私を溺愛する婚約者が記憶喪失になってしまった結果
真紅の髪とエメラルドの瞳を持つウィルトン侯爵令嬢、アンジェリカには生まれた時から許嫁がいる。
彼の名はリナルド・モートン。公爵家の次男でアンジェリカとは従兄妹の関係にある。
アンジェリカとリナルドの祖父エイモン・ウィルトン前侯爵は、この国、ブルトン王国の英雄と謳われる将軍だった。
当時の王女が、王国史上最高や大陸一と呼ばれるほどの美女で、その美貌ゆえに数多の求婚者が絶えなかったのだが、どうしても愛娘を国外にやりたくなかった時の王は、信頼の置ける、ある若い公爵を婿として選んだ。
それが気に食わなかった隣国の王がブルトン王国の大使を殺し、力づくで王女を奪おうと山脈を超え攻め込もうとして来た時、迎え撃ったのがエイモンだった。
エイモンは当時二十五歳ほどの若い将軍だった。騎馬技術に長け、そのカリスマ性で兵の士気を上げ、自ら率先して戦場を駆け巡ることで、的確な判断で軍の力を最大限に引き出し、敵の先鋒を迅速に打ち砕いた。
そして、なかなか諦めずに何度もやって来た敵を都度打ちのめし、大きな被害なく見事和平に持ち込んだ男だった。
そんな英雄である祖父の血を継ぐ二人は、次代侯爵家を引き継ぐ存在として、また、辺境伯として国軍を指揮する未来の将として、早いうちに夫婦になることが定められた。
一時、リナルドを侯爵家の養子として、アンジェリカが王家に嫁ぐという案も大臣の中で話し合われた頃もあったが、王子の一声でその花嫁の役目はリナルドの妹に委ねられることになった。
アンジェリカにとっても、侯爵家を出ずに済んだことは僥倖だった。物心ついた時から可愛がってくれた三つ年上の従兄が、「未来の婿」だと刷り込まれて来たので、他所に嫁ぐことも違和感でしかない。はっきりと口にすることはないが、成人してリナルドと正式に夫婦になる日を密かに楽しみにしていた。
でも、なかなか素直になれず、それを正直に口にすることはなかった。
逆に、リナルドは素直な性格で、アンジェリカに対する愛情を隠そうとしない。
いつもアンジェリカを可愛いと誉めそやし、美しいと讃え、その機知を認めてくれる。アンジェリカはそれを嬉しく思いつつ、また気恥ずかしくも思って、時々受け止めきれずにいた。
しかし、同時にアンジェリカにとってこの国境を守る自領で、リナルドとともに生きていくというのは当然のことで、それ以外の未来など想像しようもないものであることも間違いなかった。
そんなある日、アンジェリカは馬に乗って、従者数人と共に領地の山の様子を見廻っていた。
国境は山脈の尾根に沿って敷かれており、侯爵邸のある領都から数十キロの山間部に砦の町がある。戦場になったのはその先の谷合だが、今は戦争もなく、国を行きかう商人たちが主に利用しており、日々の交通量は多い。山の中に昔のように山賊がいるという話は聞かないが、獣害は発生しており、山々の視察は領主候補にとって重要な仕事だ。
現在、王家の近衛兵として王宮に勤めているリナルドは、休暇を取って季節ごとにウィルトン領で十日間過ごすのだが、まさにその夜に数か月振りに戻ってくる予定だった。
初夏に近い春で、山の木々も鮮やかな新芽で一新され、冬眠から目覚め食料を求めて熊などの猛獣もうろつく時期なので、リナルドが来る前に異変がないか一度確認しておこうと思ったのだ。
カサリ、カサリと馬が去年の秋の名残の枯れ葉を踏み込む音が響くほどに、あまり風もなく、のどかな日だった。
たまに遠くで鳥が飛び立ったかのような音が聞こえたりするが、特に問題はなさそうに見えた。
「まだここまでは熊も来ていなさそうね」
「そうですね。今年は雪が少なかったので、食べ物も多いのでしょう。ウサギや鹿も良く捕れると猟師たちが喜んでいましたよ」
「そういえば、ウサギ料理が連日のように出てくるものね。たまには鹿でも食べたいけれど、この春はまだ食卓に上がっていないわ」
「多分今夜は鹿が振舞われますよ。リナルド様の好物ですから、奥様が料理長に命じておられました」
「あら、お母様ったら、私だって鹿のシチューが好きなのを御存じのはずなのに、婿には甘いのね」
従者たちは拗ねた振りをして大げさに頬を膨らませるアンジェリカのその表情に笑いを漏らした。皆長年の付き合いで、冗談も通じる気安い仲だ。アンジェリカもその様子を見て、笑って言った。
「じゃあ、鹿料理を食べ損なわないように、今日はこの辺にして帰りましょう。遅れたらリナルドに全部食べられちゃうわ」
そうしてアンジェリカ達はウィルトン邸に向かって馬を走らせた。すると、屋敷が見えるか見えないかの所で、アンジェリカはよく知る声を耳にした。
「アンジェ!」
遠くから名前を呼ばれて振り返ると、そこには嬉しそうに手を振るリナルドの姿があった。
アンジェリカはリナルドがこれほど早くこの地に帰って来たことに驚いた。
「リナルド!やけに早いわね!着くのは夕方になるかと思っていたわ」
まだ昼過ぎで、予定の時刻よりもずいぶん早い。アンジェリカは久しぶりに会う婚約者に笑顔を忘れて、驚きの声を上げた。
まだ社交界デビューを終えていないアンジェリカは領地で暮らしており、二人はほとんど離れ離れで、会えるのは一年の内、百日も満たない。その貴重な百日弱を少しでも長くできるように、リナルドは愛馬を駆り、最速でやってくる。
しかし、アンジェリカはそれがどんどん早くなっているような気がして、逆に何か起こるのではと心配していた。
「リナルド!何時に出たの?早すぎ!」
アンジェリカに見惚れるように相好を崩すリナルドに対して、少し苛立った声が出てしまうが、リナルドは気にした様子もなく答えた。
「昨日の昼過ぎだよ。どこにも寄らずに真っ直ぐ来たんだ。途中野営をしたから、睡眠はちゃんと取れてるよ」
以前に夜通し馬を走らせて来たと答えた時に、アンジェリカにとても怒られたことを忘れていなかったのか、言い訳するようにそう口にしたリナルドだったが、アンジェリカの眉は皺を寄せたままだった。
「……リナルド、馬が可哀そうでしょう」
「前に馬替えしたら、結構時間がかかったらさ。今回は近道を通ったし、速度は落としたから、バヤールは元気だよ」
確かにリナルドの愛馬、バヤールは疲れた様子を見せず、元気そうだったが、自身も愛馬を大事にしているアンジェリカはリナルドの無茶な様子に少し腹が立ってしまった。
本当は笑顔で「会いたかった」と言うつもりだったのに、その調子が崩れたことも苛立ちを加速させる。
対して、リナルドはそんなアンジェリカの様子を気にすることもなく、自身の気持ちを口にする。
「バヤールには悪いけど、アンジェに早く会いたかったんだ。俺にとってはとても貴重な十日間だから、一秒でも長く一緒にいたい」
そう、リナルドが瞳をのぞき込みながら言うので、アンジェリカは顔が熱くなるのを感じた。つい先日、王都で王太子とリナルドの妹のエリザベスの結婚式が行われ、やっと休みが取れたのだと聞いていた。最後のリナルドの手紙では、仕事が多すぎて、一か月ほど公爵家にさえ顔を出せていないと嘆いていた。そんな中を急いで会いに来てくれたことは、何よりもリナルドのアンジェリカへの愛の大きさを感じさせた。
