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第1話 狐と鴉

 その日は綺麗な白い月が出ていました。


 いつも通りの月が見えるだけで、本当に安心するものですね。なんせ、あのお祭りの間は、白い月なんか拝めませんからね。


 ええ、お祭りです。


 贄の儀、なんて大層な名前がついてますが、あたしらのような裏の人間は「祭り」って呼んでました。あれはね、神様が人間で遊ぶための催しですよ。


 人がね、消えるんです。死ぬんじゃなくて、消える。死体も残らない。


 六日で何人消えたか、数えてませんよ。数えたくなかったんです。あたしの出した飯が最後の飯になった人間が、何人いたか。


 ——おっと、怖がらせるつもりはないんですがね。


 いつの話かって?


 明和四年。西暦で言うと1767年。秋のことです。


 あたしはまだ若かった。若かったといっても猫又ですからね、人間の数え方で言うとまあ、ずいぶん生きてましたが。


 長い話になりますから、お茶でも淹れましょうか。


 あ、お代はいただきますよ。当然でしょう。


---


 始まりは、まだ祭りの前でした。


 月の綺麗な夜です。虫の声がよく聞こえた。秋の、ちょうどいい涼しさの晩でしたね。


 白夜さんが帰ってこなかったんですよ、あの夜。


 あの人はね、うちの常連でした。常連っていうか、まあ、居候みたいなもんですかね。銀髪の、目つきの悪い青年——青年に見えますが、白夜さんは狐の半妖でね、耳と尻尾がついてます。


 もう百年以上生きてます。しかも不死ときている。前の祭りの勝者なんですよ。ええ、不死。死なない。どうやっても死なない。


 店には週に三、四回ふらっと来て、「飯」とだけ言って、食い終わると「ツケで」と言い残して出ていく。そんな人です。ツケがどれだけ溜まってたかって? あの時点で家が七軒と蔵が四つと田んぼ二反くらいですかね。算盤はじくたびに目眩がしましたよ。


 で、その夜。白夜さんが帰ってこない。


 まあ白夜さんが夜中にどこをほっつき歩いてようとあたしの知ったことじゃないんですが。


 東山の外れに、もう誰も使ってない古い寺がありましてね。


 屋根の半分が落ちて、床板も腐って抜けてる。仏像は苔だらけで首もない。壁の隙間から月明かりが筋になって差し込んで、埃がふわふわ光ってましたよ。狐や狸が住み着いてるような場所です。白夜さんはそういうところが好きでね。人目につかない。静かだ。寝転がるのにちょうどいい。


 その夜も、白夜さんはいつものように縁側で寝転がっていたそうです。月を見ていたのか、何も見ていなかったのか。虫の声。風が木の葉を揺らす音。遠くで犬が吠える。——秋の夜ってのは音がよく通るんですよ。


 で、その縁側の上——梁のところに、もう一人いたんです。


 黒装束。頭から爪先まで黒。顔にはカラスを模した面をつけている。嘴の長い、不気味な面です。


 鴉衆。


 ご存知ですか? まあ、普通は知らないでしょうね。あたしらみたいな裏の人間——いや裏の猫か——でも、あんまり関わりたくない連中です。幕府直属の暗殺組織。御庭番が将軍の目と耳なら、鴉衆は爪と牙。汚い仕事を引き受ける、身元のない者たちの集まりです。


