第5話 祭り
白夜さんの蒼い炎を顔面に受けた卯之助が、たたらを踏んだ。その一瞬のあいだに、白夜さんは欄干の上から睦月さんの前に降り立ったそうです。
睦月さんは左腕から血を流しながら、見上げた。
「……なんで」
「うるせえ。動けんのか」
「……動けます」
「なら走る準備だけしとけ」
それだけです。それだけ言って、白夜さんは卯之助のほうを向いた。
卯之助は顔の右半分が焼けただれて、しかし倒れなかったそうです。
「おお! おおおお! 痛ぇ! 痛えなぁ! ——誰だぁ、てめぇ!」
卯之助が橋の床板を踏み砕きながら突っ込んでくる。
「邪魔」
白夜さんはひらりと避けたそうです。欄干の上から飛び降りて、卯之助の拳の下をくぐる。そのまま蒼い火を纏わせた掌を卯之助の脇腹に叩き込んだ。
「ぐあっ……!」
卯之助の脇腹で炎がじわじわ燃え続けている。叩いても消えない。転がっても消えない。
「消えねえ……! なんだこの火! 消えねえぞ!」
そのとき、白夜さんの右腕に、肩から手首まで、何本もの糸が一瞬で巻きついたそうです。食い込んで、腕から血が噴き出した。
上。柳の枝。織姫が指を動かしている。
「あなたが噂の不死の狐さん? ——へえ、蒼い火。綺麗ね」
白夜さんの腕の傷がじゅるりと塞がっていく。切り裂かれた肉が盛り上がり、皮膚が繋がる。
織姫の目が——灯ったそうです。暗い場所で蝋燭がつくみたいに、すうっと。
「あは。ほんとに治るんだ」
声が甘くなった。
「ねえ、それ——切っても切っても治るの? ずっと?」
糸が殺到した。体のあちこちを切り刻んでいく。どこを切っても塞がる。
「すごい。すごいわ。——ねえ、痛いのは痛いんでしょう? 痛いのに治るの? 最高じゃない」
切っても死なない。壊しても元に戻る。この女にとって、それは「永遠に遊べるおもちゃ」を見つけたのと同じことなんですよ。終わりがない。好きなだけ切れる。好きなだけ痛がらせられる。
白夜さんは炎を放った。蒼い火が糸を伝って走る。糸そのものが燃え上がった。
織姫がぱっと手を離した。燃えた糸がばらばらと橋の上に落ちて、蒼い火がちらちらと板の上で踊っている。
「——ああ、糸を伝うのね。厄介」
燃えた指先をちらりと見て、舌で舐めた。
白夜さんが追おうとしたとき、横から卯之助の拳が飛んできた。
「逃がすかよ狐がぁ!」
拳を食らって吹き飛ばされたが、空中で体勢を立て直して橋の上に着地した。
そのあいだに、織姫はもう判断を済ませていたそうです。
あの女は退き際がいい。状況を瞬時に計算できる。目的は箱の中身であって、白夜さんを殺すことじゃない。
織姫の糸が橋の上を走った。白夜さんに向かってじゃない。糸が箱を引っ掛けて、奪い取った。鮮やかなもんです。一瞬でした。
織姫が箱を受け取る。卯之助が織姫のもとに転がるように退がった。
「行くわよ、卯之助。用は済んだ」
「ああ? まだやれるぞ——」
「用は済んだって言ってるの。何度も言わせないで」
卯之助は舌打ちして従った。あの巨体が織姫の一言で引き下がるんですから、二人の力関係がわかりますね。
織姫が柳の枝の上から、橋の上の白夜さんたちを見下ろした。夕陽を背にして。赤と黒の着物の裾が風に揺れている。
「もうすぐ始まるわ。楽しいお祭りが」
織姫はそう言ったそうです。
卯之助は脇腹の炎をばんばん叩きながら、白夜さんを睨んだそうです。顔の右半分が焼けただれて、目が血走っている。
「覚えてろよ狐……! この顔ぁ、倍にして返すからなぁ……!」
「行くって言ってるでしょ」
織姫の糸が卯之助の襟を引っ張った。犬の首輪みたいに。
糸を使って、猫が屋根を渡るように、二人は夕暮れの京都に消えていった。
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後には、血と、焦げた跡と、壊れた欄干と、死んだ鴉が二人。
鴨川の水面に夕陽が揺れているだけだったそうです。
祭り。織姫はそう言った。
白夜さんは何も言わなかった。
清十郎さんが刀を収めた。息が荒い。織姫の糸で腕や肩をだいぶ切られていましたが、致命傷は避けていた。さすがに隊長を任されるだけのことはある。
泉水さんはすぐに睦月さんのもとへ行った。
「大丈夫ですか、睦月さん。出血がひどいですが、骨は折れていないようです」
「……ありがとうございます」
睦月さんの左腕は血まみれだったそうです。肩から肘にかけて、べったりと。
白夜さんは橋の欄干に腰かけて、体中の傷が塞がっていくのを待っていた。切り傷だらけですが、ぜんぶ再生する。
清十郎さんが白夜さんに歩み寄った。
「……助太刀、感謝する」
「別に。たまたま通りかかっただけだ」
「信用はしていない」
清十郎さんの声は静かでした。
「お前が何者かも、なぜここにいるかも、わからん。だが——」
「利害が一致してる。それでいいだろ」
「……ああ」
双方ともに愛想がないので、こういう会話になるんですかね。でも清十郎さんは嘘を言わない人でした。信用していない、と正直に言える人。白夜さんはそういう手合いを嫌いじゃなかったんじゃないかと、あたしは思うんですけどね。
