27. 世界は醜い
最初は死んでみようとしていた。元の世界に帰るには最も楽な方法だと思った。自死を試す前に、毒でも死なないことが証明されてしまった。ナイフで首を切りつけてみても、耐え難い痛みだけを感じ、傷一つ付かなかった。首を絞めようにもロープが切れた。
『……最悪だな』
痛みはそのままで、死に至るものだけが無効化される。この世界は、僕を引き留めて離さないようだった。流行りの転生物語のように、事故死したわけではない。本の中に囚われていると言った方が正しいのなら、役目や天寿を全うすれば出られるだろう……と思うしかなかった。神隠しのように取り込まれ、行方不明になっているとは、想像したくなかった。特に執着するものもなかったが、今まで積み上げてきたものがなくなるというのは腹が立つ。
『次に取るべき道は』
物語の破壊だ。未来を知っているというのはデカい。主人公がどこの村出身かどうかは知らない。特定はできない。商会だって、そんな小さなものはわからない。だが、僕の妻になる前に、主人公はウィリアムの婚約者になる。ウィリアムは拾った騎士から譲り受ける。つまり、騎士を拾わなければいい。
『話がある』
『なんだい?』
何より、ウィリアムには話してもいいと思った。こいつなら、僕の苦悩を理解してくれる。
……確かに発声したはずだった。
『何で口を動かしてだけいるんだい?』
跡形もなく、音が消えた。
『僕の声は聞こえるか?』
『聞こえているよ』
『────、────』
『だから、なんだい?』
次に文字に書こうとした。確かにインクをつけたはずの羽ペンは、なんの字も表さなかった。名前は書ける、別のことも書ける。だが、この世界についてだけが書けない。
数年後、ウィリアムが読唇術を覚えた時にも試した。無理だった。
『クソが』
物語を邪魔することは、何もできなかった。誰か適当なやつと婚約を結んで仕舞えばとも思ったが、候補同士でいじめ……エスカレートして殺し合いが起きた。全員候補から外した。思いつくことは、片っ端から試した。
何も、できなかった。世界は醜かった。おとぎ話のくせに血生臭く、また人間臭かった。
不完全で歪な世界で、誰もが確かに生きていた。端役ですらないモブも、誰も彼もが各々の生活を営んでいた。
子供を毒殺しようとする奴が、孤児院に出資し通っていた。孤児だった奴が富を手にして貧困層を虐げていた。嫉妬に狂って他人を刺そうとする奴が、落とし物を届けていた。落とし物を拾ってもらった奴が、物盗りだった。
クズであろうと善人であろうと関係ない。誰かの生活がまた誰かの生活の一部となっている。
『壮観な眺めだねぇ』
『吐き気がするな』
王城は高く、人の暮らしがよく見える。
……グロいと思った。
『人が嫌い?』
『ああ』
この物語は、勧善懲悪ではない。耐え忍んだ末の致富譚だ。救われたとして、心が晴れることはない。悪が懲罰されることはない。そんなのは、誰も望んでいない。
『……君はさ、少し間違えていると思う』
『何?』
『私たちは人間なんだよ』
ウィリアムが薄く笑う。
『救った人からは善として扱われ、犠牲にした人からは悪として扱われる。全てはどこを見せるかであり、本当に善である人は何もしていない人だ』
『随分と偉そうだな』
『そうでも割り切らないと、人の上になんて立っていられないよ』
否定されて腹が立つ。それは、自分を正当化しているだけだ。
だが、ウィリアムは、父親が荒らした領地を再生しようと奔走していた。民に好かれ、民を愛していた。
『君が何に悩んでいるのかは知らないし、知れないけれど、その精神は苦しむだけだ』
ウィリアムに理解してもらうことはやめた。現代を生きてきた自分と、物語の世界しか知らないやつは、価値観が違うのだ。
ただ、静かに生きた。逃れられない運命から、目を背けて生きた。
『やあ、待っていたよ。彼女が私の婚約者のアンナだ』
『お初にお目にかかります。アンナと申します』
それでも、時は来てしまった。
『チッ』
世界に対するイラつきは最高潮で、思わず舌打ちをした。




