潜入
「蓮……蓮……風蓮……」
どこからか、自分を呼ぶ声が聞こえた。後ろか、そう思った風蓮は振り返って、思わず身構えた。そこには、金旋がいたのだ。
「風蓮……俺を殺してくれ……殺して……」
「金旋、今まで、何故、俺を付け狙っていたんだ? どうして、殺してくれと言うんだ?」
「俺は……子蘭が好きだったんだ。だから、お前さえいなければと思った。ただ、それだけだったんだ。風蓮……俺は、生きていないし、死んでもいない……亡者として永遠に彷徨うなんて嫌だ……だから、殺してくれ……」
風蓮は目を開け、飛び起きた。
朝日はまだ、昇りきってはいなかったが、部屋は薄ら、明るくなっていた。風蓮は、寝台から下り、窓辺に立った。
――あれは……夢だったのか……いや、違う。
金旋もまた、自分の業に巻き込まれたひとりなのかもしれない、そう思った。
「蓮……もう、起きたの? 早いのね」
同じ寝台で寝ていた子蘭が、半身を起して聞いた。
「子蘭、行くぞ。ともに巴蜀の地へ」
風蓮は振り返り、温かく、子蘭を見つめた。
風蓮と子蘭は無事婚礼も終わり、巴蜀の地へ、ともに出発することになっていた。張賀には見聞を広げるために巴蜀まで旅行をすると言っていた。
張賀は慌てて、上司である丙吉へ報告すると、豪奢な馬車が2両と警護の兵20人が与えられた。
陳万年は劉病己家の家宰として勤めていたので、侍中府まで出向き、金安上らと相談の上、行程やら、成都における州刺史側への挨拶等々、様々な行事を決めてきたのだった。
そして、準備万端を整えた一行は、巴蜀へと進んだ。途中、郡知事として勤める太守等の挨拶を受けながら進んだので、巴蜀の都、成都に着いたのは、既に3ヵ月程が過ぎていた。
成都では、州刺史の宴席に招かれる等、煩わしい日々が続き、辟易していた風蓮であった。しかも、子浪や李三らからの報告は、未だ、百蛇教の動きが掴めないということで、やるべきことがなく、ゆっくりとした時間を過ごすことになった。
紅鈴は超老師、向悠らと既に峨眉山に登っており、正一真教蘭鳳派、紅心らと守備体制を整えていた。
風蓮の背後を護るのは、紅鈴の代わりに紅青が付いていた。同じく、風蓮に付いている童顔鬼とは、馬が合うようだった。紅青は負い目があるためか、全てにおいて、控えめに対応するためと、風蓮の警護という意味では、童顔鬼が先輩であったためだった。
そして、この旅から、そこへ、子蘭と李玉が加わった。子蘭は、無茶ばかりする風蓮から目を離さないよう注意を配っていた。それを補佐しているのは李玉だ。まるで、保護者のようで、風蓮は少し、煩わしさを感じつつも、子蘭の思うとおりさせていた。
――それで、子蘭の気が済むなら、まぁ、良いか。
と思ったのだ。それに、子蘭が時折見せる微笑みには癒されるのだ。
その子蘭と李玉は、州刺史や大守らの夫人たちと会食中だった。
手持ち無沙汰な風蓮は、仕方ないので、童顔鬼と紅青とともに、昼餉をとっていた。
「紅青殿、百蛇教、教祖、伯麗は本当に、この巴蜀に入っているのか? 子浪らが、動向を掴めないというのはどうしてなのだろうか?」
紅青はしばらく、考え込んでいたが、決心したように話しはじめた。
「実は、峨眉山には地下空洞が多くあります。多分、そのどこかで、ときを待っているのだと思います」
「ときとは? 何を待っているんだ?」
「立夏の日……つまり、後7日後。陰の気が最も強い日です。「左滋の火石」から発する妖気が最も高まりますから、正一真教蘭鳳派の方々は強力な陣法を展開するはずです。ですが、それは、無防備になることを意味します。金旋にとっても、教祖様にとっても、その日しかないと思います」
風蓮はああ、そうかと、得心がいった。
立夏とは、二十四節季の第7の日である。昔から、その日は魑魅魍魎が騒ぎ出すと言われ、その邪気払いが行われてきた。
「紅青殿、その地下空洞への入口は知ってるのか?」
「一つだけなら知っています」
紅青が話すところでは、紅青が正一真教蘭鳳派と百蛇教との交流の証として、苗族の地へと派遣されたときに、地下空洞を抜けて、見送られたという。
何故、地下空洞を抜ける等と隠さなくてはならなかったかというと、正派とされる正一真教と、邪派とされる百蛇教との間に交流があることは、武林(武術界)では禁忌とされていたため、内密にされていたのであった。
「しかし、何故、百蛇教の者たちは詳しんだろう」
