第二章 折れない強さ(5)
夕食のあとガルが黙々と自習室で勉強をしていると、とんとん、と肩を指先で叩かれる。顔をあげると、そこにいたのはクリスだった。その後ろにはナシオンやニーリーまでいる。
まだちらほらと自習室で勉強している生徒がいるなかで、クリスは無言で「ついてこい」と促した。どう考えてもアイザのことだろう、と思う一方でどうしてアイザは会いに来てくれないのか、と気持ちが沈む。
談話室や食堂には他の生徒がいる。どこへ行くつもりだろうと先を歩くクリスについて行きながらガルはぼんやりと考えた。
「《夜のやさしき精霊に乞い希う。ここは狭き揺りかご、外へと漏れる音もなく、外へと届く声もない》」
廊下の端でクリスは立ち止まると、小さく呪文を紡いだ。一瞬だけキンっと耳鳴りがしたあとで、異変らしい異変は消える。
「これで会話が聞かれることもない」
「寮でそんなことしたら目立つんじゃねぇの?」
聞かれたくない話でもあるのだと言っているようなものではないか、とガルは眉を寄せる。しかしクリスはしれっとしていた。
「今なら試験のための練習だと思われて終わりだ」
むしろ他人にかまっている余裕がある生徒はいないだろう。マギヴィルの試験はそう容易いものではない。今日まで順調であってもそうでなくても、最終日である明日に向けて生徒たちは必死だった。
「――で? おまえいったい何やったんだ」
腕を組んだクリスは呆れたような怒ったようなそんな顔でガルを見てくる。壁に背を預けた彼の姿がガルやナシオンたちによって他から見えにくいとはいえ、純真可憐な『クリスティーナ嬢』らしくない態度だ。
「なんだってみんなして俺が何かやったって思うわけ……」
先ほどのヒューとケインといい、クリスといい。さすがのガルもここまでくるとどれほど信用されていないか身に沁みる。
「アイザの場合、自分が何かをやらかしたならあんなに悶々としない」
頭の中ではぐるぐると反省を繰り返すとしても、態度には出ないはずだ。そしてしばらくすると自分で勝手に解決してしまう。それができないから彼女は試験も手に着かないほどに混乱しているのだ。
ヒューやケインよりもしっかりとした根拠に、ガルはむっとする。まるで自分のほうがアイザのことをわかっているとでも言いたげだ。
「何もなかったとは言わないけど、何があったかは言わない。アイザが嫌がる」
きっぱりと言い切るガルに、クリスはため息を吐き出す。ガルのそんな態度すらお見通しだった、という雰囲気だ。
「それならそれで、試験の邪魔はするなよ。あいつ今日の試験、散々だったんだからな」
「そんなこと言われても……」
ガルが代われるものなら代わってやりたいが、そうもいかない。
「さっさと仲直りするなり試験が終わるまで顔を見せないなりしろってことだよ」
クリスがそう告げると、ぱちん、と小さな風船が割れるような音がする。魔法の効果がきれたようだ。
おやすみなさい、とクリスティーナ嬢の顔で微笑むとクリスはそのまま特に追撃することもなく去っていく。なんなんだ、とガルは憮然としながら再び勉強をする気分にもなれなくて寮の部屋へ戻ることにした。
「うーん。おねーさん的にはらぶなハプニングの気がするんだけどなー」
せっかく楽しそうなネタなのに、と深く問い詰めないクリスにぶーぶーと不満げにニーリーは文句を言った。
「普段の姉さんの予想はアテにならないけど、まぁそうなんだろうね」
誰がどう見ても痴話喧嘩の類である。もともと過保護すぎるガルにアイザが反発することはあったが、今回の態度はそういったものとも少し違った。
「ガルくんにはアイザちゃんの胸を見たか揉んだかの疑惑があるしねぇ」
「それ、まだ引きずってんのか」
呆れたようにクリスが振り返るとニーリーはにやりと笑った。以前にもやたらと食いついていたが、まだ忘れずにいるあたりでたいそうな物好きだ。
「もちろんですとも、気になるじゃない?」
「馬に蹴られて死ぬぞ」
「馬ごとき、ニーリーさんが返り討ちにしてくれるわ!」
姉さんなら出来そうだね、とナシオンが遠い目をしていた。
*
んん、と唸りながらアイザは目を覚ました。一晩ぐっすり眠った効果だろうか、眠る前よりも頭はすっきりしているような気がする。だがやはり思い出すだけで顔が熱くなるので平気というわけではなかった。
(あれは事故あれは事故あれは事故……!)
