序章 魔法伯爵の死
――ああ、わたくしのいとしい魔法使い。
邪魔なものはすべて焼き払い薙ぎ払って。濁流に飲み込ませてそのまま地の奥底へと沈めてしまって?
そうすれば、ほら、世界はわたくしとあなたのもの。
【魔法伯爵の娘】
魔法伯爵リュース・ルイスの訃報が、王国中を駆け巡った。
それはつまり、このルテティア王国最後の魔法使いの死を意味していた。
喪服に身を包みながら、アイザは父と過ごした小さな家の中でひとり呆けていた。手のうちには、父が遺した耳飾りがひとつ。まったく同じものが、アイザの左耳で揺れている。
父の死は、本当に突然だった。ここ数年病がちではあったものの、すぐ死に直結するような病状ではなかった。一週間ほど前から風邪をひいていたけれど、まさか朝目覚めて父の部屋を覗いてみたら、眠るように息をしていなかっただなんて――いったい誰が想像するだろう。
魔法伯爵という特別な爵位を与えられていた父は、立場の上ではこの小さな町の領主だったが、暮らしぶりは質素なものだった。使用人を雇うこともなかったので、家事はほとんどアイザがやっていた。
魔法伯爵は、一代限りの爵位。父が死んだ今、この町はもとの国境騎士団の領地へと戻る。
「ここはまた、あの奇人変人たちの領地になるんだねぇ」
「魔法伯爵様のときはよかったのに。国境騎士団がのさばるようになるかと思うとぞっとするね」
「伯爵様んとこのお嬢さんが継いでくれればいいんだけどねぇ……」
「なぁに言っているのさ。魔法伯爵っていうくらいなんだから、魔法使いじゃないとダメなんだろう?」
――魔法使いなんて、そんなもの伯爵様以外にお目にかかったことがないね。
葬儀の間のひそひそと町のおばさんたちが話す声は、しっかりとアイザの耳にも届いていた。そんな会話が聞こえるたびに、アイザは父の形見を握りしめて唇を噛みしめていた。
国境騎士団。
争いごとが大好きな戦狂いの連中だ。小競り合いの堪えない国境の砦を中心として、近くの村や町を取りまとめている。酒場で暴れただの、気に入らない奴を叩きのめしただの、騎士道精神はどこへ放り投げてきたのかという乱暴者だという。いつかあの騎士団は勝手に隣国へ戦争を仕掛けるんじゃないか、いやいや町で起きた小さな喧嘩を暴動にしてしまうんじゃないだろうか――そんなことばかり言われている。
十五年、魔法伯爵が領主を務めたこの町だけが平穏だった。その平穏に慣れた町人たちは国境騎士団を歓迎していない。
(――わたしが、魔法伯爵を継ぐことはできないんだろうか)
父は魔法使いだったけれど、アイザに魔法の使い方を教えてくれることはなかった。魔力の制御の方法だけを、幼い頃からアイザに叩き込んだ。
――いいか、アイザ。魔法を使ってはいけない。いいか、絶対だ。――
父は何度もアイザに言い聞かせていたけれど、アイザの好奇心はそんな程度では抑えることなどできるはずがない。父の目を盗んでは、こっそりと魔法書を読みふけった。しかし実際に魔法を使うまでには至っていない。
(けど、知識はある。なんとか女王陛下に拝謁して、せめてあと二年――十八歳の成人まで猶予をもらえれば、魔法伯爵に相応しい魔法使いになってみせる)
アイザは魔力だけは高かった。それは父も認めている。父の葬儀を終えてからというもの、アイザはそんなことばかりを考えていた。父が遺してくれたのは、家にあるものだけではない。この町もまた、父との思い出の残る大切な故郷だ。
アイザは、魔法伯爵の娘だ。それはアイザの揺るぎない誇りであった。
どんどん、とやや乱暴に玄関を叩く音が部屋に響いた。アイザは訝しげに眉を顰めて、そっと玄関へと近づく。
「……誰だ?」
町の人間だったらこんな乱暴な来訪ではないはずだ。数日前にアイザが父を亡くしたばかりだということを知っているのだから。礼儀知らずの来訪者はアイザの問いに答えることなく、もう一度どんどんと玄関を叩いた。
アイザはそっと玄関を少しだけ開けようとして――それよりも先に、来訪者は強引に玄関をこじ開けた。現れたのは藍色の騎士服を着ている男二人で、その服は国境騎士団のものだ。アイザは眉を顰め不機嫌を隠さずに声を張った。
「――なんのつもりだ!」
男たちは立ち並び、玄関を塞いでいる。その威圧感にアイザは思わず一歩後ずさった。
「アイザ・ルイスだな。時間がない、共に来てもらう」
強面の男がアイザを捕らえようと手を伸ばした。反射的に、アイザはその手を打ち払う。
「父の葬儀が終わったばかりで喪も明けていない、こんな狼藉が許されると思っているのか!」
だいたい、なんの権限を持って。さらに言い返そうとアイザが口を開くよりも早く、男はまた手を伸ばしてきた。さっと身を引いて、その手から逃れる。
「おい、時間がないぞ、早くしろ!」
もう一人は出入り口で逃げられないようにしているつもりなのだろう。狭い家の中、有利なのは慣れているアイザだ。
(なぜ――どうしてわたしを?)