「もう!来たものはしょうがないわ。屋敷に行きましょう。おじい様達を驚かせなきゃ」
アンジェリカは照れ隠しのようにリナルドから瞳を逸らし、馬を走らせようとした。
しかし、その時、横から何かが飛び込んできて、驚いた馬が足のバランスを崩し、乗っていたアンジェリカの身体が振り払われるように宙に浮いた。
「アンジェ!」
リナルドがかばおうとして、アンジェリカに手を伸ばし、二人は地に投げ出された。
従者たちが二人の名を呼び叫ぶ中、アンジェリカが身を起こした。
「痛っ……。もう何……?」
遠くでウサギのような影が見える。あれがちょうど馬の足元を抜けようとした所だったのかと、アンジェリカが認識したあと、リナルドのうめくような声が聞こえて、アンジェリカは我に返った。
「リナルド!大丈夫!?」
リナルドは時々うめき声を漏らすが、意識がないように見えた。アンジェリカをかばって下敷きとなり、頭からは血を流している。
「ちょっと!誰か、お医者様!」
結局リナルドは頭の外傷以外は特に問題なさそうだということで、安静に寝かせておくようにとの診断だった。
医者は大丈夫だろうと言って帰ったが、意識が戻らないので、ウィルトン邸の者たちは皆心配で、鹿料理どころではなくなってしまった。もちろんアンジェリカも食事も摂らずに、リナルドに付き添った。
――神様、お願いです。リナルドを助けてください。
アンジェリカは一生懸命祈り、時々苦しそうに身をよじるリナルドの額をさすった。
巻かれた包帯が痛々しくて、我がことのように涙が出てくる。
「リナルド、早く目を覚まして……」
アンジェリカの切ない言葉が届いたのは、結局二日後のことだった。
「貴女が倒れたらどうするの!?」
母親に促されて、無理やり睡眠と食事を摂らされ、風呂に入れられた。
「そんなにみっともない姿を婚約者に見せて良いわけないでしょう?いつ目覚めても良いように、身だしなみを整えなさいな」
そうして、服を着替えて髪を整えていると、リナルドの専属侍従のモージが部屋にやって来た。
「リナルド様がお目覚めになられたのですが!」
「リナルドが!?」
アンジェリカは髪を束ねるのをあきらめて、リナルドの部屋に駆けた。
「アンジェリカ様、お待ちください!実は問題が生じまして……!」
アンジェリカは足を止めずに侍従に聞いた。
「問題ですって?何が?」
「それが頭を打った影響で、記憶が……」
「はあ?どういうこと?」
ちょうどリナルドの部屋の前にたどり着き、アンジェリカは扉の前で立ち止まり侍従の言葉に耳を傾けた。
「それが、記憶が失われているようで、私たちのことはおろか、ご自分の名前も忘れてしまわれております」
「そんな!」
アンジェリカはあまりのことに叫ぶように大声をあげてしまい、慌てて口を両手で押さえた。
「……じゃあ、私のことも?」
声を押さえてそう聞くと、モージは重苦しい声を出した。
「お名前に聞き覚えはないということでした。しかし、あれだけアンジェリカ様を想っておられましたので、お顔を見れば、きっと!」
モージの祈るようなその言葉に、アンジェリカは眉根を寄せた。
記憶を失ったリナルドが、自分を見知らぬ他人のように扱ったらと思うと、扉を開けることがためらわれた。しかし、一番不安なのはリナルド本人だろうと思うと、アンジェリカは彼を支えねばと覚悟を決めるのにそう時間はかからなかった。
呼吸を整え、扉をノックすると、「はい」と聞きなれた声が答えた。とりあえず、命は無事なのだと安堵の息が漏れる。
アンジェリカは静かに扉を開けた。
リナルドは扉が開いた瞬間、現れたアンジェリカを食い入るように見つめ、言葉を発しなかった。
いつもならすぐに「アンジェ!」と嬉しそうに口にするリナルドの常と違う様子にアンジェリカは記憶喪失という言葉を身に染みて感じた。
「リナルド、調子はどう?アンジェよ。私のことも忘れてしまったかしら?」
「……やはり、天使なのか……。ここは天国なのか?俺は実感はないが天に召されたのだろうか。しかしこんなにも美しい天使がいるなら、やはり天国とは素晴らしい所なのだな」
瞳を逸らさずに「アンジェ」と口にするリナルドに、一瞬記憶が戻ったのか!と周囲は喜色を浮かべたが、それに続く言葉に「アンジェ違い」だということにすぐ気付いた。
「天使じゃないわ。私はアンジェリカ、貴方の婚約者よ。思い出せない?」
「婚約者だって!?なんてことだ。薔薇のように美しい貴女が、俺の婚約者……。信じられない。これは夢か?」
そう言って、自分の頬を抓って、「痛い!夢じゃない!」と一人芝居を打つリナルドの様子にアンジェリカはなんだか嫌な予感がした。
リナルドは、素直な男で、愛情表現は惜しまなかったが、なんだかその域を超えたものを感じ、全くの別人のように見えてアンジェリカは後ずさった。
「アンジェリカ嬢、ああ、どうかもっと近くで貴女の存在を感じさせてください。これが夢じゃないと、哀れな私に教えてください。真紅の薔薇の妖精のような貴女が幻でないと、私の手を取っていただけませんか。今、私は、この幸せが砂のように崩れ落ちるのではないかと不安でたまりません。どうか、その御手に触れて、貴女が実在するのだと教えてください」
切なそうにそう懇願するリナルドに、アンジェリカの顔は青褪めた。
――リナルドがおかしくなってしまった!
「……誰か、すぐにお医者様を!」
アンジェリカはどこかの芝居で観たようなリナルドのその歯の浮くようなセリフに鳥肌を立たせて叫んだ。
「まあ、打ち所が悪かったのでしょう。一過性のものだとは思いますが、日常生活に支障はなさそうですし、その内自然に思い出すまで、このままでも特に問題はありませんよ」
「嘘よ。人の顔も分からないのに、問題ないわけないでしょう!」
「使用人の名前と顔もすぐに覚え直せましたし、貴族年鑑を見せて説明しても、問題なく覚えることができています。リナルド様は元から優秀で物覚えの良い方でしたが、記憶を失われても、そこは変わらないようです。もし中々戻らなくても、重要なことは簡単に説明すればすぐに覚え直せるでしょう。日常的な常識は理解できているようですし」
アンジェリカが子供の頃からお世話になっている医者はこともなげにそう言った。
公爵令息で近衛騎士、そして将来の辺境伯が本当にそんなことで大丈夫なのだろうか?不安しかないとアンジェリカのみならず侍従たちも思ったが、意外にもエイモンが、「じゃあ安心だな!流石リナルドだ!記憶を失ってもできる男だ。問題なさそうで何よりだ!」と笑って宣言したので、誰もそれ以上何も言えなくなってしまった。
「アンジェ、リナルドの面倒をよく見てやりなさい。とりあえず、ここに滞在する間は、ずっとそばにいてやるんだぞ」
「えっ、おじい様!?」
祖父の有無を言わさぬ様子に、アンジェリカは慌てて言い返そうとしたが、あっという間に皆がぞろぞろと部屋を出ていき、後にはリナルドと二人きりになってしまった。
「……」
何も言葉が浮かばず、祖父たちが出て行った扉をしばらく見つめてしまったアンジェリカは、髪をかき上げると、自身の頬を両手で叩いた。
――何をすべきか、まだ分からないけれど、とにかくリナルドの記憶を取り戻さないと!
