真実
花街でも最も大きな高級飯店「江昌楼」の前の通りは、日が暮れはじめると、大変な人通りとなる。それぞれの人々が馴染みの店へとやって来るのであった。
その「江昌楼」の広めの一室に風蓮たちはいた。
あのとき、陳万年から書状を受け取った杜延年は素早く動いた。大司馬大将軍である霍光に直訴して、燕王をはじめとする連判状に名を連ねる上官桀、桑広洋らを含む10人の捕縛を断行したのであった。結果的に、1ヵ月も経たないうちに、燕王ら一連の者は、死罪となったのであった。
そして、燕王の陰謀の件が一段落した今、風蓮たちは、今後の方針を話し合う必要があった。また、紅青も万全とはいかないが、回復してきたので、協力を求め、ここに出席していた。
陳万年が燕王一党の顛末を話して、会議ははじまった。続いて、陳万年は、百蛇教への対応をどうするかについて議論を展開した。このまま、中原から退いてもらえば問題はないのだが、そこら辺りを、紅青に問い正した。
陳万年の問いに紅青は話しはじめた。
まず、百蛇教が自教の禁忌を破ってまで、燕王の要請に応えて、中原まで出て来たのは、教祖の個人的な理由からであるという。だから、燕王一党がいなくなったとしても、この中原からは退かないだろうというのである。
では、その教祖の個人的な理由とは何か? という陳万年の問いに、紅青は続けて話した。
「それは、「陶氏」という組織の伯毅という男を殺害することです」
紅青の言葉に驚いたのは風蓮だった。
「何故、伯爺を殺害する必要があるんだ? 伯爺は身に覚えがあるのか?」
風蓮の問いに、伯毅は暗く沈んでいた。
紅青は話を続けた。かつて、伯毅には伯麗という娘がいた。当時、伯麗は7歳だったのだが、母は既に亡く、父とふたりで生活していたという。それが、突然、父である伯毅は娘、伯麗を百蛇教へ預けた。そして、別に男の子の赤子を預かり、育てたという。預けられた伯麗は自分を捨てた父、伯毅を恨み、また、伯毅が育てた男の子の赤子をも恨んだというのだ。だから、今や、教祖となった伯麗は、父である伯毅とその赤子に復讐しようとして、禁忌を破って、中原に出て来たというのであった。
――その赤子とは俺のことではないか!
風蓮は愕然し、また、混乱もした。一体、伯毅はどういうつもりだったのだろう。何故、我が子を捨ててまで、自分を育てたのか、風蓮は何を考えれば良いのか分からなかった。
「そうか……あの子はそれ程、憎んでいるのか……陳万年、この会議、一時中断とせよ。わしは、風蓮にある人物を会わせなければならん。それから、再び、議論としよう……黄瑛、風蓮をあの方の部屋に案内してくれ」
伯毅の言葉に、黄瑛が立ち風蓮を案内した。
風蓮は前を歩く黄瑛に聞いた。
「俺は誰に会うんですか?」
「丙吉という高官のひとりです。さぁ、この部屋です。ここからはおひとりでお入りください」
黄瑛は慈愛に満ちた目を風蓮に向けて、入室を促した。風蓮は静かに扉を開け、中に入った。
そこには、髭を蓄え、いかにも、高官という姿をした男が座っていた。風蓮を見ると、席を立ち、挨拶した。
「私は、丙吉と申します。以後、お見知りおきください」
丙吉という高官は平民である自分に低姿勢だった。何故か? と疑問に思うのは当然だろう。
「丙吉殿、何故、私ごとき平民に丁寧な挨拶をなさるのですか?」
その問いに対して、丙吉は、遠い過去を思い返すように話しはじめた。
「一つ昔話をしましょう……先帝、武帝の嫡子、房太子様が佞臣、江充という者の罠に嵌まり、房太子様の一族は処刑されました。そのとき、お生まれになったばかりの赤子、つまり、房太子様の嫡孫にあたる劉病己様を殺すことに、憐みを感じた男が、密かにお助けしました。その男は、義兄の伯毅にそのお子様を託したのです。そして、自分の配下であった許広漢という男に、そのお子様を見守るよう密命を下しました」
しばらく、静けさが漂う。
風蓮の混乱は絶頂に達していた。
――俺が王族? それを護るために、伯毅は我が子を捨てた?
