第1話 高慢な白き教壇
バルバド城の北翼に位置する一画は、他とは異なる静謐に包まれていた。
急造されたとはいえ、石造りの講堂には真新しい机が並び、微かに羊皮紙とインクの香りが漂っている。
窓から差し込む陽光が、宙に舞う細かな塵を白く照らしていた。
その教壇に、ルクレツィアは立っていた。
帝国外交官としての象徴だった眼鏡をかけ直し、彼女は目の前に並ぶ「生徒」たちを冷徹な眼差しで眺める。かつての華美な法服ではないが、支給された清潔な白いチュニックは、彼女に「知性ある人間」としての最低限の輪郭を取り戻させていた。
「――よろしいですか。バルバドが真に周辺諸国を統治し、恒久的な覇権を握らんとするならば、武力だけでは足りません。法とは、剣よりも強固に民を縛る鎖なのです」
彼女の凛とした声が講堂に響く。
机を並べているのは、バルバドの将来を担うと期待されている若き士官候補生たちだ。十代後半から二十代前半の、若く、血気盛んな戦士たち。彼らの体躯は一様に逞しく、剥き出しの腕には戦場での傷跡が刻まれている。
彼らは黙ってルクレツィアを見つめていた。
その視線には、かつての地下牢で浴びせられたような、剥き出しの敵意や卑猥な嘲笑は含まれていないように見えた。ただ、未知の知識を授ける「教師」に対する、ある種の畏怖と好奇が混じり合った沈黙。
(……ふふ、やはり野蛮な獣と言えど、秩序の灯火には惹かれるものなのね)
ルクレツィアの内心に、黒い愉悦が芽生える。
王女エリアーナは王の寝室へ、騎士セシルはアリーナの泥の中へ。
彼女たちは自らの肉体を切り売りして生きながらえているが、自分は違う。自分だけは、この国において「代替不可能な知性」として認められたのだ。
ヴォルグが彼女に与えた役割は、バルバドの次世代エリートへの教育。
それはルクレツィアにとって、支配への屈服ではなく、むしろ「知性による逆支配」の機会に思えた。言葉で彼らを教化し、自らの思想を植え付ける。
それこそが外交官の本懐ではないか。
「今日はここまでとします。明日の講義までに、この帝国の統治機構図を読み込んでおくように」
講義が終わると、生徒たちは一斉に立ち上がり、バルバド式の敬礼をして去っていく。
最後に残った一人の少年兵――
カイルと名乗る、鋭い眼差しをした若者が、教壇の彼女に近づいてきた。
「先生。今日の話は、俺たちの故郷の掟とはずいぶん違いました」
「当然です。掟は野営地のルールに過ぎませんが、法は国家の礎ですから。理解できましたか?」
ルクレツィアが少しだけ顎を上げ、教師としての優越感に浸りながら問いかけると、カイルは不敵な笑みを浮かべた。
「ええ、よく分かりました。……『支配するには、まず相手の理屈を知れ』ということですね」
「……その通りです。賢明ですね」
ルクレツィアは満足げに頷いた。
彼らが学ぼうとしている。
自分の足元に知識を求めて跪いている。
その事実が、彼女の傷ついた自尊心を甘く癒やしていった。
その夜、彼女に与えられた個室で、ルクレツィアは久しぶりに穏やかな眠りにつこうとしていた。
扉には鍵がかかり、清潔なベッドがある。帝国の外交官であった頃に比べれば粗末なものだが、地下牢の冷たい床に比べれば天国も同然だ。
(私は生き残る。この知性がある限り、私は『女』ではなく『賢者』としてこの国を導く者になれる……)
だが、彼女は気づいていなかった。
昼間、講壇から見下ろしていたあの「畏怖に満ちた視線」の裏側に、どのような暗い熱が渦巻いていたかを。
そして、バルバドの若き獣たちが、知識を吸収することと同じくらい、その知識を説く「高慢な女」を組み敷くことに、どれほどの飢えを感じているかを。
深夜。
静寂を破るように、カチャリ、と扉の鍵が外れる音がした。
ルクレツィアが目を開けた時、暗闇の中に立っていたのは、数人の若者たちのシルエットだった。
「……誰? 誰なの……っ!?」
返答はなかった。
代わりに聞こえてきたのは、昼間の講堂では決して見せることのなかった、獣のような荒い鼻息と、欲望を孕んだ低い笑い声だった。