『アンジェ』と優しく微笑むリナルドの姿が脳裏をよぎり、アンジェリカの瞳に涙が滲んだ。頬の痛みのせいではなく、あの存在が失われて、まるで別人のようになってしまったことが、とてつもなく不安で悲しかった。
――彼をあきらめたくない。
アンジェリカは想いを口にすることはあまりなかったが、それでも確かにリナルドを愛していた。元のリナルドに戻ってほしい。その思いを口にすることはできないが、リナルドの記憶が戻るように彼を助けるしかない。
「……あの、頬、大丈夫ですか?」
恐る恐るといったように、後ろから声がかかった。
振り向くと、リナルドが心配そうにアンジェリカを見つめていた。
「大丈夫よ。ちょっと、色々動転してしまったから、気合を入れ直したの」
「気合ですか?せっかくの白い頬が赤く腫れて痛々しい……。どうかこちらへ。タオルで冷やしましょう」
「そのタオルは貴方の傷のためのものよ。私は大丈夫。さあ、私が付き添うから横になっていて。頭を怪我しているのだから貴方はまだまだ安静にすべきよ」
「いえ、もう眠くないので。良ければ水浴びをしても?……汗臭いでしょう?女神にいつまでもこんな姿のまま接するのは、冒涜以外の何ものでもない。どうか身なりを整えさせてください」
「女神って、何?」
リナルドは無神論者ではないが、特に敬虔な信徒でもないし、この国の宗教には女神はいない。もちろん部屋にも女神像のようなものはない。アンジェリカは思わず部屋を見渡して確認するが、リナルド専用のこの部屋はシンプルで品は良いが、装飾はほとんどない。
「もちろん貴女のことです。アンジェリカ」
「はあ?私?」
さっきは天使だ妖精だと言っていたのに、いつのまにか女神に格上げされていた。リナルドの美辞麗句は留まるところを知らないようだ。その内一周廻って魔女だ、妖婦だ言い出しかねないと、アンジェリカの方が頭が痛くなった気がした。
「……とにかく、湯あみね。分かったわ。侍従に用意させるからしばらく待っていて」
そう言ってアンジェリカは部屋を出た。
リナルドが、「あ、あの!」と引き留めようとしていたが、アンジェリカは聞こえないふりをして、足早に去った。祖父の命令が無くても、元々リナルドの世話をするつもりだったが、一旦、落ち着きたかった。
アンジェリカは侍従にリナルドの要望を伝えると、自室に戻ってベッドにダイブした。
この三日間ロクに寝ていないので、瞼も身体も重かった。
「……少しだけ」
そう言って、束の間の休息を取った。
目が覚めると辺りは薄暗かった。お昼を食べ損なったせいで、お腹が鳴ったが、それよりもリナルドが気になった。
――寝過ごしちゃった。リナルドは大丈夫かしら。
アンジェリカは顔を洗い、皺くちゃになった服を脱いで、手早く着替えた。朝に着付けられたような華やかなものではないが、リナルドが以前「可愛い。よく似合っている」と言ってくれた深いボルドー色のシンプルなドレスで、アンジェリカの燃えるような赤毛を引き立てた。
リナルドの部屋をノックして入ると、ベッドで枕を背にして本を読んでいたリナルドが泣き笑いのような顔でアンジェリカを見た。
「アンジェリカ……、会いたかった」
その気持ちが溢れるような笑顔に惹き込まれるようにアンジェリカの心が揺れた。
「……リナルド、調子はどう?」
「ええ、記憶はまだ戻りませんが、ほら、今はこの国の歴史書を読んでいるところです。読んでみると不思議なもので、前から知っていたかのような気がしてスルスルと頭に入ります」
「そうなの?じゃあ、私たちの昔の話をしたら思い出せるんじゃない?」
アンジェリカは顔を輝かせてそう提案した。リナルドは一瞬ためらうような顔をしたが、すぐに笑顔で答えた。
「そうですね。もし良ければ、貴女のことを……、いえ、貴女と私の今までのことを教えていただけないでしょうか」
「もちろんよ!」
そう言った瞬間、お腹が鳴る音が再び響いた。
アンジェリカは顔を真っ赤にしたが、リナルドは優しく微笑み、言った。
「まずは食事にしましょうか。実は私もお腹がペコペコなんです」
「……そうね。そうしましょう。私、お昼を食べ損なったの」
アンジェリカは言い訳するようにそう言い、急いでベルを鳴らし侍従を呼んだ。
「お呼びですか」
「ええ、何か軽く食事を二人分持ってきてちょうだい。リナルドは食べたいものはある?」
「いえ、特には……」
「じゃあ、リナルドが好きな『いつもの』を持ってきてもらえる?」
「『いつもの』ですね。かしこまりました」
リナルドは不思議そうな顔をした。
「いつものとはなんですか?」
「それは来てのお楽しみね。貴方はそれが大好きで、いつもペロリと食べちゃってたわ」
「そうなのですね。どんな料理だろう……」
「覚えてる料理とかはある?」
「食べ物が目の前に来ると、名前はすぐに出てくるんです。お昼に頂いたシチューの名前は当然のように分かりました」
「シチュー?」
「ええ。牛肉煮込みです。」
スカルキは山岳料理の一種で、王都で食べられているビーフシチューとは違い、パプリカペーストで味付けられている。洗練されてはいないが、あっさりしており、この地方の名物の一つだった。
「ああ、それも貴方の好物よ。やっぱり五感に訴えるのが効くのかしら」
「そうですね。何もない状態で思い出そうとするのは難しいですが、目にすれば色々思い出せそうな気がします」
そんな風にしばらく料理の話をしていると、扉がノックされて侍従が料理をカートに載せて入ってきた。
「お待たせいたしました。テーブルをご用意しますのでもう少々お待ちください。
侍従はそう言って手早く食事の用意をした。すでにバターの良い香りが漂っており、リナルドの喉がゴクリと鳴った。
「この匂い……パイ包み?」
「うふふ。やっぱり料理なら分かるのね!正解よ。中身も当てられるかしら?」
切り分けられたパイが取り皿に盛られ、リナルドの前に差し出されると、リナルドの顔はパッと明るくなり、すぐさまフォークとナイフを持って、食べやすい大きさに切り分けた。
口の中に一口入ると、更に幸せそうな笑みが浮かび、リナルドはそのままパクパクと一気に食べ終えた。
「何か分かった?」
「鹿肉のパテですね。これより美味しいものは他にないでしょう」
その言葉を聞いてアンジェリカは嬉しくなった。「これより美味しいものは他にはない」はリナルドがこの料理を食べながらいつも口にしていた言葉だ。
やはり刺激を受けると記憶が戻りやすいのかもしれないとアンジェリカは思い、希望が見えたような気がした。
「まだまだあるわ。たくさん食べて!」
大皿からもう一切れ取って、リナルドの皿に載せると、「ありがとうございます!」と嬉し気に微笑んで見せた。
その笑顔にアンジェリカも幸せを感じた。何だか記憶をなくしているなんて嘘のような気がして、アンジェリカもいつも通り、パイ包みを堪能することができた。
「庭を散策しましょう」
お腹が満たされた後、アンジェリカはリナルドを外に連れ出した。
