第三章 国境騎士団(3)
遠く遠く、晴れた空に、懐かしい七色を見つけた。
「……虹……」
艶やかな赤い唇が、何かを乞うように呟いた。水底のように深く青い瞳は食い入るように、窓の向こうに見える虹を見つめている。
――ほら、ごらん。ウィア。世界が君を祝福しているよ――
白く細い指が、窓枠に触れる。
幻のように淡い七色の光は、瞬きする間にどんどんとかすれていった。
いつからそこにあったのか。いったい誰が。雨の気配もない、この乾いた空気の中、突如現れた虹はどう考えても自然発生のものではなかった。
人工的に、世界に影響を与える。それは、精霊の仕業でないのなら魔法使いでしかありえない業だ。このルテティア王国に、しかもその王都に、精霊などいるはずがないのだから。
「わたくしの、魔法使い」
熱に浮かされるような声が、ひとりの名前をいとおしげに呟いた。
*
無事に王都の門をくぐり、アイザとガルは王都の喧騒の中に身を隠した。国境騎士団の連中もなんなく門をくぐれるだろうが、このたくさんの人に溢れる土地でたったふたりの少年と少女をすぐに見つけることは容易ではない。ましてガルもアイザも、見た目はただの子どもだ。
その子どもたちは、市場の隅で目立たぬようこっそりと言い争っていた。
「ガルって馬鹿だろ」
呆れたようなアイザのセリフに、ガルはむすっと頬を膨らませた。がしがしと赤い髪を掻きながら「だってさ!」と声をあげる。
「王都に入るのがあんなにうまくいくなら、次もあっさり行くかなって思うじゃん!」
「城へ入るのがそんなに簡単なわけないじゃないか」
ついさきほど、王都に入ったばかりのガルは、そのままの勢いで城門もくぐろうと試みた。もちろんアイザは何度も止めたが、怖いもの知らずの少年は門番に堂々と「魔法伯爵の娘だぞ!」と話しかけてしまったのだ。そのときアイザは恥ずかしくて死にたいくらいだった。
「アイザがさっきみたいに魔法を使ってみせればいけたんじゃない?」
自分の非を認めたくないのか、ガルがまだ唇ととがらせて抗議する。その言葉にアイザはますます呆れた顔で「馬鹿」と繰り返した。
「こんな王都のど真ん中で魔法を使ったら、国境騎士団に見つけてくれって言っているようなものじゃないか!」
「……確かに!」
ハッと真顔になって頷くガルに、アイザはため息を吐きだした。
万が一、王城へ入るために魔法を使ってみせたところで、すぐに入城を許可させるかもわからない。そんな一か八かの賭けで身を危険に晒すのは愚策だろう。
「でもさ、王都のなかをうろちょろしていたら、そのうち国境騎士団に見つかるだろ?」
(まぁ、それはそうなんだけど――)
ガルの言いたいこともわかる。いくら人混みに紛れて身を隠したところで、多勢に無勢だ。そして何より、向こうもアイザが城へ向かおうとしていることを知っている。だとすればその周辺を探せばいいと――既に気づいているだろう。だとすれば王城の近くをうろついているのは危険だ。
「ともかく、宿屋を探したほうがいいだろうな……もう、今日のうちに城に入るなんて無理だろう」
自分の姿を見下ろしてアイザは溜息を吐き出した。とても入城し、女王陛下に拝謁できるような恰好ではない。村娘と変わらない簡素なワンピースは、森を駆け抜けて、転んだこともあって汚れている。
「あ、それなら――」
ガルが荷物をごそごそとあさって、一枚のメモを取り出した。誇らしげにそのメモをアイザに見せながら、ガルは続ける。
「イスラおばさんが、王都で従妹が宿屋やっているから何かあればそこを頼りなさいって」
メモのほかにも、手紙がついていた。アイザとガルのことを相手に説明するためのものだろう。
「いつの間に……」
「俺の身分証を荷物につっこんだのもおばさんだからなぁ」
さすがだよなぁ、とガルは笑う。メモには五番通りの踊る仔馬亭、と書いてある。五角形状の王都の中心に女王陛下の住まう城があり、五番通りとなると街を囲う堅牢な壁と城のちょうど中間ほどにある、市民が住まう区画だ。
「とりあえずさ、そこに行ってみようぜ」
「王都から戻ったら改めてお礼に行かないとなぁ」
ガルはともかく、アイザなんてほぼ見知らぬ他人だったのに、ここまでいろいろと世話になってしまうとは思ってもみなかった。五番通りを目指して歩き始めながら、ガルは当たり前のようにアイザの手を握る。
(だって、この人混みではぐれたりしたらたいへんだし――)
