第7話 鴉の面
全員が座敷に引っ込んだあとのことです。
あたしは帳場で帳簿をつけてたんですが——鴉が一羽、店の裏口に飛んできましてね。
ただの鴉じゃありませんよ。脚に細い竹筒が括りつけてある。
鴉衆の伝令です。
あの鴉はちゃんと訓練されてるんですよ。鴉衆が飼い慣らした伝令鴉。鴉衆の名の由来はこっちだって説もあるくらいで。
あたしは睦月さんを起こしました。
竹筒の中身は薄い紙に書かれた暗号。睦月さんが手早く読み解いた。
「……任務です」
「なんと?」
「現状維持。生存を継続せよ。——以上です」
あたしは少し黙りましたよ。
現状維持。生存を継続。——それだけ。
護衛対象もない。目標もない。誰を守れとも、何を取れとも書いていない。ただ「生き残っていろ」。
清十郎さんも起きてきていた。
「……ずいぶんと、簡素な指示だな」
静かな声でした。怒りではない。怒るまでもない、という声。鴉衆の人間はこういうものに慣れているんでしょうね。使い捨てにされることに。
「任務です」
睦月さんはまっすぐ前を見てそう言った。
「明日から、この任務に従います」
清十郎さんは睦月さんを見て、それから小さく頷いた。
泉水さんはいつの間にか起きていて、柱に背を預けたまま「生き残りましょう、みんなで」と穏やかに言った。
白夜さんは奥の部屋から出てこなかったそうです。聞こえていたのかいなかったのか。
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清十郎さんがしばらく黙っていたそうです。
伝令の紙をもう一度見た。それから畳んで、懐にしまった。
「——面を外せ」
睦月さんが顔を上げた。泉水さんも。
「鴉の面は目立つ。これからは欠片を探し、動き回ることになる。非参加者の目もある。素顔で動け」
泉水さんはすぐに面を外した。穏やかな顔の青年でした。短い茶色がかった髪。線が細くて、目元がどこか柔らかい。「了解です」と短く答えた。ためらいはなかった。
睦月さんは——少し、間があったそうです。
面に手をかけて、止まった。
鴉の面ってのはね、あの人たちにとってはただの装備品じゃないんでしょう。あれをつけている間は「睦月」じゃなくて「鴉衆」でいられる。任務に徹する自分でいられる。素顔を晒すということは、その殻を一枚、脱ぐということです。
清十郎さんは何も言わなかった。急かしもしなかった。待っていた。
睦月さんが、面を外した。
色白で、黒い髪を後ろで一つに結んでいる。切れ長の目。整っているけれど、表情に乏しい顔。
あたしはそのとき茶を出しに行って、ちらりと見えたんですが——素顔の睦月さんは、思ったより若かった。面をつけているときはもっと年嵩に見えたんですがね。外すと、ただの娘ですよ。
清十郎さんも面を外した。四十手前くらいの、引き締まった顔。額に古い傷がある。面をつけていたときより、少しだけ——疲れて見えた気がしましたが、気のせいかもしれません。
面は三つ、座敷の隅にまとめて置かれました。
黒い鴉の面が三つ、行灯の灯を受けて、畳の上で鈍く光っている。
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あたしはね、あの紙切れ一枚で、だいたいのことを察しましたよ。
あの簡素な指示は、つまりこういうことです。——お前たちのことはどうでもいい。勝手に生きるなり死ぬなりしろ。
将軍様は将軍様で、ご自分の算盤を弾いているんでしょう。鴉の三羽なんか、勘定に入っちゃいない。
でもね、睦月さんはそれを「任務」として受け取った。真面目に。まっすぐに。
——鴉衆ってのはそういう人たちなんですよ。使い捨てにされることを知っていて、それでも任務と言う。
でもね、清十郎さんはあの面を外させた。
目立つから。それは本当でしょう。でもあたしはね、あの人の声を聞いてましたから。伝令の紙を読んだあとの、あの短い沈黙。あれは、幕府の指示に怒っていたんじゃない。もう鴉衆として守ってやれるものが何もないと、わかったんでしょう。
面を外せ、というのは——鴉としてじゃなく、人として生き残れ、ということだったんじゃないかと。
まあ、清十郎さんに確かめたわけじゃありませんがね。
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さて、ここで場面が変わります。
あたしが見たわけじゃありません。あとから聞いた話を、まあ、つなぎ合わせて。色をつけて。商人の口で語るとこうなるだろうという話です。
二条城。
あの夜、赤い月が六つ浮かんだ同じ夜に、二条城の奥——本丸御殿の、さらに奥。普通の人間は一生足を踏み入れることのない座敷で、二人の男が向かい合っていたそうです。