辺りはもうすっかり日が落ち、真っ暗なのだが、庭にはかがり火が炊かれているので危なげもなく歩くことができた。
春分を過ぎて随分立つとはいえ、まだまだ冷たさを感じる夜風と、かがり火の熱気がちょうど良い感じに混ざり合い、気持ちよく歩くことができる。
「この庭のことは見覚えある?」
「見覚えですか?……よく分かりません。でも貴女とこのようにロマンティックな場所に二人きりなんて、胸が熱くなるほど早鐘を打っています」
「もう!そういうのは良いから、記憶を戻して!」
隙あらばナチュラルに口説こうとするようなリナルドのセリフに頬を膨らましつつも、アンジェリカはなんだかフワフワとした気持ちでいた。アンジェリカにとっても、リナルドは「好きな人」なのだ。夜の庭の中を手を繋いで二人きりで歩くことに浮かれているのは否めなかった。
「ねえ、あの大きな木が見える?」
「あの右手の木ですか?あれは……、ああ、サクランボですか?」
「そう!五月にたくさんの実が生るんだけど、私も貴方も大好物で、収穫は私達二人の仕事なのよ。去年も採ったのだけど、思い出せない?」
アンジェリカはそう言ってリナルドの顔を覗き込んだが、リナルドは首を傾げながら押し黙った。
「ちょっと近くに行ってみましょうか」
アンジェリカはリナルドの腕を引いた。
近くまで行くと、枝にはまだ固そうなサクランボがたくさん生っているのが見えた。
「この木、おじい様が侯爵になられた時に植えられたのですって。だからもう四十年近くここにあるのよ。リナルドと私はこの木の下でピクニックをするのが大好きだったの」
リナルドは不思議そうにサクランボの木を見上げるとその肌を撫でた。
「木登りしやすそうですね」
「そうなの!私も時々木登りをしてお母様に怒られるのだけど、一番は貴方に怒られてたわ。『そんな危ないことをしちゃいけない』って」
「でしょうね。貴女のその滑らかな手の平に擦り傷でも付けば私は叫ぶ自信がありますよ。きっと記憶を失う前の私も同じでしょう」
「あら、そういう口うるさいところは記憶を失っても変わらないものなのね。もっと寛容になってくれても良いのよ?だって、私、木登りは得意なのよ。リナルドよりも得意な自信があるわ」
母やリナルドに怒られながらも、アンジェリカは隙あらば木登りを練習していた。それは三つも年上でスルスルと木を登り切ってしまう婚約者に置いて行かれたくなかったからだ。
「得意でもお願いだからそんなことはしないでください。ああ、私の天使はとてもお転婆なのですね。それも魅力的ですが、どうか、貴女の手となり足となる栄誉をこの私にお与えください。貴女が望むなら、一番てっぺんの細い木になるサクランボだって、私が取ってみせますから」
リナルドは諭すようにそう言うが、アンジェリカは不満に感じた。
――以前のリナルドならこんな時は、しっかり叱ってくれたのに。
もし記憶があれば、リナルドはきっと、「得意とかそういう問題じゃない!」と切り捨てたことだろうとアンジェリカは思った。
リナルドは優しいだけでなく、アンジェリカの行動を諫めるような年上らしい言動もしていた。
正義感が強く、道理に合わなかったり、危険なことにはしっかり怒るタイプだったのだ。
しかし、今のリナルドはどうだろう。まるでアンジェリカを叱るよりも、甘い言葉で胡麻化されているように感じるのはなぜだろうか。
アンジェリカは、今の甘すぎるリナルドよりも以前の素直で正義感が強いリナルドが好きだと思った。駄目なものは駄目だと叱ってくれる、頼りになるリナルドが好きだと思った。
「……冷えてきたわね。部屋に戻りましょう」
アンジェリカは叫びたい気持ちを抑えて、何とかそう口にした。
翌日、リナルドはすっかり調子を取り戻したようで、朝早くから剣の素振りをしていた。
その動きは記憶がないようには思えないほど、以前と変わらず切れがあった。
アンジェリカはその姿を傍でぼんやりと眺めていた。
姿はいつも通りなのに、今のリナルドと以前の彼が重ならない。別人のように感じる違和感が拭えないまま、もう休みも半分が終わろうとしている。
――このまま記憶が戻らなかったらどうなるのかしら。いえ、私はどうすれば良いのかしら?
アンジェリカは自問したが、答えは見つからない。
アンジェリカが愛しているのは、以前のリナルドだ。今のリナルドをいつか同様に愛せるのか?その自信を今はまだ持てなかった。
「お待たせしました。朝食に行きましょう」
いつの間にか、武具を片付けたリナルドが、目の前に立っていた。
アンジェリカは慌てて立ち上がると、タオルを差し出した。
「……汗、ちゃんと拭かないと冷えちゃうわよ」
「ありがとうございます。貴女も私に付き合って、身体が冷えたのでは?さあ、温かいスープをいただきに行きましょう。今朝は何でしょうね。またスカルキだと良いなあ。私の好物はパプリカだったのでしょうね。昨日のスカルキ、パプリカの香りがとても食欲をそそりました」
「そうね。そういえば、よくパプリカを丸かじりしていたわ。ふふ。やっぱり食い気は記憶と関係ないのかもね」
そうして、今朝の朝食ではサンドイッチの付け合わせにパプリカの煮込みが出た。
甘辛く仕上げられたそれは、やはりリナルドの口にあったようで、グリルチキンと一緒にパンに挟んで、パクパクと勢いよく平らげた。
「今日は予定がないなら、砦の町の様子を見て来たらどうだ」
朝食の席での祖父のこの一声で、アンジェリカとリナルドの予定が決まった。
フォーデジャンは国境を守る城壁に囲まれた町で、四つの砦を持つ。
城壁の中はいくつかの商店や食堂、鍛冶屋などが並び立っているが、基本的に国境を守る兵士たちが駐在する町で、住民はほとんどが国から派遣された兵士とウィルトン侯爵の私兵達だ。
フォーデジャンの兵士達を将来リナルドは纏め上げることになるので、休みの度に彼らと交流を持っていた。もちろんアンジェリカも一緒で、二人とも幼い頃から彼らのことは一人残らず覚えるように義務付けられている。
数人の従者が先頭に立ち、ゆっくりと山道を馬で進むと、ものの数時間で砦の一つに着いた。
リナルドは珍しそうに砦を見上げたが、特に言葉を発することなく、中に入った。
「リナルド様!記憶喪失って本当ですか!?」
リナルドが門をくぐると、髭面の大男が詰め寄って来た。
あまりの勢いにリナルドが目を見開いて固まってしまったので、アンジェリカが後を引き受けた。
「オットー、リナルドは病み上がりなのよ。あまり騒がないで。私を庇って頭を打ってしまったの。お医者様は心配ないっていうけど、砦のことは記憶の有無に関わらず、知っておくべきだというのが祖父の考えよ。だから、私が一通り案内するから。あと、そうね、とりあえず上官クラスの人間には事情を説明しておきたいけど、……もしかしてもう手遅れかしら?」
「手遅れとは?えっと、もう町中その話で持ちきりですよ?知らない者は誰一人としていないでしょうね」
