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魔法伯爵の娘  作者: 青柳朔
第三部
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第五章 うたかた(4)

 薬草園での手伝いはごく簡単なものばかり任された。ファリスも気を遣ったのだろう。おかげでアイザは単純作業の傍らで、気持ちの整理をすることができた。

 日暮れ前、まだ空は明るい。空が綺麗だからきっと今夜は星が綺麗だろう。

「今日はもうやることがないから、終わりにしてかまわないよ」

「はい。……お疲れさまです」

 いつもアイザが手伝っていても、ファリスは暗くなる前には終わりを告げる。彼は以前、夜に薬草を採取していたこともあるから、本当はまったく仕事がないわけでもないのだろう。

 いくらアイザから手伝いを申し出たと言っても、形としてはイアランの客人だ。あまり働かせる訳にはいかないのかもしれない。

 気にしなくていいのに、と思っていたアイザも、今回はそれに救われた。今日は、これからやることがある。

 アイザは急ぎ部屋に戻る。数名の侍女がまるで空気みたいに控えていた。この時間には部屋の主が戻ることを知っているのだ。


「……ドレスに着替えたいので、手伝ってもらえますか」


 アイザの告げた言葉に、侍女たちは声に出さないものの目をまんまるにして驚いていた。




 騎士団長の部屋を訪ねてみたがタシアンはおらず、アイザは少し踵の高い靴を鳴らさぬようにと注意しながら急ぐ。一人の少女が王城の中で急ぎどこかへ向かう姿は、それなりに目を引いていた。

(誰も話しかけてこないのは、やっぱりわたしだからかな)

 そんなことを考えて苦笑する。

 アイザ・ルイス。数ヶ月前に起きた騒動の中心に限りなく近いところにいた少女。下手にアイザに近づけば刺激してはいけない人を刺激しかねない。

 ただの衛兵や女官たちでは、とても声はかけられないだろう。

「アイザ?」

 前方にレーリの姿を見つけ、彼もまたアイザに気づいて声をかけてきた。

「どうしたんですか、こんなところで。何か急な用事でも……」

 レーリは驚きながら問いかけてくる。アイザも知っている顔を見つけることができてほっとした。

「タシアンは、陛下の執務室にいると聞いて……会えるかな」

 予定もないのに国王の執務室を訪ねることが常識外であることはわかっている。タシアンに用があるといっても、行先には国の最高権力者がいるのだ。

「……付き合います。手をどうぞ」

「……会えるの?」

「本来、予定のない来客を陛下に通すことはありませんけど、何事にも例外はあります。……あなたは例外の一人でしょう」

 レーリの言葉にアイザはなんとも言えず、曖昧に笑った。アイザ自身も、こんな非常識を許されるのではと思ってやって来たわけだから否定はできないが、肯定するのもどうかと思ったのだ。

 執務室まではほんの数分。

 部屋の前にいた衛兵はアイザを連れたレーリを一瞥するだけで、何も言わなかった。

「陛下、団長。失礼します」

 一拍後、タシアンの声で「入れ」と返事があった。

 レーリに続いて入室したアイザに、タシアンもイアランも予想外だという顔をした。

「どうした」

 先に口を開いたのはタシアンだった。イアランも手を止めてアイザを見ている。

 視線が重かった。

 きっとアイザは今、触れてはいけないものに触れようとしている。

 おそらく、タシアンやイアランはアイザから見えないようにしていてくれた箱を、アイザは自らの手で開けようしているのだろう。

 その箱の中には、苦しみも悲しみもあるかもしれない。アイザを傷つけるものばかりが入っているのかもしれない。

 それでも、目を逸らしてしまうことはしたくなかった。

 守られたくない。依存したくない。

 怯えて、不安がって、どうか助けて欲しいと縋りつく。それはアイザが何よりも恐れることだ。

 この身体に流れるのは、リュース・ルイスの血だけではない。ただ一人に依存した結果壊れ果てたその人を、アイザは忘れていない。

 だからアイザは手を伸ばさない。助けを求めない。それが当たり前になってしまわないように、いつだって理性の檻で囲い込む。

「……女王陛下が」

(ああ、もう女王ではないんだった)