一人は将軍。徳川家治。十代目。まだ若いですよ。血気盛んというやつです。
もう一人は田沼意次。つい二、三ヶ月前に側用人に就任したばかりの男です。
将軍ってのはね、あたしみたいな裏の猫からすると遠い存在ですよ。天上人ですわな。でもね、金の流れを追うと、天上人にもいろいろあることがわかるんです。
田沼はこう報告した。
「上様。影武者の時継も京都に到着いたしました」
将軍が眉をひそめたそうです。
将軍はどんな人だったかって? あたしは会ったことありませんからね。でも裏で聞く評判はこうでした。——頭は切れる。碁も将棋も強い。学問も好き。ただし、飽きっぽい。そして人をあまり信じない。信じるのは自分の目と、自分の頭と、使える道具だけ。人を道具だと思っている。悪気はない。たぶん、本気でそう思っている。
「なぜ時継がここにおる。あれは江戸で余の留守を守るために置いたのだろう」
「万が一のことがございます」
田沼の声は淡々としていた。
「儀は何が起こるかわかりません。もし上様のお身に何かあった場合——江戸に影武者がいては、京都での出来事を隠蔽できませぬ。お側にいてこそ、即座の対応がかないます」
「……余が死ぬとでも?」
「万全を期すのが臣下の務めにございます」
田沼意次という人はね、この人を一言で表すなら、「算盤の化身」です。あたしが言うんだから間違いない。
算盤を弾くんですよ、あの人は。常に。目に見えない算盤を。人の命も、将軍の機嫌も、自分の出世も、全部同じ帳簿に載せて、利が最も大きくなる選択を取る。冷たい人だと言う者もいますが、あたしに言わせれば違いますね。冷たいんじゃなくて、正確なんですよ。感情が邪魔にならない。商人としてはね、ちょっと羨ましいくらいです。
将軍はフンと鼻を鳴らしたそうです。田沼の有能さは信頼している。だから好きに動かせる。自分の手足として、計算をさせるために。
「好きにせい」
「はっ」
座敷の隅に、もう一人いたそうです。
隅も隅。柱の影に隠れるように縮こまっている男。年は将軍と同じくらい。顔が——似ている。目元と輪郭が同じ。ただし、気配がまるで違う。
時継。将軍の影武者。
「おい」
将軍が声をかけた。雑な声。飼い犬を呼ぶようなものです。
「余の前でそうビクビクするな。みっともない」
「は、はい……申し訳ございません……」
時継は肩をすくめた。将軍と目が合うたびに体が縮む。——この人のことも、あとでたっぷり話す機会がありますよ。今はまだ柱の影で震えている男、として覚えておいてください。
田沼が続けた。
「それと、状況の報告ですが。賊に影の手をいくつか強奪されまして。予定通りの数は調達できておりません」
「ほう」
「その場にいた鴉三名、それと前回の儀の生存者と思われる狐の妖怪が、参加者となった由にございます」
「狐?」
将軍の目が細くなったそうです。
「はあ、暗殺できなかったのか。儀の邪魔になりそうだったから事前に消したかったが——」
「不死でしたので」
「ああ、そうだったな。——まあよい。大したことはできまい。ほうっておけ」
将軍の口調はね、怒りではないんですよ。興味がないんです。狐一匹が参加者になろうが、何の計算にも影響しない。将軍にとって、儀は壮大な囲碁のようなもの。盤面があって、駒がある。使える駒は多いほうがいいが、使えない駒は数に入れない。
「鴉三名はいかがいたしましょう」
「鴉?」
将軍は片眉を上げた。
「賊も追い返せぬ鴉か。使い物にならぬな」
田沼は黙って控えている。
「どうでもよい。適当に何か与えておけ。どうせすぐ消えるだろうが、放っておいて余計なことをされても面倒だ」
「承知いたしました」
将軍はそれから、座敷の窓を開けさせたそうです。赤い月が六つ。その下に、京都の町が広がっている。寺の屋根。町屋の灯。鴨川の黒い帯。
「何年も待った祭りだ」
将軍は笑ったそうです。碁盤を前にした棋士のように。
「存分に楽しむわい」
将軍は不死が欲しかった。そのために何年も前から準備していた。影の手を集め、自分の配下となる参加者を確保し、儀の開始に備えていた。
配下の参加者は十分にいる。鴉の三羽なんか、勘定に入れる必要がない。だから「適当に何か与えておけ」。
あたしが受け取った伝令鴉の指示——「現状維持。生存を継続せよ」——は、そういう意味です。
帳簿の端っこに書かれた、たいして意味のない一行。
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白夜さんが眠れずにいるのがわかりましたよ。奥の座敷から、かすかに気配がする。起きている気配。
——百五十年前の記憶が、蘇っているんでしょうね。
あたしは何も言わずに目を閉じました。
明日のことは明日考える。商人の鉄則です。