アンジェリカは頭が痛くなった。なんという危機感の無さだ。次期辺境伯が記憶喪失など、戦時であれば絶対に他国に知られてはならない機密事項だろう。今は違うと言っても、いつまた隣国が攻め入ってくるかは分からない。
そう不満に眉根を寄せると、リナルドがそっとアンジェリカの手を取った。
「アンジェリカ、不安そうにしないで下さい。大丈夫です。砦の構造は既に頭に入れましたし、兵士の資料も読み込みました。さて、貴殿はフォーデジャンの司令官の一人、オットー・ネイムスであるな。噂の通り、私は以前の記憶を失っているので、慣れないこともあるだろうが、そちらはいつも通りに振舞ってくれて結構だ。早速、兵士を含めたこの第一の砦について報告をくれ」
リナルドは少し他人行儀な感じでオットーに接したが、以前と同様に上に立つ者として、威厳ある態度で不安げな様子を見せなかった。
オットーも「はっ!」と言って姿勢を正し、すぐに砦の現状をすらすらと報告し始めた。
城壁の中をリナルドと二人で散策しながらアンジェリカは言った
「オットーのこと、知ってたの?」
「ええ、外見の特徴を記載した資料をおじい様がご用意くださり、昨日一通り覚えました。それに、貴女が『オットー』と呼び掛けていらしたので、助かりました」
「……お医者様が言ってたこと、本当ね。あっという間に皆の名前も顔も覚えて、仕事も覚えて……」
このまま記憶が戻らずとも特段誰も困らずにいられるのだろう。きっとアンジェリカ以外は誰も。
それを感じて、アンジェリカはとても泣きたい気持ちになった。
皆が、記憶喪失の新しいリナルドを受け入れ、いつか以前の彼は忘れ去られるのだろうか?そんな悲しいことが耐えられるのか、アンジェリカは不安で胸が苦しくなった。
「アンジェリカ?顔色が悪いですよ?大丈夫ですか!?」
リナルドが、心配そうにのぞき込むが、アンジェリカは顔を見せたくなくて、とっさに横を向いた。
リナルドはすかさずその細く白い手を掴み、自分の胸の中にアンジェリカを閉じ込めた。
「……すみません。私が貴女を悲しませていることは分かっています。貴女が頬を濡らすのを私は見るに耐えません。それでも、貴女の傍にいさせて下さい。それだけは、どうか許してください……」
リナルドの声も悲痛さが滲んでおり、アンジェリカの目から余計に涙が零れ落ちた。リナルドが悪いわけではない、自分を庇って起きたことだ。でもアンジェリカは以前のリナルドに会いたくて堪らなかった。
「離して!」
アンジェリカは思いっきりリナルドを突き飛ばし、駆けだした。
リナルドはアンジェリカに突き飛ばされ、少しよろけたが、追いかけることができずにただそこに立ちすくんだ。
砦の城壁に駆けのぼったアンジェリカは隅の方に座り込み、顔を膝に埋めた。
頭の中では冷静にならなければと自分で自分に言い聞かせようと試みているが、感情は留まることはなく、悲しみと不安の間をぐるぐると回っていた。
その時、誰かが近づいてくる足音が聞こえ、アンジェリカは身を固くした。
「やあ、僕の可愛い従妹を悲しませてるのは愚弟かな?」
アンジェリカはそこにいないはずの人物の声に思わず顔を上げた。
「アンジェ、可愛い緑の目が、真っ赤になってるよ。君の赤い髪には、澄んだ新芽の色が一番似合うのに……。ごめんね。僕の愚弟のせいだね。あいつに代わって心から謝罪するよ」
「……ラウル兄様?どうして?」
「そりゃね、愚弟が頭に怪我して意識不明だと連絡を受けたら、流石に放っておけないよね」
リナルドの兄、次期公爵のラウル・モートンは手を差し出し、アンジェリカを立たせた。
アンジェリカに置いて行かれたリナルドは、しばらく躊躇った後、オットーを探した。
「以前の私について教えてくれないか。その、……そんなに今の私と違うのか?」
オットーは頭を掻いた。
「いえ、それほど違和感はないですよ。寧ろ、私達に対しては以前と変わらず毅然とされていたので本当に記憶がないのか疑いたいくらいです。でも、確かにアンジェリカ様に対しては別人のようかもしれません」
「別人?具体的にどのようなところが?」
「リナルド様は公私を分けられる方でしたが、ご家族に対しては比較的気楽に接しておられました。特にアンジェリカ様に対しては実の兄妹のようにお過ごしでしたから……」
「兄妹?」
「ええ、よくアンジェリカ様の世話を焼いて、煙たがられたりしてましたね」
「煙たがられ!?それは本当に私たちは仲が良かったのか?まさか、私は彼女に嫌われ……」
そう絶望したように顔を青くしたリナルドに近づく男がいて、オットーが姿勢を正した。
リナルドが振り返ると、そこには金髪金目の美しく、随分身形の良い男がいた。
「やあ、リナルド。記憶喪失と聞いて駆け付けたが、その呆けた顔を見ると、どうやら報告に間違いなかったようだな。お前が心から尊敬している兄上がはるばるお前の様子を見に来たというのに、感謝の言葉もなしかい?」
「兄上?では貴方が私の兄、ラウル・モートンだと仰るのですか」
「その通り。それにしてもお前に『貴方』とか『私』とか言われると、こう背中がムズムズするね。兄に対してそんな風な他人行儀は悲しい限りだよ」
ラウルは口調と裏腹に口角を上げて答えた。
ラウルとリナルドは仲の悪い兄弟ではないが、かといって、リナルドがラウルに盲目的に従うような関係でもなかった。
英雄の娘であり、モートン公爵家の現最高権力者である彼らの母親の血を一番濃く受け継いでいるのがリナルドだった。父親のモートン公爵に似てのらりくらりと優雅な姿勢を崩さないラウルに対して、時折、刃物のように的確に急所を突いてくるのが弟の普段の姿だった。
腹の黒いラウルがやったことが気に食わなければ、真っ直ぐ非難してくる、遠慮のないリナルド。ラウルにとって、リナルドは敵に回すとやっかいな相手でもあった。
「なんだね。アンジェリカがいないようだが、怒らせて逃げられでもしたのかい?」
「……、いえ、別にそのようなことは……」
リナルドはズバリ指摘されたが、認めたくなくて言葉を濁した。
「まあまあ、彼女も婚約者が記憶喪失なんて不安でしょうがないのだろう。弟よ、僕に任せてくれ。なあに、アンジェは僕にとっても可愛い従妹だ。大丈夫。ちゃんと慰めてくるよ。オットー、リナルドをしばらく頼むよ。リナルド、お前はさっさと視察を終わらせておいで。終わったら皆で丘の砦で食事にしよう」
ラウルはそう一気にまくしたてると、さっさとアンジェリカを探しに行ってしまった。
「……なんなんだ、あの人は……」
「……ラウル様、お久しぶりにお見掛けしましたが、相変わらず有無を言わせない方ですね……」
いきなり現れて、あっという間に消えていった珍客に対して、残された二人は、そう愚痴をこぼすことしかできなかった。
アンジェリカはラウルにエスコートされ、丘の上にある砦を目指した。
そこは他の三つの砦に比べて、巨大で堅牢な造りになっていた。司令部も兼ねており、侯爵家の者や、他の高位貴族がやって来た時のもてなしの場でもあった。
「ラウル兄様、いつこちらに着いたの?」