 その鴉が一羽、白夜さんを殺しに来た。


 刀が月光を弾きましてね。


 速い。鴉衆の剣は速いんです。暗殺に特化した剣ですからね、大振りはしない。急所を突く。一撃で仕留める。そういう剣です。


 完璧な一撃でしたよ。白夜さんの首に、刺さった。


「——痛ぇ」


 白夜さんは死ななかった。当たり前です。不死ですから。


「何、お前」


「…………」


 鴉衆は短刀を握ったまま固まった。首に刃が埋まっている。血が流れている。なのにこの男は欠伸をしている。


「抜いてくんない? くすぐったいんだけど」


「……死なないんですか」


 女の声だった。若い。真面目な声。


 白夜さんは、自分の首から短刀を引き抜く。傷口から血が溢れ、しかし見ている間にじゅるりと肉が盛り上がり、塞がっていく。五秒もかからない。


「見りゃわかんだろ。死なねえよ」


 白夜さんは首から引き抜いた短刀を指先でくるくる回す。


「刀、返してください」


「やだね」


 鴉衆は二本目の短刀を抜いた。


「もう一回やる? 結果同じだけど」


「任務ですので」


「任務って──お前、鴉衆?」


 沈黙。——まあ、黙ること自体が答えみたいなもんですがね。任務中に所属を明かすわけにはいかない、ってのが鴉のお作法です。


「黙ってるってことはそうだろ。……つかその面、近くで見るとけっこう不気味だな」


「面のことはいいので、死んでください」


「いやだよ。ていうか死ねないって言ったじゃん、今」


 鴉衆の一閃。今度は白夜さんの心臓を貫いた。傷が塞がる。


「だから死なねーって。お前いつまでこれやるの」


「殺せるまでやります」


 この鴉衆が睦月さんです。


 睦月さんの第一印象を、白夜さんはこう言ってましたよ。


「面倒くせえのが来た」


 ひどい言い草でしょう。でも白夜さんの語彙なんてそんなもんです。口を開けば「だるい」、嫌いなものは「面倒くせえ」、どうでもいいものは「知らね」。百年以上生きてその三語で乗り切ってるんだから大したもんですよ。


 何度斬っても再生する白夜さんを相手に、睦月さんは一晩中戦い続けた。いや、戦い続けたというか、斬り続けた。


 白夜さんは基本的にまともに相手してないんですよ。避けるか、受けるか、たまに弾くか。殺す気がない。面倒くさいだけ。


 でも睦月さんは引かない。


 何度斬っても死なない相手に、何度でも刀を振るう。


 普通、心が折れるでしょう。刺しても切っても相手がけろっとしてたら、嫌になるでしょう。それが通じないんですよ、あの人には。


「帰ったら? 俺は殺せないよ。お前の上に報告すりゃいいじゃん」


「殺せませんでした、では通りません」


「通るまでやるの?」


「はい」


「何日でも?」


「はい」


 白夜さんは溜息をついて——溜息ですよ、暗殺者に斬りかかられながら溜息——それで、こう聞いたらしい。


「飯は?」


「……携行食があります」


 睦月さんが取り出したのは、黒っぽい、硬そうな握り飯。鴉衆が携行する保存食です。あたしも見たことありますが、あれはひどい。干した米を固めただけ。味? そんなものありませんよ。塩気すら怪しい。


 白夜さんが握り飯に手を伸ばしたとき、睦月さんは動かなかったそうです。取り返せなかったんじゃない。動かなかった。相手の出方を見ていたんでしょうね。


 白夜さんがひと口齧った。


 そしてしばらく黙った。噛み続けた。飲み込むのに時間がかかった。


「……まっず」


「…………」


「これ食って戦えるの?」


「はい」


「嘘だろ。これ食ったら戦う気力なくなるだろ。ある意味最強の兵器だぞこれ。俺でも死ぬかと思ったもん」


「…………」


「お前もこれ食ってんの? 毎日?」


「はい」


 白夜さんは携行食を睦月さんに返して、何か言いかけて、やめた。


「すげーな鴉衆。──百年くらい前にもお前みたいなの見たな。同じ顔して来て、同じ顔して帰ってった。名前は忘れたけど」


「…………」


「まあ、人間ってすぐ死ぬから名前覚えてもしょうがないんだけどさ」


 ひどいことを言いますよね。でもね、白夜さんが人間の話をするときの声はいつも、言葉ほど冷たくないんですよ。百年も生きてたら、何人も見送ってきたでしょうからね。名前を覚えてもしょうがない、なんて言ってますけど、本当に忘れてるかどうかは——まあ、あたしが口を挟むことじゃありませんね。


 そんなわけで、死ねない標的と、殺せない暗殺者。


 奇妙な膠着状態が始まったわけです。

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