6. また婚約破棄されました
新しい婚約者様は、別に悪い人じゃなかった。穏やかで、物腰が柔らかく、おっとりしていた。使用人さんがお気に入りのグラスを割っても、怪我をしていないかを先に聞く人だった。ただ、怠惰というか、自分にも優しい人だった。時の流れが違うのではないかと思うほど、のんびりしていた。
「アンナ、僕休みたいんだけど……」
「もう少しですから、頑張ってください」
生まれながらのお金持ちの余裕だろうか。しかし、お義母様は仰った。時は金なり。商人にとってとても大事な事だと。
挨拶周りや業者や下請けへの顔出し。現場の声を聞いて、それを活かし、成果をアピールする。外の場にも早くから出て、自分こそが後を継ぐ者なのだと、外堀を埋めていく。私が目立ってしまってはいけないから、全てをお膳立てした。婚約者様は、しぶしぶながらもやってくれた。人の労力を無駄にはしなかった。
「……ねぇ、婚約して一年経ったじゃん? せっかく同じ家に住んでるんだからさぁ」
「婚前交渉はしないと決めているんです。明日はガネル商会との商談ですし、早く寝てください。おやすみなさいませ」
深い仲になってしまえば、そういう情も生まれるんじゃないか。そんな口ぶりだった。
一理あると言えなくもない。世の中のほとんどの夫婦は結婚してから、愛や情を育てる。恋愛結婚なんて稀で奇跡。お貴族様なんて割り切ってしまって、お互いに愛人を作ってしまうほどだとも聞く。
「うん……。アンナも、頑張りすぎないようにね」
悪人ではない。悪口を直に言ってくるほど馬鹿でもない。私がお膳立てすれば、真面目に仕事もしてくれる。
でも、一度婚約を破棄されたということが、魚の小骨のように引っかかっている。もしも、もしも婚前交渉をした上で捨てられたら。
だって、信頼関係すらまだ生まれてないのだから。バタン、と自室のドアを閉めた。
それから数週間後のことだった。
「好きな人ができたんだ。次の嫁入り先は見つけておいたから、勘弁してくれないかい?」
なんでも、私が商談をセッティングした、あのガネル商会のお嬢さんなのだとか。遠目から見かけたことがある。気立てが良くて、賢そうで、見るからにお育ちが良かった。
献身的な村娘と、他領で市場占有率首位にいる商会の令嬢。どちらと一緒にいた方がいいか、経理やら商売に携わるうちに、私も理解できるようになっていた。
「仕事でお世話になっている人で、ウィンザー侯爵の騎士なんだけど、家のことに手が回らないらしいんだよね」
ここでの生活は、衣食住は充実していた。村にいては学べないことをたくさん学んだ。けど、ここまで頑張ってきたのに、一方的な婚約破棄にイラつかないわけがなく。
「お幸せに!」
バチン!
頬に張り手をして出て行った。痛い目になんてあったことがない元婚約者は、頬を押さえて呆然としていた。
出て行く前に元未来の義母に呼ばれた。
「今まで世話になったから」
と銀貨の入った袋……へそくりをもらった。とても残念そうな、申し訳なさそうな顔をしていた。
「いえ、ガネル商会との繋がりが得られるのでしたら、それも好きあっているのなら、その方が良いでしょう」
所詮、私はただの村娘。コネも何も持ってない。商会としては、何の利益もない。優秀な人材が欲しいなら、雇えばいいだけ。嫁である必要はない。
「……あたしは、あんたを娘だと思ってたよ」
「滅相もございません」
「なんかあったら、頼っておくれ」
そんな会話をした後、もらったへそくりで一回家に帰った。
幼馴染夫婦には子供が一人産まれていたけど、お母ちゃんがしっかり面倒見てもらえていて安心した。弟もちゃんと村の学校に通えていた。残りはいざという時に使えと置いてきた。これでしばらくは困らないはずだ。
長い間荷馬車に揺られてたどり着いたウィンザー侯爵領は、街よりも栄えていた。村とは文明が違うんじゃないかってくらい先進的だった。




