極意
ほんのりと温かい真気が、身体を駆け巡ってきた。
――温かい……ここはどこだろう……
そうか、あのとき、地割れに落ちたのだ。でも、飛刀を投げ、足掛かりを作くろうとしたはず……それも効かなかったのか……いや、底まで着いたのではなかったか?
蓮はふいに目を開けた。すると、こちらを上から覗き込んでいる目と合った。
そこにいたのは、白い髪、白い髭に覆われ、丸々とした大きな目だけが目立つ顔だった。
――誰?
蓮はそう言いたいが、声が出ないのだ。
「おお、目が開いたぞ。良かった、良かった。まさか、空から人が落ちてくるとは思ってもみなかったぞ……残念だが、もうひとりは、死におった。助かったのはお前だけだ。今は、ゆっくり、休め。良いな」
蓮はその声を聞きながら、再び、眠りに落ちていった。
どのくらい、眠ったのか分からない。蓮が再び目を開けると、また、丸々とした大きな目が覗き込んでいた。
「助けていただいたようですね。ありがとうございました。私は蓮と言います。貴方はどなたでしょうか?」
蓮はかすれた声だったけれど、何とか、礼を言えた。
「おお、今度は喋ったぞ。ハッハッハッ、もう大丈夫だろう。さっ、これを食べろ。何とか流し込め」
白髪、白髭の老人は、蓮を抱きかかえ、粥を口に流し込んだ。ある程度、流し込むと老人はひとりで話しはじめた。
「お前の打ち身や、傷は正一真教の秘薬を塗っておるから、数日もすれば完治するだろう。ところでな……わしの話を聞いてほしいのだ。この15年余り、誰とも話してないのでな。もう、口がもぞもぞしてな……良いな」
15年もここにいると聞いた蓮は愕然とした。ここから抜け出せないかもしれないのである。当然だろう。
老人はそんな蓮の様子も無視して、どんどん話しはじめた。
老人が言うには、人々から、童顔鬼と呼ばれ、恐れられているという。本名は、風清毅と言い、元々は正一真教、真人、風清之の弟弟子だった。それが、同じ宗門ではあるものの、支派、蘭鳳派の秘伝とされていた外功、孤影剣法の剣譜と内功、真骨筋大経の秘伝書を盗み見たことで破門となった。
だが、童顔鬼は孤影剣法と真骨筋大経を修得だけでは、満足はしなかった。孤影剣法と対をなす八陽九剣法を求めて、この地、雪山に来たらしい。
結果、八陽九剣法の剣譜を見付ける前に、この雪山の氷底に閉じ込められ、15年が経ったのだという。
童顔鬼が何故、孤影剣法と八陽九剣法の二つの剣法に執着したかというと、孤影剣法の剣譜を盗み見たとき、『この二つの剣法を修得せし者、至上の絶技、北聖真掌を得るだろう』と書かれてあったからであった。
絶技とは、武術の奥義のことである。武術の修練に励む者であれば、誰しも奥義に達したいと願うものである。
童顔鬼は、念願を果たせず、この15年もの間、話す相手もいない氷底で悶々としていたところに、自分が落ちて来たので、これ幸いと、話相手になってほしいと頼むである。
蓮は呆れながらも、この老人に好感を持った。何故か……
15年という自分の年齢にも等しい月日を、この氷底でひとり暮らしながらも、まったく、悲観していない。しかも、自分が落ちてきたことに浮き浮きとさえしているのである。滑稽でもあり、また、ある意味では達観しているとでも言うべきか。
「童顔鬼殿……と呼べば良いですか?」
「ん? 童顔鬼と呼び捨てれば良い。わしもお前のことを蓮と呼ぶからな。それに、そんな他人行儀な話し方は止めよ」
「そうか……ところで、童顔鬼。食事はどうしてるんだい?」
「ああ、ここはヤツらの食糧庫になっていたらしい。唸るほどの食べ物がある。それに、氷に囲まれているから、腐らんし、飲み物は地下水があるから、飲み食いには事欠かないぞ。ところで、蓮。お前の話をしてくれ。何故、ここに落ちたんだ? 話してくれ」
童顔鬼が15年分の会話を楽しむようにせがんだ。
蓮は、奴隷村で育ったこと、そこで、伯爺から、軽功、百変真功や、飛刀、飛龍の技を学んだこと、伯爺が亡くなってからは子浪、子蘭親子の家に預けられたこと等を話した。
また、総差配の息子、金旋との争いから、武器荷役の仕事に就き、その運搬の途中で、黒服の賊たちに襲われたことも話した。
童顔鬼は興味津々といった感じで聞き入っていた。
「それから、どうしたのだ。早く話せ」
蓮は、童顔鬼が急かすままに、続けて話した。
子浪、子蘭親子救出のために奴隷村に戻ったこと、そして、黒服の賊たちに奴隷村が襲われ、結果、秘密組織「陶氏」に連れ来られたこと、そこで、八陽九剣法の伝授を受けたことを話した。
「何と! 蓮、お前は八陽九剣法を修得したのか?」
童顔鬼の驚きの声に蓮は苦笑する。
――望んだわけではない。
蓮はそう言いたかったものの、対する童顔鬼は目を輝かせているのであった。
「蓮、続きを話せ。早く、早く」
蓮は話を続けた。武術に優れた者が選抜され、内功、真骨筋大経を修得するため、この雪山に向かったこと、そして、金旋派らの者たちに襲われ、この地割れに落ちたことを話したのだ。
童顔鬼はしばらく、考え込んでいた。そして、何か思い付いたように顔を上げると、ニコニコと笑顔を向けながら話した。