冷たい水で顔を洗いながらもそう言い聞かせて、アイザは深呼吸を繰り返した。
あれは事故だ。口と口が一瞬くっついただけの事故だ。だから意識しすぎるのはおかしいし、それを理由にガルを避けるのもおかしい。
頭ではわかっているのだが、簡単に割り切れないのも乙女心というものである。
まだ食堂へ向かうには早すぎるくらいの時間だ。けれどアイザは制服に着替えると部屋を出た。いつもはアイザにべったりと張り付いているルーも、空気を読んだのかアイザの気持ちを汲み取ったのか、すやすやと寝たふりをしている。耳がぴくぴくと動いているので起きているのは間違いない。
女子寮を出ればすぐに共有スペースだ。いつもの待ち合わせの場所でガルを待とうと緊張を息とともにそっと吐き出したところで、赤い髪を見つける。落ち着かせていたはずの心臓がどくんと鳴った。
「アイザ」
ガルもすぐアイザを見つけて、いつもより少し固い表情で見つめてくる。
「……えっと、お、おはよう。早いんだな」
目を合わせると意識してしまいそうで、けれど目をそらすのもおかしい気がしてアイザは目を泳がせた。
「アイザこそ」
「う、うん」
ぎこちない会話はなかなか続かず、沈黙が落ちる。普段なら気になるような沈黙でもないのに、妙に落ち着かなくてアイザは自分の腕をさすった。
「その、少し話がしたいんだけど……外の庭に出ないか?」
まだ周囲に生徒の姿はないが、いつ誰が来るかわからない場所ではゆっくりと話すこともできない。早朝の寮の庭にいる生徒はいないだろうとアイザが外を指差すと、ガルは素直にうん、と頷いた。
外の空気は少しひんやりとしている。湿った風は朝の気配を運んできて、少しだけアイザの心を落ち着かせた。
「えっと……昨日のこと、なんだけど」
「……うん」
ガルがやけに大人しくて、それがまた妙にそわそわとアイザを落ち着かなくさせる。足元がしっかりしていないような気がして、何度も靴の底を地面にこすりつけた。
(なんだか、こんなに動揺しているわたしのほうが馬鹿みたいじゃないか)
アイザは思い出すだけで恥ずかしいし居たたまれないし、顔が熱くなるのに、ガルはまったく取り乱していない。それが余計にもやもやと気分を憂鬱にさせる。
こんなに慌てふためいてしまったけれど、人にとっては人生の一大事――というほどのことでもなかったのかもしれない。
「その……あれは事故だし、お互い予測出来なかったことだし、どっちが悪いってことでもないし、その……忘れよう!」
一晩寝て、アイザが出した結論である。
あれは事故だ。ぎゃあぎゃあ騒ぐことじゃない。そう、犬に噛まれたというか舐められたいうか、そんな感じのことだ。お互いこんなことでぎくしゃくするのも不本意だし、忘れてしまえばいい。
「……忘れる?」
「うん、なかったことにしよう!」
いつもより早口で声が大きくなってしまうのは、まだ動揺しているからではないとアイザは自分に言い聞かせた。
「……なかったことに」
「う、うん」
妙に静かなガルが怖い。
ガルは目を伏せて足元の花をぼんやりと見ているようだった。
沈黙が身に染みるようで、アイザはわずかに肩を震わせる。
「……うん、まぁいいよ。俺も忘れるし、なかったことにしよう」
ようやくガルが口を開いて、アイザもほっと息を吐き出す。
「でも」
刹那。
金の目が射抜くようにアイザを見た。その瞬間に、アイザは力強く手を引かれる。自分より大きなその手のひらは熱を帯びていて、制服越しにも熱いと感じるほどだった。
金の目に捕えられたようにアイザは動けなくなって、気づけばその瞳が目の前にあった。ゆっくりと瞼を閉じる様を間近で見つめながら、唇に吐息を感じた。
昨日の朝に感じたような一瞬の触れ合いではない。はっきりと、唇に柔らかいそれが触れる。幻だと言い訳の効かない確かなそれが、キスだと認識するまでしばらくかかった。
「……これは、事故じゃないから」
驚きで見開かれたアイザの目に、獣のような金の目が映る。
捕食される寸前の獲物は、こんな風に捕らわれているのかもしれない。思考が止まって、ただただその金色に魅入っている。
するりと強く腕を掴んでいた手が離れて、アイザの腕がだらりと落ちる。ガルはそのまま何も言わずに寮へと入っていって、アイザだけがその場に一人残された。
かくん、と膝の力が抜けて座り込む。
じわりじわりと侵食してくる熱は、触れられていた腕と唇からアイザを包み込むように広がっていく。震える手で唇に触れるが、指先などでは先ほどの感触にはほど遠い。
「は……」
吐き出した息が虚しく早朝の空気へ溶けていく。
「はああああああ!?」
顔を林檎のように赤く染め上げたアイザは理解できない現状を叫ぶことでしか飲み込むことができなかった。
結果、アイザの四日目と五日目の試験は散々なものとなった。




