第二章 精霊と魔法使い(1)
その招かれざる客人は、ガルとアイザが村を発って十分もしないうちにやってきた。
立派な馬に跨った、藍色の隊服の青年が三人。なるほどガルが睨んだとおりだとイスラは片眉を上げる。
「朝早くに失礼する。人を、探しているのだが」
すぅっと朝の空に響く青年の声に、イスラは「まぁまぁ」と微笑んだ。
「こんな田舎へ、騎士団の方々がですか?」
青年は清廉とした佇まいで、これがアイザたちを追っている者でなければ好感を抱くことはできたかもしれない。
「十六歳の少女なんだが……見かけなかっただろうか」
「ここじゃあよそから人がやってくるなんて滅多にありませんよ。なんにもない村ですから」
イスラは笑顔を崩さないまま答えた。青年はそうですか、と困ったように呟く。いかにも国境騎士団のならず者だというような強面の男がふたり「他の村人も知らないみたいですよ」と報告にやってきた。
「もし見かけたときは、国境騎士団にご連絡ください。少女の名はアイザ・ルイス。……騎士団の保護対象になっております」
「まぁ。逃げ出したご令嬢か何かですかねぇ。ご苦労様です」
そんなところですよ、と青年は苦笑し、一礼する。
「かーさん! ガルはどこいったのー?」
「ガルはお使いだよ! ほら早く朝ごはん食べちまいな!」
家から起きてきた子どもたちが顔を出して、イスラに声をかける。イスラはすみませんねぇ、と笑って頭を下げた。
「お話はそれだけですかね? 戻っても?」
子どもらを見張っていないと朝ごはんもちゃんと食べないもんで、と困ったようにイスラが告げる。
「ええ。ありがとうございました」
青年が笑みを浮かべて礼を述べると、イスラはにこにこと笑顔で家へと戻った。
「ほら、こんなとこにきちゃいませんって。きっと街道を進んでますよ」
さっさと行きましょう、とやる気のない部下は急かしてくる。
「……いや、おそらく彼女はこの村に来ただろう」
「はぁ? だってさっき……」
見かけた村の人間にアイザ・ルイスについて聞いて回ったが、誰もが知らない、としか答えなかった。
「おまえたちは国境騎士団がどんな評判か知らないのか」
戦狂いのならず者、荒くれ者たちばかり――そんな噂が付きまとっている国境騎士団に対して好意的な人間は少ない。
「えー……あー……」
そのことにようやく思い至ったのか、部下も言葉を濁した。それに、と青年は一頭の馬を見る。
「あの馬、彼女が乗っていた馬に似ている。それにこの村の馬にとしては立派すぎるような気もするな」
街道から離れ、ほとんど自給自足で生活しているような村だ。馬を使うにしても農業の手伝いで、移動手段にするとは考えにくい。だがあの葦毛の馬はどうみても移動手段として育てられた馬だ。
「じゃあ嘘ついてるってことでしょ。吐かせます?」
ぽきりと指を鳴らしている部下に眉を顰めながら青年は自分の馬に乗った。
「そうやっておまえみたいな短絡的な馬鹿がいるから、国境騎士団の評判が地に落ちる」
「え? でもどうするんですか?」
「頭を使え。首から上についているのは飾りか」
馬はおそらく替えたのではない。ならば徒歩での移動か、街道を出て辻馬車を拾ったのか――だがそうだとすれば、さきほどの女性はもう少し時間稼ぎをしてもよいのではないだろうか。まるで早くここから去ってほしいといった雰囲気だった。
――村の近くには、禁忌のヤムスの森。
まさか、とは思う。だが妙な胸騒ぎがあった。
「……おまえたち、街道で目撃情報を集めろ。徒歩か辻馬車か、そのどちらかならまだマシだろう」
「マシ? それ以外があるんです?」
「あってほしくはないが。一度団長のもとへ報告へ戻る。間違ってもサボるなよ」
ヤムスの森は人を拒む。
ただのおとぎ話などではない。それは、厳然たる事実だ。
その日は無理のない程度に歩を進めたが、当然一日で王都に辿り着くはずもなく、結局一晩森のなかで夜を明かした。森は人を拒む――さすがのアイザも眠っている間に何かあったらと緊張したが、目覚めてみると拍子抜けするほどなんともなかった。
獣の心配をしたが、ガル曰くそれも問題ないのだという。森そのものだけでなく、この森で生きる動物たちもガルに危害は加えないらしい。
(まぁ、獣人だし、な……)
くぁ、とあくびをしながらアイザ眠っている間に凝った身体をほぐした。焚き火は既に消えてしまっていて、その向こう側ではガルが丸くなって眠っている。
(獣人っていうか、子犬みたいだ)
くすりと笑って、アイザは荷物からタオルを取り出す。すぐ近くの泉があったのでガルが起きる前に顔を洗って身支度を整えようと立ち上がる。ほんの少し歩いて、泉にたどり着く。大声を出せばガルにも聞こえるだろうというくらいの距離だ。
澄んだ泉に手を浸すと、ひんやりとした心地に目が覚める。
(昨日はずっと歩いていたんだよなぁ……)
当然汗もかいたし、身体はあちこち汚れている。綺麗な泉を前に、身体や髪を洗いたいという欲求が湧いてくるのは年頃の少女としては当然のことだろう。
(少しくらいなら、いいか)
ガルはまだ寝ている。それに彼なら起きてすぐにアイザを探すだろう。ガルがアイザを探す声が聞こえたら、そのときに来るなと言えば彼はきっと近づかない。
するりと服を脱いできちんと畳み、足からそっと泉に浸す。手を入れたときとは違ってその冷たさが身に染みるけれど、それと同時に心地よい。ほぅ、と息を吐きながらゆっくりと身を水中に沈める。手で水を掬って髪を洗った。左耳からぶら下がる光水晶に触れると、水晶は少し熱を帯びていた。
(あれ……?)