「ついさっきさ。連絡を受けてすぐにやって来たんだけどね。まあ、取り合えず、リナルドの身体が無事なようで、何よりだよ。あの他人行儀は薄気味悪いがね」
「薄気味悪いって、いくらなんでも他に言い方があるでしょう!」
「いやいや、この僕に対しても唯一生意気にも口答えできる我が弟が、他人のように話すさまは気持ち悪いよ。アンジェもそう思ったから、そんな風に泣いていたんだろう?」
アンジェリカは指摘を受けてギクリとした。他の人が感じる以上にアンジェリカにはリナルドに対して違和感を感じているような気がした。それは以前が親しければ親しいほど感じてしまうものなのかもしれないと思った。
「……」
「気にすることはないさ。それが自然な感想だ。記憶がなければよく似た他人と変わりない。また一から信頼を築かなくてはいけないけれど、過去を口で説明しても、前の通りに愚弟が戻るかどうかは別の話だからね。それでも……」
そこでラウルは一旦言葉を切った。
「それでも?」
「……いや、アンジェはただ待っていたら良いよ。きっとあいつは全てを思い出すだろう。僕の予想ではそう遠くないさ。本質っていうものはそうそう変わるものではないからね」
ラウルはそう言いながらアンジェリカの頭を撫でた。
丘の砦に着くと、アンジェリカは冷たい水で顔を洗い、腫れた目をタオルで冷やした。その甲斐あって、リナルドがオットーと戻って来た時にはある程度赤みが引いていた。
「アンジェリカ……」
気まずそうにリナルドが呟いたが、アンジェリカもどんな顔をすれば良いのか分からなかった。それでもラウルに背中を押され、何とか声を出した。
「心配をかけてしまってごめんなさい」
「……私の方こそ、貴女を不安にさせて申し訳ない。貴女のその美しい笑顔が曇るのは、私にとって一番つらいことなのに、私がその原因になるなんて……」
その様子を見て、ラウルはこそこそとリナルドの従者モージに尋ねた。
「リナルドはいつからあのような様子になったのかい?」
「あのような、とはあの少々過度な形容詞ですか?」
そうだと言うように、ラウルは頷いた。
「頭を打って目覚めてからずっとですよ。アンジェリカ様はそれが違和感があるようで、言われるたびに嫌そうな顔をしています」
「ああ、三つ子の魂百までとはよく言ったものだな。モージは覚えてるかい?僕たちのマナー講師」
「詩人の?ええ、確かマーシア男爵の三男の方でしたね」
モージは思い出したと言うように頷いた。
「今のリナルドのしゃべり方はあの人にそっくりだね。そりゃアンジェも違和感に感じるだろうよ」
ラウルとリナルドは公爵家の令息として相応しいマナーをということで、小さな頃からマナー講師が付けられていた。その講師である、エッグフリート・マーシアは名高い詩人で、王国一の色男として、女性を口説くことに長けていた。
齢三歳にして従妹に夢中になったリナルドは、エッグフリートの授業を真剣に受けていた。アンジェリカが言葉をしゃべるようになる前からエッグフリートから習った言葉を使って、彼女を褒め讃えていたが、国境を預かる軍を纏めるウィルトン侯爵家で育ったアンジェリカはそのような美辞麗句をあまり好まない令嬢になってしまった。
途中でそれに気付いたリナルドはいつの間にかあまり飾り立てた言葉を使わなくなったのだが、記憶を無くしたせいで、幼い日に刷り込まれた言葉が自然に出るようになってしまったのだろう。
ラウルとモージは溜息を吐いた。
「これはまあ、言ってやった方が良いかね」
「リナルド様にですか?でも、普段のリナルド様の口調なんて、説明のしようもないですよ」
ラウルは眉を寄せて唸るしかなかった。
砦の食堂から食事が運ばれ、あまり会話の弾まない昼食を取ったところで、アンジェリカ達は侯爵邸に戻った。
ラウルが、「アンジェのご両親と相談したいことがあるから」と言うので、それならばと早めに戻ることにした。
邸に戻ると、ラウルが「一緒に来い」と言うので、三人はアンジェリカの両親とティールームでお茶の時間がてら話をすることになった。
「さて、叔父上、叔母上、この度は我が弟がご迷惑をお掛けして申し訳ございません。今回はリナルドがアンジェの社交界デビューの相談をすることになっていたはずですが、まだお話しできていないのではないかと思い、私が参りました」
「まあ、ありがとう。でもリナルドは記憶がないのだからしょうがないわ」
「それでも、もう時間があまりありませんからねえ。さて、我らが母からの伝言ですが、予定通り夏至の王家の舞踏会で行いたいということです。ドレスですが、母の方で手配を行っていますが、希望を確認しておいてほしいとのことでした」
「六月に入ったらすぐに王都に入る予定なのだけれど、試着はその頃でも間に合うかしら」
「ええ。そのような予定になっているので問題ありません」
アンジェリカとリナルドは当事者のはずだが、まったく口を挟む間もなく、母とラウルの間で次々と話が進んでいった。
父も頷くのみで、会話に参加するつもりはないようだった。
アンジェリカは滅多に侯爵領に来ないラウルが突然現れたことに驚いていたが、伯母の勅命を受けての来訪ということで納得ができた。
「アンジェリカの社交界デビュー……」
侯爵夫人とラウルの会話をよそに、リナルドが静かに呟いた。
「ええ、今年の夏の社交界から参加予定なの。そうだわ、今回ダンスの練習もする予定だったのに、まだ一度も踊ってないわね」
アンジェリカはしまったと言うような顔をした。
リナルドはダンスは得意だったそうだが、アンジェリカは全く踊り慣れていない。
リナルドが元気なら、舞踏会に向けて、今頃特訓の日々だっただろう。
「私に踊れるでしょうか……?」
「後で、ホールに行って踊ってみる?」
アンジェリカがそう言うと、リナルドは嬉しそうに「はい」と返事をした。
アンジェリカは落ち込んていた気持ちが少し晴れた気がした。
社交界デビューの相談については、母とラウルに任せることにして、アンジェリカはリナルドとホールに向かった。
「手はこう、足はこう、それから、ステップは左足、右足、左足ね!」
簡単にアンジェリカが説明をして、ワルツの拍子を口ずさみながら踊りだせば、思い出したかのように、リナルドはあっという間に滑らかな動きでアンジェリカをリードしだした。
アンジェリカも久しぶりのリナルドとのダンスがどんどん楽しくなってきて、いつしか二人は夢中で踊り続けた。それはモージが声を掛けて止めるまで長く続いた。
翌朝、ラウルは慌ただしく帰っていったが、帰り際、リナルドにアドバイスを行った。
「元のお前は、アンジェや僕と話すときは『俺』と言っていた。あと、過剰な美辞麗句はやめた方が良い。アンジェはあまりそう言った装飾染みた言葉は好まない」
「えっそんなに私の、いや俺の話し方はおかしいですか?」
「ああ、違和感しかなくて、別人のようだよ。他の人間にはそれでも良いけど、アンジェにだけは、元のような話し方にしてあげなさい。詳しくはモージに聞くと良いさ。では、弟よ。健闘を祈る」
