家族
紀元前206年、高祖、劉邦が漢王朝を樹立し、中原全土を統一した。それから百数十年を経て、第8代皇帝、昭帝の御世となっていた。
このときの漢王朝は、先帝、武帝が外征を推し進め、かつてない領土を誇っていた。しかし、その反面、外征が度重なったことによって、財政は逼迫し、内政は疲弊の様相を呈していた。
そうした中、8歳で擁立された幼帝が政を引き継いだのだった。政務は幼帝を託された後見役たちがその勤めを果たすことになる。ところが、その後見役たちは、自身がより優位に立つべく、反目し合い、ついには、お互いの政敵を倒すことに力を注ぐようになった。
それに連動して、それぞれの後見役に組する高官たちも、派閥争いに躍起になっていたのであった。そのため、政は省みられることなく、悪化の一途をたどっていった。
ここ、江南地方も例外ではない。その証であるかのように、奴隷たちが集められ、売られていった。南東部に位置する江南地方は、海に面しているため、昔から交易の中心地であった。奴隷たちはその商品というわけである。
彼らは元から奴隷だったわけではない。山賊や海賊らが村を襲い、そこの村人たちを捕え、奴隷として売るのである。毎日を慎ましく暮らしていた村人たちは山賊や海賊らによって、自由を奪われ、人の所有物と化してしまうのだ。
奴隷を買う者は、貴族や裕福な商人たちである。その中には、奴隷村を形成し、自分の生産活動に充てたりもした。
この奴隷村もその一つである。
ここは鉄製の武器を生産するための村であった。村というには少し規模が大きく、300人程の老若男女が暮らしていた。
そして、この奴隷村に蓮と呼ばれている13歳の少年がいた。蓮は、幼い頃は、この奴隷村の長老的な存在であった伯爺に育てられていた。伯爺は、蓮を我が子のように暖かく見守り、育ててくれたのだった。その伯爺も寄る年並に勝てず、昨年、ついに病死してしまった。それからの蓮は、他家に預けられた。
子浪という鍛冶場の親方の家である。その家には同じ年の子蘭という少女がいた。蓮にとって、この親子は、この村で唯一の家族的存在なのであった。
その蓮は、今、この村にある石牢にいた。
「蓮、どうして、金旋と諍いを起こすの? しかも、怪我を負わせるなんて……私たち奴隷の生死は、総差配が握っているから、大変なことになるかもしれないわ。お父さんが掛け合ってはいるけど……」
子蘭は夕食の残りを蓮に差し入れするために来たのだ。その手は微かに震えていた。
――不安なのだろう。なにしろ、金旋の父親が金苞総差配なのだからな。
この村の監視をその役として、どこかの商人から派遣されているという。ここで唯一、奴隷ではない身分の一族であった。
蓮は、子蘭の不安を打ち消すかのように、微笑み返した。
「大丈夫だよ。子浪が掛け合えば、総差配と言えども、無碍にはできないさ。なにしろ、子浪は、ここの鉄製の武器製造の秘密を握る唯一の男だからな。それに、怪我と言っても、かすり傷程度なんだぞ。あれでも、手加減したんだから、大丈夫だろう」
鉄製の武器はこの時代、漢王朝が近隣諸国に優位に立つためには必要不可欠なモノだった。何故かというと、近隣諸国はまだ、青銅製の武器しか持っていなかったためだった。従って、製造方法は国が厳重に管理しているはずであった。ところが、この村は、その製造方法を知り、生産していたのだ。
かつては、その製造方法を知っている者が数人いたという。だが、今では、親方である子浪のみだった。だから、子浪は奴隷でありながら、発言力があったのである。
子蘭の表情を見ると、蓮の言葉に少しは不安が晴れたように見えたが、今度は、母親が子を叱るように、眉を寄せた。
「もう、緊張感がないというか……もう少し、神妙にしてないと、いくらお父さんが掛け合っても、助けてくれないわよ」
蓮は子蘭の小言を聞き流しながら、飯を腹に流し込む。その様子をしばらく、黙って見ていた子蘭は、諦めたように、ため息を付いた。
