第二話【最適解】
「だから言ってるじゃないですか! 真ん中が一番、目立つんですってば!」
「愚問だな、中村君。北東のこのエリアが最適に決まっている。異論は認めん」
研究室のデスクに並んだ二台のノートPC。その画面をお互いに指差しながら、中村と久我山教授は譲らぬ視線を交わしていた。
ディスプレイに映るのは、大阪博覧会会場の展示ブース配置図。だが互いに示す最適ポイントは、全く違う場所を指していた。
「じゃあ決着つけましょう。ディスカッションで、勝った方の意見を採用ってことで!教授、逃げないでくださいね?」
「ふん。いいだろう。血迷った小娘の言い分を、論理でねじ伏せてやる」
静かな火花を散らしながら、彼らの論戦の幕が切って落とされた。
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昼下がりの研究所──
一室の前には、珍しく人だかりができていた。
「なんだ、何かあったのか?」
「聞いたか? 久我山教授と助手の中村さんが、展示場所を巡って討論するらしいぞ」
「あの久我山教授が、そんな茶番に……!?」
噂は瞬く間に広がり、やがて研究所内の関係者が続々と部屋へと足を運びはじめた。
会議室の奥には巨大なスクリーンが設置され、その左右には演壇がひとつずつ。中村と久我山はそれぞれの陣営として、まるで討論会のライバル同士のように立っていた。
ざわめきの中、中村がマイクを手に取ると、耳障りなノイズが部屋に響いた。
ブオォーン──
一瞬にして空気が張り詰め、皆が静まり返る。
「本日は、私たちの私的な論争にご興味を持って集まってくださり、誠にありがとうございます! ディスカッションに先立ち、簡単にルールを説明します」
中村が手元のリモコンを押すと、天井の照明が切り替わり、部屋の左側は柔らかな黄色、右側は妖艶な赤色に染め上げられた。
「これから議論するのは、“青い彼岸花”をどこに展示すべきかという一点です。私・中村の意見に賛同される方は黄色いライトの下へ、久我山教授の提案が妥当だと思われる方は赤いライトの下に移動してください。そして討論終了時点で、より多くの支持を集めた側の意見を採用とします!」
彼女は手早くスクリーンに展示ブースの配置図を投影した。会場中央には大きな空きスペースがあり、それを囲むように各分野の展示が並んでいる。東にはインタラクティブ技術、北にはレストラン、北西にはトイレ。南西には化石エリア、西に美術。北東にはトイレと空きスペース──。
「ご覧のとおり、どう見ても会場中央のこのスペースが最も人目を引く場所です。人の流れを考慮すれば、展示効果は絶大。SNSで拡散される可能性も高い」
周囲の人々がうんうんと頷き始める。
「確かに目立つな」
「SNS映えを狙うなら、真ん中一択かもしれん」
そして、じわじわと黄色いライトのエリアに人が集まり始めた。
赤の下に残るのは、ほんの数人。
──それでも、彼らは動かなかった。
「久我山教授、何か策でも?」
教授は目を閉じたまま、静かに佇んでいた。まるで沈黙そのものに意味を持たせるように、言葉を一切発しない。
「このまま教授が何も言わなければ、勝負はついちゃいますよ〜?」
中村が挑発的に笑いながら言葉を続ける。
「作品はただ展示されるだけでは意味がありません。多くの人に“見られて”、そして“語られる”ことで初めて意義が生まれるんです。認知されてこその芸術です!」
会場がどよめいた。赤色の照明の下から、数人が黄色へと歩を進める。
「まぁ……それも一理ある」
「目立つ場所に置かなきゃ、始まらないもんな」
その時だった。
「ーー中央にあるモノを、人々が本当に“見ている”と思うか?」
久我山がようやく目を開き、ゆっくりと口を開いた。
「ふっ……」
微笑みを浮かべながら、彼はスクリーンに新たな図を投影した。ブース全体を時計回りに囲むような矢印が幾重にも描かれている。
「この矢印の列なりが、何を意味するか分かるかね?」
静まり返る会場の中で、ぽつぽつと意見が飛び交った。
「効率的な回遊ルート?」
「スタンプラリーでもする気か?」
教授は鼻を鳴らした。
「違うな。これは、長年にわたって蓄積された、我々日本人が“自然と選ぶ動線”を示している。博物館でも、遊園地でも、人は無意識にこうしたルートで場を巡るのだよ」
室内に緊張が走る。
「つまりこういうことだ。人々は中央の展示物を“目には入れる”が、“立ち止まらない”。回遊の流れから外れた存在は、風景と化す」
さらにスクリーンが切り替わり、今度は来場者の関心分野に関するグラフが映し出される。
「統計でも明らかだ。インタラクティブ技術や音楽パフォーマンスへの関心が圧倒的。つまり、強い動機を持つ者ほど“目的地”へ一直線に向かう。中央ではなく、東か北東を通る可能性が高いのだ」
赤のエリアにどよめきが走る。次々と人が移動してくる。
「そ、そんな……!」
動揺を隠せない中村。拳を握りしめ、唇を噛み、うつむいていたが──
やがて、顔を上げた。
その瞳には、悔しさと、確かな意志が宿っていた。