 けれど、ではなんと呼べばいいのだろう。

 困ったようにアイザは目を落として、言葉を詰まらせた。

「……ああ、そうか」

 察したタシアンが、小さく声を零す。

「陛下。彼女を北の離宮へ連れて行ってもかまいませんか」

「かまわないよ」

「北の、離宮?」

 タシアンとイアランの会話に、アイザは首を傾げた。アイザの部屋が用意されていた東の離宮ではなく、北の。

「ついてくればわかる。レーリ、戻るまで護衛を代われ」

「はい」

 おそらくそのつもりだったのだろう、レーリがタシアンから仕事を引き継ぐ。タシアンがこの部屋でしていたのはただの護衛だけではないはずだ。

 部屋を出る直前、イアランがアイザを呼んだ。

「アイザ」

「はい?」

 振り返ると、イアランは微笑んでこちらを見つめていた。その眼差しはやさしく、けれどどことなく冷徹でもあった。

「前に言ったこと、覚えているかな」

「前に……?」

 どの話のことだろうか、とアイザにはすぐに思いつかなかった。何か大事な会話があっただろうか、とここ数日のことを振り返る。

「覚えていないのなら、それでもいいよ」

 まるで覚えているかどうか確認するというよりも、試すような問いだった。


「誰かから、聞いたのか」

 何を、とも。何のことを、とも、言わない。

 それだけでアイザには通じた。

「……ファリスさんが。もうずっと具合が良くなかったって」

 アイザがファリスの名を出すと、タシアンは苦笑した。

「あの人か。騎士団の誰かだったら説教してるところだが」

「聞いてはいけないことだった?」

「いいや。城の人間は皆知っていることだ」

 ただおまえには、伝わらないようにしていただけで。

 数歩前を歩くタシアンの背を見つめながら、言外に告げられるやさしさにアイザはどんな反応をすべきかわからなかった。

 いつもアイザは守られている。父に、タシアンに、イアランに。そしてガルにも。

「戴冠式では正気だったが、もう半ば夢と現実の区別がついていないようなものだ。ここしばらくはほとんど眠っていた」

(夢と現実?)

「それは」

 回廊を通り、見張りの衛兵にタシアンは手を軽くあげるだけで通る。顔パスというやつではないか、とアイザは驚いた。

 警備が甘いわけではない。事実衛兵はしっかりあちこちに配置されている。

「よく来るの?」

「陛下に代わって様子を見にな」

 離宮は、比較的小さめのものだ。大きくない中庭があり、そこに女性の姿があった。

「珍しいな。起きてるのか」

「ええ、今日は調子がいいみたいで」

 タシアンのもとへやって来た一人の女官が答える。

 下ろされたままの金の髪は夕風に吹かれてふわふわと水中を漂うかのように揺れていた。

「ねぇ、リュースはどこ?」

 傍に控えている女官に問いかける顔はどこか幼げで、そしているはずもない人を探していた。

 言い淀む女官を見ていた青い瞳が、アイザを捉えた。見つめられた瞬間、なぜか目をそらすことができなくて、困惑の表情を浮かべたまま見つめ返した。

 少女のような雰囲気を纏っていた彼女は、ふわり、と花咲くように微笑んだ。どこか大人びて、落ち着いた微笑みだった。


「アイザ」


 名前を、呼ばれた。

 呼ばれるとは、思っていなかった。

 彼女の中で未だリュース・ルイスが生きているのなら、彼女の傍にいると思っているのなら、アイザ・ルイスは存在していない。アイザが生まれたときに二人の道は分かたれてしまったから。