王族ということは一先ず置いても、少なくとも、伯毅の子である伯麗には、つまり、百蛇教の教祖に対しては、自分は相応の責任はある。そう思った。
そして、ここにいる丙吉という高官は、自分に何を望むのか? ということが気になった。
「その王族の赤子を助けたという男が、貴方なのですね」
「そうです。昨日、伯兄から連絡がありまして、そのお子様が成長して、今、この大都にいると伺いましたので、まずはご挨拶にと参った次第です」
「このことを知っているのは他にいるのですか? そして、貴方は、その市井にいる王族の子に何を望むのですか?」
丙吉はしばらく、考えていたが、意を決したように話しはじめた。
「この漢帝国は、帝が病篤き今、後継者問題が起きております。そうした中、先の房太子陰謀事件は冤罪と判明しておりますから、嫡流の貴方様が次の皇帝に最も近い血筋となります。そして、伯兄は、今の世を治められる王族は貴方様しかいないと言いました。私は大司馬大将軍である霍光様に劉病己様が存命であることを相談しまして、貴方様の処遇を決めさせていただきました。その結果、許広漢の息女、許平君をご内室として迎えること、高官のひとりである張賀殿が預かるということになりました。ご承引いただきましたら、明日早朝にでも、張賀殿に迎えに来させます」
丙吉はそこまで一気に話して、風蓮を見た。
風蓮は反射的に、両手で卓を叩いて立ち上がった。
「今更、何だ!」
風蓮は怒りを卓にぶつけたのだ。ぶつけられた卓は風蓮の真気により、三つ折りとなって崩れ折れた。
それを見た丙吉は眉一つ動かさず、頭を下げた。
「どうも、お気に召さないご様子ですので、本日のところは、失礼させていただきます。ただ、これだけは言わせてください。伯兄の話すところでは、貴方様は幼少の頃、その身を隠すため、奴隷村で生活なされていたと聞き及んでおります。ですが、今の世、そんな奴隷村等、数多く存在します。また、この大都には明日の飲食もままならぬ貧民街というものも存在します。片や、高官たちは、私利私欲に走り、自分の一族の繁栄だけを画策する者が多くおります。それらを糺せるのは、市井で暮らした貴方様しかいないと、私は思います。どうか、熟考いただきますようお願い申し上げます」
丙吉はそれだけを言うと、退室して行った。
風蓮は、衝撃の真実に呆然とした。
――俺はどうすれば良いのだ。
冤罪ということは、よく調べもせずに、祖父母、両親を処刑したということである。そして、今、都合が悪いから、また、王族として迎えるというのだ。風蓮は、朝廷の身勝手さに怒りを抑えきれない。
それを今、言っても仕方ないことだということは、頭では分かる。また、助けてくれた丙吉にも感謝こそすべきであり、怒りをぶつける相手ではない、ということも頭では分かる。しかし、感情が許さないのだ。
――冷静になるのだ。冷静に……
風蓮は、その怒りを一時置こうと考えた。冷静になるのだと、自分に言い聞かせた。そうすることで、見えてきたことがあった。
それは、伯毅が我が子を捨てざるを得なかっことも、そして、子蘭が幼少時を奴隷村で生活せざるを得なかったことも、つまりは自分の責ではないか、ということだった。いや、言い替えるならば、自分の業ともいうべきだろうか。
風蓮は怒りと悲しみがないまぜとなり、何をどうすれば良いのか分からなくなった。そして、風蓮はその場に泣き崩れた。
――何ということだ……すべては自分の業のために、愛する人々に悲しみを強いてきたのだ……
風蓮がひとしきり泣いて、少し、落ち着いたとき、その背に手が当たった。温かい手だった。振り返ると、そこには伯毅がいた。
「何を泣いているのだ、蓮よ。自分の業というものを嘆いてか? それとも、その業に巻き込んだ人々に申し訳ないと思うてか? だがな……泣いていては済むまい。自分の業にも、巻き込んだ人々にもな。自分の業に潰されて良いのか、蓮よ。あるがままに受け入れよ。そして、巻き込んだ人々を含めた、この世全ての人々のために、光を照らすのだ。お前は何のために、武を学んだのだ。まだ、孤影剣法の極意を悟っていないのではないか? 少し、考えてみよ。そして、極意を悟ったと思ったら、部屋に戻れ。皆、お前が戻るのを待っておるのだ。良いな」
伯毅は風蓮の肩をポンポンと数回軽く叩いて、松葉杖をつきながら退室したのだ。
風蓮は目を閉じ、八陽九剣法の基本立ちをして剣気を体内に集め、真骨筋大経の基本の呼吸法に従って、ゆっくりと、剣気を左右の掌へと導いた。そして、鋭い気合いとともに、左右の手から一気に剣気を発した風蓮は、ふうと大きく息を吸い込んだ。
――そうだった。あるがままに、自然に……そうだったよね、童兄。