「それは、1年程前から、峨眉山、地下空洞の捜索部隊が出て、少しずつ調べていたのです」
ふと童顔鬼を見ると、ニッコリ微笑んでいた。
「わしも、いくつかの地下空洞を知っているぞ。何せ、わしが正一真教蘭鳳派に監禁されていたのは、地下空洞だったからな」
「良し、ならば早々にここを出て、峨眉山へと向かおう」
風蓮は警護の者に陳万年を呼ぶように伝えさせた。しばらくして、州刺史側の文官と打ち合わせを済ませた陳万年が現れた。風蓮は、紅青から聞いた話をして、早々に峨眉山へと向かいたい事を頼んだのだった。
「なるほど、そういうことだったんですね。それでは、風蓮殿、熊猫見物に行きますか? 実は、州刺史側の文官から見物を勧められていたところでした。熊猫は峨眉山近くに多く生息していると言いますからね」
「そうか……で、その熊猫というのは何なんだ?」
「猫みたいに大人しい熊って聞いてますけどね」
風蓮は陳万年のおどけた様子に釣られて、笑ってしまった。この男にもひょうきんな部分があるのだな、と思ったのだ。その囲碁の腕前の通り、着々と次の一手を打ってくる、頼りになる男なのだが、このように、おどけた様子ははじめて見た。
数日後、風蓮一行は峨眉山へと向かって進んだ。子浪らが先行し、李三らは風蓮一行と並行して進んでいた。
そして、後1日で峨眉山の麓へ着くというときに、知らせが入った。その知らせによると、峨眉山への登口全て、百蛇教の者たちが取り囲んでいるため登れないという。彼らが布陣している周りの草木は枯れ、近付くことができず、近隣の人々も困っているらしい。
風蓮は地下空洞から峨眉山へと登ることを即決した。紅青に通ったという地下空洞への案内を頼んだのだ。
その地下空洞への入口は麓にある廟の奥だという。そこは、登口はないため、百蛇教の者たちもいないと思われるが、念のために、子浪隊が先行して周りを警護していた。
廟に近付くと、子浪が近寄ってきた。
「風蓮、どこにも入口らしいものはないのだがな。本当にここなのか?」
そこにいた皆は、自然と紅青をみた。
その紅青は子蘭を見ていた。子蘭、李玉、紅青の3人はこの旅を契機に、義姉妹の契りを結んでいたのだ。紅青はその一番下の義妹となるという。その紅青は常に、子蘭を気遣い、子蘭も紅青を温かく見守っていた。
そして、地下空洞や、その新入方法等について3人で研鑽していたのだった。
「紅妹の話だと、隠し通路になっているらしいわ。紅妹、皆を案内してね」
子蘭の指示に従い、紅青は案内した。そこは、廟の最奥の部屋だった。そして、一点を指さしのだ。
「あそこに、四角形の穴がありますね。その周りの石には、苔で見にくいのですが、良く見ると模様が刻まれています。動かしにくいですが、上下左右に動きます。それを動かして、特定の模様にしたとき、ここの入口が開くのです」
子蘭が話を引き継いで話しはじめた。
「陳万年殿、どの模様にしたら開くのかやってみてください。他の人たちは、陳万年殿が答えを見付けるまで一休みとしましょう」
「ちょっと、待ってください。子蘭様、紅青殿は答えを知らないのですか?」
「ここから出る方法しか知らないそうです。だって、入る必要性がなかったから聞いてないらしいの。陳万年殿、頭を働かせるのは貴方の十八番でしょう。宜しくね」
陳万年は憮然として、何か抗議をしたい雰囲気を漂わせていた。
「陳万年、良く見てみろ。これは、囲碁の棋譜に似てないか? ほら、良く見てみろ」
風蓮が抗議しそうな陳万年を見ながら促した。陳万年はしばらく、眺めていたが、何かを思い付いたように、風蓮を見た。
「これは、正しく、囲碁の棋譜ですね。ですが、何の棋譜なのかは分かりません」
「そうだな。だが、この棋譜を動かし、別の棋譜を作ると、扉が開くのではないか?」
「なるほど、そうですね。考えてみましょう」
風蓮は陳万年の肩を叩きながら、頼んだぞと言って、全員に小休止を命じた。
頼まれた陳万年はというと、一点を見つめていたかと思うと、静かに、何かを思い出すように目を閉じた。そして、一刻程ときが経ったとき、その顔に微笑みを浮かべていた。
「答えが見つかったようだな」
風蓮も微笑みながら聞いた。そして、無言で頷いた陳万年は、四角形の穴の周りにある石板を動かしはじめた。下に、右に、左に動かし、はじめの棋譜とは異なる棋譜へと揃えた。と、ガタンと音がした。