蓮は飯を食べ終えると、真剣な眼差しで子蘭を見た。
「子蘭、俺はここを出るつもりなんだ。そのとき、一緒に来てくれるか?」
子蘭は目を大きく見開き驚く。そして、悲しそうに俯いた。
「蓮……私たちは奴隷なのよ。それは無理だわ」
蓮は鉄格子から手を伸ばし、子蘭の手を握る。そして、あたりに気を配るように、小声で話した。
「子蘭、伯爺が言ってたんだ。人には希望が必要なんだと。その希望に向かって突き進むために人は存在するんだと。今、俺の希望は、ここを出ることだ。そのために、伯爺は俺に武術を教えてくれた。誰よりも早く動くための軽功、百変真功を。敵を退けるための飛刀、飛龍の技を。必ず、機会が来る。そのときを逃さず、ここから出るつもりだ。だから、俺と来ないか? 当然、子浪にも相談するよ」
子蘭の顔がみるみる青ざめていった。
――子蘭に言うには早過ぎたか。
そのとき、この石牢への出入口が開いた。
「まったく、困ったヤツだ。お前は、捕らわれの身でありながら、蘭々(ランラン)が卒倒しそうな話をするか?」
子浪だった。顔に笑みを浮かべながら石牢に入って来た。後ろ手に扉を閉め、子蘭の横に座る。そして、優しくその肩を抱いた。
子浪は屈強な男である。大柄というわけではないものの、その盛り上がった筋肉から、力強さが漲っていた。眼差しは鋭く、例えるならば、鷹のようだった。だが、蓮と子蘭にだけは優しい目を向ける。
「蓮。話がついたぞ。お前には、明日から、荷役の仕事をしてもらうことになった。輸送の道中は、危険は伴うが、機会はあると思うぞ。やってみるか? 百変真功と飛龍を駆使すれば、可能かもしれん。だが、そのときは、我ら親子には構わないことだ。目的のためには情は禁物だぞ」
「お父さん!」
子蘭の叫びに子浪は、冗談だと言いながら、その頭を撫でた。
子浪と伯爺は子弟関係だったらしい。だから、子浪は、蓮が、軽功、百変真功と、飛刀、飛龍の技を修得しているのを知っていた。
軽功とは体捌きの技である。宙を舞い、目にも止まらぬ速さで走れるのである。そして、飛刀とは、掌サイズの小刀を投じる技である。いわゆる手裏剣のようなものである。
翌朝、蓮は石牢から解放され、荷役の仕事に就いた。荷役の仕事は、荷を襲う盗賊たちと戦闘となる可能性があった。一般的に考えれば、13歳の少年では、例え、多少、武術ができるとはしても、大人には、ましてや、盗賊には敵うわけがなかった。だが、蓮は子浪の言う通り、一流の軽功と飛刀の技を修得しているため、切り抜ける機会はあった。
鉄製の武器を満載した荷馬車が3両ある。これを街まで運ぶのだ。護衛はいる。商家から派遣されているという、一癖も二癖もありそうな男たちであった。
荷役の取りまとめ役は、大柄な男で、向という。子浪とも親しいらしく、蓮のことを頼まれたという。屈託のなさそうな笑顔がまぶしい。実直なのが取り柄というのだろう。護衛の長とも親しく話をしていた。
「蓮、護衛の長、越様に、お前のことを頼んでおいた。この荷を牽く馬たちさえ、きちんと世話すれば、重い荷物は担がなくてもいいと了解してもらっている。大体、お前の体格では、荷役の仕事は無理だと言うたのだが、総差配様の命であれば仕方ない。3ヵ月程で、また、村に帰ることになるから、それまでは、のんびりしておくとい良いさ」
向が言うように、蓮の体格は、荷役の者たちのように、大柄ではない。だが、少々、細身ではあるものの、その鍛えられた筋肉は鹿のようにしなやかなのである。
――そもそも、向たちが大柄過ぎるのだ。
と、蓮は、苦笑しながらも、黙々と仕事に従事していた。向は、そんな蓮を見て、何かと、話かけてくる。総差配、金苞の妾となっている娘が出産し、子が産まれたとか、その孫が可愛いとか、言うのだ。奴隷でも、そんな、家族を持てたことに幸せを感じるとも言う。
――何が幸せなものか!
