カツ丼と憂鬱の払拭
ヤマさんと銀之丞くんの店を訪れてから1週間後のことだった。
「大史! 我は再びあのホールケーキを食べたいのだが!」
「自分のお小遣いで買うのならご自由にどうぞ」
「けちんぼめ」
「いや、龍さんはそこそこ蓄えがあるんだから、自分のものは自分で買いなさいよ。それか、玲子さんにケーキ食べに行こうって誘ってみたら? 玲子さんなら喜んで奢ってくれるよ、きっと」
「おお、その手があったか! 今夜店に来たらおねだりしてみるぞ」
「なんつう会話してんだよ、お前らは」
“あらかん堂”を訪れてからというもの、龍さんは毎日のようにホールケーキが食べたいと俺にせがむ。銀之丞くんのフラワータルトが大のお気に入りらしく、それはそれでよしとしよう。しかし、おごり癖が付いてしまったせいで、龍さんは俺のことを財布だと思っている。龍さんには毎月お給金を支払っているが手を付けている気配はなく、しいていえば団三郎ファンクラブの会費くらいだろう。先日は団三郎ファンクラブのバスツアーでマダムたちと東北方面に行ったらしく、諸々の費用は団三郎さんに貢がせたとか。「何様だよ」と思うところ、龍さんは歴とした神様である。だから団三郎さんは、貢がされようとも龍さんを歓迎しているのだ。俺も団三郎さんを見習い、神様に奉納するつもりで思い改めなければならない。ひとまず、今日のこところは龍さんを我が子のように思っている玲子さんに任せよう。多分、俺よりも稼ぎがいいはずだから。
昼営業の仕込みを終えて開店準備をしていると、営業時間前だというのに店の戸が静かに開いた。
――― ガラガラガラ
「ごめん、ちょっと早かったかな」
「……うっス」
「あれ? ヤマさんと銀之丞くん。今日は店の営業日じゃないの?」
「そうなんだけど、まぁ、いろいろあってね」
「……自分、カツ丼でお願いします。ヤマさんは?」
「じゃあ僕も」
「え、あ、うん……とりあえず座りなよ」
明らかに様子のおかしい2人。以前のような元気はなく、銀之丞くんにいたってはしなびた白菜のような顔をしている。しかし、メシを食べる気力はあるようで、それだけでもほっとした。
「おい、何があったんだよ」
「まさか菓子屋をやめたのではあるまいな!? 我はあのタルトとやらを再び食べたかったのだが!?」
「大丈夫、やめてないよ。実は ―――」
豚ロースの筋切りをしながら、ヤマさんの言葉に耳を傾ける。
事が起こったのは、オープン当日のことだった。SNSでの反響が大きかったため、朝10時の開店前にはお客が並ぶだろうと予測していたのだが、開店時に店にやって来たのは万次丸さんと雪子さんの2人だけ。彼らの話によると、あらかん堂の隣に和菓子屋ができたらしく、随分と長い行列を作っていたそうだ。隣の空き家は前日まで工事中の看板が掲げられていて、まさか時を同じにして和菓子屋がオープンするとは青天の霹靂だったらしい。どのような宣伝をしたのかは不明だが、和菓子屋に並ぶお客の行列は夕方の閉店時まで途切れることはなかった。オープン日が重なるのは仕方ないとしても、翌日もその翌日も、和菓子屋にはお客が列をなして吸い寄せられるように入っていく。一方で、あらかん堂に来るお客は1日2、3人程度。SNSの事前告知では「必ず行きます!」など反響が多くあったというのに、なぜこうもお客が来ないのかと不思議に思いながら、心が折れそうになっているという。
「毎日この調子だから、せっかく作った洋菓子たちがかわいそうでね。張り切ってくれてたてっちゃんにも申し訳ないよ。洋菓子は廃棄せざるを得ないから、一旦休業して戦略を立て直してから再開しようと思ってるんだ」
「まあ、そういうことっス。なので今日は、皆さんにお土産をと思いまして」
銀之丞くんは大きな紙袋をテーブルに置いて箱を2つ取り出すと、その中には数種のケーキと焼菓子が詰められていた。こんなに美味しそうなケーキや焼菓子が廃棄になってしまうなんて、料理人の観点からしても非常に心が痛む。
「おお! タルトもあるではないか! ここの店の菓子はどれも美味いというのに、世の人間は見る目がないな。我は和菓子よりも断然洋菓子派だ」
「こんなにもらっていいのかよ」
「この前来てくれた時、すごく美味しそうに食べてくれたから、君たちにあげたほうが報われると思ってね」