突然の出来事にアイザの脳はついてきてくれない。混乱して、この短時間のうちには正しい答えを導き出せない。アイザを放っておいても、この町は国境騎士団の管理下に落ちる。
(けど、わたしは女王陛下に……)
そこまで考えて、糸と糸が繋がったような気がした。
国境騎士団は、アイザが女王陛下のもとへ向かうような事態を阻止したいのだ。なんの障害もなく、穏やかにこの町を手に入れるために。国境に近い町や村の中でも、この町はひときわ大きい。得られる利益もまたそれなりのものになるはずだ。
(そんなこと、させない――!)
こんなろくでもない連中に、大切な故郷をまかせられるわけがない。
「ちょこまかするな! こっちだって暇じゃないんだ!」
逃げ回るアイザに苛立ち始めた男が距離を詰めてきた。アイザはテーブルの上の花瓶を払い落として、窓のそばへと駆け寄る。すぐ近くの机の上に放り投げていた鞄を片手で引き寄せた。
緊張から、無意識に胸から下げている小袋に入った光水晶のピアスを握った。アイザの左耳にもついているその三角錐の光水晶が、淡く光を放った。
――いいか、アイザ。魔法を使ってはいけない。いいか、絶対だ。――
(でもそれじゃ、守りたいものも守れない――!)
魔法に必要なのは、集中力と想像力。言葉は力を持つ。だから、魔法使いは歌うように言葉を紡ぎ、魔法を使う。
魔法は、世界を愛する力だ。
「《落ちたる雫、霧となって。眠る芽、目覚めて捕えよ》」
どくん、と心臓が跳ねた。
アイザが愛を乞うように告げると、花瓶に入っていた水はたちまち霧となって家の中を包み込む。玄関先にいた男の足元からは緑色の蔓が生え、くるくると男の足にしっかりと絡みついた。
「うわっ」
「くそ、なんだ急に――」
アイザはその隙をついて窓を開け外へ飛び出す。外に繋いでいた馬に鞍をつける暇もなく飛び乗って駆けだした。慣れた愛馬は急なことにも驚かずに走り出してくれる。背後からは怒鳴り声なのか罵声なのかも分からない叫び声が聞こえたが、立ち止まるはずがない。あんな魔法は、所詮子供だましだ。すぐに追いかけてくるだろう。
(早く王都へ、女王陛下の膝元へ――!)
国境騎士団の影響下から逃れて、女王陛下に拝謁する。
とても希少な光水晶は、魔力に反応して輝く。この三角錐のピアスは、父が女王陛下から賜ったものであり、この世にふたつとない。紛れもない魔法伯爵の証である。アイザの身分を証明するには十分なものであるはずだ。
王都へ行き、女王陛下に会うことが出来れば。
アイザがしばらく馬を走らせていると、重い灰色の空からは、痛いくらいの大粒の雨が降り始める。
「――待て!」
虚をついた最初に随分引き離せたと思ったのに、追いつかれるのが早かった。追っ手は、先ほどの男たちとは違うようだ。声が若い。
(振り切れるか、どうか)
雨で冷えたのだろうか、ずっしりと身体が重い。気を抜けば馬から落ちてしまいそうだった。
王都に続く街道は一本。向こうもアイザが王都へ行こうとしていることなど分かっているのだろう。そうとなれば、一度逸れて騙すしか目は欺けない。雨にけぶる視野はお世辞にもいいとは言えない。今ならどうにか追っ手を振り切ることもできるだろう。
(もう、いちど)
「《雨よ歌え。すべてを洗い流し消し去るように降り注げ。迷い子を包みこんで導いて》」
紡がれる言葉は途切れ途切れ、どうにか音となった。
視界が歪み、意識が朦朧としてくる。追いかけてくる馬の足音が聞こえなくなり、アイザはゆるゆると愛馬の速度を緩めた。
街道から離れて、緑の木々が雨に濡れている。
ずるり、と落ちるように馬からおりて、木の幹に身体を預ける。身体が熱いのか寒いのか分からない。
「……とう、さん……」
呼んでも、もう父はいない。
雨か、涙か。透明な雫がアイザの頬を伝って流れ落ちる。
そのままアイザは、真っ暗な世界へと意識を落とした。