蓮は内心、怒りが込み上げてくるのを感じた。総差配の子とは言っても、所詮は奴隷の子は奴隷の身分のままなのだ。その子が、将来、金旋と違い過ぎる待遇に苦しむのは目に見えている。
しかし、朗らかに微笑んでいる向を見ると、言うべき言葉は出てこない。何故なら、言っても仕方ないことだからだ。
そして、1ヵ月程が過ぎたとき、山道にさしかかった。片側は木々が茂った林であり、もう片側は崖である。荷馬車が引き返すことができない程の道幅だった。蓮が、ふと、違和感を覚えたときだった。蓮の横を一陣の風が吹き抜けた。
それは、矢だった。隣にいた荷役のひとりに刺さっていたのだ。黒衣を着た賊が5人、剣を抜き、迫っていた。当然、護衛の者たちが立ちふさがるのだが、黒衣の賊たちが剣を一閃する毎に、次々と斬られていった。
そして、黒衣の賊のうち、ひとりが蓮を見た。蓮はその男の氷のような目を見て、背筋に悪寒が走った。と、同時に殺られると直感した。
――ここで殺られるわけにはいかない!
蓮は飛刀4組を身体に仕込んでいた。
飛刀の技、飛龍とは、2本の飛刀を同時に投じる技である。そして、その飛刀が独特の製法によって加工されているのである。1本は投じると、ピュッと風切音が鳴るように加工している。もう1本は抵抗を極力なくすように加工をしているため風切音が殆どしない。これを同時に投じるのだ。相手が風切音のする飛刀に気を取られている間に、無音の飛刀が仕留めるという技である。いわゆる騙し技で、殺人のために工夫された技とも言える。
その賊が、間合いを詰めようとした刹那、蓮は飛刀を1組投じた。全部で4組しかない。飛刀1組で賊ひとりを殺れたとしても、相手はひとり残ってしまう。従って、逃亡するために使用するしかない。
ところが、その賊は、ビュッと風切音がする飛刀を避けながら、無音の飛刀を剣で跳ねたのだ。
――飛龍の技を知っている?
蓮は、相手の隙を見て、後方に走った。
――追手は? 来た!
ふたりが追って来た。
辺りは、日が暮れはじめ、薄暗くなっていた。
――賭けよう。
蓮は、崖に向かって跳躍しながら、背後に向かって飛刀2組を同時に投じた。その2組の飛刀は、ビュッと風切音をさせながら追っ手に迫った。追っ手が飛刀に気を取られている間に、蓮は崖下に落下した……かに見えたが、その実は、あらかじめ、崖から横に突き出ている木をめがけて飛んだのである。
壁面に身体を叩き付けられながらも、その右手はしっかりと木を掴んでいた。
――この腕がダメになっても離さない。
崖上の気配を探る。
――いる! このままでは、見つかる……壁と……木と……同化するんだ。
蓮は伯爺の言葉を反芻していた。軽功の修練のとき、気配を消して潜む法を教えてもらっていた。動かないことは、動くことより難しいと悟ったときであった。そして、長時間、潜むためには周りと同化することが唯一のコツだった。後は、忍耐だけである。
しばらくすると崖上から声が聞こえてきた。
「どうやら、落ちたようだな。しかし、あれは、飛龍の技ではなかったか?」
「ああ、そのようだ。あの方の縁者かもしれん。だが、我らには関係ない。ただ、命令を遂行するのみだ」
「そうだな。この地方の鉄製武器密輸組織の壊滅。後は、あの村を消滅させれば終わりだな。行くぞ」
どれほど、時間が経ったか……蓮の右腕は既に限界に達していた。最後の力を振り絞り、なんとか崖上に這い上がった蓮は、そのまま横たわりながら、頭を回転させた。
――どうする?
