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酒は飲んでも飲まれるな

 ——— ッ……ッ……トン、トン、トンッ


 ん? なんだこの音は。それにこの匂い。

 俺は今どこにいるんだ? 

 暗闇の中、どこへ進んでいいのかもわからず、手足がまったく動かない。

 ああ、そうだった。俺は死んだんだった。


 未練なのか何なのか、今はすごくみそ汁が飲みたい気分だ。それと焼き鮭、目玉焼き、ウインナー。想像しただけで匂いがダイレクトに伝わってくるなんて、まるで嗅覚が生きている当時そのままだ。それに、誰かが遠くで話す声が聞こえる。いつものように小競り合いをしているだろうか。まったく、相変らずだ。ゆっくり寝てられやしない。


 ——— ……ッ、……ッ、ピピピッ、ピピピッ


 頭に響く電子音が聞こえ、その音を探るように頭上に手を伸ばすと、冷たくて固い感触の機械に触れた。突起している部分を軽く押すと、すぐさま音が止む。


「……ハッ!」


 意識がはっきりとして目を開けた瞬間、俺は自室の布団の中にいた。


「ゆ、ゆ、夢……夢だったのか、あれは夢だよな?」


 再び心臓がバクバクし出し、勢いよく身体を起こした。ふと、右手に何かを握りしめていたことに気付き、ゆっくり指を広げるとそこには金色の破片があった。あの時、龍さんの背中から落ちる寸前に鱗に手を引っかけていたため、欠けた鱗の破片を握りしめていたようだ。


 ということは……夢ではない。

 いや、死んだはずの俺がここにいるのだから、あれは夢だ。

 うん、夢に違いない。


 俺はすぐさま自室を出て台所へと向かった。


「と、虎之介ぇーッ! いるか!?」

「うおっ! なんだよ、朝から元気だな。もうすぐで朝メシ出来るぞ」

「お前、虎之介だよな!?」

「は?」


 いつものようにフリフリのエプロンを身に付け、目玉焼きを皿に盛りつけていた虎之介。白く濁っていない黄金色の瞳は生気を宿しており、俺を襲ってくる気配など微塵も感じられない。いつもの虎之介だったことに嬉しくなり、思わずその巨体を力強く抱きしめた。


「お、おい! マジでなんなんだ!」

「俺は信じてたぞ! お前が俺を食おうなんて100万年早いんだよぉ!」

「はあ? なんでオレがお前を食うんだよ」

「だよな! 虎之介はそういうヤツだもんなぁ!」


 ああ、硬い。この筋肉ダルマめ。

 野郎を抱きしめる日が来るなんて思いもしなかったが、抱きしめることによってこの瞬間が現実であることを存分に噛み締めた。


「まったく。大史、ぬしは頭がおかしくなったのか?」

「ハッ! その声は」


 台所に直結した居間から聞こえてきたのは可愛らしい子供の声。寝癖をつけながら座布団にちょこんと正座をし、好物である納豆をかき混ぜていたのはいつもの龍さんだった。


「龍さあぁぁぁんっ! やっぱりその姿のほうがかわいいよぉ!」

「ぐえっ……!」


 龍さんに突進して力強く抱きしめると、苦しそうな声を上げる。頭が9つもあるゴツゴツしたアレが本来の姿なのかもしれないが、俺は子供のままの龍さんが好きだ。家族である愛らしい龍さんが、俺を三途の川に落とすはずがないのだ。


「龍さんはあんな無慈悲なことしないよな!? 家族だもんな!?」

「先ほどから何を言っておるのだ。大史が家族というのならば、我は大史の家族だぞ」

「だよねぇ! よかったぁ。あ、でもこれってさ、龍さんの鱗だよね……?」

「鱗?」


 俺は手に握りしめていた鱗の破片を見せた。皆がそれを覗き込んでいると、ふと横から聞き覚えのある声が耳に入る。


「……いや、これワシのやんけ」

「えっ」


 声のするほうを見ると、いつものオールバック姿ではなく、前髪をおろした万次丸さんが無表情でそれを見つめていた。


「ちょ、なんでここにいるの?」

「えぇ、嘘やん。昨日のこと覚えてへんのかい」

「昨日……?」

「しゃーない、説明したるわ。昨日な、ワシはここに泊めてもらったんや。家に帰るのが嫌でな。そんで皆で飲もうってことになって、誰が一番酒を飲めるか競ったんや。早々に泥酔した兄ちゃんは、何を思ったのかワシのお気に入りの純金ネックレスを引きちぎりやがってな。『打ち取ったりー!』って叫びながら、そのまま気を失ったんや」