魔法は使っていない。光水晶が反応するはずがないのに。
<――ほら、光水晶が瞬いている>
<――魔法使い。歓迎されない魔法使いだ>
<――我らの愛し子が連れてきた>
反響するような声がアイザに襲いかかる。どうして――誰もいないのに。そう思う暇すら与えず、キィン、と耳鳴りのような高い音にアイザは眉を顰めた。
「な、に」
誰だ、とアイザが問う前に水中で足首を掴まれた。しっかりと水底に足がついていたはずなのに、突然底が消えたようにアイザの身体は沈む。
澄んだ水のなかは残酷なほどにうつくしい。朝の光が水面越しにきらきらと輝いていて、アイザはそこへ必死に手を伸ばした。
<――ああ、なんて忌まわしい魔法使い>
ゴポ、と口から空気が溢れていく。息ができない。おかしい、とアイザは遠くなる水面を見つめながら思った。
(こんなに、深くなかったはずなのに)
何が起きているのか把握できずにもがけばもがくほど、息は苦しくなる。
水面が揺らいだ。
青一色の世界に、鮮やかな赤と金が飛び込んでくる。その色を見つけた次の瞬間には、アイザは腕を引っ張り上げられ、水面に顔を出していた。
「大丈夫か、アイザ!」
ゴホゴホと咳き込むアイザを支えながら、ガルが心配そうに問いかけてくる。大丈夫だと身振りで答えて呼吸を整えた。
「だからあんまり離れるなって――……ごめん」
「え?」
真っ赤にして顔を背けるガルを見て、はたとアイザも自分の格好を見下ろした。水浴びしていたのだから、もちろん何も着ていない。
「なっ、ばっ、み、見た!?」
「あんま見てない」
ガルはアイザを見ないようにと顔を背けたまま、岸に向かいアイザの手を引く。泉から上がり、アイザはそそくさとタオルを身体に巻いた。泉に浸かって冷えたはずの身体が、恥ずかしくて真っ赤になる。
「俺、後ろ向いてるから。そのうちに着替えて」
「分かってる!」
手早く身体を拭きながら、アイザはもう一枚持ってきていた小さめのタオルをガルの背に投げた。
「ん?」
「おまえだって濡れたままだろ、早く拭けよ」
未だに恥ずかしさが胸のなかでもやもやと渦巻いているので、アイザの声は随分と素っ気ないものになってしまった。ガルはあはは、と笑う。
「ありがと」
(なんの躊躇いもなく、お礼も謝罪もするんだよなぁ……)
アイザは結局、助けてもらっておきながらお礼を言いそびれてしまっているのに。
もやもやとしたまま、アイザは手早く服を着て、待っていたガルの背中を叩く。
「早く戻ろう、ガルも着替えないと」
服のまま泉に飛び込んだガルの服は、全部びしょ濡れだ。タオルで拭いて乾くようなものじゃない。
「天気いいしほっとけば乾くんじゃない?」
「馬鹿、風邪ひく」
暢気なガルの手を引きながら、アイザは野宿していた場所まで急ぐ。
「俺、風邪なんてひいたことないよ」
それは正真正銘の馬鹿ということだろうか。そんな嫌味を言ったところでガルには効果がない気がした。効果がないどころか、あっさりと認めそうな気がする。
「……そういえばガル、声が聞こえなかったか?」
「声? 誰の?」
「子ども、みたいな……いや女? 男?」
高い声であった気もするし、低い声であった気もする。思い返すと性別さえ定められない不思議な声だった。
「大丈夫? アイザ、溺れて頭おかしくなった?」
ひらひらとガルがアイザの目の前で手を振った。その手をぺちん、と払い落としながらアイザは不機嫌そうにガルを睨む。
「おかしくなんかなってない。聞いてないのか?」
「俺は聞いてないよ」
「……そうか」
耳がいいガルも聞いていない声、となるとますます人間ではない気がする。そもそも人間ができる芸当ではなかったし、この森にアイザとガル以外の人がいるはずもない。ここはヤムスの森なのだから。
(……もしかして、精霊……とか?)
父の蔵書で読んだ覚えがある。豊かな土地には精霊が住む、と。しかしこのルテティアに精霊はもういないはずだ。機械と引き換えにルテティアは古から続いた祝福を捨てたのだから。
(けど、それならなぜ――?)
精霊と魔法使いは、ともにあったという。
ともにこのルテティアで滅びゆく者だ。なのにあの声は、深い憎悪を宿しアイザに敵意を向けていた。
――忌まわしい魔法使い、と。