崖上にいた賊ふたりの会話から分かったことがあった。
まず、あの奴隷村は、鉄製の武器を密輸していたことになる。そして、あの黒衣の賊たちは、その奴隷村を壊滅させるために来たのだ。つまりは、こちらが賊で、あちらは役人かもしれないということである。
次に、護衛から荷役人までをことごとく、殺戮した手腕から判断して、奴隷村の人々は、まず、抹殺されると考えた方が良いということである。
そして、あの黒衣の賊たちは強く、自分はとても敵わないということである。
だから、どうする? なのである。情は禁物だと、子浪は言っていた。このまま逃亡することも可能だが、しかし、この先、ひとりで生きていくのか?
と考えたとき、ああ、そうか……と閃いた言葉があった。それは、荷役人の取りまとめ役、向が言っていた言葉だった。奴隷でも家族がいることに幸せを感じると言っていたではないか。
そうなのである。蓮には家族と言っても良い子浪、子蘭がいるじゃないか。ふたりがいなければ、生きていく意味がない。
それに、子蘭がいないと、飯一つ食べる術がないことに、今、はじめて気付いたのである。
――なんと、間抜けな……
幼少の頃から、飯は伯爺か、子蘭かのどちらかに与えられてきたのである。自ら材料を調達することも、調理さえもできないのであった。ひとりで生きられるわけがない。
そして、一つの結論に達した。あの黒衣の賊たちより、早く村に着けば良いのだということをである。
ここまで、1ヵ月程を要した。あの黒衣の賊たちならば、10日くらいで着けるのだろうか? ならば、9日で着けば、良いのではないか。
そう結論付けたのである。
――後は、走るだけだ。
蓮は起き上がり、当座の飯の確保のために、残された荷馬車の中を探した。そして、探し出した飯を懐に詰め込み、走ったのだ。足が壊れようと、心臓が破れようと、走るのみであった。
蓮は昼も、夜も走り続けた。時折、仮眠はとるものの、深くは眠らず、走り続けたのだ。
そして、どうやってたどり着いたのか、何日で着いたのか、分からなかったが、とにかく村に着いた。村の様子を見る限り、異変は起こっていない様子だった。辺りは太陽が傾きはじめていた。だから、しばらく、休むことにした。夜の暗闇に紛れて、子浪と子蘭を連れ出そう。そう思ったのだ。
しばらく、うとうとと、していたようだった。気付いたときには、既に夜だった。
蓮は村に忍び込み、家へと向かった。すると、家の前には、子蘭と金旋を含む少年たち5人がいた。
「子蘭、蓮はもう帰ってこないぞ。鉄器を届ける先で下働きとして、生涯こき使われることになっている……お前も13歳だから俺の妾にしてやる。今日からだ。良いな」
金旋は有無を言わせず、子蘭の手を掴み、連れ去ろうとしていた。
それを見た蓮は、石を5つ拾い、金旋を含む少年たちの頭に向けて同時に放った。飛刀の技を修得している蓮には簡単な芸等だった。
そして、放たれた石はゴツンと鈍い音をさせ、少年たちに当たった。少年たちはその場に倒れ込み、気を失ったのである。
その隙に、蓮は素早く子蘭に駆け寄り、優しげな目を向けた。
「子蘭、行くよ。ここを出るんだ。良いね」
「蓮! どうしてここに?」
子蘭は、突然現れた蓮を不安そうに見つめた。
「子蘭、もうすぐ、ここに盗賊が来る。だから、逃げるんだ。いいかい?」
蓮は子蘭の手を引いた。手を引かれながら子蘭が小さく、あっと、呟いた。子蘭が見ている方向を見ると、火の手が上がっていた。
「火事だ! 誰か!」
叫び声が聞こえる。
「遅かったか……子蘭、子浪に告げて来るから、あそこの納屋の影に隠れていてくれ」
「お父さんは、まだ、鍛冶場から戻ってないの! お願い!」
「ああ、分かってるよ」
蓮は鍛冶場へと走った。鍛治場は既に炎が勢いよく立ち上っていた。構わず、中に飛び込むと、覆面をした男がひとり立っていた。
「フッフッフッ、逃げる機会はあったはずだがな……もう少し、冷徹にならねば生きていけぬぞ」
蓮が動くより速く、その男は動いた。そして、蓮は意識を失った……