る気になれなかった輝跡は、何も考えず校舎の周りを歩き始めた。
体育館からはすでに部活の音が聞こえる。
ボールの音。シューズが床に擦れる音。
青春の音。―――輝跡がもう鳴らすことのない音。
あてもなく歩いていると、ふっと、ある音が聞こえてこないことに気が付いた。
耳に慣れ親しんだ音。
野球の音が一切聞こえてこない。
クラスメイトに何人か野球部員がいる。終礼が終わるなり走り出して部活に向かったのも聞いていた。
「試合かな?」
気になって見に行こうとして、輝跡は踏み出そうとした足を戻してしまった。
あの日、視力を失った日から、輝跡は一度もグラウンドを見ていない。見ることが出来なかった。
リトルシニア最強とまで謳われた橘輝跡は、日本選手権大会決勝のマウンドで死んだ。
今、ここにいる橘輝跡は、ただの橘輝跡だ。
あれから一年経っても、輝跡はマウンドを見るのが恐ろしかった。見てしまえば、やっと受け入れた「ただの橘輝跡」が崩れてしまうような気がして。
そうなれば、本当に橘輝跡という人間は死んでしまう。
踏み出そうとしていた足は、グラウンドのある方向ではなく真逆の方向に踏み出された。
「帰ろう」
輝跡がもう一歩踏み出そうとした瞬間、別の足音が聞こえてきた。
「お前、橘輝跡か?」
背後から聞こえてきた声に輝跡はゆっくりと振り返った。
「・・・誰?」
輝跡が聞き返すと、足音が近づいてきた。
「やっぱり橘輝跡だな」
「・・・・」
「俺は野球部主将の向井だ。よろしくな」
勝手に自己紹介が始まり、輝跡はこの世で最も関わりたくな人間を無視して踵を返そうとした。
「待て待て」
輝跡が帰ろうとしたのに気が付いたのか、向井と名乗った男が輝跡の左手を掴んだ。
利き腕を掴まれ、咄嗟に手を引くが、相手の手が離れることはなかった。
「何ですか?」
「お前、グラウンドに来ようとしてなかったか?」
「・・・してません」
「本当か?」
「・・・たとえそうだったとしても、あなたには関係ありません。離してください」
「お前、俺に球投げてみないか?」
「何を言ってるんですか?」
向井の言葉に、輝跡の眉間に皺が寄った。
「お前の球ずっと受けてみたかったんだ。リトルシニア最速で最強の球。俺に投げてくれよ」
「リトルシニア最強の橘輝跡はもう死んだ。ここにいるのは『ただの橘輝跡』だ。もういいでしょう、離してください」
「・・・なら、俺がお前をもう一度最強の橘輝跡にしてやるよ」
向井の言葉に輝跡は口を噤んだ。それは言葉が出てこなかったからではない。相手に抱いた苛立ちをぶつけないようにするため、開こうとした口を閉じたのだ。
「日大一校野球部主将で正捕手の俺が、お前をもう一度マウンドに上げてやる!」
「勝手な事言うなっ!」
向井の言葉を聞いた瞬間、輝跡が声を荒げた。我慢しようとしていたが、好き勝手言う向井に勝手に口が開いてしまった。
荒げた声に驚いたのか向井の手が緩んだすきに、輝跡はその手を振り払った。
「・・・・・」
「何も知らないくせに好き勝手なことをッ!俺はもう野球をやらないし、もう野球をやっていた俺はいない。俺はもう死んだんだ!」
輝跡は向井に口を挟ませないよう言葉を続けた。
「目の見えるあんたに俺の何がわかる。マウンドに立つ術を失った俺に野球をしろってか。・・・最っ低だな」
吐息と一緒に吐き出された最後の言葉は、輝跡の心を鋭利な刃物で突き刺した。
「でも、お前は見えてる」
「・・・・ッ!」
「色が見えてると聞いた。・・・俺はお前が日大一校に来るのをずっと楽しみにしてた。だけど、お前は野球部には来なかった」