「……でも、理屈じゃないんです。私たちがこの花に懸けた想い……心血注いで育てたこの“青い彼岸花”が、誰の目にも触れず、ただ黙って隅に追いやられるなんて──私は、耐えられません!」
その声は震えていたが、澄んでいた。感情のこもったその一言が、会場の空気を変えた。どよめきと戸惑いが混ざった空気へと。
「中村ちゃん……」
「そこまで想っていたのか。気付けなかった自分が情けない」
赤いエリアに引き寄せられていたミツバチたちは、抗えぬ蜜の香りに誘われるように、次々と黄色のエリアへと舞い戻ってきた。
共感性という甘く濃密な蜜が、久我山の緻密な論理を、まるで無味乾燥な紙片のように吹き飛ばしていく。
「おい、待て! 感情論に振り回された学者が、どうなってきたか知らんわけじゃないだろうな!?」
黄色に染まったフロアには、中村への共鳴が渦を巻き、久我山の掲げる“理念”は、今や見る影もなかった。
焦燥の色を隠しきれない久我山は、背後のスクリーンに視線を向ける。
顎に手を当て、つま先で無意識に床をリズムよく叩きながら、静かに思考の迷路を彷徨う──
そして──
「……むっ!これは……!」
低く漏れた声が、閃きを得た証だった。
彼はくるりと振り返り、かつての堂々たる声音で、研究者たちに呼びかける。
「諸君!では、こう考えてみてはどうだろうか」
彼は一歩、壇上を踏みしめる。
「中央に作品を置く。それで得られるのは本当に“共感”なのか?──いや、“承認”に過ぎないのではないか。自己の欲を満たすだけの、内向きな満足感に過ぎないのでは?」
感情にすり寄るようでいて、その奥には鋭く冷たい問いがあった。
久我山は論理だけでなく、ついに“問い”という武器を手にし、再び議論の場へと舞い戻った。
そしてそのまま勢いを落とさまいと、過去の文献などを持ち出して反撃に移る。
「音楽エリアと北東の空きスペースの間にはトイレがある。過去にはトイレの近くのブース作品の評価が総じて高かった事例があり…」
久我山の話を遮るように研究者達は言葉を重ねた。
「見苦しいですよ久我山教授!」
「あんたの理念は素晴らしいが、俺たちの気持ちの方が何倍も強いんだ」
久我山は手元の台をドン!と叩くと静まった部屋内に声を張り廻らせた。
「もういい!極論でわかるように言ってやろう。人間は便意を催せばトイレに行く。トイレで排泄すれば副交感神経が優位になる。副交感神経が優位になれば、心が穏やかになり、感受性が高まる。感受性が高まれば、芸術への感動も増す。つまり──『トイレの隣』は、人間が最も芸術に心を開いている場所なんだ!理解できたかね?」
「いやそんな理屈聞いたことないんですけど!」
一度の突っ込みを経て、部屋内からは騒めきすら消え去り、信じられない程静かになった。
誰も理解など出来る筈がなかったからだ。ただ久我山に対して軽蔑の眼差しを向ける者たちが大半を占めた。
「教授……俺はあんたの事尊敬してたし憧れてた。だけどそんな気持ちが今では噓のように失せてしまっている」
「自分の主張を通すために、そこまで支離滅裂な理屈を並べるなんて……情けないですよ」
落胆、失望、そして疑念。
それらが重なって、教室の空気はどこまでも沈んでいく。
このまま中村の勝利で終わる、誰もがそう思ったその時――
「……本当に、真ん中よりもトイレ近くの壁際の方が、評価されやすいんですか?」
不意に中村が口を開いた。
久我山に投げかけられた問いは、思いがけない“歩み寄り”だった。
久我山はその言葉に少し戸惑った様子を見せたが、すぐに真剣な眼差しで応じた。
「ああ……理論において、私は決して嘘はつかない」
その答えに、中村はしばし黙り込む。
だが、やがて意を決したように、しっかりと顔を上げて言った。
「じゃあ……そこに置きましょう!誰かの心を震わせられるなら、その方がずっと嬉しいですから!教……」
勢いそのままに話し出した中村だったが、足元のマイクコードに気づかず、バランスを崩す。
倒れかけた彼女は答弁台にぶつかり、上にあった照明用のリモコンが横にスライドする。
そのまま床に落下し、ボタンの一つを押してしまう。
すると、室内の照明が一変。
赤と黄で分かれていたライトがすべて青に染まり、室内全体が幻想的な青の光に包まれた。
その場の誰もが状況に困惑する中、突然、久我山が叫んだ。
「これだ!」
その言葉に、再びざわめきが広がる。
久我山はそのまま、確信に満ちた声で続けた。
「夜間ライトアップ!中央展示でも目を引けるし、むしろ印象が強まる!これならいけるぞ!」
青いライトの眩しさと、久我山の青い彼岸花への信念が頭の中で融合し、新たな考えを創造したのだ。
「……あ!それ最高です!」
中村もその意見に納得した。
だけど、その後思い出した様に久我山に対して挑発をした。
「……でも次は負けませんからね、教授」
「ふっ、それはこっちの台詞だ」
こうして、思わぬアクシデントが転機となり、二人の間に芽生えたのは、奇妙な共鳴。
偶然から生まれたその発想の転換が、彼らの間に確かなシンパシーを生んだのだった。