第10話 終わりの始まり
狂乱の宴が終わり、深い静寂が城を包み込んでいた。
塔の最上階。
石壁の隙間から差し込む月光は、冷たく鋭い白銀の刃となって床を照らしている。エリアーナは、首に嵌められた金の首輪に指を添え、その硬質な冷たさを確かめるように撫でた。
「……あ」
微かな吐息。
それは、もはや嘆きではなかった。
肌に食い込む金属の輪は、彼女が「自由」という名の孤独から解放された証。帝国第一王女という、重く虚しい仮面を剥ぎ取られた後に残った、剥き出しの自分を肯定する唯一の紐帯だった。
――ガタリ。
重い扉が開き、松明を持たぬヴォルグが部屋に入ってきた。
暗闇の中でも、彼の黄金の瞳は獲物を射抜く獣のように鋭く光っている。
「……宴の余韻に浸っているか。それとも、まだ帝国の夢を見ているのか」
ヴォルグが近づく。
一歩ごとに、彼が纏う戦場の乾いた臭いと、支配者の強烈な圧迫感がエリアーナの肺を圧迫した。
エリアーナは、冷たい床に膝をついたまま、自らヴォルグの足元へと這い寄った。
粗末な麻布の裾が石床に擦れ、昨日までの自分なら決して許さなかった屈辱的な姿勢を、彼女は今、魂の底から望んでいた。
「帝国は……死にましたわ。私を殺してくれたのは、お父様です。けれど……」
彼女はヴォルグの分厚い掌を両手で取り、祈るように自分の頬へと押し当てた。
ヴォルグの指先には、先ほどまで大杯を握っていた酒の香りと、剣を振るい続けた男の硬い、ざらついた肉の感触があった。
「私を拾い、生かしてくださったのは……あなたです。ヴォルグ」
「生かしているのではない。私は貴様を『飼って』いるのだ。価値がある間だけな」
ヴォルグはエリアーナの顎を強引に引き上げ、その瞳を覗き込んだ。
そこにあるのは、恐怖に歪みながらも、支配される悦びに潤んだ「被支配者」の眼差し。彼は満足げに喉を鳴らし、彼女の首の金の鎖を強く、短く手繰り寄せた。
「エリアーナ。明日から貴様に、バルバドの女としての試練を与える。泥を啜り、汗を流し、私の足元で這い蹲りながら、この国の礎となれ。……王女としての安寧など、二度と与えぬ」
「……ええ。望むところですわ」
エリアーナの瞳から、一筋の涙がこぼれ、ヴォルグの拳を濡らした。
それは悲しみの涙ではない。自分という存在が、誰かの絶対的な意志によって塗り潰され、再定義されることへの、狂おしいほどの感動だった。
「私を……もっと壊してください。壊して、あなたの色に染め変えて……。私が誰であったか、思い出せなくなるまで」
ヴォルグは、彼女の願いに応えるように、その細い首を片手で力任せに締め上げた。
視界が白く爆ぜ、肺が空気を求めて喘ぐ。
極限の苦痛の中で、彼女はヴォルグの腕に必死に縋り付いた。
そして。
意識が遠のく直前、ヴォルグは力を緩め、彼女を寝台へと突き倒した。
「……壊すのではない。私が貴様を、真の『バルバドの女』として造り替えてやる。……帝国が嫉妬するほどに、無惨で、美しい、私の戦利品にな」
ヴォルグが覆い被さり、エリアーナの意識は、再び暴力的な熱と重みの中に沈んでいった。
夜が明ける。
東の地平線から昇る太陽は、バルバドの荒野を血のような赤に染め上げていく。
城の地下では、首輪を繋がれたセシルが、慣れぬ手つきで兵士たちの馬を世話し、ルクレツィアが震える手でバルバドの戦果を記録する日々が始まるだろう。
塔の窓からその景色を見下ろしながら、エリアーナは静かに微笑んだ。
もう、どこにも戻る場所はない。
守ってくれる法も、慈しんでくれる家族も、誇るべき名前もない。
あるのは、首を絞める金の輪の重みと、背中に刻まれた王の指先の痕。
そして、自分の意志を他者に預けることでしか得られない、底知れぬ自由。
「……さあ。始めましょう、ヴォルグ」
彼女の独白は、乾いた風に乗って、バルバドの荒野へと消えていった。
それは、誇り高き白百合の終焉であり。
覇王の足元で咲き誇る、毒々しくも美しい「奴隷」としての、始まりの合図だった。