「良し、分かった、蓮。こうしよう。わしたちは、今日から義兄弟となるのだ。そしてだな……お前が、わしに、軽功、百変真功、飛刀の技、八陽九剣法を教える。わしはお前に、内功、真骨筋大経、孤影剣法を教える……ん? わしがひとつ少ないではないか! ん……」
童顔鬼は再び考え込んだ。そして、ニッと笑った。
「蓮、お前の姓名は何だ? 奴隷だからないよな……だから、わしの風の姓名をやろう。良し、これで対等だ。良いな、良いよな」
蓮は唖然とした。というより、笑うしかない。それにしても……と思う。何故、ここまで、武術に執着するのか……
「童顔鬼、分かった。それは良いとして、一つ聞いても良いか?」
「おう、なんだ、風弟。義兄弟となったからには童兄と呼ぶんだ。良いな」
――まったく、この老人には調子が狂らせられる。
「んじゃ、童兄。何故、それほど、武術にこだわるんだ?」
「そりゃ、当たり前だろ。良いか、風弟。生まれた環境はいかんともし難いことも多い。だが、武術だけは、修練すればするほど、変われるのだぞ。強くなれば、人に一目置かれるし、何より、自分を高めることができるのだ。こんな楽しいことはない。そうは思わないか? 風弟よ」
――確かにそうだ。
武術が自分を高めることになるのかどうかは別にして、確かに、どうしようもない環境に怒ったり、嘆いていても仕方ない。それよりも、自分を高めることをめざして、努力することが大切なのだ。その手段の一つが武術なのかもしれない。
風蓮はそう思うと、思わず、笑みがこぼれた。
「童兄、修練をはじめよう」
「おう、だが、風弟は本調子じゃないから少しずつな」
お互いに微笑みあった。
そして、ふたりは、修練しはじめた。だが、風蓮にとっては難しかった。八陽九剣法は型を重要視しているのに対して、孤影剣法はあるがままに、であった。あるがままに、自由に、自然と同化する。これほど、難しいものはない。
童顔鬼は言う。本来、剣の達人というものは、一太刀で決着させるものだと言うのである。技とか、型とか、達人になるための一通過点にしか過ぎないらしい。技、型の原理原則さえ、身に付けば、全て忘れてしまった方が良いとも言う。
「風弟よ。人が造り出したものは、自然の前では無力なのだ。雨のしずくの一滴も、一度、洪水となれば、街さえも無に帰すのだ。この大地から力を得て、風になるのだ。それが、孤影剣法の極意だ」
――あるがままに、自然にか……
その通りだと思った。今まで、蓮は人との関わりを避けながら、場合によっては、敵対してきた。だが、それは間違いだったのかもしれない。自分の周りの環境を受け入れ、調和していくことが大切だったかもしれない。
あの、荷役の取りまとめ役、向はそうしていたのだろうか……少なくとも、この童顔鬼は15年もの間、氷底に閉じ込められながらも、泰然としていのだ。孤影剣法はそれを教えてくれているのかもしれない。
風蓮は、内功、真骨筋大経、外功、孤影剣法の修練に努めながら、童顔鬼には、軽功、百変真功、飛刀の技、飛龍、飛燕、外功、八陽九剣法を教えた。邪魔するものは何もないので、風蓮と童顔鬼のふたりは、毎日、剣を交えながら、切磋琢磨したのである。来る日も、来る日も……
「良し、風弟。剣を自然体で構えよ。行くぞ!」
「おう!」
氷底に風が起こる。目まぐるしく動くふたりは、軽功、百変真功を駆使している。滑床歩である。地を滑るように動くのである。ふたりの剣は交わらない。相手の急所を狙うものの、それを体捌きで避けながら、刺突を繰り出すのだ。その繰り出す刺突は、神速の速さであった。
ふいに、風蓮が童顔鬼の横をすり抜けたと思うと、童顔鬼の脇腹付近が薄く切り裂かれた。
「それまで! 風弟よ、熟達したな」
童顔鬼がニッと笑った。
「それじゃ、お互いに目的を果たしたところで、ここから出るか?」
風蓮は驚いた。
「童兄、ここから出る方法を知っているのか?」
「いいや。だが、風弟。お前が落ちてきたところがあるだろ。落ちれるということは、逆に言えば登れるということに繋がると思うんだ。幸い、あの食糧庫には、食糧を梱包している木枠がある。それに、わしもお前も軽功、百変真功と、飛刀の技を修得しているからな。何とかなるだろ」
「なるほど。童兄、早速、やろう」
風蓮と童顔鬼のふたりは作業に取り掛かった。食糧を梱包している木枠を丁寧に外して、木皮を剥いて縄を作る。そして、木枠を固定している金具を加工して、くさび型の金具を作るのだ。
準備が整うと、まず、風蓮が頭上に向かって跳躍しながら、縄の付いたくさび型の金具を投じた。すると、氷の壁面に刺さるので、その縄をたどって童顔鬼が登り、足掛かりを作った。
それを、毎日、続けたふたりは、7日後に、ようやく頂上まで達することができた。地上に出たふたりは、お互いに顔を見た。
「風弟、お前はこれからどうするんだ?」
「俺は、燕刀派の仲間たちを探すよ。童兄はどうする?」
「わしはな。渤海王に会いに行く。昔、聞いたことがある。幽州、渤海に浮かぶ島に刀法の達人である渤海王、氾興という者がいるらしい。立合いして、わしの剣技を高めるのだ。そして、至上の絶技、北聖真掌を必ず、修得してみせる。風弟よ、機会があれば、また、会おう」
童顔鬼はそう言うと雪の中を走り去って行った。
――まったく、どこまでも、自由奔放な老人だな。
風蓮は、童顔鬼が走り去った後を微笑みながら見ていた。