「戻ってきたのね。それなら、一緒にお茶にしましょう?」

 手招きをされ、アイザは困惑した。

 タシアンを見上げると、彼も戸惑っているようだった。

 この場においてアイザに与えられた選択肢には正解がなくて、けれど選ぶものによって簡単に壊れてしまうものがあることには気づいていた。

「リュースはまた仕事みたいなの。まったく、父親になっても変わらないわねあの人は」

 彼女は、女王だった頃の面影など感じさせないどこか無邪気さの残った顔で、困った人、と頬を膨らませている。

(……父、親)

 その一言で、アイザはなんとなくわかってしまった。

 リュースは。

 アイザの父は、もうこの世のどこにもいなくて。けれどこの人は、リュースを求めている。今も、昔も、いつも。

 だから、こんな幻想に溺れるのだ。

(この人は、きっと)

「……父さんは、研究一筋だから」

 苦笑まじりにそう答えて、アイザは一歩み寄った。

(ありえなかった、夢を見ているんだ)

「そうね、仕方ない人よね」

「わたしも、まだ用事があるから行かないと。お茶はまた今度でいいかな。……母さん」

 これは、ままごとだ。

 女王という責務から解放された女性が夢見た、最も愛した男と家庭を築くという叶わなかった、ありえたかもしれない儚いもしもの話。

「もう、アイザは父親に似てしまったのね」

 伸びてきた細い手が、アイザの頭を撫でる。

 その眼差しは、やさしさに満ちていて、おそらくそれは、アイザは触れたことがない母の愛というものなのかもしれない。

 泣きたくなった。

 どうして泣きたいのかわからなかったけど、そのまま声を上げて泣きたかった。

「アイザ」

 タシアンが名前を呼ぶ。

 振り返るアイザにつられるように、同じく青い瞳がタシアンを見た。

「……ほんとうに、皆、忙しいものね」

 小さく小さく呟かれた言葉は、おそらくアイザにしか聞こえなかった。




 すっかり日は落ちた。窓から差し込むのは淡い月光で、ゆっくりと歩きながらタシアンが静かに口を開いた。

「……悪い」

「なんで謝るの?」

「ああなるとは、思っていなかった」

 苦々しさのあるタシアンの声に、アイザは微苦笑する。

「ああ……」

 タシアンが夢現と言っていたのは、おそらくリュースがいるという幻想を見ている状態のことだったんだろう。ならば、アイザには反応しない――その予想は間違っていなかったし、アイザもそう思った。

 彼女の中での最上はリュース・ルイスで、そしてそれ以外は存在しない。今、あの人の目に映る人間なんていないだろう、と。

「……なんで、応えたんだ」

 困惑の滲んだ問いだった。

 ――母さん、と。

(もう二度と、呼ぶことはないと思ったんだけどな)

「わからないや」

 アイザは目を落とし、小さく笑った。

 これは偽善だ。あるいはただの独善。

 それでも、何もしないよりは後悔しないと思った。命はある日突然、蝋燭の火が消えるように呆気なく喪われるものだと、アイザは知っているから。

 だから。

「……タシアン。滞在を延ばしてもいいかな」

 本来なら、アイザとガルは明後日には王城を経つ予定だった。しかしもともと余裕をもっていた日程だ。数日の延長は、アイザたちにはなんの問題もない。

「延ばしてどうする」

「あの人と話がしたい」

「……もう正気じゃないぞ」

「それでもいいよ。ただ目を逸らさずに、向き合いたいなって思って」

 それに、アイザには彼女が完全に夢の住人になってしまったとは思えなかった。逃避を逃避だと理解して、夢見ている。そんな印象だろうか。

「陛下に許可を貰わないとな」

 さすがにアイザも勝手をする訳にはいかない。もしかしたら、イアランの気分を害するかもしれないなとアイザは思った。

「……俺から伝えておく。それで充分だろう」

 ため息混じりのタシアンの返答に、アイザは悟った。

(ああ……)

『前に言ったこと、覚えているかな』

 先程の、イアランの問い。アイザにはなんのことかわからなかったが、今ならわかる。あれは、アイザが王都に来た日のことだっただろうか。

『もしも会いたい人がいるなら、こちらで手配するけど?』

 あれは、


(あの人のことだったんだ)




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