なぜ向井が目の事を知っているのか。なぜ輝跡が日大一校に入学することを知ってたのか。
輝跡は渦巻く疑問に、吐き気がしそうだった。
「監督が去年の春、お前のところに話を持ち掛けに言ったのは知ってた。だから、もし橘輝跡がこの学校を選べばって考えると、俺は楽しみで楽しみで仕方なかった。だけど、入学したはずの橘輝跡は野球部に現れなかった」
「・・・・・」
「だから俺は監督に聞きに行った。どうして橘輝跡は入部していないのかって。そして、知ったよ。お前がピッチャー返しのせいで、視力を失ったてな」
「知っているならもういいですよね。俺には野球は出来ません」
輝跡は震えそうになる声をなんとか抑えながら、言葉を吐き出した。
「だけど、お前は見えてる!お前の担任に聞いたんだ。お前の見るものは色になってるって。・・・だからさ、見てみろよ。グラウンドを。マウンドを。野球ボールを」
また左手が捕まれ、輝跡は拳を握った。
向井の手は豆だらけで大きくて硬くて、野球選手の手だった。
* * *
むりやり引きずられるようにしてグラウンドに連れてこさせられ、輝跡は土埃の匂いに泣きそうになった。
「目を開けてみろよ。もう一度、お前の目にマウンドを映してやれよ」
向井の言葉に輝跡はゆっくりと瞼を上げた。
大きなキャンバスは色とりどり鮮やかな色で溢れている。眩しいぐらいで、見開いた目を細めた。
・・・・・・。
「どう見える?」
「・・・眩しい」
「眩しい?」
「眩しいぐらい輝いてる」
「なら、お前はまだ投手だよ。もう一度マウンドに立てる」
「だけど、俺は出来ない」
「橘さ、夏の甲子園の舞台に立ちたいと思わないか?」
輝跡が訝し気な表情で向井を見た。それに対して、向井は苦笑を浮かべた。
「ここ数年、夏の甲子園出てないんだよ。だけど、今年は必ず甲子園に行く。そんで、お前も甲子園に連れて行く」
「意味がわかりません。それに、俺はもう野球とは」
「できる。俺は甲子園の舞台で一番最初にお前を投げさせてやりたい!」
輝跡が否定の言葉を吐く前に、向井が大声で言った。その声がグラウンドを反響し、輝跡の心にも痛いぐらい反響した。
「それって、始球式のことを言ってるんですか?」
正解と言わんばかりの表情で楽し気に向井が笑った。
「リトルシニア最強の投手が帰ってきたって見せてやりたい!そんでその球を俺が受けたい!」
「でも、それって話題性とかその年一番注目された人が選ばれてるんですよね。無理ですよ」
「無理じゃねえよ。三年ぶりの夏の甲子園出場に、リトルシニア最強の投手。十分に話題性あるだろ」
「でも、それだけのために野球部に入る気にはなれません」
「それだけじゃねえよ。お前にとったら酷な事かもしれねえけど、打撃投手を務めてほしい」
最強とまで言われた投手に練習だけのために投げろと言う。
使えない投手。―――そんな言葉が輝跡の頭を過った。
「ほんと、酷い話ですね・・・」
「一緒に甲子園行こうぜ。俺はお前の投球を日本中の奴に見せつけてやりたい」
「どこに投げるかわかりませんよ。もしかしたら、選手を怪我させるかも」
「お前のコントロールなら大丈夫だ。ほら、ボールどう見える?」
向井はポケットからボールを取り出すと、輝跡の手に握らせた。
手の中にある懐かしい感触に、輝跡はそっと目を開いた。
「ハハ・・・、ボールが燃えてやがる」
「やっぱりお前は最強の投手だよ」
あの日から失った涙がようやく輝跡の心を潤した。