【第三章 第十二話 新しき翼、新しき誓い】
――戦場は、静まり返っていた。
先ほどまで轟音と怒号に満ちていた大地は、まるで時間そのものが止まったかのように沈黙を取り戻している。
槍を構えていた兵士も、魔法を放とうとしていた魔導師も、剣を振り下ろす寸前の騎士も――皆、動きを忘れた人形のように硬直していた。
その理由はただ一つ。
城壁の上に立つ青年――
いや、今や青年と呼ぶにはあまりに異質な存在へと変貌した“誠人”の放つ、圧倒的な気配だった。
青白い輝きが彼の体を包み、背には光の翼が広がっている。
風もないのに羽のような光の粒子が零れ落ち、大気に溶けていく。
その光景は美しくも畏ろしい。見上げる者すべてが思わず膝を折りたくなるほどの威圧感を伴っていた。
近衛兵の一人が小さく呻いた。
「……神か……?」
隣の兵士が首を横に振ろうとするが、声にならない。
人間の理解を超えた存在がそこにある。
ただその事実だけが、兵たちの心を支配していた。
「……誠人」
リルの声は小さく震えていた。
しかし恐怖ではなかった。
胸を満たしていたのは、ただ圧倒される畏怖と、ようやく辿り着いた瞬間を共にできた喜びだ。
彼女の視線は揺らぐことなく誠人を追っている。
もしも他の者ならば、その光景に怯えて目を逸らしていたに違いない。
誠人の唇がゆっくりと動いて告げた。
『マクシミル・ロアン・ゼルフィード』
その瞬間、戦場の空気が一変した。
敵も味方も、その名を耳にした者たちの間にざわめきが走る。
「まさか……伝説の……」
「あり得ない……彼は数百年前に――」
「いや、姿かたちも、文献などに残っているものとは……」
各軍団長までもが動揺を隠せず、互いに顔を見合わせた。
それほどまでに、その名は特別だった。
英雄の名でもあり、忌むべき脅威の名でもあったからだ。
ロアン――いや、誠人は、膝をついたまま深呼吸を繰り返し、徐々に立ち上がった。
その目は蒼く燃え、戦場のすべてを射抜くような鋭さを帯びている。
「……これが、俺の真の姿……」
低く呟くその声だけで、周囲の空気が震えた。
誰もが息を呑み、言葉を失った。
――だが、誠人の胸の内は、決して穏やかではなかった。
蘇った記憶の重さに心が押し潰されそうになっていた。
仲間たちの笑顔、無残な死、血に濡れた大地――
それらはすべて、この≪マクシミル・ロアン・ゼルフィード≫という名に繋がっている。
だが同時に、今の誠人の心に確かなものがあった。
「だが俺は……佐竹誠人だ。過去の名を持っていたとしても、前世の俺じゃない」
声にならぬ誓いが胸を焦がす。
そう、ロアンという名は受け継いだ力を示す証にすぎない。
だが、自分を形作るのは前世ではなく、今を生きる誠人自身なのだ。
沈黙を破ったのは、敵陣営の奥から響く重厚な声だった。
「フッ……やはり現れたか」
戦列を押し分けるように進み出たのは、一人の男。
漆黒の鎧に身を包み、肩まで伸ばした銀髪を風になびかせている。
その瞳は獣のように鋭く、歩みの一つひとつが地を揺るがす。
彼が現れた瞬間、魔族の兵士たちは歓喜の咆哮を上げた。
その存在がただ者ではないことを、誰もが理解している。
誠人の心臓が、どくりと跳ねる。
見覚えがあった。
いや、正確には記憶の奥底から“既視感”が噴き出してきたのだ。
「お前は……」
男は誠人を見据え、嘲るように口角を吊り上げた。
「久しいな、マクシミル・ロアン・ゼルフィード」
その名を呼ぶ声は、敵意と歓喜の入り混じったものだった。
誠人の背筋に冷たいものが走る。
前世の記憶が、断片的に蘇る。
仲間の笑顔。
血に濡れた大地。
絶望の叫び。
そして――目の前の男が振るった漆黒の刃に倒れていった仲間たちの姿。
「……お前は……!」
言葉を探す誠人の胸に、怒りと悔しさ、そして説明できない感情が一気に溢れた。
その感情の奔流が彼の中で蠢く。
リルが隣で小さく囁く。
「誠人……落ち着いて」
その声がなければ、誠人は暴走しかねなかっただろう。
光の翼が揺らぎ、蒼い瞳の奥で前世と現世がせめぎ合う。
敵将は愉快そうに笑った。
「また会えて光栄だ。 前回果たせなかった決着――今度こそ、ここでつけてやる」
その声に呼応するように、魔族の軍勢全体がどよめいた。
戦場は、再び嵐の前の静けさに包まれる。
誠人は深く息を吸い、視線を敵将から逸らさずに告げた。
「俺は……佐竹誠人。だが――マクシミル・ロアン・ゼルフィードでもある。ただ二度と、その名に縛られるつもりはない」
リルが息を呑み、彼を見つめた。
それは過去を抱えながらも、未来を切り開こうとする強き宣言だった。