風蓮は童顔鬼との1年余りの氷底での生活を思い出していた。あのとき、童顔鬼は、あるがままに受け入れて、泰然としていたではないか。
風蓮は、会議をしていた部屋に戻った。待っていた皆は少し暗い顔をしていた。実は後で聞くと、丙吉と話していた部屋には隠し部屋があって、皆はそこで、話の一部始終を聞いていたということだった。そして、風蓮を心配しながら、待っていたということだった。
「皆、少し待たせてしまったようです。陳万年、議事を進めてくれ」
いつもと変わらない風蓮の様子に少し、安心したように陳万年は議事を進めた。
百蛇教への対策をどうするのか、というのが次に提示された議題である。
だが、誰も声を発しない。そうだろう、少し複雑な人間関係も絡んでいるから仕方ない。
「俺は……その教祖、伯麗に会う必要があると考えている。紅青殿、どうかな?」
風蓮は伯麗にまず会ってみようと思ったのだ。少なくとも、会って詫びる必要性を感じていた。
「今頃、教祖様は、巴蜀の地に入っているはずです。そして、金旋なる者も巴蜀をめざしていると思われます。狙いは、正一真教が護っている「左慈の火石」。これを手に入れ、新たな力を得ようとしているのです」
「姉様! 何ということをするんです!」
紅青の話に、紅鈴は今にも飛びかからんばかりに声を荒げた。動こうとする紅鈴を風蓮は肩を抑えて止めた。
「方針は決まったようだ。我が「陶氏」は、全力をもって正一真教を護る。そして、俺自身は伯麗と、金旋と向き合おうと思う。黄瑛殿、采配をお願いします」
黄瑛は微笑みを絶やさず、静かに声を発した。
「はい。首領の方針に従い、まず、超老師、向悠様が手勢を率い先発してください。そして、20日程遅れてから、子浪様、李三様らとともに首領、風蓮様が出発することとします。皆様宜しいですね」
「黄瑛殿、何故、俺たちは20日も遅れて、出発しなければならないんですか?」
風蓮の質問に黄瑛は恨めし気に睨んだ。
「風蓮様、許平君様は、ここ数日、王族のご内室様として、恥ずかしくないよう、修行中なのです。それを、無にするおつもりですか?」
風蓮は絶句した。自分が王族で、そのために愛する人々を犠牲にしてきたことに気を取られていたが、確かに、あの高官、丙吉は許広漢の娘を内室として迎えると言っていた。
――忘れていた……
のであった。
翌朝、風蓮は張賀からの迎える馬車に乗り、張賀邸へと向かった。そこでは、張賀という貴族が門前で待っていた。馬車から下りた風蓮は、挨拶を受け、奥にある離れに案内された。
「病己様、この離れは貴方様のために、準備させていただきました。ここで、許広漢殿のご息女を内室に迎え、生活いただくことになります。我ら一族、病己様にご不自由をかけないよう尽力させていただきます」
張賀が挨拶した。いかにも実直だけが取り柄で、ただ、家柄だけで役に就いていると言わんばかりの男だった。将軍、張安世の実兄であり、丙吉から指名され、この任にあたっているという。
この離れには、広間、寝室等を含めて5室程の部屋があるらしい。その一切を取り仕切る女官がこちらです、と言って紹介を受けた者を見て驚いた。それは、李玉だった。
「来週末、ここで挙式を行います。それまで、ごゆるりと寛いでください」
張賀はそう言って去って行った。
「李玉、子蘭はどうしてる?」
風蓮は子蘭がどう思っているのか気になった。元々、家族に等しかった子蘭を妻とすることに当惑していたのだ。
それまで貞淑にひざまづいていた李玉は、何気なく聞いた風蓮を見上げながら、立ち上がった。そして、腰に手をあてた。
「風蓮、黄瑛様から私がなんと言われたか分かるかしら?」
「さぁ、分からないよ」
少し怒っているように感じた風蓮は、たじろいだ。
「風蓮は子蘭のことを全然分かっていないって言ってたわ。だから、私が貴方の監視役として、先に来たわけよ。風蓮、子蘭のこと本当に分かってないの?」
「何をだろう……子蘭は幼馴染で、自分にとっては家族だと思っているんだけど、子蘭は違うのか?」
やはり、李玉は怒っていた。
「あのね、風蓮。「陶氏」の訓練場に連れてこられたとき、共に生きようと言わなかった? 子蘭も蓮と共に生きるって約束したはずよ。そのときから、子蘭は……なのに、貴方はそんなことも分からないの?」
風蓮はそんなことを言った覚えがなかった。
――そう言えば、少し意味が違うが、ともに訓練に生き延びるということは言ったかも……ここは合わせておくに限るか。
「そのことは覚えているさ。そうか、子蘭もあのときのことを覚えていたのか」
風蓮はそう言いながら、少し照れた様子を見せた。
「まぁ、いいでしょう。これから、婚礼の次第から衣装合わせまで徹底して叩きこむから覚悟しておいてね」
風蓮は思わず天を仰いだ。




