第2話 泥に塗れた白百合
国境を越えた瞬間、世界からは色彩が失われた。
帝国の手入れされた街道とは対照的な、鋭い岩肌が剥き出しになった荒野。
乾燥した風が土埃を巻き上げ、窓を叩く。馬車の揺れは激しさを増し、車輪が石を噛むたびに不吉な振動がエリアーナの身体を突き上げた。
「……何ひとつ、挨拶も出迎えもないのですか」
ルクレツィアが不満げに毒づき、膝の上の外交書類を強く握りしめた。
彼女の眼鏡の奥にある瞳は、この無礼な沈黙に対して怒りに燃えている。
「条約では、国境の『嘆きの橋』にてバルバド軍の先導が合流する手はず。これではただの密入国ではありませんか。後ほど正式な抗議書を――」
「ルクレツィア、おやめなさい」
エリアーナは静かに制した。
彼女の視線は窓の外、灰色の雲が垂れ込める空に向けられている。
「ここはもう、帝国の法が届く場所ではないわ。……彼らの流儀があるのでしょう」
「ですが、エリアーナ様……」
ルクレツィアが口を閉ざしたその時、隣に座るセシルの身体が、弾かれたように緊張した。
「――伏せて!」
叫びと同時だった。
轟音。
そして、世界が上下を逆転させた。
巨大な質量が馬車の側面に激突したのだ。
悲鳴を上げる暇もなく、エリアーナの視界はぐるりと回転した。衝撃で長椅子から放り出され、天井だったはずの壁に肩を強打する。ルクレツィアの眼鏡が飛び、リナの短い悲鳴が狭い車内に木霊した。
横転した馬車の外から、馬の嘶きと、それ以上に猛々しい男たちの怒号が聞こえてくる。
「……っ、エリアーナ様! ご無事ですか!」
セシルが歪んだ扉を力任せに蹴破った。
彼女は額から一筋の血を流しながらも、騎士としての本能でエリアーナの腕を掴み、無理やり外へと引きずり出す。
外は、地獄のようだった。
帝国の誇る豪華な馬車は、巨大な丸太の罠によって無惨に横転し、車輪の一つは虚しく空転している。そこを取り囲んでいたのは、鉄の臭いと獣の皮を纏った、バルバドの戦士たちだった。
「ひっ……! ど、泥棒、野盗なの!?」
這い出してきたリナが、周囲の屈強な男たちを見て腰を抜かした。
エリアーナは、冷たい泥の中に膝をついていた。
最高級の絹で作られた純白のドレスは、瞬く間に黒い泥土に汚れ、破れた裾から剥き出しになった脚に小石が食い込む。
痛い。
冷たい。
けれど、それ以上に彼女を支配したのは、自分を見下ろす男たちが放つ、剥き出しの「暴力」の気配だった。
「どこの馬の骨かと思えば……帝国から届いたのは、ヒョロ高い女と、ガキの使いか」
男たちの輪を割って、一際巨大な影が進み出た。
ガンツだ。
岩のように盛り上がった筋肉、顔を横断する古い傷跡。彼の手には、人の胴体ほどもある巨大な戦斧が握られている。
「貴様ら! 礼を失するな!」
セシルが折れた剣――馬車の横転の衝撃で、鞘の中で折れていた――を抜き、エリアーナを背に庇って叫んだ。
「こちらはグランドリア帝国第一王女、エリアーナ様だ! 王の婚約者に対するこの所業、ヴォルグ王が知れば貴様らの首では済まんぞ!」
「王? ……ああ、ヴォルグ様のことか」
ガンツは鼻を鳴らし、面白そうに笑った。
「あの方は、無能な弱者に興味はねえ。戦場で生き残れねえ奴は、王の前に出る資格もねえんだよ」
「……なんですって?」
「試してやるよ。帝国の『騎士様』が、どれほどのモンか」
ガンツが地を蹴った。
その巨体からは想像もつかない速さで。
「セシル!」
エリアーナの叫びよりも早く、戦斧が振り下ろされた。セシルは咄嗟に剣の腹で受けようとしたが、あまりの重量差に、防壁は紙細工のように崩れた。
ガキン、と金属が弾け飛ぶ音が響く。
セシルは力任せに地面へと叩きつけられた。
泥飛沫が舞い、彼女の誇り高い騎士の制服が汚辱にまみれる。ガンツは倒れた彼女の首筋を、汚れきったブーツの先で無造作に踏みつけた。
「ぐっ……、あ……っ」
「おいおい、これでおしまいか? 帝国じゃ、女の遊びを『騎士道』って呼ぶのかよ」
「やめて!」
ルクレツィアが泥を這い、ガンツに詰め寄ろうとする。
「このような非人道的な……! 停戦条約第十三条に基づき、私たちは不当な拘束から保護される権利が――」
「うっせえよ、眼鏡」
別の戦士がルクレツィアの襟首を掴み、赤子のように軽々と吊り上げた。
「条約だの権利だの、死んでから墓石にでも刻んどけ」
ルクレツィアの眼鏡が地面に落ち、兵士の足で粉々に砕かれた。
彼女は絶望に目を見開き、知性の象徴を奪われて震えることしかできない。
エリアーナは、その光景をただ見つめていた。
泥の中に這いつくばり、髪は乱れ、愛する従者たちが理不尽に蹂躙されていく。
恐怖。
絶望。
けれど、心臓の奥が、熱い。
自分を「姫」として敬う者など、ここには一人もいない。
ただの肉塊、あるいは「物」として扱われる感覚。見下ろすガンツの、獣のようなギラついた瞳がエリアーナに向けられた。
「……で、こいつが『貢ぎ物』の姫か」
ガンツがセシルの首から足を退け、エリアーナへと歩み寄る。
彼は大きな手でエリアーナの美しい銀髪を掴み、無理やり引き揚げた。
「ひ……っ、あ……」
頭皮を引っ張られる痛みに、エリアーナの背筋が戦慄で跳ねる。
泥に汚れた自分の顔が、粗野な男の鼻先にまで引き寄せられる。
男からは血と酒、そして乾燥した大地の臭いがした。帝国の誰もが触れることすら躊躇った至宝が、今、無造作に、暴力的に扱われている。
「……綺麗な顔してやがるな。だが、バルバドじゃ顔の良さは飯の種にもならねえ」
ガンツはエリアーナの頬を、泥のついた指で乱暴になぞった。
その感触が、彼女の中に眠っていた歪んだ願望を、疼くように刺激する。
「おら、立て。王のところへ運ぶぞ。……死にたくなければな」
エリアーナは、目隠しのために汚れた布を顔に押し当てられた。
視界が奪われ、周囲の罵声と風の音だけが鋭敏になる。
馬の背に荷物のように放り込まれ、揺られるたびに身体が痛む。
(……ああ。お父様。私は今、あなたの言った通り、ただの『捨て駒』になったわ)
布越しに感じる荒野の冷気の中で、エリアーナは自分の指が、恐怖とは違う理由で震えているのを必死に隠した。
物語は、始まったばかり。
白百合の姫が、狼の国で真っ黒に塗り潰される、その夜が。