ウィンクを残しラウルは馬車に乗り込むと、さっさと王都に向けて旅立った。リナルドはラウルに指摘されたことを、急いでモージに確認した。
「ええ。リナルド様はアンジェリカ様に敬語など使いませんし、愛情表現はされましても、あまり過剰に言葉を飾り立てることはなさいませんでした」
「過剰にとは?言葉を飾り立てているつもりはないのだけれど?」
「えっいや、王都の社交界ならともかく、普段のリナルド様はもっとあっさりとした言葉遣いをされていましたので……」
リナルドには「あっさりとした言葉遣い」がどのようなものか分からない。
「……とりあえず、私の、いや、俺の言葉遣いがおかしかったら、こっそり教えてくれないか?」
「……承知しました」
モージは不安しかないと思ったが、それは口に出さなかった。
その日のアンジェリカとリナルドは、領都の街を視察することになった。
途中まで馬車に乗ったが、特に会話は弾まず、車内には気まずい空気が流れていた。
それでも、街を回り、領民に声を掛け、名物を堪能するうちに、アンジェリカとリナルドの仲は徐々に回復していった。
「楽しかったわね。皆メイデーの準備で忙しそうだったけど、明るい顔で良かったわ」
帰りの馬車の中で、アンジェリカが明るくそう言うと、リナルドも微笑み返した。
「ああ、花飾りが驚くほど豪華で、気合が入っていたな。当日が楽しみだ」
メイデーはリナルドが王都に帰る前日に行われる。夜まではいられないが、夕刻までは参加する予定になっていた。
毎年、メイデーの女王には小さな子供が選ばれるのだが、今年はパン屋の看板娘がなるということで、激励のために立ち寄ったその店で、大量のパンをもらってアンジェリカはご機嫌だった。
朝、邸を出る前、アンジェリカは急にリナルドが敬語もやめて、「俺」と言い出したので、一瞬記憶が戻ったのかと思った。でも、モージの顔色を窺いながらしゃべるその様子に違和感を感じて、「記憶が戻ったの?それとも……」と問いただした。
ラウルの入れ知恵のせいだとすぐに分かったのだが、そのせいでアンジェリカの機嫌は逆に悪くなり、リナルドは行きの馬車で非常に居心地の悪い思いをした。
それでも祭りの空気が救いとなり、アンジェリカとの会話も自然に交わせるようになったところだった。
「そのパンはどうするんだい?」
「そうね。皆のお土産には中途半端だから、屋敷の守衛の差し入れにしようかしら。もちろん私たちの味見分は別にするけど」
「いいね。どうせ味見するなら、早い方が風味が落ちなくていいんじゃないかな!」
アンジェリカはウキウキとしたリナルドのその様子に思わずクスリと笑ってしまった。
「そうね。お行儀が悪いけれど、馬車の中で食べてしまっても良いわよね」
そう言いながらアンジェリカはパンを一つ差し出した。
クルミと乾燥した果物が入った丸いパンは小麦の香りがして、まだほんのり温かった。
嬉しそうにパンにかぶりつくリナルドを見て、アンジェリカはまた切なく感じた。
アンジェリカの中で、だんだん以前のリナルドと今のリナルドが重なってきたが、リナルドの記憶はまだ全く戻っていないことが棘のように心に刺さって抜けそうにない。
守衛にパンを渡し、屋敷に入ったところで、アンジェリカは着替えると言って、リナルドの下から足早に去った。
本当はそのままお茶に誘おうと思っていたリナルドは手持無沙汰になり、一旦部屋に戻ることにした。半刻ほどが過ぎ、リナルドはアンジェリカを改めて誘うべく、彼女の部屋に行った。
ノックをしたところ、すぐに侍女が顔を出した。
「アンジェリカ様は、庭に行かれました」
「庭に?」
リナルドはアンジェリカの後を追った。
リナルドがアンジェリカを探し、庭を回ると、サクランボの木の下にアンジェリカの靴が投げ出されているのが見えた。まさかと思って駆け寄ると、アンジェリカが木の枝の上に座っていた。随分高い位置で、リナルドは肝が冷えるのを感じた。
「アンジェリカ!」
リナルドの叫びにアンジェリカは一瞥だけで答えて、すぐに木の幹にもたれ目を閉じた。
「駄目です!いや、駄目だ!早く下りて!」
「……無理して敬語を避けなくて良いわよ。貴方は貴方の喋りたいように喋って良いの。無理に前のリナルドのふりをしないでちょうだい」
「ふりなんて……。とにかく、その場所から下りてください。貴女が怪我をしたらと思うと俺の心臓が止まりそうです」
アンジェリカはふふっと笑って言い返した。
「そんなに簡単に心臓が止まるはずないでしょう。私のことはほっておいてちょうだい。飽きたらちゃんと自力で下りるから」
「ほっておける訳がないでしょう!貴女のその真珠のような肌にかすり傷が一つついただけでも俺は耐えられそうにないのに」
アンジェリカはリナルドのその言葉に嫌悪を示した。
リナルドはその表情に気付き、顔を強張らせながら言った。
「……アンジェ、俺について不満があるのは分かります。でも今はどうか、言うことを聞いてください。俺が抱き留めますから、そこから飛び降りてください」
大きく手を広げ、アンジェリカを促すリナルドに、アンジェリカは怒りを爆発させた。
「そうよ!全部全部気に食わないわ!他人行儀なしゃべり方も、らしくない敬語も、それに一番気に食わないのは、やたらと甘い言葉ばかり口に出す事よ!リナルド、貴方、王都で女性を口説きまくっていたんじゃない!?どうせ、王都の社交界で女性たちを口説いてお楽しみだったんでしょう⁉︎私に対するいつもの態度と違いすぎるわ!」
アンジェリカから一気に溢れ出した不満が、リナルドを直撃する。リナルドは眉根を寄せておろおろと戸惑うような様子を見せた。
アンジェリカはサクランボの木の上でリナルドと過ごした日々を思い返していた。
装飾された言葉ではなく、何気ない言葉の方が心に届いていた。
記憶を無くしたリナルドに過度な美辞麗句で讃えられても、違和感が先に立ち、不安が増した。
アンジェリカには今のリナルドの言動一つ一つが、まるで赤の他人のように見え、本当のリナルドが永遠に失われたような気がして耐え難かった。
そして、その他人のリナルドが、以前の彼の口調をまねだして、同化しようとしたことで余計に辛さが増した。
このまま永遠に元のリナルドが失われて、アンジェリカ自身もいつか忘れてしまうのではないかと考えると、とても怖くなった。
そんな葛藤の中、リナルドがやって来たので感情が止まらなくなってしまったのだった。
本当はリナルドが王都で他の女性を口説いているなんて全く思っていなかった。
近衛兵で社交に出る暇がないリナルドは、女性たちの間で「鉄壁」と呼ばれていると従姉のエリザベスからの手紙で知っていた。声を掛けたくても誰も成功したことがないと言うのだ。
リナルドは愛想の良い男なので意外に思ったが、コミュニケーション能力が高いからこそ、女性からの誘いを受け流すのが得意らしい。
だからこそ、余計に今のリナルドはアンジェリカにとって見知らぬ他人のように見えた。
そして、その他人のはずのリナルドに徐々に心を許している自分がとても嫌だと感じた。