「すまねぇな。しかし、その和菓子屋ってのはどうもいけ好かない。団三郎が店を出した頃のことを思い出すぜ」
「うむ。もしや経営者は妖怪ではなかろうな。我の力で店ごと消し炭にしてやるか」
「いやいや、そういうのはやめましょ! もっとこう平和的にいきましょうよ。自分たちもまだ和菓子屋の経営者に会ったことないんス。念のため挨拶に行ったら、店員はみんなバイトでしたし。オープン日が同じだったのは偶然かもしれないんで」
「一概に相手が悪いとは限らないからね。僕たちは経営というのを甘く見ていたかもしれない。だからこそ、立て直すために方法を考えなきゃいけないんだ」
ヤマさんの言う通り、相手の真意を確かめなければ、一方的に悪者にしてしまうのは違う気がする。経営者に会うことができたのなら、一度話をしたほうがいいかもしれない。このまま何もしないのは俺としても癪に障るので、あらかん堂の状況を理解してもらう必要がある。タイミングよくこの店に来てくれればありがたいのだが……なんて、そんな都合のいいことは起きるはずもない。
「あ、いい匂い。実は自分、昨日から何も食べてないんスよね」
「僕も最近は食欲がなかったけど、この甘い出汁の香りはお腹が空くね」
「あのな、どんな状況でもメシは食え。食わないと気分が落ち込んだままだぞ」
「虎にしては良いことを言う。メシを食わねば気力も湧いてこぬからな」
「確かにそうっスね」
「その言葉だけでもなんだか元気が出たよ。美味しいものを食べると、不思議と心が満たされるもんね」
生きる者にとって、食がどれだけ大切か理解してもらえたようだ。虎之介と龍さんも、そのような言葉をかけるとはさすがである。
先ほどヤマさんが言っていた出汁の香りというのは、カツ丼に欠かせない割り下のことだろう。出汁にはかつお節を花びらのように削った花かつおを使用していて、風味豊かな旨みを感じることができる。昆布出汁と合わせることで、より香りと甘みが増し、豚の風味と絶妙にマッチするのだ。揚げたカツに割り下の味を染み込ませ、溶き卵を回し入れて蒸らせばカツ丼の完成だ。
「お待ちどうさま。出汁が香る特製カツ丼です。カツってのはゲン担ぎの意味もあるからさ、これ食べて元気出しなよ」
「うおーっ! 卵が輝いてる」
「やっぱり大史くんは料理の才があるね。すごく美味しそう」
「そ、そう? やっぱりそう思う? 俺もそう思う」
「自画自賛されても納得しちゃうんだよな~。いただきます!」
先ほどよりも顔色がよくなった2人は、口いっぱいにカツと白米を頬張った。咀嚼しながら何か言っているようだったので、喉に詰まらせないよう水のおかわりを差し出す。
「んぐっ……このカツ丼、めっちゃ美味いっス! 味の染み込んだカツが柔らかくて、油の風味がさらに食欲をそそるぅ!」
「こんなに美味しいカツ丼を食べたのは初めてだ。出汁の香りもさることながら、とろとろの卵も最高だよ。身体が喜ぶってこのことを言うんだろうね」
「でしょ? メシを食べる行為は心身ともに平穏をもたらすんだ。これからはちゃんと食べるようにしなよ?」
「自分、毎日カツ丼が食いたいっス」
「店を再開させたら、出前でもしようか? 多分、龍さんなら喜んで行くと思う」
「えっ、いいんスか!?」
「よいぞ」
2人が食べている姿を側でガン見していた龍さんは、銀之丞くんの問いかけにすかさず返事をした。食い意地の張っている龍さんならば、出前ついでにあらかん堂の商品にならない捨てる部分をもらおうとするはず。あらかん堂は廃棄物が減り、龍さんはタダでお菓子が食べられる。Win-Winではなかろうか。
そんな中、虎之介は余った割り下に興味を示し、少量を味見して鍋を見つめていた。
「この割り下ってのは、他の料理にも使えそうだよな。ほら、あの薄い肉を焼いて卵につけるヤツとか」
「ああ、すきやきか。もちろん。他にも、肉じゃがや角煮、煮魚にも使えるぞ。今日のまかないは“すきやき丼”にでもするか? って言っても、牛肉は仕入れてないから豚だけどな」
「いいな、それ! オレは牛より豚のほうが好きだ」
「豚は脂身部分が美味いからな~」
そんな話をしていると、急に腹が減ってきた。昼営業終了までまだ時間があるが、このままお客が来なけば早めに休憩しようと思っていると……。
——— ガラッ!
