第二章 精霊と魔法使い(3)
『悪い奴らはとうさんの魔法でやっつければいいじゃないか!』
幼いアイザが誇らしげに言うと、父はいつも困ったような顔をしていた。
アイザ、それは駄目だ。魔法は人を、世界を傷つけるための術ではない。人を、世界を守る、愛するための力だ。
――だって、父さん。
そう言っていたじゃないか。
「……とう、さん、が……?」
アイザの震える声が、静かに森に響いた。突然暗い穴の中に、突き落とされたような感覚だった。
(だって、父さんは)
足が震えて、アイザは途端に立つことさえできなくなった。ふらついた彼女をガルが慌てて隣から支えてくる。
「アイザ」
大丈夫か? と心底心配そうなガルの様子に、アイザは泣きたくなった。
(なんで)
どうして、そんなに簡単に手を差し伸べてくるんだ、と詰りたくなる。
この森を、ヤムスの森を、ガルの故郷を。焼き払ったのはアイザの父だと――。
(わたしの父さんが、おまえからたくさんのものを奪ったのに)
精霊の言うことが真実だとすれば、アイザはガルに仇、と呼ばれてもおかしくないのだ。こんなふうにやさしくされていいはずがない。怒って詰って、おまえなど知らないと突き放されて当然の相手ではないか。それなのにどうして、ガルは変わらずアイザにやさしくできるのだろう。
「……十年以上前になるのか。リュース・ルイスは魔法の焔によってこの地を焼いたのは」
アイザやガルが、まだ赤ん坊の頃の話だ。当然ふたりにその当時の記憶にはない。ただ知識として、知っているだけだ。
「この森は、この国の精霊たちの最後の寄り辺だ。人と、魔法使いとの交流に疲れた精霊たちは森に逃れ、この森の民を祝福する代わりに守り人の役目を与えた」
それが、ヤムスの森の民。獣人の一族だった。
もとより獣人は森など自然の多い場所で暮らしていた。その結果、精霊との結びつきも強かったのだろう。
「それをよしとしない王国に、森は焼かれた。魔法使いによって放たれた焔は簡単には消えない。……七日は、燃え続けていたか」
そして、獣人の里の燃えた。
アイザの震えは止まらなかった。十三年前に起きた、ヤムスの森の山火事。それは、公には自然発生の不幸な災害と認識されているし、アイザ自身もそうだと思っていた。
けれど、それが故意に起こされたものなら。それを起こしたのが人間なら、魔法使いなら。
(父さんは、人殺しじゃないか……)
森の多くを、獣人の里を燃やし尽くした。どれだけの命を奪ったんだろう。炎に包まれた人たちのなかには、どんな人がいたんだろう。どんな家族がいたのだろう。想像するだけで眩暈がした。
信じていたものが足元から崩れ落ちていくようだった。アイザにとって父は、魔法使いリュース・ルイスは、世界の中心だった。あこがれであり目指すものだった。
「アイザ」
アイザの身体を支えるガルにも、この震えは伝わっているに違いない。やさしい声が、今のアイザには毒のように胸にしみた。
(くるしい)
「……やさしくするなよ」
ようやく音になった声は、行き場を失った子どものように頼りなく、ガルの耳でなければ届かなかったかもしれない。
「アイザ?」
拒んでもなお、ガルはアイザを気遣うように名前を呼んだ。それが、アイザには痛い。
(くるしい)
まるで無条件のように与えられるやさしさが、理由を持たないからこそ胸を刺す。
どん、とガルの胸を押して、アイザはそのぬくもりを遠ざけた。きょとんとしたガルの金の瞳を真正面にとらえて、アイザは顔を歪ませる。
「私には、おまえにやさしくされる資格なんて、ないじゃないか……!」
こんな真実を目の当たりにしてなお、ガルとともにいることなんて、出来るはずもない。
アイザがくしゃりと顔を歪ませ、泣きそうなまま表情のままで踵を返す。震える身体を叱りつけて、力いっぱいに地面を蹴った。
「アイザ!」
「追う必要はない。王都へ向かいたかったのだろう? 道は繋いだ。すぐ森を抜ける」
ひやりとした声が、アイザを追いかけようとしたガルを止める。道を繋いだ? ガルにはそれがどういうことなのかわからない。けれど目の前のこの存在には、それが可能なのだろう。ピリピリとした気配が、ただ者ではないということを教えていた。
「あんたのこととか、あんたの言うこととか、そんなことどうだっていいんだよ」
ガルは唸るように言葉を吐き出した。
さきほどまでの会話を、ガルだって聞いていなかったわけではない。驚かなかったわけではない。けれどそれ以上に、ガルにとっては今が大切だった。
「あんなアイザを、ほうっておけるか!」
吠えるガルの声に怯えるように、鳥がばたばたと飛び立った。
アイザにとっての家族は、父だけだった。
父の、魔法伯爵の娘であることは、アイザの誇りだった。それ以前に、アイザは不器用な父を心から愛していた。
それなのに。
それなのに。
疑問と罪悪感がぐるぐると頭のなかで渦巻いていて、吐き気がする。それでもアイザは逃げるように、走り続けることはやめなかった。ガルのやさしさから離れることが、今のアイザにとって最優先の問題だった。
(なん、で)
走る足が何かに絡め取られているようにうまく動かなかった。いつの間にか零れていた涙で視界は歪む。
(どう、して)
それは誰に対する疑問だったのだろう。父か。それともガルか。
わからない。わからないから、疑問は溢れるように何度も何度も、アイザの胸の中で繰り返された。どこまでも続いているような森の緑は、まるで巨大な迷路のように思える。
「アイザ!」
追いかけてくる声に、アイザはびくりと肩を震わせた。もつれた足が、木の根にひっかかってアイザは派手に転ぶ。
「アイザ! 大丈夫か!?」
アイザのごく平均的な脚力が、獣人の脚力に敵うわけもなく、転んだアイザのもとにガルはすぐ駆けつけてきた。乱れた呼吸を整えながら、アイザはまた、どうしてだと泣きたくなった。アイザを立たせようと腕を掴むガルの手を、力いっぱいに振り払う。ガルの金の目は驚いたように丸くなった。
「なんで追いかけてくるんだよ」
ガルの目を見ることができなくて、アイザは俯いたまま呪詛を吐くように呟いた。地面のうえで拳を作り、泥に汚れたその手を睨みつけた。
「なんでやさしくできるんだよ」
震える声で、それでもアイザは強く吐き出した。ガルは何も言わずに、ただじっとアイザを見下ろしていた。まるでアイザの言葉を受け止めようとしているようだった。
「わたしの父さんは、おまえの家族を殺したんだぞ!」
叫んだ拍子に、アイザの瞳から涙が落ちた。その一滴が地面を跳ねるのを、ガルは見逃さなかった。また振り払われるかもしれないと思いながらも、ガルはアイザの腕を掴む。振り払われても、ガルはまた手を伸ばす。何度でも何度でも。
目の前のこの少女が痛みに叫ぶたびに、何度でも繰り返し、この腕ですくいあげる。
「確かにそれは、アイザの親父さんのしたことかもしれないけど、でも――」
ぐ、とガルの手に力がこもる。手のひらから伝わる熱が、アイザの胸にしみた。
「でもそれは、アイザじゃないだろ!」
空気を引き裂くガルの声に弾かれるように、アイザは顔を上げる。金の目は、迷いなく真っ直ぐにアイザを見つめていた。