「これで開いたはずです」
陳万年はそう言いながら、壁を押した。すると、壁がくるりと回り、通路が現れたのだ。
「陳万年、答えは何だったんだ」
「神話でした。聖王と言われる三皇五帝のうち、堯帝が記したという棋譜を見たことがありました。それを思い出したのです。壁面にあった棋譜から変化できるのは、その堯帝が記したという棋譜だと気付いたのです」
微笑みながら、頷いた風蓮は鼓舞するように声を上げた。
「さぁ、皆、行くぞ!」
風蓮を先頭にして一行は、壁面の通路から地下空洞の中へと侵入していった。
中は、一本道が続いており、松明を掲げながら粛々と進んだのであった。すると、しばらく進んだとき、両脇に像が並んでいる一角へと出た。
「ここから先は、正一真教の歩法で進まなければならないみたいよ。軽功、逍遥遊の鶏行歩という歩法よ」
子蘭は鶏行歩を演じて見せた。鶏が歩く姿に似た歩法だった。子蘭と李玉は事前に紅青と共に研鑽し、軽功、逍遥遊を修得していた。この3人で手分けして、皆に伝授するためだった。
「分かった。しかし、子蘭、この歩法は足がつりそうなのだが、どのくらいこの歩法で行かなければならないんだ?」
「風蓮、これから先は、半分以上を鶏行歩で行くことになるらしいわ。つまり、鶏行歩で歩むことで、床の仕掛けを避けることができるらしいの。多少は間違っても良いけれど、床の黒石だけは踏まないように注意してね。もし、黒石を踏めば、通路の仕掛けが作動し、命を落とすことになるの」
子蘭の説明に、そこにいた一行は一様に頭を抱えた。風蓮は足がつりそうな歩法と軽く表現したのだが、その歩法は複雑怪奇であった。また、その全てが中腰での動きであったため、かなりの体力が必要だった。
風蓮は、顔面蒼白となっている陳万年を見た。
「陳万年、残るか?」
「いいえ、私も「陶氏」の幹部のひとりです。行かなければなりません」
「陶氏」の者は、全て、あの訓練所の厳しい鍛錬に耐えてきた者たちである。その中で、陳万年のみは、その経緯を辿っていないのだ。臆することがないように、風蓮は、飛刀や軽功等の技を教えてはいたものの、やはり、修羅場を生き抜いてきた者たちとは違った。それは、陳万年本人が一番分かっているのだろう。周囲の視線をどうしても気にしてしまうのだった。
「分かった。陳万年は、俺の前を行け。良いな」
陳万年を何かあれば、助けられる位置に置いて、一行は鶏行歩で進んだ。が、この鶏行歩は体力を著しく消耗させるのだ。休み休み進むしかなかった。
そして、誰もがかなり進んだと思っていたとき、全面に崖が見えてきたのだ。そこには、狭い道幅の石橋のようなモノがかかっていた。とても、鶏行歩で進むには、道幅が足りそうになかった。
「ここからは、軽功、逍遥遊、遊逍歩で進まなければならないの。また、私と李妹、紅妹の3人で手分けして指導するから、皆、覚えてね」
子蘭は型を演じた。それは、軽功、百変真功、滑床歩に似ているものの、掴みどころのない、まるで、幽霊のような歩みだった。
「皆が一通り、できるようになったら、進むけど、ひとつだけ、注意があるの。それは、私の足跡の通り、歩んでほしいということなの。もし、私の足跡以外のところに足を置いたならば、そこは崩れ、転落してしまうことになるらしいわ」
風蓮は子蘭の説明に疑問を持った。
――何故、ここまで、厳重な警戒が必要なのか?
ということである。確かに、正一真教にとっては、秘密にしている通路なのだろう。だが、それにしても、厳重過ぎるのではないか、と思ったのだ。
子蘭は、風蓮のその疑問を察知したようだった。
「この秘密通路は、実は、妖仙、佐滋を封印している楼に通じているらしいわ。だから、ここまで、警戒しているの」
子蘭は、風蓮が得心したようだったので、遊逍歩を指導していった。そして、ほぼ全員が会得できたと確認すると、先頭を進んだ。
子蘭に続いて、李三隊が進んだ。その後を、陳万年、風蓮、童顔鬼、子浪隊と続く予定だった。
ところが、後一歩程で橋を渡りきるところまで進んだとき、陳万年の身体がふら付いたのである。風蓮は支えようとしたのだが、陳万年がいたところの石橋が崩れた。
風蓮は、とっさに、陳万年を突き飛ばしたのであるが、その変わり、自身が石橋から落ちたのであった。
「風蓮殿!」
振り返った陳万年の叫び声は、空しくこだましたのだった。