しっかりと握りしめられた手を意識し始めると、途端に身体が熱くなった。アイザの育った街にも同年代の男子はいたけれど、こうして手を繋ぐことなんてなかった。家のことをしなければなかったし、アイザは小さい頃から学校が終わればすぐに家に帰っていたのだ。おかげで友だちと呼べるような存在もほとんどいない。
(あれ? でも――)
王都にはたどり着いたのだ。ガルは、何もこれ以上アイザに付き合う必要なんてないのではないか。
ふとそのことに気がつくと、こうして手を繋いで歩いていることすら不自然に感じた。ガルはただ助けたアイザが王都へ行きたいと言ったから、そして国境騎士団の目を欺いて王都へ行く術をガルが持っていたから協力してくれたのであって、彼にはなんの益もないことなのだ。
「……ガル」
呼ぶ声は、とても小さく弱々しいものになった。
「なに? どうかした? もしかして腹減った?」
「いや、そういうわけじゃなくて……王都にはどうにか入れたわけだし、ガルは何も、これ以上わたしに付き合わなくても」
いいだろ、と続く声は、もはや人混みのなかで掻き消されてしまう。ガルはそんなアイザを見つめながらきょとん、とした顔で答えた。
「でも、まだあいつらアイザを狙ってるじゃん。ちゃんと城に入るまでは手伝うよ」
「そこまでする義理は……」
ないじゃないか、とアイザは声に出せずに唇を動かした。危険がともなうかもしれないことに、これ以上ガルを巻き込むわけにはいかないと理性は訴えてくる。けれどなぜか、アイザは繋いだ手を離せずにいた。
「アイザって、なんでも理由を知りたがるよな」
ガルが不思議そうに呟いて、振り返る。金の目に射抜かれて、アイザはどこか居心地悪くなりそわそわした。ガルの前から逃げ出したいような、そんな気分になる。なにひとつやましいことなどないのに。
「困っていたら助けたいとか、やさしくしたいとか、そういうのって、理由いる?」
ガルはアイザに問いながら、またゆっくりと歩き始めた。ガルに手を引かれるまま、アイザは俯いて答えを探した。目に映るのは自分の足や、行き交う人々の足元ばかりで、求める答えは落ちていない。
「それ、は」
(いる? いらない? でも、理由もなく人に親切にできる人間ばかりじゃ、ないじゃないか)
アイザは知っている。幼い頃から、父のもとを訪ねてきては自分に都合のいい夢物語のような魔法を求めてきた人たちのことを。
なかには、やさしく親切にしてくれた人が、狡猾な顔をしてこちらに要求してくる様を。
「んー……まぁ、もしあるとしたら、その人のことが好きだからって、それくらいじゃない?」
「すっ」
あまりにも自然に紡がれた言葉に、アイザは顔を真っ赤に染め上げた。跳ね上がった肩が繋がれた手をほどこうとしたが、ガルはその手をしっかり握って離さない。
(いや違う、別にわたしのことを話しているわけじゃ――)
「あ、ここだ。踊る仔馬亭」
街などでよく見かける、一階が食堂兼酒場となっている造りの宿屋だった。昼時を過ぎたあたりのこの時間は比較的空いている。
「こんにちはー」
ガルはなんてことない顔のまま、躊躇いなく店に入る。その様子にほっとしながらも、胸がさみしくて寒い。
「いらっしゃい、食事かい?」
現れた女性は、にこやかにふたりを迎えてくれた。笑顔がどことなくイスラに似ている。従妹の女性というのはこの人のことだろう。
「まぁ食事も欲しいけど、先にこれ。俺たち、ヤムスの森のそばの村から来たんだ。イスラおばさんに、何かあればここに行けって言われて」
「イスラに? ――ああ、もしかしてあんた、ガルかい?」
名前を言い当てられて、ガルは驚いて目を丸くする。
「そうだけど、会ったことあった?」
「あんたがまだ小さな頃には、あたしもまだあの村に住んでいたんだよ。すっかり大きくなったねぇ! ほら座んなさい。昼の残りでよければ何か出してあげるよ」
ほらほら、と椅子に座らせられる。ガルから手紙を受け取ると、女性はどかりとカウンターの向こうの椅子に座って読み始めた。垣間見れる厨房で、大柄な男性が調理している。
(……ほんとうに、どうして)
ガルの周りには、こんなにやさしい人たちで溢れているんだろう。
繋いだまま離すタイミングを失っていた手は、どちらからも解かれないまま。アイザはその手を一度、ぎゅっと握りしめた。
ほんの少しの間もおかず、大丈夫だよここにいるよ、とでも告げるようにガルはその手を握り返してくれた。




