第三章 国境騎士団(1)
顔を上げたアイザの青い瞳から、涙が落ちた。そのひとしずくを見て、ガルが怒っているような、かなしんでいるような表情を浮かべる。けれど金の目は、決してアイザから目を離さなかった。
「――アイザが誰の娘とか、アイザの親父さんが昔何をしたとか、そういうのは関係ない」
それから少し迷ったように唇を震わせて、ガルは笑った。暗がりにやわらかく光が差し込むように、掴まれた腕からぬくもりが伝わる。
「……俺が出会ったのは、アイザっていう、ただの女の子だよ」
そういって笑うガルに、アイザは苦しくなる。もうガルから目を離せなかった。ただ金の目を見つめて、込み上がる感情に唇を噛み締める。
笑わないで、と思う。おねがいだから、やさしくしないで、手を差し伸べないで。
(……手を)
この手を、振り払うべきなのだ。どんなにガルが気にしないと言ったとしても、アイザがガルに甘えることなんて許されない。許されるはずがない。
(手を、振り払って)
そしてアイザは、自分の足で立たなければならない。自分の力で王都へ行かなければならない。もともとそのつもりだったじゃないか、と自分を叱りつけても足はぴくりとも動かない。それが情けなくて、くやしくて、アイザは唇をますます噛みしめた。
「……アイザ」
アイザの心のうちを見透かすように金の目がアイザを映した。やさしい声をアイザは拒絶したくてしかたなかった。ガルの声は、ゆるゆると、アイザの棘を取り払うようだった。
「アイザはもっと、甘えていいと思う」
「……なんで」
「だってアイザはまだ子どもで、女の子だろ。なんでそんなに我慢するんだよ。今だって、泣き出したくてしかたないって顔してるくせに」
この強情っぱり、とガルが唇を尖らせる。ひとしずくの涙が零れたあと、アイザは必死に涙を堪えていた。
(だって)
泣くことに、慣れてないのだ。
(泣いてどうにかなるものでもない。だいたい、慰めてくれるひとだっていなかったし――これからも、いない)
アイザの父は本当に不器用な男で、娘が十歳を過ぎたあたりから細やかな感情の機微にはさっぱり気づかなかった。アイザは父子家庭だったし、父は研究馬鹿だったので人一倍しっかりせねばと言い聞かせてきた。そうでなければ家の中はすぐにめちゃくちゃになる。
ないものねだりなんて無駄だ。ないものはないのだ。
たとえば、あたたかな母の手であったり。
たとえば、ともに憤ってくれるようなきょうだいであったり。
――いくら望んでも手に入らぬものに焦がれても、むなしいだけだ。
はぁ、とガルはため息を吐き出して、アイザの腕を離す。ぬくもりが去ったそこは、名残惜しむように体温を求めていた。
「アイザ」
ガルが身を屈めて、アイザと目線を合わせる。少しごつごつしたガルの手のひらに、両頬を包まれた。何が起きているんだと一瞬わからずに、アイザは目を瞬いた。
指先が、アイザの頬を撫でる。
「アイザは今、ひとりじゃないだろ」
ぱちぱちとアイザは瞬きを繰り返して、ガルの瞳を見つめた。ひとりじゃない、と唇で言葉をなぞり、頬を包むガルの手に自分のそれを重ねる。あたたかかった。
――張り詰めた糸が、切れた。
「……ふ、」
ひとりだった。ひとりになった。唯一の肉親であった父は死んでしまった。
でも、今は、ひとりじゃない。
ふぁ、とアイザの唇から嗚咽が零れて、瞳からとめどなく涙が溢れる。それはガルの手を、アイザの手を瞬く間に濡らしていった。嗚咽の合間に、とうさん、とうさん、と何度も繰り返し父を呼ぶ。
(なんで、死んでしまったの)
生きていてくれなければ、どうして森を焼き払ったのだと、どうしてそんなことしたんだと、詰ることもできない。真実を父の口から教えられることは、終ぞないのだ。
アイザの涙が止まると、ガルは指先でそのあとを拭ってから立ち上がった。
「ほら、立って」
ガルは笑ってアイザに手を差し出す。
「王都に、行くんだろ?」
言い聞かせるように笑うガルを見つめて、アイザは土の上でぐっと拳を握りしめた。
王都に。
「……うん」
涙も飲み込んで、アイザは力強く頷き、ガルの手を取った。
(わたしは、王都に行く)
ひとつ深呼吸すると、アイザは足に力を込めて立ち上がる。転んだときにわすがに擦り傷ができていたが、不思議と痛みはなかった。
「行こう、アイザ」
繋いだ手から伝わる熱が、ともすれば竦んでしまいそうになるアイザに力をわけてくれている。しっかりと頷いてアイザはその手を握り返した。
さわり、と頬を湿った冷たい風が撫でる。
「……なんだか、少し森の雰囲気が違う……?」
少し歩いたところで、アイザは周囲の木々を見ながら呟いた。青々とした木々は、先ほどまで見ていたものよりどこかよそよそしく、太陽の光さえ拒むように森の闇を深めていた。
「そういえば……さっきの奴が、道は繋げたからすぐ王都に着くみたいな、変なこと言っていたかも」
さっきの奴、というガルの言葉にアイザは苦笑しながら精霊のことを思い出した。
「……ということは、もしかしたら王都は近いのか」
「そうなのかな。でも、そんなことできんの?」
「精霊なら可能だろう……たぶん」
人を迷わせて森の外へ出さないのも精霊の仕業なら、その逆もまたできるはずだ。
「へぇ。あれ、精霊なんだ」
「……なんだと思ってたんだ」
人と同じ姿形をしていたが、漂う雰囲気は明らかに人ならざるものだった。そもそもヤムスの森に人間がいるはずもない。
「人じゃないのは、匂いでわかるけど……本当にここらへん、村のそばとは全然匂いが違うな」
ガルが不思議そうに周囲を見ながら呟き、ふとアイザの耳元で揺れる耳飾りを見る。
「アイザ。耳飾りの色が変わってないか?」
「え?」
魔法伯爵である父に贈られた、光水晶のピアスだ。ガルに言われてアイザはピアスを外して見てみる。もともとほとんど色を宿していなかったはずの光水晶は、青緑色の淡い光を放っていた。
(そういえば、あの精霊が「わけてやる」って……)
「あの精霊の魔力だ」
光水晶は魔法に反応して色を変える。時にはその内に魔力を貯めこむこともできるのだ。アイザの胸元の袋に仕舞い込んだこの耳飾りのもう一対も、父が宿した魔力のおかげで虹色に光っている。
「へぇ。不思議だなぁ、それ」
「滅多に採れない水晶だからな」
少なくとも、このルテティア王国ではもう採れないだろう。光水晶は魔力の満ちた土地に、精霊の多く住まう場所にできるものだ。普通の鉱石ではない。
アイザは再びピアスを左耳につける。慣れ親しんだ重みはないと少し落ち着かないくらいだった。
「あ、ガル。向こうが明るいぞ」
「ほんとだ。出口かな」
少し先で、立ち並ぶ木々が途絶えている。外の光が森の中に入り込んでいた。
手を繋いだまま自然と小走りになる。薄暗い森を抜けた瞬間、外の眩さに目を細めた。
「――アイザ・ルイスだな」
目が明るさに慣れたときに、アイザとガルの目に映ったのは馬上からこちらを見下ろす男の姿だった。アイザは唇を噛み締めて後退りする。そのアイザをかばうようにガルが一歩前に出た。知らない男だ、しかし藍色の騎士服には嫌でも見覚えがある。
「……国境騎士団……!」