14. 理解できぬ思惑
『お帰りなさい。お夕飯できてますよ』
家に帰るとシチューの匂いがした。アンナさんは何の心配もせず、いつも通りそこにいて、安心した。
『ありがとう存じます。……あの』
『はい、なんでしょうか』
『遠征で男爵家のご令嬢に助けていただいたのですが、お礼はどうしたら良いでしょうか』
そして恥を思い出した。未熟者。不甲斐なし。なるべく早く忘れてほしい。
『男爵令嬢とのことですし、侯爵領で流行りの紅茶の茶葉などはいかがでしょうか』
『良いですね。そうします』
遠征について話した後から、一切表情を変えないアンナさんの目が、ほんの少し陰った気がした。
必死に帰ってきたが、そもそも俺が死んだとして、彼女は慰労金をもらえるのだろうか。主君より先に結婚する気はなかったが、人を路頭に迷わせてしまうのだ。優先すべきは、そちらだ。数日間迷って、アンナさんに提案してみた。
『自分は、これ以上貴女を不安定な立場に置くのは……と考えますが、アンナさんはどうでしょうか?』
『お気遣いありがとうございます』
やはり、アンナさんはすぐに頷いた。ここまで従順にされると、本当にいいのかと迷ってしまう。でも翌日はどうにか予定をこじ開けて、必要な書類や用事を済ませることにした。
まずは、アンナさんが買ってきてくれた茶葉を持って、男爵家に向かった。早く行くつもりが、仕事が忙しくて行く暇がなかった。突発的に恥じることが多く、辛かった日々ともおさらばだと、そう思った。
持ってきていただいたのだから、とお茶に誘われた。改めてお礼とお詫びをしたが、当然のことをしたまでですから、とあわあわとされた。
男爵令嬢は、やはりショコラのような人だった。くるくると表情が変わり、淡く笑う。口の中が甘い。今だけ、自分の血生臭さを忘れるほどに。
『甘いものがお好きなのですね』
『っぐ!! 何を!!』
アンナさんにもバレなかったのに。なぜ。
『美味しい紅茶をいただいたことですし、とっておきのお菓子も持って参ります』
男爵令嬢が持ってきたオランジェットは美味くて、やっぱりお菓子が好きで。
『ふふ、嬉しそう』
恥のせいではなかったのだと、気づいてしまった。
『あのですね、お礼を言うのは私の方なんです。賊を倒してくださって……守ってくださって、ありがとうございました』
男爵令嬢はふわりと微笑んだ。帰りの足取りは、酷く重かった。
俺は……馬鹿だ。自分の感情すら理解できていなかった。
他に好きな人がいる男が、あの献身的な人の支えをのうのうと受けていいのだろうか。結婚していいのだろうか。おそらく俺は、一生彼女を愛せないのに。一生愛さない男に、家族になれないやつに、尽くせというのか。彼女はそういうものだと割り切って承諾してしまう人なのに。
……だが、婚約を破棄されてきた人をまた破棄だなんて非道だ。そもそも、彼女には何もない。頼れと言われても商会に戻ったところで居場所はない。村に戻るなんてとんでもない。俺は街生まれだが、遠征で色々な村を見た。出戻りした人間に、居場所はなかった。
どうしようかと悩んでいるうちに、罪悪感は積もっていく。腹を括って、この世で一番尊敬する人に相談することにした。
『……なるほど、君は、それで悩んでいると』
主君が足を組む。口元を隠すように考えるのが、主君のクセだ。
初めて会った時、拾ってもらった時も、そうやって考えていた。考えた末に、裏路地の物盗りを掬い上げて、剣を持たせ、罪を犯さずとも守る力をくれた。だから俺は、一生この人の剣となるのだ。
『では、僕が譲り受けても問題ないだろうか』
『……は?』
『安心するといい。私は殿下が婚姻なさるまで結婚するつもりはなかった。無駄な権力争いはごめんなんだよ。だから、事が落ち着いてから、適当に都合のいい女性を娶ろうと思っていたんだ』
適、当。
『私は彼女を気に入っているし、それが有能な女性になるというのは悪くない。私が誰かに恋に落ちることはなく、彼女も僕に興味はない。つまり、お互いに契約だ』
それは、とてもいい話だ。侯爵の婚約者なんて、何を持っていてもなれない。王族でさえ、簡単にはいかない。金にも、権力にも、何も怯えずに過ごせる。昔最下層から見上げていた、最強の場所だ。あまりにも、いい話すぎる。
『私が、君に嘘をついたことがあったかな?』
戸惑う自分を、侯爵は見つめた。そんなことはない。我が主君は、俺に嘘をつかない。
『君に、北東部隊長を任命しようと思う』
辺境に飛ばすと、そう言われている。
『君は今回、指揮を誤った。君が庇ったとしても、危険な目に晒したことは変わりない。これは罰であり、一度チームの一番上を経験した方がいいという判断でもある』
俺は、謹んで拝命した。
『好きな人ができました。悪いとは思っています』
そう伝えた時の、アンナさんの顔が忘れられない。
『ですが、主君が貴方を婚約者として迎えたいと……』
初めて、表情を見た気がした。
『誠実に言ってくださってありがとうございます』
驚いて、傷ついて、でもどこかほっとしているような、そんな顔だった。
『貴方も、私を捨てるんですね』
彼女を好きになれなかったことは確かな裏切りであり、誰もが羨むものの誰は、アンナさんではなかった。
『それとは別に、お幸せに』
俺は北東の地で、日々の仕事に励んでいる。男爵令嬢がたまに来て、甘いものを差し入れてくれる。食べていい身の上ではないと拒否しつつも、悲しそうにされてしまうから、一つだけもらっている。
侯爵の婚約者となったアンナ様に、お会いする機会はない。いまだに、あの時どうすれば良かったのか、わからない。
「主君……」
あの人が、俺にショコラの味を覚えさせた。
貴方は一体、何を考えていたのですか。
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