「もう、もう、嫌!私のリナルドを返して!じゃないと、私!」
「アンジェ!」
興奮して立ち上がったアンジェリカが足を滑らせ、身体が地面に叩きつけられる瞬間、リナルドが再びその身を投げ出した。
「……痛っ」
アンジェリカは気が付くと自分のベッドの中にいた。
足を怪我しているのか、ヒリヒリとした痛みを感じた。
「……私は、えっと、そうだ!リナルドは!?」
アンジェリカは木から落ちた瞬間にリナルドに抱き留められて、そのまま気を失ったのだと思い出した。
幸い足のかすり傷以外に自身に怪我がないことを確認すると、リナルドのことが気になった。
ベルを鳴らし侍女を呼ぶ。
「お嬢様!お目覚めになられたのですね!」
「リナルドは!?」
「あっ……、リナルド様はまだお目覚めになられておりません」
「怪我してるの!?」
「また、頭を打たれたようで、意識が……」
アンジェリカはガウンを羽織ると、寝間着のままリナルドの部屋に走った。
逸る心のままノックをすると、モージが顔を出した。
「アンジェリカ様!お目覚めになられたのですね!」
「リナルドは?怪我は?」
「……リナルド様は後頭部に怪我をされまして、意識がまだ戻られておりません」
「そんな!」
アンジェリカの顔が蒼白になる。
リナルドが自分のせいでまた意識を失い、怪我をしたと聞いて胸を焼くような悲痛が襲った。
「……命は?命に別状はないの?」
「……分かりません。さあ、アンジェリカ様も今目覚められたばかりでしょう?一旦お部屋にお戻りください。何しろ、倒れられてから、丸一日立ってますから」
「そんな、あの、リナルドの顔を一目見させて。お願い」
モージは困ったように首を傾げると、渋々と言うようにアンジェリカを部屋の中に招き入れた。
「リナルド……」
ベッドの上には頭に包帯を巻かれたリナルドが横たわっていた。まつ毛の端すら微動だにせず、まるで生きていないように見える。
アンジェリカはその傍らに跪き、祈るように両手を握って涙を流した。
「ごめんなさい、ごめんなさい!お願い、死なないで。もう我儘は言わないから。記憶がなくたって、良いから、置いていかないで……。どんな貴方も愛してるから……」
アンジェリカはそのまま、意識を無くしたように崩れ落ちた。
「アンジェ、アンジェ」
聞き慣れたその声に、アンジェリカが薄っすら目を開けると、必死にアンジェリカを呼ぶリナルドの姿がそこにあった。
「リナルド……、意識が戻ったのね……。良かった!」
「アンジェが倒れたのを見て、一気に眠気が吹き飛んだよ。病み上がりに無茶をするから!」
リナルドは自身のベッドで抱き込む様にアンジェリカを寝かせていた。
リナルド自身も顔色が悪く、まだ体調が優れないことは一目でわかった。
「ごめんなさい。迷惑ばかりかけてごめんなさい……。二度も怪我をさせてごめんなさい……。酷いことを言ってごめんなさい……」
「気にするな。俺はアンジェが一番だから、お前が無事ならそれで良い。寧ろ、俺の方こそ心配をかけて悪かった」
その口調は自然で、アンジェリカが良く知っている以前のリナルドそのものだった。
「えっ、リナルド、記憶が……」
「ああ、全部思い出したよ。俺の愛するアンジェリカ。サクランボが大好きで、食べ過ぎて毎年お腹を壊して叔母上に怒られる、可愛い婚約者様」
「ちょっと!余計な事言わないでよ!」
リナルドの揶揄いに、アンジェリカは怒ったが、同時に本当に記憶が戻ったのだと確信できた。その瞬間また涙がとめどなく溢れた。
「記憶、戻ったの、良かった……。一生元に戻らなかったら、どうしようって」
「元に戻らなくても、俺がアンジェを愛する気持ちは変わらないさ。実際、忘れても、一瞬で一目惚れしたろう?」
「記憶を失ってた時のことも覚えてるの?」
「えっと、まあ覚えてるけど、恥ずかしいからあまりもう触れないでくれ。……正気じゃなかったなって思うよ。あ、いや、口に出した言葉が嘘だったとかではないけど」
リナルドはバツが悪そうに顔を顰めた。アンジェリカはその顔を見て、クスクスと笑った。
「……それよりも、アンジェの貴重な告白のお陰で目覚めたんだ。ありがとう。嬉しかったよ」
「告白って……。!!」
アンジェリカは先ほど自分が何を口走ったか思い出して顔を赤くした。
「もう一回言ってくれたら、俺はすぐに元気になるよ。アンジェのために鹿を狩りに行けるくらい。なあ、もう一度聞かせてくれないか?」
アンジェリカはますます顔を赤くした。
――聞かれていたこと自体が恥ずかしすぎるのに、もう一度言うなんて、そんなの無理!
「なあ、ほら。言葉が無理ならキスでも良いよ。ほらほら」
そう頬を差し出すリナルドに対して、アンジェリカが口をへの字に曲げて渋っていると、扉が開き、アンジェリカの母が入って来て、「何をやっているの!」と二人は大目玉を喰らうことになった。
しばらく、安静を命じられた二人だったが、何とかメイデーの祭りには出かけても良いと許可が下りた。
メイデーの女王に扮したパン屋の看板娘が座る山車を冬の精に扮した黒い衣装の少年たちが引き、その後を春の精に扮したピンクのドレスの少女たちが、花びらを巻きながら進む。
広場の中央には山から切り出されたメイポールと呼ばれる柱が立てられ、その周りを未婚の男女たちが踊っていた。
「俺たちも踊ろうか」
リナルドが手を差し出すと、「ええ!」とアンジェリカが笑顔で答えてその手を取った。
いつかのダンスの練習のように、二人はいつまでも踊り続けた。
夏至の日、王宮では盛大な舞踏会が行われる。
アンジェリカはこの日にデビューをするため、白いドレスに身を包み、リナルドの目の色と同じ、アクアマリンのネックレスを着けていた。
ドレスも、ネックレスもリナルドから贈られたものだったが、綿密な打ち合わせのお陰か、試着の時点でサイズがぴったりで、お直しも必要がないほどだった。
「どう?似合うかしら?」
リナルドの目の前でくるりと回ってみせると、リナルドは満面の笑顔で言った。
「もちろん!アンジェリカのために俺が選んだんだから当然だ」
そのあっさりとした誉め言葉に、アンジェリカは少し物足りなく感じた。記憶を失った時の半分ほどで良いから、もう少し誉めてもらっても良いのにと思った。何しろ、一生に一度の社交界デビューの日なのだから。
その不満を一瞬で察したリナルドは、姿勢を直し、跪いて言った。
「燃えるような赤い髪と、エメラルドの瞳が白のドレスに映えて、この地に天使が舞い降りたみたいだ。アンジェリカ、一生貴女だけを愛し、守り抜くと誓おう」
整った顔で上目遣いに見つめるリナルドの姿は、アンジェリカの心臓を刺激するのに十分で、アンジェリカは熟れたサクランボのように顔を赤くした。
――やっぱり、誉め言葉はほどほどが良いわ!
そんなことを思いながらも、口角が自然に上がるのを抑えることができなかった。
了
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