第4話 鉄と血の狂騒曲
白かったはずの洗濯石鹸の泡が、どろりとした赤色に染まっていった。
事の始まりは、些細な、しかし決定的な一線の越脱だった。
洗濯場に現れたゴルドの部下たちが、リナを強引に連れ去ろうとしたのだ。
それをバルカスの配下が阻んだ瞬間、抜かれたのは拳ではなく、戦場で敵を屠るための鋼の剣だった。
「離せッ! その女はバルカス様の所有物だ!」
「笑わせるな! 独り占めしようって魂胆が気に入らねえんだよ。この女は俺たちの『癒やし』だ!」
悲鳴を上げるリナを中央に置き、兵士たちが激突した。
石造りの床を軍靴が踏み鳴らし、重厚な剣が交差する金属音が、湿った空気の中に響き渡る。一人が斬られ、その鮮血がリナの顔に、そして洗い立ての軍服へと飛び散った。
「ひ……あ……あああああ……ッ!」
リナは頭を抱えて蹲った。
目の前で、自分を昨日まで辱めていた男たちが、今度は自分のために――いや、自分という「戦利品」の所有権のために、命を奪い合っている。
その騒乱は、洗濯場だけに留まらなかった。
バルカスとゴルド。
かつては戦場で背中を預け合った戦友同士が、今や兵舎を真っ二つに割って殺し合う内乱の火蓋を切ったのだ。
バルバドの軍律は「略奪品は分配されるべき」としているが、リナという存在は、その平等な分配を不可能にするほどに男たちの独占欲を狂わせていた。
「ゴルドォォッ! 貴様の首を叩き切って、その後にゆっくりリナを可愛がってやるよ!」
「ほざけ、バルカス! その不憫な泣き顔を独占してきた報いを受けろ!」
深夜の兵舎は地獄と化した。
松明が投げ込まれ、至る所で火の手が上がる。かつて帝国の軍勢を震え上がらせたバルバドの精鋭たちが、一人の非力な侍女を巡って共食いを始めたのだ。
リナは、血の海となった廊下を這うようにして逃げた。
(神様……どうして……。私は、ただ、生きていたかっただけなのに……)
彼女の指先には、凍える水でできたひび割れではなく、今や死にゆく男たちの温かい返り血がまとわりついている。
リナが「弱く、美しく、守ってやりたい(壊してやりたい)」と思わせる存在でなければ、こんなことにはならなかった。
彼女の「無垢」が、野獣たちの魂に火をつけ、彼らを修羅へと変えたのだ。
「見つけたぞ、リナ……!」
背後から、血塗れのゴルドが迫る。
彼の肩には深い切り傷があり、正気とは思えない形相でリナの足首を掴んだ。
「俺と一緒に来い。バルカスは死んだ。今からは、俺だけがお前を……」
その瞬間、ゴルドの胸から鋭い切っ先が突き出した。
背後に立っていたのは、返り血で黒く染まったバルカスだった。
「……リナは、誰にも渡さない……。俺だけの……俺だけのものだ……」
バルカスもまた、致命傷を負っていた。
彼は崩れ落ちるゴルドの死体を踏みつけ、リナの元へと這い寄る。その瞳には、もはや欲情ではなく、逃れられない呪いのような執着だけが宿っていた。
リナは震えながら、自分を奪い合う死体の山を見つめた。
洗濯場は、死体と汚れた布が積み重なる墓場へと変わっていた。バルバドの軍が、一人の侍女によって、その精鋭の三割を失おうとしていたその時――。
兵舎の壁を突き破るかのような、圧倒的な圧力を伴った咆哮が響き渡った。
「――愚か者共が。貴様らの忠誠は、女の股間に売ったのか」
漆黒の毛皮を揺らし、燃え盛る火炎の中から、覇王ヴォルグが姿を現した。
その黄金の瞳が、血の海で震えるリナを――
ゴミ屑を見るような冷徹さで射抜いた。