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さて。問題はそのあとです。
奪われた箱のほかに、もうひとつ箱があったんですよ。織姫が奪ったのは一つ。残りの一つは、混乱の中で橋の床板に転がっていた。
清十郎さんがそれを拾い上げようとしたとき。
箱が、震えたんです。
がたがたと。中から何かが叩いているように。
「……なんだ?」
清十郎さんが箱を押さえる。がたがた、がたがた。手の中で暴れている。
白夜さんの顔色が変わったそうです。
「おい——その箱を離せ!」
「何?」
「離せっつってんだ! 今すぐ! 逃げろ! つかまれるな!」
白夜さんが声を荒らげること自体、珍しいんですよ。面倒くせえ、だるい、知らね。そういう人がね、叫んでる。
箱の蓋が弾け飛んだ。
中から出てきたのは——手、だったそうです。
黒い手。人の手のかたちをしているが、人の手ではない。影でできている。影そのものが固まって、手のかたちになっている。指が五本。爪もある。だが関節の動きがおかしい。人間の手が曲がらない方向に曲がる。
一つだけじゃない。箱の中から次々と這い出してくる。二つ、三つ、四つ——壊れた箱の隙間から、影の手が溢れ出している。
白夜さんが蒼い火を放った。炎が影の手の表面を舐めたが——弾かれた。火が散って、橋の板の上に飛び散った。
「……効かねえのかよ」
白夜さんの声に、焦りが混じったそうです。
清十郎さんが刀を振った。刃が影の手をすり抜けた。実体がない。斬れない。
「斬れん……!」
「いいからとにかく逃げ——」
でもね、逃げられないんですよ。
影の手は速かった。地を這うように、重力を無視して動く。逃げる先、逃げる先に、手が伸びてくる。
最初につかまれたのは清十郎さんでした。織姫との戦闘で腕も肩も切り傷だらけ、血まみれでしたが、影の手はお構いなしですよ。右の二の腕をぐっと掴んだ。振り払おうとしたが、影の手は肌に吸いつくように離れない。数秒。手が消えて、跡に黒い手形が残った。
「……何だ、これは」
泉水さんにも来た。足元から這い上がってきた影の手に左手を取られた。泉水さんは驚いてはいたが取り乱しはしなかったそうです。左手の甲に黒い手形。
白夜さんにも。蒼い火で焼こうとしたが効かない。殴ってもすり抜ける。右肩を掴まれた。手形がつく。
「くそ……!」
睦月さんは走っていた。
左から影の手が伸びた。血まみれの左腕に向かって。五本の指が開いて、掴もうとした——指先が、肌の手前で止まった。触れていない。触れようとして、触れられない。水の上に落ちた油が弾かれるように、影の指が、じり、と引いた。
一拍。
影の手は左腕を諦めたように離れ、そのまま右に回った。睦月さんが咄嗟に右手の刀を振ったが——すり抜けた。物理攻撃は通じない。次の瞬間、右の前腕を掴まれた。
黒い手形が、右腕に残った。
こうして、四人全員に黒い手形がついたわけです。
影の手は、役目を終えたように、橋の隙間に溶けて消えていった。
白夜さんが空を見上げた。
つられて、睦月さんも、清十郎さんも、泉水さんも。
夕焼けが終わりかけていました。茜色が紫に変わっていく。最初の星が瞬き始める時刻です。
その空に——月が、あった。
赤い月。
ひとつじゃない。
ふたつ。みっつ。よっつ。いつつ。——むっつ。
六つの赤い月が、京都の空に浮かんでいたそうです。大きさはまちまちで、位置もばらばら。白い月があるべき場所に、赤い月が六つ。夕暮れの空に、爛々と。
あたしもね、見たんですよ。あの月。
店の裏口から空を見上げたら、赤い月が六つ浮かんでいた。常連の浪人が「おや、今日は綺麗な満月じゃないか」と暢気なことを言ってましてね。普通の人間には、ただの月に見えている。
あたしには見えました。赤。血の色。それが六つです。
橋の上では、四人がそれぞれの手形を見ていたそうです。
手形がじわりと変わっていった。黒い手のかたちが崩れて、別の紋様になった。文字でも数字でもない、何かの印。
刻印、と呼ばれることになるものです。このときはまだ何の印かわからなかった。
睦月さんが自分の右腕を見つめて、呟いた。
「……これは、なんですか」
白夜さんは自分の肩の刻印を一瞥して、低い声で言った。
「……ちくしょう」
白夜さんが呟いた。静かな声で。それから——
「ちくしょう……!」
拳を残った欄干に叩きつけた。欄干が砕けた。
清十郎さんが声を上げた。鴉衆の隊長としての声。冷静であろうとしている。でも、抑えきれないものが滲んでいる。
「いったい——これは、なんなんだ……!」
白夜さんは赤い月を見上げたまま、答えた。
「儀だよ」
「儀……?」
「クソみてえな祭りに巻き込まれたんだよ、俺たちは」
——あの夜のことを、あたしは忘れません。
赤い月が六つ。綺麗でしたよ。血の色だとわかっていても、綺麗なものは綺麗だった。
白い月が見えなくなった夜。
あの秋に、祭りが始まったんです。