「え……またぁ、そんなわけ」

「いや、ほんまや。その手に握りしめてるのはな、ネックレスのプレート部分やで。見るも無残な姿になってしもて……。これはな、フリマサイトで30万だったものを、値切りに値切って1万円にしてもらってん。ワシの努力の結晶が……」

「ご、ごめん。本当にごめん」


 話を聞きながら徐々に昨日のことを思い出し、酒に呑まれてしまった自分を恥じた。なぜ万次丸さんのネックレスを引きちぎったのかは思い出せないが、確かに飲み比べをした記憶はある。虎之介と万次丸さんは一般男性よりも遥かに酒が強く、俺など敵うわけもないのに龍さんにそそのかされてキャパオーバーしたらしい。


「しかしこれよぉ、純金っていうかメッキだろ」

「あ? アホかお前。出品者はれっきとした純金やって言うとったで」

「よく見ろ。金の部分が剥がれて安っぽい銀が見えてるだろ」

「虎、お前は見る目がな……ほんまや」


 衝撃の事実を知った万次丸さんはその場でうなだれ、俺は俺でちょっとほっとした。ネックレスを破壊してしまったお詫びとして、当分の間は店の飲食代金を奢ろうと思う。


「実はさ、俺、変な夢見ちゃって———」

 

 ネックレスの破片を鱗だと言った理由や夢の詳細を皆に話すと、腹を抱えながら大笑い。「酒に飲まれたな」と言う虎之介と万次丸さんだったが、龍さんは何かを考えるような素振りをする。


「どうしたの?」

「ただの夢といえば夢だが、大史は並行世界に行ったのかもしれんな」

「なにそれ」

「並行世界とは、現代で言う“ぱられるわーるど”というやつだな。仏教では今いる世界と並行して別の世界が存在すると言われておるが、我もその実態はよくわからぬ。そこまで鮮明に体験したならば、並行世界の可能性もあるぞ。ぬしの先祖のように、死後は地獄で料理番をしている世界線だってあり得ることだ」

「な、なるほど。あっちでは妖怪が暴徒化して人間が絶滅してるっぽいし、今いる世界とは真逆だったからな」

「我も死者の魂を地獄に送り届ける仕事なんぞ、まっぴらごめんだ。美味いメシを好きなだけ食べ、のんびり暮らせる今の生活が性に合っている」

「うん、俺が養ってることは忘れないでね」


 ただの夢ではないという龍さんの言葉が妙にしっくりくる。あっちの世界では俺は既に死んでおり、妖怪は人間を襲う敵となっていた。死んでからの俺は、小太郎さんのように地獄で働いているのだろうか。はたまた、ただの亡者として裁きを受ける日々なのか。どちらにせよ、あっちの世界にはもう行きたくはない。俺は人間と妖怪が平和に暮らしているこの世界が好きなのだ。


「そろそろ朝メシ食おうぜ」


 居間のテーブルには焼き鮭と目玉焼き、ウインナー、湯気が立つみそ汁と白米が既に並んでいた。その光景を見たと同時に安堵感が訪れ、自然と腹の虫が鳴る。


「あ、この鮭。ただの焼き鮭じゃなくて西京焼きじゃん!」

「大史は西京焼き好きだろ? 昨日から仕込んでたんだよ」

「ほう、なかなかやるやんけ……」

「ふむ。納豆で白米を1杯、鮭で2杯は食べれる」


『———いただきます』


 白米を片手に鮭をひと切れ食べると、味噌の甘く香ばしい香りが食欲をかき立てる。すぐさま鮭を白米で追い、煮干し出汁の風味が効いたみそ汁で流し込む。目玉焼きには醤油かソースか塩胡椒か、そんなくだらない論争さえも微笑ましく思ってしまうのは、平和なこの世界に生かされていることを実感したから。


 ああ、幸せだ。


「ところで、万次丸さんはなんで家に帰りたくないの?」

「いや、それも昨日言うたやん。せやからな、銀之丞のおらん家に帰りたないねん。家に帰ったところで、あいつとの楽しかった思い出が蘇るばかりで……。ワシの気持ちも知らんと、雪子は雪子でウジウジするな言うて怒り出すしやな」

「ああ、そっか。銀之丞くんは家を出て1人暮らしを始めたんだっけ。パティシエ修業、頑張ってるみたいだね」

「昨日なんか、寂しいだのなんだの言ってずっと泣いてたしな。情けねぇ野郎だ」

「おいハゲコラ。泣いてへんわ」

「泣いてたぞ。我が差し出した布切れがびちょびちょになっていた」

「龍、お前の仕業だったのか。穿こうと思っていたふんどしがびちょびちょだったからよ」

「……最悪や」


 酒は飲んでも飲まれるな。

 今後の教訓にしていこう。



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