突然、勢いよく店の戸が開いた。
「ごめんくださいまし!」
「あ、い、いらっしゃい」
「ここは……飲食店ですの? 随分と貧乏くさいお店だこと」
「び、貧乏……あながち間違ってませんが、どういったご用件でしょう?」
「加牟波、名刺を」
「はい、お嬢様」
上から目線の物言いをする女性は20代後半くらいだろうか、いかにも高そうなアクセサリーを身に付け、ぐりんぐりんに巻いた髪を手でなびかせた。その背後にいた“かんば”という名の初老の男性は、鞄から名刺を取り出し俺の目の前に差し出す。
「先日、この近所に和菓子店を開業しまして、店の代表をしております株式会社加々美の加々美聖子と申します。ご挨拶が遅れましたが、以後お見知りおきを。うちは高級和菓子店のチェーン展開をしてますの。よろしかったらうちの商品、召し上がってくださいまし」
「あ、どうも。和菓子店、ですか……」
和菓子の入った紙袋を受け取り、チラリとヤマさんと銀之丞くんのほうを見ると、口をぽかんと開けながら彼らを見つめていた。そう、目の前にいるこの女性こそ、あらかん堂を休業に追い込んだ張本人である。ここは話し合いのチャンス、なんとしてでも引き留めてみせる。
「では、これで」
「あ、ちょ、ちょっとお待ちくださいまし!」
「まし?」
「いえ、間違えました。せっかくなので、うちの料理食べて行きませんか? 食べたいものがあれば何でも作りますよ!」
「このようなお店での飲食は気が引けますわ。それにわたくし、A5ランクの牛肉しか食べませんの。高級肉を扱ってそうな雰囲気でもないですし、遠慮して……」
「そうおっしゃらず! 高級肉は扱っていませんが、どんな食材でも美味しく料理できるスキルは誰にも負けません!」
「うむ! この店はな、ミシュランの三ツ星候補に挙がっているのだぞ! 明日には三ツ星を取る予定だ!」
「あら、そうですの? 見かけによらないものねぇ」
「えっ」
急に割り込んできた龍さんは、突拍子もないことを言い出した。もちろん、ミシュランの三ツ星候補など事実無根だが、聖子さんはその言葉に反応を見せたのだ。
「ちょうどランチタイムですし、そこまで言うのならいただきましょうか。ねぇ、加牟波」
「そうですね、お嬢様。何事も経験ですぞ」
2人を席に案内すると、もの珍しそうに店内を見回す。
虎之介はあからさまに嫌悪感を示し、ヤマさんと銀之丞くんにいたっては、不安そうな表情でソワソワし出した。彼らがこのような反応をするのは、恐らく聖子さんの態度に対してではない。
久々に感じたこの気配。
滑さんに匹敵するであろう強い霊力は、“かんば”という初老男性から漂うものだった。




